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南極編
2月16日 さらに南へ(ウシュアイア〜サウスシェトランド)
いよいよ南極に向けて出発だ。乗船は4時半からだというので昼過ぎまでゆっくりと宿で洗濯をしたり風呂に入ったりしてひたすらくつろいだ。4時頃いよいよ普段は$1をケチって乗らないコレクティーボに揺られて一路港へ。同行メンバーは卒業旅行の「加トちゃん」そして相変わらずマイペースの「謎娘」だ。
港に向かうとウシュアイアに来るとき一緒だったチビTのフランス人アリックスにばったり出会った。「長靴を買うのよ」となにやら慌てているようだったのだが、パンフレットに船にはたくさんの用意が有ると書いてあったにもかかわらず、バックパッカーに行き渡る分は無いらしい。
僕はというと上野邸で借りてきたので必要なかったのだが、船に荷物を降ろしてチェックインすると今度はホームページの更新と酒の買いだしに走ることになった。出航は10時頃だと思っていたら予想外に早く、6時には戻ってくるように言われてしまったので帰りは走りまくってもう船に戻ったときにはくたくただった。
船には既に「たぐーさん」はじめ、あちこちでちらっと見かけた世界中のバックパッカーが勢揃いしていた。部屋はオーストラリア人と熊のようなカナダ人の二人組と一緒の4人部屋で一応シャワーもついていてまあまあだった。部屋で落ち着いていると早速避難訓練があった、内容は救命胴衣をもって指示されたボートの番号の所に行って点呼を受けるというものなのだが、なんだかみんなこれからの旅に浮かれているのかとにかく楽しそうな避難訓練だった。
訓練のあとはオリエンテーションに食事で一日の予定が終了。甲板に出てみると世界で最も南にある村、プエルトウィリアムスの灯りが見えた。
我らのМАРИЯ ЕРМОЛОВА
2月17日 もっと南へ(〜サウスシェトランド)
揺れるとは聞いていたのだが想像以上に揺れまくった。夜中に目が覚めるともう体が浮き上がったりベッドに押しつけられたりするほど豪快に揺れていた。まあ僕はどんなに揺れても寝ころんでさえいれば大丈夫な事が経験上わかっているので焦りはなかったが、やっぱりこの揺れは気持ちのいいものではない。
とりあえずこういう揺れは半日ぐらいで有る程度慣れる事も経験上知っているので、あえて朝食には起きずに昼まで寝ることにした。朝からいろいろなレクチャーの案内のアナウンスが入るのだが、とりあえずパスして昼ごろにやっと起き出した。慣れたとは言ってもまだ半日なので、食堂で昼食をとっているうちに少し気分が悪くなってきて本格的に悪くなる前にパンを少しつつんでもって帰る事にした。ツアー会社もこの辺のことはよくわかっているようで、今日の昼食はトマトスープとチーズだけのサンドイッチのみ。さすがにまだ食べに来る客も少なかった。
それにしても本当に揺れる。夏はロシアの黒海で使われているというこの船は、以前小笠原へ行ったときのように横揺れ防止のフィンスタビライザー(水中翼)なんて気の利いた物が付いているはずも無く、窓からは空だけと海だけが交互に見えた。午後から少しだけ甲板に出てみたが水しぶきが飛んでくるし、船体が思いっきり傾くもんだから、一緒にいたたぐーさんは甲板でこけてそのまま船の端っこまで滑っていった。(笑)
結局今日は、加トちゃんと謎娘はほぼ一日死んでいて、僕はぼちぼち。たぐーさんともう一人船で出会ったちゃきちゃきのおねーさん「江戸っ娘」は元気いっぱいで何やら盛り上がっていたようだった。僕もさすがに夕方までには少し慣れて、若干のむかつきを覚えながらも夕食は綺麗に平らげた。
夕食後はいよいよゾディアックでの上陸手順とか南極での決まり事とかのレクチャーでこれは全員絶対参加と言われていたので「こんなにいたのか?」という程の人数が毛布と枕を抱えてレクチャールームにゴロゴロ転がっていた。内容はペンギンに5m以上近寄ってはいけないとかアザラシには15m以上近寄ってはいけないとか。他には南極には何も持ち込まない持ち出さない、苔を踏んではいけないとかそんな内容の事だった。
