このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
何たってこんなに出発が早いんだ?と思っていたら、ここからウシュアイアまで何と14時間の道のりらしい。だから今日は6時には起きて、静かに部屋を抜け出してリビングで荷物のパッキングと朝食を済ませた。しばらくすると昨日会ったフランス人の女の子も同じバスに乗るらしく、僕の隣でパッキングをするのだが、チビTを着たままかがんでリュックに荷物を詰めるので、背中とおなかが丸見えでですこしドキドキしてしまった(笑)
バスは定刻通り出発して街を後にするとそこはもう最果て特有の湿原や小さな低木がたくさん見えた。やがて道路も未舗装になって、海だ!と思ったら港のような所に到着した。どうやらここが噂のマゼラン海峡らしい。外に出ると猛烈な風だ。腕を広げると対岸までとんでいけるんじゃ無いかと思うほど。たまらないのでカフェのような所に逃げ込む。
マゼラン海峡はこの風のせいかまるで川のように流れているようにみえて、向こうからやってくるフェリーも船首を45度ぐらい風上に向けて斜めに進んでくる。「大丈夫かいな?」と思っていたらこれが大丈夫じゃなくて、右往左往して結局接岸するのに30分ぐらいかかったので、僕は近くにあった灯台やモニュメントを見ながら辺りを散歩して時間をつぶした。空は南半球特有の突き抜けるような青さだった。
船に乗り込んで海峡を渡るとそこはフエゴ島、そしてしばらく走るとチリ側の国境に到着した。バスの乗客全員が手続きするのに窓口は一つしかなくて結構な時間がかかる。まあ普段は散発的に乗用車が来るだけだから問題は無いのだろう。国境事務所の回りは20軒ほどの集落になっていた。店も無くなんでこんな所に住んでいるのか少し謎だったが、子供は元気に走りまわっていて、言葉が通じないなりにも僕たちの到着を歓迎してくれた。
チリ側からアルゼンチン側のイミグレーションのあるサンセバスチャンまでは丘を一つ越えるような感じで結構な距離だった。こちらのイミグレもやはり窓口が少なく大混雑になってしまう。職員もぶっきらぼうであまり良い印象を受けなかったのだが、何故か僕の番の時は「おお、ハポネスか? ハッポン ハッポン」と上機嫌でポンとスタンプを押してくれた。ただし滞在許可は30日だった。
僕の買ったチケットはリオグランデで乗り換えする事になっていたのだが、これは大失敗だった。二つのバス会社のジョイントチケットなのだが、バスがリオグランデに着くとウシュアイア行きのバスは山ほどあって、すぐ出発するのがあるにもかかわらず、僕はここで2時間半もつぶさなければいけなかった。仕方ないので、件のチビTフランス人と中国系アメリカ人、そしてフランス語圏のカナダ人と即席グループで食事に行った。
入ったレストランは「ええ????」と思うほどの値段だ。チビTフランス人はあまりの高さにサラダを頼んだのだが、サラダは売り切れという事で泣く泣くサンドイッチを頼んでいた。僕は$6.5のラザニアを頼んだのだが、量が莫大なだけで味の方は全然ダメだった。これはもうアルゼンチンではすべて自炊するしかない。
ここで他の三人は何故だか宿の手配をしてるらしい。まあバスの到着が夜の11時なので宿を決めておきたかったのだろう。僕はと言えばいつもの調子だったのだが、プンタアレナスの宿で会った日本人に「上野邸」とよばれる日本人宿(と言うよりはホームステイ)を紹介してもらったのでそこに電話を入れてみると、車でバスターミナルまで迎えに来てくれるというのでお願いする事にした。
