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アメリカ編

(サンイシドロ〜サンタクララ)



8月3日 自由の国へ(ティファナ〜サンディエゴ〜サンタクララ)
 

結局ケツの形をしたぼこぼこのイスで一夜を過ごして朝を迎えた。これまでの旅から比べれば、これでも警備員もいてトイレも無料なぴかぴかの空港での野宿なんてどうという事はない。なにせもう僕にはなにも盗まれる物も何もないのだ。空が明るくなり始めた頃に古いバスが一台やってきて、周りにたむろしていた空港の清掃員風の男に「セントロに行くの?」と聞くと「そうだ」と答えた。

完全に目も覚めてしまったのでそのままあたりをうろうろして時間をつぶしながらふと見ると、今にもバスが出発しようとしていたので慌てて駆け寄ると、そのバスはロスアンジェルス行きだった。結局おじさんもよく知らなかったわけだ。長距離バス会社のおねえさんが「前の道路で待っていればどんどんやってくるから」と教えてくれ、そのままに朝の冷たい空気の立ちこめる道路に立って路線バスを待った。

どんどん人がやってきては乗り合いタクシーに乗って去っていく。タクシーの運転手からどんどん声がかかるが、そのまましばらく待っているとやっとの事でバスがやってきた。バスは4.5ペソ、持ち金は4.2ペソだったのだがUSのセントを混ぜて少し多めに払うと全く問題はなく、「国境を越えたい」と言うと運転手は「ここで降りてそこから別のバスで」というのだが、僕は出入国をしなければいけないので結局自力でイミグレを探さなくてはならなかった。

ティファナの町はアメリカからの日帰り観光地にもなっているので、中心部はアメリカとあまりわからないモダンな町並みだったが、国境に近づくにつれてコンクリートでできているものの雑多な中米の香りが漂っていた。そんな国境の香りとは裏腹にイミグレを探すのは本当に一苦労だった。というのもメキシコからアメリカへ通り抜ける人は、アメリカ側から入国印無しで来た外国人観光客か、労働許可証を持って通勤しているメキシコ人ぐらいなので、そもそもメキシコの出国手続きをする人なんてほとんどいないのだ。矢印の通りすすんでいくといきなりアメリカのイミグレにたどり着いてしまったので慌てて引き返した。

周りの人に聞いても、そもそも僕の様なケースはほとんどないのであまり理解できないらしく、タクシーの運転手に聞いてやっと見つける事ができた。アメリカからメキシコ方面への車道のレーンを逆走するとイミグレらしい建物があったのだが閉まっていた。そしてその辺の自動車保険のオフィスのおじさんに聞くと、通用口のような所を通してくれて、メキシコ→アメリカ方面歩道を逆走(出口には回転扉があって普通は入れない)してようやくメキシコ入国用のイミグレまでたどり着いた。

おじさんに「ティンブレ ポルファボール(スタンプちょうだい)」というとツーリストカードを出してきたので「サリーダ サリーダ(出国)」というと、一瞬不思議そうな顔をしてから「ああ」とスタンプを押してくれた。そしてまたまたメキシコ側に再入国して陸橋を越えて進んでいくと星条旗が見えてきた。入国できるかどうかわからないだけに不安が高まっていく。と同時にみょうに感動してしまって頭の中のBGMはロスオリンピックのファンファーレだった。

イミグレーションに入ると、次から次ぎへと通勤のメキシコ人が通り過ぎていく。まるで朝のラッシュアワーの改札口のようだ。ちらっとIDを見せるだけですごく簡単に通り抜けていくのがうらやましかった。僕は入国カードが必要なので別のインフォカウンターに並びながら「どの審査官が甘そうかなあ」と審査の様子を眺めていた。僕の番が来たので「イミグレーションフォームをください」というと「え?なんだって?」と聞き返されてしまったので「I-94Wですよ。緑のやつ」というと「ああ」と引き出しの奥から緑の紙を取り出してくれた。なんと日本語版だった。

