このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

杉原 千畝について

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「田中康夫」は知っている人も多いでしょうが、「杉原千畝」はあまり知られていませんので、ここで簡単な解説を・・・

杉原千畝とは、戦前の外交官で、東欧リトアニア・カウナスの領事代理だった方です。
当時のリトアニアには、ナチの迫害を逃れた多くのユダヤ人が移り住んでいました。
しかしナチが独ソ不可侵条約を破棄してリトアニアへ猛侵攻をすすめ、ユダヤ人たちの生命に危機が訪れます。
そこでユダヤ人は、第二次大戦にまだ参戦していない日本を経由して第三国への出国を希望して、日本領事館に

大勢かけつけます。
当時の日本はすでにナチスドイツと同盟関係にあり、これらのユダヤ人の日本入国を認めること(=ビザを発給すること)は、
同盟関係に悪影響を与えます。
杉原氏は本省(日本外務省)へビザ発給の許可を求めますが、当然拒否されます。
しかしここでビザ発給を行わなければ、ナチ占領下となるリトアニアにて、ユダヤ人たちの生命の保証はありません。

そこで杉原氏は本省訓令違反を承知でユダヤ人へのビザ発給を決断しました。

それこそ夫人と2人掛かりで徹夜でビザを書き続けて、6000枚のビザをユダヤ人に渡した、と言われてます。

終戦後、杉原氏は日本へ帰国しますが、当然訓令違反の外交官として外務省を解雇されます


杉原氏に救われたユダヤ人は数多く、国際的投資家ジョージ・ソロス氏の先祖も救われたそうです。
このためイスラエル・リトアニアでの「センボ・スギハラ」(外国人には「ちうね」と発音しにくいため、音読みでこう呼ばれる)
の評価は非常に高いものがあります。

しかし戦後の日本外務省においても杉原氏の功績はまったく評価されず、政府により氏の名誉回復がされたのは、
氏の死後の1992年でした。


小生の拙い文章では杉原氏の業績がうまく伝わらないので、ここに 杉原千畝リンク集
作成しましたので興味のある方は是非お読みください。

※「はてなダイアリー」へ飛びますのでご注意下さい。

【参考】↓ウチのHPです・・・
ブレーク80:杉原千畝の政治利用は許せない

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