先日、上坂冬子の原発に関する著書を読んだが、
「ヒドイ」ものであった。
「国家のエネルギーに関することは、一自治体に委ねられない、
国会等のオープンの場で議論するのも適切じゃない、
信念を持った専門家・官僚・政治家が、秘密裏に一気に進めるべきだ」等々の主張。
「この人、薬害エイズから何も学んでないな」と思わせる暴論であり、
「これじゃあサイレントマジョリティーも原子力に反感を持ってしまう」。
しかし、反原発サイドの「自然エネルギー路線」が、日本においては何の説得力を
持たないのも、これまた事実である。
よく北欧を反原発サイドは引き合いに出すが、人口が日本の10分の1の国家を
例示に出しても、何の参考にもならない。
サイレントマジョリティーは、
「上坂冬子のような「専門家と与党政治家に任せろ、住民は口に出すな」という
強引路線に危うさを感じている」一方で
「反原発路線では行き詰る」ことも感じている。
この中間に位置する路線、
「原子力に関する議論をもっとオープンの場で行い、都合の悪い情報も議論する、
安全性に疑義がある場合には計画変更(中止)も視野に入れる、
しかし原子力に一定の役割を担わせることを認める」という路線が
サイレントマジョリティーに近いのではないか、と思うのだが、現在の
「推進強硬派VS反原発イデオロギー」の不毛な対立の中では、
なかなか中間路線は認められない。
この路線は、上坂冬子に言わせれば
「市民派におもねったサヨク」となるし、広瀬隆に言わせれば
「悪魔(=原発賛成派)に魂を売った裏切り者」になる。
二項対立の中で、中間派、あえて言えば「懐疑的容認論者」になるのは
なかなか大変であるが、数少ない「懐疑的容認論者」が、
鉄系では「トンデモ」視されている桜井淳である。
実は、先日、赤塚夏樹氏という人の本を読んだが、
この人の「懐疑的容認論者」であった。
日本の原子力論議を不毛な場にするのでなく、もっと実りある場にするためには、
このような「懐疑的容認論者」にもっと活躍してもらうべきではないか? |