係官はなぜだか「Good English」などとお世辞をいうので「まじで?」とか言いながら入国カードに記入をしていると、どうやらもう一人の係官は昔三沢基地にいたらしく、終始フレンドリーな対応だった。結局聞かれたのは「どこに住んでいる?」だけだった。こういうときによけいな事を言ってはいけないというのをフランス入国の時に学んだので「日本です」とだけ答えると入国カードにポンとスタンプが押された。僕はガッツポーズをしたいのをこらえて緊張しながらパスポートにスタンプが押されるのを待った。

「よし、、よし、、行け! 行けーーっ」「ポンっ」

こうして僕の最大の悩みの種だったアメリカ入国はあっけなすぎるほど簡単に終わってしまった。おまけに滞在期間は満額の90日だった。勝因はいくつか考えられるのだが、まず僕の荷物が極端に少ないこと。これはメキシコに観光しに来た日本人がちょっとラスベガスにでも行くというような軽装だ。服装もカンクンでもらった長ズボンとあとわざわざTシャツを買っものをきて、汚いなりにも精一杯こぎれいにした。他に僕が持っていたのはよれよれのマレーシアTシャツとエルサルバドルで買ったチェ・ゲバラTシャツ(中南米の英雄の共産ゲリラ指導者)しかなかった。さすがにアメリカ入国にゲバラは着ていけないだろう(笑)

国境の向こうの情報は全くなかった。とりあえず以前に南極で会った「江戸っ娘」が「サンディエゴからトラムでメキシコに行った」といってたのを思い出してそのまま進んでいくと国境のま前に赤い電車が停まっていた。とりあえずこれでサンディエゴまで行けるらしい。駅前は 国境を越えてたというのに両替所やスーパーではなされる言葉は完全にスペイン語だ。 スペイン語をしゃべりながらあまっていたペソを1割ほど悪いレートで替えてからトラムに飛び乗った。

窓からの景色が変わった。だだっぴろい道路の両脇にきれいな住宅街が見える。そして至る所に星条旗が掲げられていた。しばらく揺られていると海が見えてきた。どうやらサンディエゴというのは港町らしく、それも 灰色の戦艦がたくさん停泊していてかなり大規模な軍港でもあるらしい。さてどこで降りたらいいのやら、トラムは専用軌道を外れてセントロの道路の上をごろごろと走り出した。

サンディエゴのダウンタウンは清潔そのものだった。きれいな高層ビルが建ち並んでいる。道路標識を見ていると、8th 7th 6thというように通りの番号が減ってきたので僕は1st av.をすぎたところでトラムを降りた。変な話だが人も車も少ないビル街の谷間をわずか2キロほどのリュック1つで歩いている自分がおかしくもありうれしくもあった。

とりあえず地図が欲しかったのでうろうろしていると、日本語を話す3人組にばったりであったのでインフォの位置を聞いてみた。地元民でもいいのだがアメリカなのに英語もそんなに通じないしなあと思っていたところに渡りに船というわけだ。彼らは留学で来ているらしく「そっちの方に行くので途中まで一緒に行きましょう」とインフォのすぐ近くまで案内してくれた。

インフォが開くのを待って地図やタウン誌を手に入れたのだが、どうやらサンディエゴの見所は水族館と港の風景ぐらいのようだった。次にその足でグレイハウンドのバス乗り場に行ってスケジュールを調べる。ここやロスで何泊かしてもいいのだが、どうせロスは帰りにもよることになりそうだし、空港で野宿して疲れていたのでこのまま一気にサンホゼまで行くことにした。約10時間の道のりだ。

サンホゼには会社員時代にお世話になっていた上司が住んでいる。そこまでいけば久しぶりにゆっくりと落ち着ける。とりあえず落ち着きたかったのだと思う。そんなわけでチケットを買ってから元上司の会社に電話すると懐かしい声が聞こえてきた。