ちょっと残念なのはこれだけ注意してもやっぱりゴミを捨てる奴らがいるらしくて、去年辺りから上陸時の酒類、食料の持ち込みが禁止になってしまったらしい。上陸記念にシャンペンで乾杯しようと思っていたのにこれは残念だ。仕方が無いので上陸したあと船で乾杯する事にした。
船は夜半になっても揺れまくってまったく収まる気配はなかった。
大荒れの甲板にて
かなり傾いているのがわかる。
2月18日 進路変更(〜サウスシェトランド)
予定では今日の午後遅くに1回目の上陸があるはずだったのだがドレーク海峡は予想以上に荒れているらしい。船は波の為に最大船速14ノットのところをたったの5ノットしか出すことが出来ず、結局波を避けるために少し迂回するルートを取る事になった。そして速度は9ノットに上がったのだが今度は横波をもろに受けるので遊園地のマジックカーペットに乗っているようだ。食事中も隣のおばちゃんが椅子ごと滑ってきて激突されてしまった。お皿のスープも斜めになるし、蛇口の水も斜めに落ちて行くし「もう勘弁してくれー」という感じだった。
今日はさすがに波に揺られてから36時間以上経っていたのでみんな割と元気で特にペンギンのレクチャーにはたくさんの人数が参加していた。講師はルリコさんというアメリカ在住の日本人のおばさんで、野鳥の専門家として船に乗り込んでいるらしい。講義はもちろん英語なのだが、アメリカ訛りの英語に苦しんでいた自分はすらすら聞き取れる日本人英語とたくさんのペンギンのスライドにご機嫌だった。
夕方からは遂に氷山が現れた。昨日の夜「1st氷山時間当てコンテスト」と言うのがあってエントリーしていたのだが、僕のエントリーした時間からは5時間程ずれていて賞品のシャンペンはドイツ人のヒッピーのおじいさんの物となった。
低圧帯から少しはずれたのか夕方からは青空が広がってブリッジから綺麗な夕焼けが見えた。結局船は今晩の深夜にシェトランドに着くらしく明日の朝一番で上陸を試みるらしい。みんな何となくうれしいのか、謎娘はツアーのパンフレットを使って自分の名前と「暑中お見舞い申し上げます」という横断幕を作って、これで写真を撮ってみんなに送るのだそうだ。
ここからは天気だけがすべてだ。
2月19日 南極は日本晴れ(サウスシェトランド〜南極半島)
「なんて素晴らしい天気なんだ!」ツアーリーダーのローリーが満面の笑みを浮かべながら言った。どうやら僕たちはとてつもなくラッキーらしい。ここまで来る間ははあれだけ荒れたにも関わらず、今朝は波一つ無い完全の凪で停泊しているとTシャツで外に出て5分ぐらいなら平気と言うほどの快晴だった。ただし気温は5度。もともとここは天気のいい場所ではないらしく、こんなに楽勝で上陸できる事はそうそうないのだそうだ。
僕たちの船「МАРИЯ ЕРМОЛОВА」(マリヤ・イェルモローバ)には120人程の人数が乗っていて一度に上陸するのは無理なので全員をA、Bの2グループに分けて上陸する。Aグループの僕たちは早速ライフジャケットと長靴を装備してゾディアックに乗り込んだ。上陸するのはリビングストン島のハンナポイントといういろいろな動物が見られる所だ。
乗り込んですぐにざとう鯨を発見したのでそのまま30分ほどホエールウォッチングを楽しむことが出来てラッキーだった。小さなみぞれの浮かぶ海を鯨を追いかけてスイスイと走りまわる。暖かな太陽と凍った風が気持ちいい。そして鯨もそこそこにいよいよ岸に上陸するとそこはもう、ペンギンの洪水だった。