リオグランデからウシュアイアまでの風景は素晴らしかった。リオグランデを出発すると街の名前の由来にもなった、大きな川が見えてくる。湿地に低木という世界の果て特有の風景で、所々でリャマがのんびりと草を食べている。極に近いせいかこのあたりは夜の10時になってもまだまだ明るい。11時前にやっと真っ暗になったと思うと急に目の前に光の海が見えた。それは予想を遙かに上回る規模で少し驚いたのだがどうやらウシュアイアの街に到着したらしい。
バスを降りると一人のおじいさんに「ちょっと遅れたなあ、あんた一人かえ?」と声をかけられた。上野さんだ。上野さんはもう80才を越えていて、30年以上も前にアルゼンチンに移住いてきてウシュアイアにはもう20年も住んでいるらしい。まず最初に上野さんの本宅に連れていってくれて、元気な奥さんが「おなか空いたでしょう?」とハヤシライスを食べさせてくれた。そして話をしていると、何と上野さんは日本にいた頃、僕の行っていた大学で事務局長をしていたらしい。家も神戸なのだそうだ。
地元の話で盛り上がったあと旅行者に解放しているという山の上の別宅に案内してもらった。宿にはちょっと有名なランドクルーザーで世界一周中の「田中夫妻」や、僕がのーさんから紹介してもらったライダーの「青山さん」そして釣り師兼料理人で長期滞在の「太公望氏」が居ただけで、僕は一部屋を丸ごと一人で使う事が出来る上、ここにはドラム缶で作った風呂があって24時間熱いお湯につかれるという、それはもう至れり尽くせりの宿だった。これで一泊$10。宿選びは大成功でまずまずのスタートだ。
灯台とマゼラン海峡
朝から早速街に出て南極ツアー探しだ。ラッキーな事に田中さんが街に行く用事があるというので近くまで乗せていってもらった。海沿いを走るとビーグル水道の向こうに雪をかぶった山が見える。振り返るとウシュアイアの裏山も昨日の雪でまるでスキー場のように完全に雪に覆われている。たしか今って夏だったよな?
一番最初に向かった、ANTALTURという代理店は休みだったので、イスタンブールで酒のみねーちゃんに教えてもらった、RUMBO SURという所へ行ってみると、何と次の安い南極ツアーは16日にしか無いのだそうだ。しかもそれは9日間の短いツアーで15日以上のものはもう今年は2月末にある20日間のものしかなく、これは$5000もするのでちょっと手が出ない。
他にもALL PATAGONIAともう一軒名前は忘れたけど回ってみたのだが、やはり卸元が同じなので全部同じ様な内容のツアーだった。情報を整理するために観光案内所へ行ってウシュアイアの港の入出港のスケジュール表をもらってきた。これは単に船の名前、出航日と行き先が書いてあるだけのものなのだが、それに代理店で聞いた値段と出発日をかき込んでいくと大体南極ツアーの概要が見えてきた。
なんと僕が着く前の日に15日間、$2500のツアーが出発してしまったらしい。これは痛恨の一撃だ。これはもう長いツアーはあきらめざるをえない。明日出発のものは9日間で$3000もするし、9日に出発の10日間のツアーは$2500だった。結局僕はまだラストミニッツには売り出されていない18日出発の11日間の$1600のツアーを第一候補に他の可能性を探ることにした。
やっぱり南極ツアーのシーズンは1月で、2月にはいると世界一周クルージングの船や完全に団体貸し切りの船が増えてきてなかなかツアー探しは難しいようだ。こんな所で2週間足止めは痛いけど、上野邸の居心地が予想外によかったのともうひとつ僕はここで頭を冷やしながらゆっくりと考えたいことがあったので、2週間ほどここでダラダラ過ごすのもいいかなと思った。
ちょっと重い足取りで街を後にして歩いて帰ってきたのだが、途中のスーパーで食材を買いすぎて丘を登りきって上野邸に戻ったときにはもうへとへとになってしまった。コレクティーボに乗れば良い話なのだが、ここはアルゼンチンなので片道で$1もするのは結構痛いのだ。