バスから見える風景はサンディエゴを出るまでは海沿いのいい感じだったのだが、それ以降は単調ですぐに飽きてしまった。ロスで乗り換えなのだが、ロスも本当の中心部以外はごみごみしていて「こんなもんかなあ」という感じだった。ロスからは延々枯れ野を走るという感じで、途中アメリカらしく草原のど真ん中のバーガーキングで夕食休憩をとってから再びサンホゼ目指して走り続けた。

5号線をはずれて巨大なダム湖を通ってしばらく行くとSanta Clara Countyという看板が見えた。「シリコンバレーってこんなにど田舎なのか?」と思ったのだが結局それからしばらく走り続けて街が見えてくるとそれがサンホゼだった。閑散としたダウンタウンのターミナルでしばらく待っていると元上司が車で迎えに来てくれた。「まず、飯でしょ?」と居酒屋に連れて行ってもらい、日本のビールと日本の居酒屋メニューをごちそうしてもらい、今までの旅の事や前の会社人たちの話など一通り終わった頃には結構酔いも回ってきた。

ここシリコンバレーはバブルがはじけたにもかかわらず、1ベッドルームのアパートで家賃が2200ドルもするらしい。そして2200ドルのアパートにつくと溢れんばかりの電化製品だった。早速「自由に使っていいよ」とノートPCを一台貸してくれた上に、電話もプロバイダも固定料金なので自由に使ってもいいというありがたい申し出だった。

結局両親や友人に無事を伝えるメールを書いたりしていると2時を回ったので横になったらわずか2分ほどで眠り込んでいたようだった。カンクンを出てから30時間、長い道のりだった。


8月4日 ぐうたらライフ(サンタクララ)

「さて今日はどこへ行きたい?」と元上司が訪ねてくれるのだが、ここシリコンバレーには見所なんて無い。そして僕もだいぶましにはなったもののやはり気持ちの整理をつけることができそうにもなく、積極的に観光する気分にはなれないのだった。そして結局決まった今日の予定は、巨大電器店、紀伊の国屋、そして元ヤオハンの「ミツワ」というスーパーをはしごするという物だった。

車に乗り込んで街にでると、さっそくあちこちに世界的なメーカーの看板が見える。Intel、SUN、HITACH、Yahoo、Appleなどカンクンが一流ホテルの展示場なら、こっちはさしづめ、一流情報企業の展示所という所だろう。

サンホゼダウンタウンはまだしも、このあたりのサンタクララやマウンテンビュー、サニーベールといった所は本当に生活感がまったくなくて、だだっぴろい平原に4車線の巨大な道路、そしてまばらに平屋の社屋が見えるといった感じだ。世界一つまらない街といわれるパキスタンのイスラマバードにどこか通じるものがあったが、それでも中米からあがってきた僕には新鮮な風景だった。

最初に巨大な電器ストアによった。コンピュータ、無線からテレビ、オーディオまで何でもありだ。僕はあちこちの売り場を見ながら、この2年間でいかに電器製品の技術が進んだかを目の当たりにして、少しうろたえてしまった。そしてその後は中国以来の吉野屋で久しぶりの牛丼。アフリカのドゴンの村で「今ここに吉野屋があれば何ドルまで出す?」といか言い合っていたのが懐かしい。たしか僕はアフリカの夕日を見ながら「20ドルまでなら出すね」とかいって笑っていたと思う。

巨大な本屋や日本人モールの紀伊の国屋、ミツワなんかをみると夕方になってきたのでスーパーで買い物をして帰ることにした。夕食はこんな無職の風来坊を快く迎えてくれた元上司の恩に答えるため、気合いを入れて肉じゃがを作ることにした。普段旅行中に作るのはなかなか大変だが、ここにはしょうゆもみりんも何でもあるのであっと言うまに納得のいく味となった。

やっぱり旅中に完全に気分を切り替えるのは無理だ。だから今の僕にはこういう時間が必要なのだと思う。幸いインターネットはつなぎっぱなし、そしてテレビ横のラックには数百枚のLDやDVDがあるので、しばらくゆっくりさせていただくことにしようと思った。