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ここで見られるのはヒゲペンギンとジェントーペンギンの大群に加えてたまにマカロニペンギンが居ることもあるらしいが、この日は見ることが出来なかった。元々南極にいるペンギンの種類というのはそんなに多くなくて、コウテイペンギン、アデリーペンギン、ジェントーペンギンの3種類ぐらいらしい。中でもコウテイペンギンは冬に子供を作るために通常のこういうクルーズでは極たまに迷子になったはぐれペンギンが見つかる程度でどんなに長いツアーでも見れないのだそうだ。
種類は少ないとはいうもののこれだけ数がいると感動してしまう。ジェントーペンギンは好奇心旺盛なので近寄ってもあまり逃げないしくちばしでつつかれている人もいた。ペンギンの他にはたくさんのアザラシと、フルマカモメというどちらかというとカモメよりもアルバトロスに近いという鳥の雛を見ることができた。
南フルマカモメの雛
島をあちこち歩き回るのも楽しくて、何処へ行ってもペンギンだらけだ。ただ「エコ通」気取りの白人に見当違いの注意をされたりするのがすこしウザイ。アザラシの習性で、海側(逃げ道)をふさがれると焦って突進してくるので山側の方を通っていると「近寄るんじゃない、そっちが空いているだろう」などと知ったかぶりをする。そう言う奴に限って苔をばりばり踏んだり、地面に寝ころんで「自然と一体だ」とか悦にはいりたがる。こんな奴らが鯨はカワイイから食べるなとかアホな事を言ってるのだろう。だったら牛や鶏にも牛権や鶏権があるだろうに。
それにしてもそんなことも帳消しにするほどのこの天気はもう留まることをしらない。午後からはデセプション島という古い捕鯨基地のある島へ向かった。大昔に若い南極探検の船乗りがこの島の丘の上から南極半島を発見したらしいのだが、今日はそんなところに登るまでもなく船の上から果てしなく続くレモン色半島がくっきりと見えた。これもやはり滅多に無い事らしい。
さっそく上陸するのだが、ここにはペンギンはほとんどいない。アザラシが少しいるのと古い捕鯨基地の廃墟、そして面白いのは、ここは南極探検初期の頃、イギリスとアルゼンチンが領土を既成事実化しようと数年毎に基地を破壊し有ったり、隣に大きな基地を建てたりして、アホな争いをしていたらしい。結局火山活動の激化で今はどちらの基地もなくて、飛行機の格納庫と壊れた飛行機が野ざらしになっているのが残っているぐらいだった。
捕鯨基地跡
あんまり何時間もいて楽しい場所ではなかったのだが、ここは海岸を掘ると温泉がわいているとかで、スタッフがさっそく穴掘りを始める。本当は島の反対側の方がいい温泉ポイントなのだが、大人数で移動するのは大変なのだろう。午後からはかなり気温が下がってきて、こんな所入るのはうれしがりの白人ぐらいだろうと思っていたら、なんと、たぐーさんと謎娘が服を脱ぎだした。げげっ。
二人は水着になると生温い温泉(というかぬるい水)に果敢にも入る。沖から波が来ると一気にただの水になるらしく、必死で堤防を作ってはいるがばっちり鳥肌がたっていた。預かったカメラで写真を撮ると少し引きつりながらもなかなか良い写真が撮れた。夕食時に二人のクレージーなジャパニーズガールが有名人になっていたのは言うまでも無い(笑)
2月20日 7番目の大陸(南極半島)
「私たちは本当にラッキーだ。」今朝もローリーは満面の笑みで行動予定を説明する。本当に毎年船で働いているスタッフでさえこんな天気は希なのらしい。夜中の内にサウスシェトランドから南極半島に全速力で無事たどりつき、今日は朝一番でのネコハーバーと言う小さな湾に上陸した。、そしてこの上陸は特別な意味があった。
朝食を終えると待ちきれずに装備を整えてデッキに並ぶ。またまたAグループが先なので僕は最初から2台目のゾディアックに乗り込んで流氷の浮かぶ海を走り抜けてボートを降りた。浅瀬は意外と深く長靴の上ぎりぎりまで水に浸かる。そして3歩で僕の左足は石ころだらけの海岸を踏んだ。2001年2月20日南極大陸上陸。
遂に南極大陸上陸!