夜は青山さんに頼んでCD-Rドライブを借りて懸案だったパソコンのバックアップを取った。作業は至ってスムーズでドライバーとソフトをインストールすると一発でCDを認識した。さすがソニー製同士なので相性もばっちりだ。旅が始まってからの写真全部と、僕がインターネットを初めてからほぼ全部のメール、そしてホームページのデータを全部入れてちょうど600MB程だった。もちろんメールは僕が不慮の事故で死んだ時に僕の生前の悪事の数々(笑)がばれないように、パスワードをかけてZIP圧縮したのは言うまでもない。
夜は風呂に浸かってからスーパーで買った$1のワインを飲んでいるといつの間にか軽く一本空けてしまい、あっという間に2時になってしまった。この調子だと意外と2週間ぐらいあっという間に過ぎるかもしれない。
今日は久しぶりのだらだらとした日曜日だった。寝坊してから朝飯やら昼飯やらよくわからないのを食べて、それから田中さんの車で買い物。
昼からは何故だか麻雀をしようと言う話になってしまった。麻雀なんて何年ぶりだろう?数えてみるともう15年ぶりぐらいじゃないかと思う。役やルールも少し忘れていたが少しやると思い出してきた。これでも中学から高校1年ぐらいにかけては、友人の間ではけっこう負け知らずだったのだ。麻雀が終わると僕は日記を書いたりして、他の人はあちこち出かけているようだった。
今日は青山さんが自転車を買ってきた。何でも青山さんは雑誌に記事を書いていて原稿料も出るらしく、上野さんに取材の恩返しという訳で寄付するらしい。これは街に行くのに大助かりだ。
夜は個人個人がバラバラに夕食を着くって食べるのだが、お酒を飲むのはみんな同じなので、知らない間に酒盛りになってしまう。酒が進むとどんどん面白い話題が飛び出して楽しい。結局頭痛がするほどワインを飲んでからベッドに寝ころぶと、少し天井がゆらゆらしていた。
週が明けた。とりあえず天気も悪いし昼から田中さんが街へ行くというので一緒に連れていってもらうことにした。勿論南極ツアーを探すためだ。
港辺りで下ろしてもらって雪で覆われた山々や停泊しているヨットなんかをみながら海沿いを歩いていると向こうから笑顔の白人の女の子がやってくる。はて?と思ったらこの前のチビT娘だった。チビT娘はプンタアレナスで会った時に「南極行きたいのー」と言っていたのだが、もう早速僕が第3候補にしていた、16日出発のツアーに申し込んだらしい。二人で「2週間も何しようかねー?」と笑いあったあと、僕はこの前閉まっていたAntalsurに行ってみたのだが、やっぱり閉まっていた。
仕方が無いのでインターネット屋のマシンに自動販売機の様に$1入れてメールをフロッピーに落として持って帰ってくる。FTPも立ち上げてみたのだが上手くつながったのでこれでウシュアイアでのインターネットは問題無さそうだ。この辺りの国はフロッピーが当たり前のように使えるのがうれしい。インターネットのあと街を歩き回るのだが、この街は昼休みが12〜16時ととてつもなく長くてどうしようもないのでスーパーで買い物をして宿に帰る事にした。
肉以外の物価は大体日本並だった。スーパーで買い物をしていると偶然田中さんに出会って帰りも乗せて貰えて大ラッキーなのだが、それに加えて今日は上野さんが田中奥さんの誕生日祝いをやるという事で僕も招待されてしまった。
まだまだ陽も高い夜8時頃上野本宅に到着すると鍋がぐつぐつ煮えていた。中身はなんと「カニ」。豪華絢爛(自分にはそう見える)なカニ鍋にアフリカ帰りの僕は倒れてしまいそうなぐらい感動してしまった。はふはふ。バキバキ足を割って食べる。チリで食べたのとちがって本格的なタラバなので身もたっぷりだ。そしてカニ鍋、雑炊を平らげてからいよいよケーキの登場。