アップルの本社


8月5日 凍った風(サンタクララ〜モントレー〜サンタクララ)

さすがに今日は遠出をしようという事になった。最初はサンフランシスコ方面へ行こうと言っていたのだが、朝起きるとあまりにも天気が良すぎたので急遽予定を変更してモントレーへ向かうことになった。

町中でさえ建物の少ないこのあたりは、フリーウェーに出るともう見渡す限り金色の枯れ野しか見えない。今日はなぜだか交通量が多くて途中渋滞したりもしたが、1時間ほどでいきなり砂丘が見えたかと思うといきなり目の前に海が広がった。海岸は弧を描いてモントレーの岬まで続いている。昼前でおなかもすいてきたので、とりあえずフィッシャーマンズワーフで昼食という事になった。

ここの名物はクラムチャウダー。しかも名物なのかブレッドボウルというでっかい丸パンをくり抜いたお皿で飲むスープだ。くり抜いた方もくれるので普通はこの部分とスープでしめった器をスプーンで掻き取って食べるらしい。僕はおいしくておなかもすいていたので、器の部分もちぎって、結構な量を食べてしまった。

クラムチャウダーブレッドボウル

駐車場に戻る途中盛大に3本ほどトルコの国旗が掲げられていたので「何でこんなところに?」と思っていると奥の方でトルコフェスティバルというのをやっていた。民族楽器に合わせてトルコ人のお姉さんと観光客が一緒に踊っていた。屋台や土産物屋もあったのだが、なぜだかエジプトのファラオや猫の置物がおいてあったのには笑ってしまった。確かにアメリカ人にとってはトルコもエジプトも一緒なんだろう。

そんな風景を見ているとアジア横断の楽しい思い出がよみがえってきた。僕はホンジュラス、エルサルバドルで、あんなくだらない出来事が僕の今までの2年間を台無しにしてしまったと思いこんできたのだが、今考えれば台無しに成ったのは中米以降の一部だけで何者にも僕の思い出を壊すことはできないという事にやっと気がついたのだった。目の青いトルコ系白人を見ていると、トラブゾンで出会った男と4人の女の子たちのを思い出した。

フィッシャーマンズワーフの近くには缶詰工場跡を中心に広がるおみやげ物街や水族館が広がっていた。海にはたくさんのヨット、ペリカン、そしてアザラシがぷかぷかと浮かんでいた。日差しは強いのだが沖を流れる寒流のせいで凍った風が吹いてきて寒いぐらいだった。

おなかがいっぱいになったところで次ぎは岬の先にある灯台を通って17マイルドライブという観光道路へ向かった。17マイルの中にはいろいろな見所とそしてあの有名なペブルビーチゴルフコースがあった。道路は海沿いにはサイプレスの林の中を抜けて岬をぐるりと一回りして国道へとつながっていた。

帰り道は同じ道だとつまらないので違う道を通ったら、ちょうどハイウェイ沿いにやはり有名なラグナセカサーキットがあったので寄ってみる事にした。ゲートの所に料金所があったので「何だレースも無いのに有料なのか」と思ったら係員は「見物にきたんなら20分なら無料でいいよ」と通してくれた。

ラグナセカは「コークスクリュー」というきりもみのヘアピンがあって有名なのだが、さすがにアップダウンがすごくて高台に上るとコース全体が見渡せた。コースの中では小型のフォーミュラーカーがゆっくりと走っていた。未来のインディーカー乗りの子供達だろうか?しばらく練習走行を見学してからサンタクララへ戻ることにした。

帰りも少し渋滞してサンタクララに着いた時には食事時だったのだが、なんと「すしを食べに行こう」という事で、昨日行ったヤオハンの近くのすしやへ向かった。寿司やは飲み屋もかねていたので軽くおつまみで腹ごしらえしてからいよいよメインの寿司へ。さすがに今までの所とはちがってここでは本格的な寿司が食べられる。

特上の寿司をおなかいっぱいで苦しいほど食べると値段の方も特上だったのだが、ありがたくもまたまた元上司にごちそうになってしまった。また何か明日は日本食でも作らなくては。

