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○目覚め  1985年〜

当時小学校3年生だった私は、そもそもプロ野球に興味は無かった。
ナイター中継など好きなバラエティー番組を邪魔する存在で、雨天中止を祈っていたくらいだった。
この年、タイガースはバース・掛布・岡田のクリーンナップを率いて圧倒的な打撃力で優勝する。
大阪は歓喜の声がこだまし、カーネルサンダースも道頓堀に消えた。
そしてダイエー吹田店では優勝を記念して掛布、岡田、佐野選手を呼んでチャリティーサイン会が行われた。
私は親にもらった500円札を握り締め、4階の本屋横特設会場に向かった。
運良く、3選手のサインとともに握手までしてもらい、「来年も優勝するから応援してや」の佐野選手の言葉が忘れられない。
そう、それからタイガースファンになった。
だからこの年の優勝はあまり記憶に無い。まさか大人になるまで再び優勝を見れないとはこのとき夢にも思わなかった。

○暗黒時代1 1986年〜

この年から本格的に応援をする。
当時サンテレビ(UHF36チャンネル)の映りが悪かった為、親父が屋根から同軸ケーブルを這わして台所のテレビまで延ばしてくれた。
いちいち窓を開けてケーブルを接続しなければいけなかったが、いつもタイガースの試合を綺麗な画像で見れることが本当にうれしかった。
この年前年同様クリーンナップの頑張りで、3位で終わる。
しかし、1987年、岡田の不振、掛布の骨折、1988年バースの子供が難病にかかり、帰国する。年棒の上りすぎたバースをフロントはこれぞ好機とばかりに解雇する。弱くなったタイガースをファンは見限り、観客動員数も激減。
タイガースはお荷物球団となっていく。あほなフロントは目先の経費削減だけを考えて、一番大切なものを無くしてしまった。
1992年に優勝争いをするまで、タイガースは6位4回、5位1回という恐ろしいほどの成績だった。

それでも私は甲子園に足を運んだ。電車に乗りなれていない私でも、甲子園までの行き方は完璧に覚えていた。
近所の友人Tと毎週とまではいかないが、頻繁に応援に行った。
4回くらいになると、ダフ屋が外野入場券を\500くらいで叩き売りしてくれていたのだ。
「阪神が弱いから商売にならへんわ」
タイガースはダフ屋にも呆れられていた。

消化試合でも良く見に行った。
いつものダフ屋のおばさんから券を買おうとすると
「もうぼろ負けやで、それでも見に行くならあげるわ」
とチケットをもらった。
球場に入ると、タイガースは確か広島かヤクルトだったと思うが、10点以上差をつけられて望みも無い状態だった。
応援団は、あまりのふがいなさに鳴り物の応援ボイコットしていた。
周りからは「弱いなぁ」「今日もあかんわ、帰ろ」の声がこだまし、球場は閑古鳥が鳴いていた。
くやしくて、気がつけば私はライトスタンドで泣いていた。
応援団のおっちゃんが「来年はきっと頑張ってくれる、優勝したら酒でも飲みにいこな」
「僕、未成年やからお酒飲めへんわ」「せやな、ほなジュースやな。ははは」
と他愛も無い会話で慰めてくれた。
皮肉なことに次に優勝するときに、私はお酒を飲める年齢になっていた。

○期待と失望 1992年

この年タイガースは優勝争いをする。
和田の芸術的な流し打ち、亀山がヘッドスライディングでグラウンドを駆け巡り、新庄が綺麗な放物線を描いた。
シーズン終盤にタイガースはヤクルトに3ゲーム差をつけて首位を独走していた。
しかし、最後の15試合は4勝11敗と完全に浮き足立ち、優勝を逃す。
タイガースは優勝の経験のない若い選手が多く、野村監督率いるツバメ軍団に完璧に飲み込まれた。
優勝を確信していた為、私は完全にもぬけの殻になってしまった。
おそらくこの経験から、阪神ファンの大多数は圧倒的有利で首位に立っていても不安がつきまとうのではないだろうか。
でもこの年は本当の意味でタイガースファンになってからペナントを楽しむことができた。
来年からはきっと強いタイガースを応援できるだろう、誰もがそう思ったに違いない。しかし、まさかここから再び泥沼にはまっていくとは思いもよらなかった。

○暗黒時代Ⅱ 先の見えない暗闇 1993年〜

そんな期待もむなしく、この年からタイガースはぶっちぎりで最下位を独走する。
1994年には中村勝弘が責任を取りシーズン途中で藤田平に監督を譲る。
最下位を独走した1995年には藤田平もシーズン途中にフロントから強引に柴田猛に交代させられる。
次の年1985年にタイガースを優勝に導いた吉田義男に替わるもタイガースの窮地を救うことは出来なかった。
そしてアホフロントは久慈、関川を放出(はなてん・・ではない)、代わりに衰えを隠せない大豊を獲得。今世紀最大の大失敗トレードを実行。
中日は久慈、関川の活躍で優勝。
他球団を優勝させてどないすんねん、ほんまに。
野田をオリックスに放出(パリーグで最多勝)代わりにもらった松永は1年在籍しただけでFAでダイエーへ。
来日以来3割をキープしていたオマリーをホームランが少ないと言う理由で解雇。(ヤクルトで大活躍、優勝に貢献)
「駐車場ありまへん」「毎日放送ダイナミックナイター」と片言の日本語でファンに愛されていたのに、本当にショックだった。
ああ、思い出しただけで頭が痛い。