上野さんが用意した「63」の形をしたろうそくに火を付けると先っぽが花火になっていてぱちぱちと火花が飛ぶ。田中奥さんが吹き消そうにも消えないというオチも着いたのだが、最後は見事に吹き消してケーキカット。
ここで田中夫妻につてい紹介して置かなくてはならないのだが、夫妻は共に60台で、現在5年間の予定でランドクルーザー45とよばれる結構珍しい車で世界を一周をしている。こう書くといかにも若い頃からならした冒険野郎のような気がするが、話をしてみると二人とも柔らかな人柄で、奥さんは日本昔話のおばあさん役の人に声が少し似ていて、とてもやさし感じ。旦那さんの方もドラマ「深夜特急97」で大沢たかおが一緒に旅をしていたおじさんのような雰囲気の人で、こう言うと失礼だが「うちの両親の方がまだしっかりしてるんじゃ?」と思うほど普通の人だ。
逆にごくふつうのおじさん、おばさんが外の世界に興味をもって車を船で海外に送って5年にも渡る旅をしてしまう。誰もがやりたくてやらない事を「面白そう」「やりたいから」と普通にやってしまう。当然二人の旅立ちは快挙としてオフロード雑誌や新聞なんかに紹介されたりしているのだが、お二人とも気負った様子は全くなく自然体で旅を続けているようだった。
奥さんとの会話で出てきた「人間歳を取るとどんどん気力、体力が衰えてくる。そういったものを少しお金を使って補ってやると私たちのようにこんな旅をする事は十分可能なのよ。」というのはなかなかの名言だと思う。奥さんもそうだが、上野さんも80を過ぎているとは思えない。体力は落ちているかもしれないが、気力はみなぎっていると言う気がした。
誕生会は遅くまで続いて結局上野さんの本宅を後にしたときには時計は1時を回っていた。
朝起きると見なれない茶髪の二人組が食堂に座っていた。どうやら今朝南極ツアーから帰ってきたのらしい。二人はなんだかこう言っては頼りなげだ。まず最初の質問が「生命保険と海外旅行保険はどうちがうんですか?」とかいうものなのも驚いたが、チリの汐見荘では「領事館って何することろですか?」とかいう質問で宿泊者を恐怖のどん底へ陥れたらしい。そしてもっと驚いたのが、今のバイクはここに送るまで一度も乗ったことがなくて、キャリアとか装備品はだいたいこっちでそろえたらしい。
でもかれらの本当に凄いのは「なんとかなるだろう」と思って恐ろしくいい加減な準備でやってきて、何とかしてしまうところだろう。まだ若いのもあるが、すぐに現地に友達をつくって、たった3ヶ月いるだけでもうけっこう近所の子供とスペイン語を話していた。
英語の方は全然ダメらしく、南極ツアーもすべて英語なので、最終日なんて朝の上陸の事を知らなくて、目が覚めたらみんながボートで帰ってくるので「やられた!」と思ったらしい(笑)何はともあれ、宿が賑やかになるのはうれしいことだ。
今日はその他に特にイベント無し。一日中ゴロゴロしたり、$1のワインを飲んで酔っぱらっていたような気がする。
茶髪ライダー
(しっかりしている方)
今日も寝坊だ。というかここは夜遅くまで明るいので単に夜型にシフトしてしまうだけといえばそうなのだが、とにかく目が覚めたらもう10時を回っていた。
朝食を食べていると、田中夫妻が「良かったら今から国立公園行くので一緒にどうですか?」と誘って下さったので一緒に行くことにした。国立公園には前から行きたかったのだが、25キロほどあるので自転車ではつらいし、バスだと片道$10もしてしまうらしい。これは本当にありがたい。
まず最初に向かったのは、国立公園から少し手前のキャンプ場。ここからミニ鉄道で森の中を通って国立公園まで行けるらしい。僕たちは適当に写真を撮ってから愛車のランドクルーザー45に揺られて国立公園へと向かった。途中で白人のヒッチハイカーが居て「どうする?」という話になったのだが、僕が「言葉なら大丈夫ですから」と行って乗せてあげると彼らはアルゼンチン人だった。勿論スペイン語なんて僕は話せない(笑)