缶詰工場周辺の看板


8月6日 異国の人々(サンタクララ)

今日は平日なので朝から暇だなあと思っていたら、元上司が会社を案内してくれるそうで一緒に出勤することになった。以前インテルのプエルトリコ工場に行った時にあまりにも警備が厳重だったので「やっぱりアメリカはなあ」と思っていたら、日系の会社はそうでもなく社員同伴なら割と自由に入れるらしい。というよりもインテルが異常に厳しいのだろう。

会社は上が配管むき出しで、オフィスというよりも工場という感じだったのだが、内部は清潔で日系でもアメリカの会社らしく、一人一人のスペースが大きなパーテションで区切られている。まだ朝早いせいか人影はまばらだった。今は日本が盆休みの為、仕事もそんなに無いらしく、朝の用事を片づけるとわざわざサンホゼのダウンタウンまで車で送っていただいてしまった。

ダウンタウンに来たのは帰国便のチケットを買うため。Webで調べると、Council Travelという学生割引の会社がカリフォルニア州立大学の中にあるらしいのだ。早速門を入って進んでいくと中には夏休みにも関わらずたくさんの学生がいた。日本人もかなりいたのできっと夏休みの語学研修か何かだろう。それらしい建物を見つけて中に入ってみたのだがそれらしい代理店は無く、スポーツジムのお姉さんに聞いてみると「今改装してるらしくて、いつオープンするかは知らないわ」との答えだった。とほほ。

気を取り直してダウンタウンを散策するが、旅行会社というのが目に付かない。仕方なくジャパンタウンの方へ向かってみた。というのも、この前カンクンでいろいろ探した結果、日系のHISが一番安いという意外な結果だったのでひょっとしたらと思ったのだ。そして一軒の代理店を見つけて入ってみると太った白人のおばさんが対応してくれた。

「日本行きの安いチケットを探してるんだけど」というとなぜだか昭和初期のような丸いめがねをかけた日系人の爺さんに引き継がれてしまった。別に英語でもいいのに。そしてこの爺さんの接客態度が全くなっていない。僕の希望は日付も出発先も到着先も割と自由になるので「安い便で片道」と頼んだのだが、爺さんはサンホゼ−大阪の片道を適当に端末を叩いて調べて「600ドル」と答えた。

「もう少し安いの無いですか?」というと「安いってあんたいったいいくらぐらいを考えてるの?」と高圧的に言う。「400ドルぐらいで」というと「この時期そんなの無いよ。サンホゼ発以外ならほかのとこ行って」などと全くとんでもない対応だった。全く使えない。よくこんなのでクビにならないもんだ。単に「日本での人間関係がうまくいかないからアメリカに移ってきた」というようなオヤジだった。仕方なくダウンタウンをさまよう。

ダウンタウンには良さげな公園もあってきれいなのだが、やっぱり生活臭が全くしないので町歩きもすぐに飽きてしまったしなぜだか旅行代理店というのを見つける事ができなかった。そして行き先は紀伊の国屋のある小さなショッピングモールだ。昨日寿司を食べたときに格安航空券の会社があったのを見かけたのでそこで聞いてみる事にしたのだ。

そのJTRIPSという代理店は日本行きを中心に扱っているので、さすがに話も早くすぐに資料を出してきてくれた。どうやら今安いのはエアカナダだけらしい。サンフランシスコ−関空が$361。でもロスにも行ってみたかったのでそっちも訪ねてみるとやっぱりここはサンフランシスコを中心に扱っているのと、今は超ハイシーズンなのでずっと高くなってしまうらしい。そしてそのエアカナダも、8日と14日の二日にしか空きが無く、しかもあと少しなので即決しないといけない。