その後、タイガースは外国人助っ人をあさる

00怪人ジョーンズ 日本で始めて00の背番号をつけた外国人。まったく日本の野球に合わずシーズン前の話題だけで終わった。

地味な男ハンセン ポテンヒットの王様。私はメジャーが合っていると豪語して帰った外人さん。ほんまかいな。

リベラ ノーコンの抑えの切り札ベンちゃん。9回に出てきてもオレ、ジシンナイって感じの顔でオロオロしていた。あれはあれでハラハラできて面白かったのになぁ。

ウイン 2アウトでフライが上っても走らない外人さん。外野手がフライを取れなかったときにアナウンサーが「なぜ走っていないんだ、ウイン!」と絶叫していた。名前はウインなのに勝利は呼べなかった。

神の男グリーンウエル 期待の現役メジャーの大砲。しかし、シーズン途中で神のお告げにより帰国。帰国後、39番のリストバンドが売り出された・・

2軍で最多勝クリーク 2軍の優勝に貢献してどないすんねん。

大型扇風機ディアー ヒット1本1200万円。外の変化球がまったく打てず解雇。

フィルダー バースに次ぐ優良助っ人も三振後、バットを叩きつけて小指骨折。帰国後メジャーで大活躍

ウイッグス 1軍経験10試合ほど。阪神ファンでもほとんどの人が知らない。川藤はうぐいすと呼んでいた。

マクドナルド ストレート最速135㎞。1軍でその球威で通用するはずが無く解雇。略すときはマクド。決してマックではない。

郭李 建夫 台湾出身の150㎞投手。打球を股間に当てて悶絶していた姿が印象的だった。登板過多で潰れる。

グレン 阪神のベンチは刑務所のようだと週刊誌に手記を出した。よっぽど嫌だったんでしょうねぇ。

メイ 野村監督と衝突。ビラ撒き事件は有名。その後巨人でも問題児ぶりを披露。(あれはあれで痛快だったが・・)

バトル 4月だけ男。名前のわりにまったく戦闘意欲なし。

カーライル やる気が無く、キャンプ中、星野監督に「泳いで帰れ」といわれた男。

脅威のデットボール男キンケード インコースに来てもまったくよけず、デットボールの山を築く。途中から審判も取らなくなってしまった。案の定怪我で解雇。

うわぁ、きりが無いなぁ・・
よくぞここまでダメ外人を連れてきたものだと感心してしまう。
個人的にはパッキー(パチョレック)とジョージ(アリアス)が好きだったなぁ。
二人ともフロントの方針で解雇させられたけど・・

そうそう、話に戻る。
三顧の礼で監督になったノムさんもカンフル剤にならず。
今岡を「ゲッツーの今岡」と命名し、選手達のやる気を絶妙に萎えさせるのが得意だった。
しかし、彼は着実に力をつけていてくれていたのだ。
赤星、藤本、上坂ら俊足の7人を「F1セブン」と命名し、スピード野球をモットーとしていた。
ただし、新聞には「確かに彼らは足は速い、しかし、問題はどうやって塁に出るかだ。」と酷評されていたが・・
その後、闘将星野監督にバトンタッチ。力を蓄えていた選手達はここから実力を発揮していくのだ。

○ドキュメント9.15 2003年

闘将星野監督のもと、この年タイガースは首位を独走。セリーグ最短マジック点等で優勝をほぼ確定させていた。
この日、タイガースはデーゲームで広島にサヨナラ勝ちを収め、マジックが1になる。ナイターではヤクルトがリードを許していた。「優勝」その文字が頭をよぎって思った。
「私は大阪に帰らなければいけない」

18:00 同僚のIに次の日の勤務を代わってもらう。

18:10 尼崎の友人Sに電話。彼とは大学時代酒を飲みながらいつもタイガースの愚痴をこぼしていた仲だった。どうしても奴と喜びを分かち合いたかったのだ。

18:50 ヤクルト大量リードを許す。この時点で優勝を確信。小型TVを片手に福井駅に向かう。

19:20 大阪行きサンダーバードに乗り込む。通路にてTVにかじりつく

19:33 ヤクルト敗れる。待ちに待ったタイガースの優勝の瞬間。神のいたずらかこの時、ちょうど電車は武生駅に停車。小型TVの画像はきれいに入ったが涙でぼやけてはっきり見えない。

19:35 近くに同じように小型TVにかじりついている青年を発見。お互い目が合い、握手する。言葉は要らなかった。

19:40 嫁が自由席から出てくる。「泣いているの?」「いや、泣いていない」必死で涙をこらえる。

そう、本当の意味で初めて優勝を味わうことができた。18年間長かった、本当に長すぎた。その後、道頓堀で大騒ぎしたことは記述することもあるまい。

○猛虎よ再び 2005年〜

そして2005年今年も優勝争いをしている。
中日とは僅差で首位なのだが、どうしてもあの1992年の記憶が戻り、期待してはいけない、そう言い聞かしている自分がいる。
そういうタイガースファンが大多数ではないだろうか。
その呪縛をとくために今年のタイガースは優勝しなければいけない。
そして初めて心身ともに強いタイガースになるのではないだろうか。
1992年と違い、多くの選手が優勝を経験している。
浮き足立つことも無いだろう。
もう不安要素は何も無い。

さあ、多くの阪神不安を阪神ファンに!

そしてあの歓喜の声を再び大阪に!

優勝に向けて突っ走れ!タイガース!

2005年8月吉日

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