公園のゲートで一人$5を払っていざ国道3号線の終点に向かう。ここは遥かアラスカまで続くパンアメリカンハイウェイの起点という事になるのだが、その看板には「ブエノスアイレスまで3063Km、アラスカまで17848Km」と書かれていた。途方もない距離だ。
道路の終点は駐車場と入り江があるぐらいで見所はそんなに無いのだが、田中奥さんが「あらあら、ムール貝よ」と波打ち際に無数のムール貝を発見して袋に入れて持って帰ろうとしたら、公園のレンジャーに怒られた(笑)「まずここは国立公園だから動植物を持ち出しちゃだめ。それにここは赤潮があるから、あなたたちそんなの食べたら死んじゃうわよ」と。貝を海に帰してから僕たちは道の終わりを後にした。
その後は無人島に渡る船乗り場と大きな池に立ち寄って景色を眺めてからウシュアイアに戻った。ちょっとトレッキングがしたかったのだが、それはまた機会があれば自力で行こうと思う。船乗り場の郵便局で何故かパスポートにスタンプを押してくれた。スタンプには「Fin del Mundo」(世界の終わり)と書かれていた。
宿に戻って軽く食事をしてからいつものように青山号(自転車)で街に向かうのだが今日も南極ツアーの方は進展が無かった。はやり18日出発のツアーはまだラストミニッツには解放されていないのらしい。代わり映えしない毎日だが、宿に戻ると青山さんが「いやあ、出発延期しました。」とかいって笑っていた。明日出るはずだったのだが、なんでも同じようにホームページを作りながら旅をしている知り合いの女の子が明日あたりウシュアイアに来るらしい。
僕はというと「いやあ、カワイかったら出発できませんねえ(笑)」と好き勝手な事を言いながらワインを空け、今日も夜が更けていくのだった。
END OF THE ROAD
今日は朝から茶髪ライダー二人が出発するというので早めに起きて見送ろうとしたら相変わらずの調子で、出発直前にバッグとキャリアを止めるボルトが合わないとかで上野さんを巻き込んでてんやわんやしていた。結局上野さんがネジを買いに行ってパッキングが終了したときにはもう昼を過ぎていた。
パッキング中に近所のセニョリータ二(8才ぐらい?)が遊んで欲しいらしくやってきた。茶髪ライダーが写真をとってあげると喜んでいたので僕も秘密兵器のデジカメを出して撮った写真を見せてあげるとセニョリータ達は驚喜してしまった。それから大撮影大会が始まって、しまいには「私が撮るの」とか言い出してメモりがいっぱいになるまで写真を撮りまくっていた。最後の方はもう完全に僕のデジカメを使いこなしていた。さすが子供だ。
昼過ぎに二人はあわただしく去っていった。そして僕はというといつものように自転車でセントロまで行って18日のツアーの確認にいくが、やっぱりまだ発売されてないらしい。困った。仕方がないので街をうろうろしていると、雪焼けなのか洗ってないだけなのか、ボロボロの顔をした日本人に「プエルトウィリアムスに行きませんか?」と声をかけられた。
何でも彼らはヨットをヒッチしたのだが、人数が増えれば増えるほど一人頭安くなるので今必死で人数を集めているらしい。僕は興味はあったのだが、残念ながら南極が優先なので断って宿に戻ることにした。宿に戻ると青山さんの知人のセニョリータは来ていなくて、どうやらセントロの方に泊まっているらしい。別にいいのだが、ここの所宿のメンバーも入れ替わりが全くなく、密かに新しい旅人の話を聞く事を楽しみにしてたので少しガッカリしたが「太公望氏」が釣ってきた鱒で寿司を作ってくれる事になった。