小さいつぶつぶは無数のペンギン
ネコハーバーは急な25度ほどの斜面の下に幅20m程の海岸が広がっているような場所でここの主はこれ又数え切れないほどのジェントーペンギンだった。このころになると僕たちは失礼にも彼らに「雑魚ペン」というアダナをつけて「もうザコペン歩くのにじゃま!」などと彼らの株は大暴落だった。とはいうものの、よくよく観察していると一匹ずつの動きはなかなかかわいくて、僕はデジカメの特徴を生かして一瞬の表情をとらえる為にバンバン写真を撮りまくった。
ハーバーの奥にはアルゼンチンの避難小屋があって、その奥には今にも崩れそうな巨大な氷河があった。みんなで「崩れないかなー」と思って30分ほど見てたのだが、結局崩れなくて雑魚ペンと戯れてから雪原を歩いて登る事にした。遠くの岸で爆音と共に斜面を雪崩が海に向かって落ちていく。「おおー」と海岸に立ってみていたのだがしばらくすると大波が押し寄せてきて、危うくびしょぬれになるところだった。その後もあちこちから雪崩や氷河の割れる音がして、僕は久しぶりにネパールでの悪夢を思い出していた。
山の上から見る南極というのもなかなか良い物だった。そして見下ろすと改めてペンギンのとてつもない数に驚かされる。斜面で謎娘に写真撮影を頼まれた。彼女は今日も大暴れで「じゃーん」と横断幕第二段と「りす吉」というビーチボールのようなリスの人形を出して怪しげなポーズを取っていた。彼女の活躍(?)は中東、アフリカ辺りでは結構伝説になったりしているようなのだが、何となくわかるような気がした(笑)
景色を堪能してから山を下っていると、爆音がしたので振り返ると最初に崩れるのを待っていた氷河がゆっくりと崩れだした。行き場の無い力によって真っ青になった氷が海へと還ってゆく。ものすごい迫力だ。すでにパタゴニアをあちこち回った加トちゃんも「これに比べたらカラファテなんて全く行く必用無いですよー」と言うほどの物だったらしい。うん、これでカラファテは却下(笑)
連続写真「氷河の崩壊」
昼食後仲良くなった何人かでシャンペンを空けて南極上陸を祝った。午後からはパラダイスベイという同じく南極半島にある湾に上陸した。湾全体が切り立った巨大な氷河になっていて海の上にはそこから崩れた無数の流氷が浮かんでいる。ここの見所は動物ではなくこのパラダイスベイの風景らしい。
最初はしばらくゾディアックで湾に沿って氷河を見ながらクルージングをした。湾の中にはアザラシの乗った流氷があちこちにうかんでいて南極気分を盛り上げてくれる。遠くで一度少し氷河が崩れたのだが小さく見えても自然の力はものすごく、近くにいたゾディアックは波に翻弄され、僕たちの所までも大きな波がやってきた。
クルージングのあとはいよいよ放棄されたアルゼンチン基地の桟橋から上陸だ。ここもすぐ後ろが小さな山になっていて登ることができる。動物は雑魚ペンぐらいしか居なくてあまり長居しても仕方のない場所なのだが長い時間クルージングしていたので、上まで登るとけっこういい時間になった。
坂を登っていくペンギンの赤ちゃん
そしてここの目玉が救命胴衣をソリにしてこの山をすべりおりるという物で、みんなが滑る物だから山の斜面にボブスレーの溝のようなのが出来ている。僕も一発トライしてみたのだが、結構なスピードが出て途中からコントロールを失って吹っ飛んでしまった。下の方は雪がとけててズボンはびしょぬれ。全く南極まで来てなにやってんだかと思ってたら後から後から白人が奇声を上げながらすべりおりてくる。
中でもスイス人のオリバとプンタアレナスからのバスでも一緒だったノルウェー人のビヤーンはよっぽど気に入ったらしく、何度も登っては滑ったりしていた。まさか南極まで来てソリ遊びをする事になるとは。さすがに船に帰るとぐったりだったのだが、ここでビックリイベントがあった。何と乗客のカップルが南極で結婚式を上げたのだそうだ。放送がかかってデッキに出てみると、たくさんのゾディアックに付き添われて新郎と新婦が帰ってくる。ツアー会社の粋な計らいらしい。
