このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


                          
               道後の歴史

【 道後温泉の管理 】

☆ 江戸時代(元禄)の頃には、明王院という温泉北側にあった修
  験場が、松山藩から温泉の鍵を預かっていました。

☆ 明治5年、石鉄県の監督下に入り、湯の町四組の組頭四名で
  組織する温泉世話がかりに移りました。
  この年、町民総代の中川鼎象(なかがわまさかた)と佐伯吟次
  郎らが町民にはかり、本湯(神の湯)を二階楼として改築しまし
  た。

☆ 明治8年に、町が温泉の運営を命じられ、「源泉社」というもの
  を作りました。この源泉社は、町民から選ばれた有力者六名の
  世話がかりから組織されており、温泉経営のほか、町内家賃
  の融通など、金融業のようなことまで行いました。

☆ 明治11年に源泉社が中心となって新湯を作りました。

☆ 明治21年4月の市町村令の交付にともない、明治23年1月か
  ら、道後湯之町にも町制が実施され、温泉の運営を道後湯之
  町が任されました。この初代町長が伊佐庭如矢です。

       ***参考資料:加藤恵一著
          「道後の夜明け−伊佐庭翁ものがたり−」***

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【 伊佐庭如矢(いさにわ ゆきや)と 道後 】

<功績>
☆ 道後湯之町初代町長
☆ 老媒下塾(ろうばいかじゅく)という私塾を開き、京都東寺住職
  大教真言宗長者・高志大了や書家・古富琴海、漢学者・井手正
  麟(いで  せいりん)などを輩出した。
☆ 松山城(慶長8年加藤嘉明によって築城された、300年の歴史
  を持つ名城)を城山公園として保存するよう、働きかけた。
☆ 金刀比羅宮のお供方(おともかた)の習慣を一時金をもって廃
  止し 財政再建をした。
  * お供方の習慣・・・・保元のむかし、崇徳天皇の行幸のおとも
   をして讃岐についてきた人々の子孫に対して、それ以降、毎
   年給料を払っていたもの。
☆ 荒れていた湯築城址を一大回遊式日本庭園として、改修した。
☆ 道後温泉本館を新しく建て直し、道後鉄道を設立した。
<略歴>
 文政10年:生まれる。
 16才:阿部家の養子に入る。
 19才:その娘、射狭(いさ)と結婚。
 28才:老媒下塾を市内御宝町で開く。
 明治元年:阿部家を息子に譲り、平民となって伊佐庭を名乗る。
 明治2年:松山藩の役人になる。
 明治5年:石鉄県となるを機会に、役人として吏員生活に入る。老
       媒下塾を閉じる。
 明治6年:荒廃する松山城を城山公園として残すように働きかけ
       成功する。
 明治10年:明治9年香川県が愛媛県の管轄になるを機に、高松
       支庁長になる。
 明治13年:内務省に入る。
 明治14年:愛媛県に戻る。
 明治15年:山田香川郡長に就任する。
 明治16年:愛媛県立高松中学校長を兼任する。
 明治17年:郡長を辞任し、校長のみとなるが、その後財政難の
       ため、廃校となる。
 明治19年:金刀比羅宮の禰宜になる。
 
明治23年2月:道後湯之町の初代町長に就任。道後温泉本館
       改築に着手。62才。
    同年初秋:養生湯改築が町内の話題になり、不平がささや
       かれる中、妻射狭が亡くなる。
 明治25年2月:養生湯落成。
同8月、道後鉄道に着手。
 明治27年4月:道後温泉本館落成。
 
明治28年8月:道後鉄道開通。
 明治35年:三期十二年勤めた町長を勇退。
 明治40年9月4日:脳溢血で没した。享年80才。

      ***参考資料:加藤恵一著
         「道後の夜明け−伊佐庭翁ものがたり−」***




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