さすがにプロの料理人だけあって見事にさばいていく。ふつう鱒は寄生虫がいるので酢でしめたりするのだが、ここフエゴ島の鱒は上野さんが何十年も食べ続けて生でも大丈夫な事がわかっているのでそのままにぎりにしてくれた。生の鱒は「サーモンだ」と言われても全くわからないようなオレンジ色で味の方も日本で食べる寿司よりも更に美味しかった。
隣の家のセニョリータ達
その指はやめなさいってば。
今日は9日間$2500のツアーの出発日なので念のため港と旅行会社に行って投げ売りされてないか調べに行ったのだが、結局値段は同じままなのらしい。たしかに一度そう言う事をすると来年からみんなそれを狙うようになるので、よっぽど集団食中毒で団体がキャンセルしたりしない限りラストミニッツ以上の投げ売りはしないらしい。これで僕の選択肢は16日発9日間か18日発11日間の二つになってしまった。
宿に帰って昼飯をたべてから部屋でゴロゴロしていると女の子の話し声が聞こえたので食堂にいってみると、件のセニョリータが遊びに来ていた。思っていたよりも元気一杯だなあと思っていたら、中米を回ったあと一度帰国して、今回はまだ出発したばかりらしい。しばらくしゃべったあと青山さんがバイクで送っていった。
僕はまたぽっかりと時間があいたので書かなくてはいけないメールを書いてから、暇なくせにため込んでいた日記を書き始めた。相変わらず天気は安定せずに曇った空を見ていると何だか滅入ってくる。天気が悪いだけで「オレの人生考え直した方がいいな」などと思考がディープへと落ち込んで行く。ま、船が無いのは誰のせいでもないし、自分がこんな風なのは自分の責任だし、そんなことを考えながら夜が更けていった。
日々の日課の旅行会社詣で。もうルンボスール(旅行会社)のお姉さんにも完全に顔を覚えられてしまった。僕の顔をみるなり「あらら、まだ出てないのよね、また明日来て」と。仕方がないのでインターネットカフェで昨日書き上げたメールとホームページの更新。
普段ならおなじみのメンバーからのメールが主なのだが、今日は何でも「大学でセルビア語を習っていて、旧ユーゴを旅行するときに僕の旅行記が役に立ったからお礼を言いたい」という大学生と、僕が旅に出て初めて出来た友達(ニュージーランド行きの飛行機で出会った女子高生)からも来ていた。大学2年生になったらしく、今度NGOのサークルに入ってフィリピンにいくそうだ。
いつものように宿に戻って部屋でゴロゴロしていると、青山さんが夕食を誘ってくれた。なんでも今晩はここで件のセニョリータと一緒に夕食を作る約束をしたらしい。僕は「ちょっとおじゃまかな?(笑)」と思いつつもせっかくなので混ぜてもらうことにした。
メニューは鶏の丸焼き。僕も青山さんもオーブンで鶏を焼くのは人生で初めての経験だ。僕が昼飯に作った、同じく人生で初めての「肉団子inなんちゃってミネストローネ」の残りをおつまみにワインを飲みながら調理に取りかかる。僕の「作品」は美味しいと結構好評だった。自分で言うのもアレだがなかなかのデキだ。僕の料理の師匠の「夕子」にも食べてもらいたかったが、それはかなわない事だった。
一方チキンの方はというと最初は「オーブンってどうやって火を付けるんだよ?」とか全く手順がわからなくてどうなるかと思ったのだが、焼く段を変えたり試行錯誤の末何とか鶏の丸焼きが完成した。早速の試食。セニョリータが日本から持ってきた「おこわの素」を使って作ったおこわとチキンのハーモニーが云々。とにかくこっちの方もなかなかの出来だった。
食後は旅談義&リアルタイム旅行記制作談義などで12時前ぐらいまで盛り上がってしまった。楽しい一日だったが、明日からは青山さんが出ていってしまうのでまた退屈な日常に戻りそうだ。
鶏の丸焼き完成
昨日もたらふくワインを飲んだので軽い頭痛とのどの乾きでで目が覚める。しばらくすると青山さんが荷物をまとめて部屋から出てきた。彼はさすがに茶髪ライダー達とはちがい手慣れたもので、てきぱきと荷物を積んでいく。10時少し前に単気筒の小気味良いサウンドを残して彼は走り去っていった。