夕食は彼らの結婚記念と南極の上陸を記念して、派手にバーベキューパーティーが行われた。さすがに走りながらのパーティーは非常識な寒さで、みんな30分ぐらいで皿をかかえて船内へと避難していった。色んな結婚式があるが、質素ながらも他に類の無い二人にとって最高の日だった事だろう。
2月21日 南極バー(南極半島〜サウスシェトランド)
今日でいよいよ南極は最後なのだが、天気はもう最後まで最高だった。ただ風が強かったため当初の予定を少し変更して午前中にプレナウ島、午後からはウクライナのヴェルナツキー基地を訪問する事になった。
プレナウ島で出迎えてくれたのは無数の雑魚ペン(ジェントーペンギン)たちだった。ただ数日前にこの島でコウテイペンギンの子供をみかけたという報告があったらしいので期待を膨らませてあちこち注意深く探す。そして30分程立ってから上陸地点の近くでキングペンギンがいるのを発見したと連絡があった。
早速駆けつけるとよく水族館にいるようなクビの長い黄色い模様の入った大きなペンギンがつっ立っていた。キングペンギンは南極に居ないはずのに何処からかはぐれてやって来たらしい。彼らの住むフォークランドやサウスジョージア諸島から何百キロも泳いでやって来たのかもしれない。
オウサマペンギン(King Penguin)
一匹しかいない人気者にみんなが集まってきた。決して規則の5m以内には入っていないのだがスタッフの何人かがヒステリックに「近寄るな」とたしなめる。僕は結構離れた関係のない場所を早足で歩いていたら、またまたエコ通気取りの白人客に文句を言われてしまった。
一体何様のつもりなんだろうと思ったのだが、相手は王様なだけに有る程度しかたないのだろう。王様ペンギンは取り囲む40人ほどを後目に伸びをしたりゆっくりと歩き回ったりした。回りにいるジェントーペンギンは大きさも手伝ってまさに集団の人民ペンギンといった感じだった。(笑)
この辺りでは滅多に見れないキングペンギンを見た後はいよいよ今日の目玉の氷山クルーズ。大小の無数の氷山が浮かぶ海の上を飛ばし屋ゾディアックドライバーのペドロは絶妙の舵裁きでぶつかる寸前で見事にかわしていく。他のドライバーよりも腕が確かなのだが楽勝な所は船外機に腰をかけて太ももで舵を操ったり、さすがラテンというかなかなか乗りのいいにーちゃんだった。
今日も氷山の上にはたくさんのアザラシが乗っていた。それだけ天気がいいという事だろう。青い氷山の表面が溶けてつやつやと光を反射する。そしてアーケードのようにせり出した部分から解けた水がぽたぽた波一つ無い海に模様をつける。無数の氷の写真を撮ってから昼前に船に到着した。
氷山の上でお昼寝
午後からはウクライナのヴェルナツキー基地をたずねた。ここは南極から郵便が出せるというのがウリなのだが、ウクライナなのに何故だか支払いはすべて米ドルだった。最初にイギリスの古い観測所跡をたずねた。中にはキッチンやいくつかの二段ベッド、そしてスキーなどの装備品が当時そのままに展示してあった。
一方ヴェルナツキー基地の方は数年前にウクライナがイギリスから譲り受けた物らしく、改装されたのかなかなか近代的な建物だった。まず最初に医務室や無線室に案内された。無線室には他の国の多くが持っているようにアマチュア無線の設備があった。隊員の数少ない娯楽の一つなのだろう。案内してくれた人もアマチュア無線家らしく、僕も以前少しやっていたのでつい話が弾んで、いろいろ作りかけのアンプを見せてもらったり、帰りに名刺代わりのカードにサインをしてくれた。
見学が終わったあとは基地の二階にある食堂兼バーに通される。ここでは基地の営業活動の一環として郵便を出したりお酒を飲めたりする。勿論おみやげ物やも。英語の話せない作業員が即席郵便局員となるので、なかなか手際が悪く大行列になっていた。僕は6枚ほどのカードを出すだけだったのだが、江戸っ娘は何と40枚以上書いたらしく、半泣きで切手を貼っていたので半分ほど手伝って上げた。