ちょっとモールをさまよいながら考えた。本当はロスからソウルにでも飛んで船で帰るというのがよかったのだが、ソウル行きの片道格安というのの設定が無いのらしい。インターネットで調べてもやっぱり$500以上はするので、このエアカナダの料金というのは破格なのだろう。考えた結果バンクーバで3泊ストップオーバーで14日に日本に帰る事にした。いろいろあって自分の旅はもう中米で終わっていたのかもしれないが、やっぱり旅の最後ぐらいは旅をしてから帰りたかったからだ。

用事を片づけてバスに乗って帰るのだが、このバスがまたなかなかやってこない。本当にアメリカは車がないとだめだ。そんな社会なのでバスに乗っている乗客は貧困層が多く危険こそ無い物の、何か意味不明の事をぶつぶつ言っている人や、なんかの薬物でらりっていると思われる人やら、ぼろぼろの服を着ている人やらが多かった。

夜は昼間行った日本食材屋で白菜を手に入れたので、すき焼きっぽいものを作る事にした。本当はえのきとかネギを買いたかったのだが情けないことにもうTCは無いし米ドルも$100ほどしか残っていないので却下した。でも適当に金額を用意したのにうまく旅の最後でうまい具合に全部使い切れてしまって少しおかしかった。

帰国が決まるとなんだか急に旅が終わったような気がして少し寂しい。

サンホゼのジャパンタウン


8月7日 家にこもる(サンタクララ)

今日は本当に朝からごろごろしてしまった。幸いここには元上司のDVDとLDのコレクションが山ほどあるし、インターネットもつなぎ放題なので退屈しない。ちなみに今日見たDVDは、

・鉄道員(ぽっぽや)
・On Your Mark
・モダンチョキチョキズ ライブ
・ホーホケキョとなりの山田君
・小野リサ コンサートライブ
・毎日が夏休み

ほかにもいろいろ見たいのがあるのだが、あまりにも膨大すぎて何から見えいいのやらわからない。

ほかには不正使用の件でカード会社に電話したり、保険会社に電話したり、マイレージのカードも無くなってしまったのでUAに電話して問い合わせたり。さすがにアメリカ国内なのでフリーダイヤルがあって助かる。しかしUAはアメリカ国内にも日本語窓口があるくせに、結局細かいことは本社の英語窓口にかけないといけないらしい。ま、別に英語ならと早速電話して番号を教えてもらって再発行の手続きをしてもらった。

夕食は冷蔵庫に少し古い鮭があったので、焼き魚にして処分した。最近は無煙焼き魚マシーンというのがあって、全く煙も出さずに調理できる。これは換気扇の存在しない海外では非常に助かる。しかしこんなに日本食三昧してると帰ってからも感動が無いんだろうなあ。



8月8日 日記書き(サンタクララ)

ようやく完全にすることが無くなったので朝から日記書きに専念した。やっぱり中米の日記は書きたくないのだが、自分のために記録を残しておきたい。朝からケーブルTVでCNNのヘッドラインをつけっぱなしにしながら日記を書き続けた。

昼頃にそれも飽きたのでこの前の代理店にチケットを取りに行った。そしてその足でアップル本社にある直売店やインテルの博物館にでも行こうかと思ったのだが、バスの接続があまりにも悪くて結局夕方になってしまったのでそのまま家に帰ってきた。

夜は約束があった。日本ではWEB日記という自分の日記をホームページにアップするというのがはやっているが、今から5年ほど前に「日記猿人」なるWeb日記のリンク集のサイトがあって、その中の作者同士でよく集まったり飲んだりしていた事があった。もっとも今は人口が増えすぎてそういった集まりをすることもできなくなってしまったのだが、サイトは 「日記才人」 と名前を変えて今でも存続しているらしい。

そしてその管理グループでシステムのメンテナンス関係をしているえんどーさんが、こちらの会社に就職して近くにいるというので一緒に飲みに行くことになった。場所はサンホゼでも人気の地ビールを作っているレストランで、平日にも関わらずものすごい数の車が停まっていた。全員飲酒運転(笑)