基地を出ると世界の各都市までの方向と距離を示すモニュメントみたいなのが建っていた。この島自体は動物が一切見れなくて最後の上陸にしてはなんだか物足りないものだったが、結局3日間快晴だったのでこの9日間の短いツアーでも思う存分南極を満喫することができた。運悪く11日のツアーに申し込めなかった事が、最高の南極ツアーにつながっているのだから、結果オーライという所だろう。
ウクライナのヴェルナツキー基地
船に帰ると早速ゾディアックを甲板に固定して帰り支度が始まった。何でもでっかいハリケーンが二発も近づいてきているらしい。船はまさに逃げるように北へと進路を取った。途中海峡を通ったのだが、相変わらず泳いでいるペンギンやアザラシはいて、見事な雪山を見ながら南極に別れを惜しんだ。夕食が終わった頃には再び船は行きと同じ様に巨大な波に翻弄されていた。
海峡を抜けていよいよドレークパッセージへ
2月22日 逃走(サウスシェトランド〜ウシュアイア)
まさに大揺れ、ブリッジに行ってきたという謎娘によると、沈没するんじゃ?と言うほどの揺れ方だったらしい。僕は少しでも気分が悪くなるのがいやだったので、ご飯以外はだいたいベッドでゴロゴロしていた。唯一日本から持ってきて一粒だけ残っていた「アネロン」という強力良い止めを飲んだらそのせいかまる20時間ほど快適に熟睡する事ができた。
このころになると船の中もほぼ全員が顔見知りでしゃべった事がなくても何となく挨拶をかわしたりするようになる。バックパッカーの間では「日本人宿問題」というのがたまに議題に上がる。日本人宿はおもしろい日本人にたくさん会えて快適な反面、せっかく外国に居て日本人ばかりとつき合うのはどうか?とかそういう議論だ。
中にはそう言うのを毛嫌いしたりバカにしたりする人もいて、長期旅行における日本人とのつき合い方についてはみんなが何かしら思い考えながら旅をしてるのだとおもう。僕もそうなのだが今回のこの南極ツアーで何となく答えが見つかったような気がした。ここであった旅人達はこんな所くんだりまで来る好き者なのもあってか、日本人だけで集まっていてもどんどんそれにそれぞれの知り合いの色んな国の人達が加わって輪が大きくなって、あっというまにその知り合い同士もみんな友達という理想的な形になった。
特に江戸っ娘なんかは英語は中学生レベルで基本的には日本人の輪の中にいるのに、何度か顔を合わせると無理矢理彼らをその輪の中に連れてきてすぐに友達になってしまう。結局通訳をしている僕もすぐに彼らと仲良くなれて、どんどん友達の輪が広がっていく。
比較的人種の垣根の克服に成功したアメリカ人とカナダ人が乗客の中心だった事もあるだろうが、結局は日本人と一緒に旅をしようが、ロンリープラネット宿で日本人を避けながら旅をしようが、旅は自分の行きたい方向にただ進んでいくという事だろう。
そんなことを考えてながら大揺れの一日が過ぎていった。
2月23日 ホーン岬に行けなかった(〜ウシュアイア)
朝一番に現状の報告があった。どうやら船は大波を避けるためにフォークランド方面に迂回して迅速にハリケーンの影響下を脱出したらしい。キャプテンの迅速な判断のおかげらしく、他のもっと大きな高性能の船何隻かはいまだにドレーク海峡の大波に翻弄されているらしい。
しかし波と遠回りのせいで船は大幅に遅れるらしく、楽しみにしていたホーン岬には寄らずそのままウシュアイアを目指すことに決まったらしい。とはいうもののそれでもパックツアーの人達は絶対に飛行機に間に合わないそうで、スタッフは朝からその手配い追われていた。
ハリケーンを抜けても揺れは通常のドレーク海峡の揺れになっただけで、時々椅子が滑っていく程揺れる。ビヤーンはバイキングの子孫のくせに全く船がだめらしく、南極以来一度もベッドから起きてこない。お見舞いに行ってみたのだがちょっとのびでいた。