昔のこと、アメリカのコンピュータ事情等とりとめもない事で盛り上がった。彼は大学の時からこちらに住んでるので、すっかり中身もアメリカ人になってしまったのかと思っていたのだが、話せばは話すほど日本人だった。たぶんこれからもアメリカに住み続けるらしいのだが、今でも「日本のために何かできたら」と思っていると話していた。

彼は仕事があるので再び会社に戻っていた。2時間ほどだったがいろんな話が聞けたし、旅モードから仕事モードに頭を切り換えるにはちょうどよかった。


8月9日 カリフォルニアの太陽(サンタクララ〜サンフランシスコ〜サンタクララ)

ごろごろライフもあと2日ということで今日は久しぶりの観光らしい観光ということでサンフランシスコまで足をのばすことにした。幸いにもここサンタクララからサンフランシスコまではカルトレインと呼ばれる近郊列車が走っている。トラムに乗ってマウンテンビューへ、そこからカルトレインに乗り換える。

チケットを買うと$3だったのでどんな列車なのかと思ったら、ディーゼル機関車に引かれてやってきた列車は二階建ての思ったよりも豪華なものだった。ただおもしろいのは完全二階というわけではなく、二階席は網棚というかロフトの様な形で左右に一席ずつ着いているので検札の時は下から「Ticket!」と言いながら車掌の腕が伸びてくるのが面白かった。

一時間ほどたつと段々と都会になってきてやがて海が見えた。列車の駅はダウンタウンから少し離れているらしく、目の前にあったトラムに適当に乗った。インフォでもらった地図によるとそのままフィッシャーマンズワーフの方へ行くはずだったのだかなんだか地下潜ってダウンタウンの方へ向かっていった。仕方なく適当な所で降りるとなんと目の前がドンピシャリツーリストインフォだった。ラッキー

早速地図と市内交通の一日パスを手に入れてサンフランシスコ名物のケーブルカー乗り場へ向かった。ケーブルカー乗り場にはなんとターンテーブルがあって、やってきたケーブルカーを運転手が手で押してテーブルの上に載せてぐるりと回してまたまた線路に戻す。ケーブルカーの運転手はなかなかの重労働のようだ。ターンテーブルの周りに人だかりができていたので「なんかすごい見物客だなあ」と思っていたら、なんとそれはケーブルカーを待つ乗客の列だった。そしてそれは100m以上もずっと通りにそって列ができていた。

ケーブルカーのターンテーブル
人が押している

こんなのに並んでたらキリがないので一駅歩いてそこからケーブルカーに飛び乗った。ステップに立っている人もたくさんいたのだが、みんなステップに立ちたいらしく開いてなかったので自分はそそくさと中の方へと入っていった。

ケーブルカーだけあってすごく急な坂道を上っていく。ここのケーブルカーはほかの所と少し違っていて、地中に埋めたワイヤーが常に動いていて、ここの車両はレバーのそのワイヤーを掴んで走るという仕組みになっている。なかなか面白い。やがて頂上まで上ると三角のとんがった変なビルや反対側には海が広がった。そのうち車掌が「ロンバードストリート」というとたくさんの客が降りていったので僕も降りる事にした。

そこから下を見るとテレビで見た事のあるぐねぐねと曲がった道が下の方まで続いていた。そして僕は横にある歩道を通ってしたまで降りるとそこにもたくさんの観光客がいた。下から見上げるぐねぐね道は花で飾られていて綺麗だった。



 有名な坂道

 サンフランシスコ一番の見所と思われるところを見終わった僕は、その足で坂道を下り港のあるエリアへとやってきた。フィッシャーマンズワーフはたくさんの観光客 で溢れていて、新鮮な魚介類の並ぶ屋台は客の取り合いで必死だった。

もし旅の最初にここへ来ていたならさぞかしときめいた事だろう。しかしこのような風景にどきどきするには僕は旅をしすぎた事に気がついた。浮かれる観光客を後目に僕は旅の最初に訪れたプサンの港のことを思い出した。そして港をふらふらしていると僕は少し不愉快なものを発見してしまった。

サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフには、第二次世界大戦の潜水艦が博物館として浮かんでいた。そしてその説明文が不愉快きわまりないものだった。「この潜水艦は第二次世界大戦時にたくさんの日本の船を沈めた偉大な船で〜云々」これはまだいい。極めつけは掲げられていた艦旗だった。

アメリカはご存じのような軍事大国なので、戦闘機には撃墜マークという撃墜した、つまり殺した人の数だけマークがついているのだが、この潜水艦のマークはなんと日本の国旗だった。撃沈した数が日の丸で、大破させたのは白抜きの日の丸になっている。まるで遊びのように。軍事博物館なりにあるのならまだしも、日本人観光客も大勢訪れるこんなところに。つくずく人の痛みのわからない国なのだろう。

ちょっと気分がダウンしたが、やっぱりここだけは行っておかなくては!ゴールデンゲートブリッジだ。市内交通の一日券を買ったので細かくバスを乗り継いで歩かずに橋にたどり着いた。橋自体は明石海峡大橋を見慣れた僕には大した事はなかったのだが、でもこれが実際に上を歩いてみるとかなりの高さで、遊園地で観覧車が一番怖いと思っている僕には迫力満点だった。

しばらく橋を見とれていたのだが、そのうち少し肌寒くなってきたのでにダウンタウンに戻ることにした。適当に乗ったバスは偶然中華街を通ったのでとっさに降りてみた。西海岸はが中国人が多いとは聞いていたがここまでとはおもわなかった。今日行った観光地でもダウンタウンでも黒人よりもの中国人の人口の方が圧倒的に多かったようにおもう。

そしてダウンタウンのちょっと寂れたところにあったバーガーキングで大きなバーガーを頬張っていると物乞いがやってきた。ヒスパニック系だったのだが「アメリカへ行けば金持ちになれる」と夢見てやってきたなれの果てなのだろうか? きれいなショッピングセンターや高層ビル、そして郊外の丘に立ち並ぶ豪邸。この国はひょっとしたら、南米やアジア以上に貧富の差が激しいのかもしれないと思った。

本当は夜ぐらいまでいろいろ観光するつもりだったのだが、夕方前にすべて見たいものも見たのでそのまま列車に乗って帰る事にした。列車がちょうどマウンテンビューの駅についた時には空は日没前の微妙な色につつまれていた。


8月10日 (サンタクララ) 

今日はいよいよごろごろライフ最後の日だ。昨日はさんざん観光したので今日もまたごろごろすることにした。元上司が出勤してから洗い物、洗濯をしてからメールのチェックやホームページの更新、そしてCNNのヘッドラインなんかをだらだらと見る。

そのうち「そういえば、このアパートってプールがあったなあ」と思い出して、短パンにはきかえて中庭のプールへ。さすがに平日なのでプールサイドにはおばあさんが一人いただけだった。いきなりどぼんと入ると、なんと足がつかない!!あわてて反対側に向かって泳ぐとこっちのほうは浅くなっていた。

しばらく運動がてらに泳いでいたのだが、肝心のお楽しみは別にあった。プールサイドあるジャグジーだ。しかもをスイッチを入れてから「水だろう」と思ってはいるとなんと温水!これはもう最高の温泉気分だった。吹き出す泡で肩や足をマッサージするともう体がふにゃふにゃになりそうだった。(笑)

結局温泉の後はうたた寝したり、テレビを見たりして夕方から夕食の準備にはいった。今夜は焼き魚と、シジミが余っていたので半分をみそ汁にして、半分はバター炒めにして食べてみた。森高千里のDVDが終わると次はなんと、米米クラブのラストコンサートのLDが出てきた。

それを見ながら元上司が買ってきた沖縄のアルコール度数60度をぐびぐび飲んでいるとさすがに回ってくる。うまく表現できないが、普段と同じ量で3倍回るという感じだ。これはさすがにすごい。コンサートが終わる頃には二人とも結構な酔いで、さすがに横になるとすぐに撃沈してしまった。

こんなアメリカ最後の夜もまた一興かも。




 

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