僕はというと大揺れの中でもほぼ完全に大丈夫になったので、船備え付けの懐かしのボードゲームなんかをして遊んでいた。船酔いというのは特にアジア人は弱いらしく、フィリピン人なんかは船員でも荒れると気分が悪くなってしまうらしい。そして強いのはダントツに白人の老人だった。
さすがに夕方になるとだいぶ揺れも収まってきて、みんなで写真を撮ったりアドレスを交換したりして盛り上がった。
朝起きると完全に揺れが停まっていた。どうやらビーグル水道に戻ってきたらしい。もうゴールは間近で8時頃にパイロットが乗り込んできた。とはいうものの予定では昨日の夜10時にここを通る予定だったので半日遅れている事になる。
結局飛行機の乗り継ぎの方は、ブエノスアイレスからアメリカへの便に連絡できないために一泊遅くなるらしい。だからツアーで来ていた日本人夫婦は日本に帰るチケットの変更に奔走していた。
船が遅れたのだが同じ船が夕方に出航する為、次の乗客の為に清掃をするのだとかで、僕たちは朝9時には客室を空けないといけなかった。ツアー客は部屋の前に、バックパッカーは自分でかついでデッキに荷物をあつめる。朝食を食べてデッキでくつろいでいると世界最南端の村プエルトウィリアムスが見えてきた。
結局行き帰りのドレーク海峡が大荒れだった以外は完璧な天候だった。港に着いて税関審査が終わると一斉に下船が始まる。スタッフが岸壁に整列して握手で見送ってくれる。特にカナダ人スタッフはみんなフレンドリーで楽しい人達だった。特にリーダーのローリーはカフェで日本人がくつろいでいると一緒に輪に入ってくれて、彼が探検した南極や北極についてのいろいろな話を聞かせてくれた。
ルリコさんも日本人希望者には連絡事項などをちゃんと後で日本語で説明してくれたり、いろんな鳥の日本名、英語名や習性なんかを教えてくれてよりツアーが楽しめた。ちょっとながめのお別れをした後インターネットカフェでメールを受信してから住み慣れた上野邸に戻ってドラム缶風呂につかった。
風呂上がりにビールを飲みながら楽しかった南極ツアーを振り返った。みなさんおつかれさま
2月25日 今後の予定(ウシュアイア)
一晩明けて僕はいろいろと今後の旅について計画を練り始めた。やく1ヶ月ぶりにバックパック旅行を再開するのだが、何となくおっくうな気もする。いかんいかん、そんなことでは。僕は上野本邸に行って挨拶をしてからチケットオフィスが開くのをまってポルベニールまでのチケットを購入した。
街を歩いても見なれた顔がごろごろしている。ここウシュアイアから脱出するバスというのは何故かチリのプンタアレナス行きの物以外は一切無い。そしてそのバスも火曜まで満席という事でけっこうな人が足止めを喰っている。僕はもともとポルベニールを一目見たかったので、当初の予定通りポルベニール経由の火曜日のチケットを手に入れる事が出来たのだが、このバスが朝5時発というとんでもなく早い時間なために空席がたくさんあるのだそうだ。ラッキー。
夜は田中さんと謎娘に歩き方を借りて、日本人特有の情報(日本人会館、日系移民入植地、日本食など)の情報をノートに書き写していく。それが終わってから謎娘の北朝鮮へ行った時の旅話なんかを聞いていたのだが、はやり彼女は北朝鮮でも大暴れしてきたらしい(笑)
何でも政府高官に「あのさー、日本人拉致るのやめてくんない?」と発言して、同行者を凍り付かせたとか、、、あと自分のニコちゃんバッジと役人の階級バッジを強引に交換してもらってきたらしい。まだまだ聞けば凄い話がゴロゴロとでてきそうだ。
世の中には色んな旅人がいるもんだ。僕も統一される前に一度冷やかしで見に行ってみたくなってしまった(笑)
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