本格的に暇になってしまった。昨日のチキンがオーブンに残っていたのでフィニッシュしてしまうことにした。一人で冷えたチキンを温めていると何だか滅入ってくる。人の心とかそういったものもオーブンで簡単に温めなおせたらいいのに。
午後からは昼寝。あー寝た寝た。夕方6時頃にキッチンに行くと田中夫妻に「あら帰ってたの?」と言われてしまったが、今日は犬に残飯をあげた以外には一歩も外に出ていない。夕食は余ったミンチを使ってミートソースを作ったらこれがなかなか最高の出来だった。でも僕には食べてもらう相手がいないのだった。
2月12日 しゃぶしゃぶ(ウシュアイア)
昨日の夜遅くに上野さんが卒業旅行の大学生を連れてきた。その時に「明日1時から田中さんの壮行会をやるから」と言うことでまたまたタダ飯が食える事になった。ラッキー。そうと決まれば午前中にいつもの日課の旅行会社めぐりに出かける。
件のセニョリータ(以降「たぐーさん」)の泊まっている通称「$8のとこ」と呼ばれているヒルダ・サンチェスという宿に立ち寄ったら宿のセニョーラはやたら陽気で、外来者の僕は偉い歓迎されてしまった。その後旅行会社に行っておねーさんに「18日のやつまだ?」といつもの質問をすると、なんと「18日のは結局ラストミニッツに出ないかもしれないから、16日の方をおすすめするわ」というショックな話を聞いてしまった。一昨日聞いた時には「16日のはもう4人キャビンが無い」とか言っていたのでこれは痛い。
一方たぐーさんは金曜に16日の予約をしていたので確認すると、一番下の4人キャビンクラスクラスにぎりぎり席を確保出来たらしい。たぐーさんが最後の1つだと言っていたのだが、男部屋の方は聞いてみないとわからないというので僕は16日出発の4人部屋を確認してもらって、もし空いていれば18日のはあきらめる事にした。このまま待ち続けてもいつ南極に行けるかわからないし、この辺が妥協のしどころだろう。期待せずに夕方また返事を聞きに来ることで話がついた。
上野さんの家に行くには少し早すぎるし、青山さんの遺言(笑)で「たぐーさんのマシンのLANカードがうまく認識しないから見てあげて」と言われていたので押し掛けセットアップ。マシンはVAIO505の新しい奴でi-Linkなんかも着いているしHDDが6.4Gというのがうらやましすぎる。曲がりなりにも技術者の端くれだったので、問題は簡単に解決して、その後MP3でユーミンなんかを鑑賞してから上野本邸に向かった。
ここで僕は大きなミスをしてしまった。何と迷子(笑)。前に来たときには上野さんの車で連れていってもらったので距離感覚がつかめなくてそれらしいストリートにたどり着いたのだがいくら進んでも無いので引き返したりして本当に迷ってしまった。仕方がないので近所のおばちゃんに聞いてみた。
「ペルミソ!」「?」「ドンデ エスタ ハビタシオン デ セニョールウエノ ハポネス」知ってる限りの単語を寄せ集めたインチキスペイン語だ。そして答えは「○△@☆%£¢□▽♀∞¥$℃!!」まったくわからん(笑)。「あっち」とかいう答えを期待していたのだが、、、そしてしばらく聞いて着ると「二人の日本人の老夫婦か?」という様な事を聞いているような気がしたので、「Si Si」と適当に返事をすると通りを指さして「ずっとここまっすぐ」と教えてくれた。やっぱり距離感覚が狂っていただけで通りは正しかった。
上野さんの家に到着すると「太公望氏」が包丁をふるっていた。彼が調理するとなると本当に料亭で出てくるような鍋が食べれるのでこれは期待できる。僕は調理を待っている間上野本邸にある膨大な工具を駆使して最近かなり調子の悪いノートパソコンの修理に取りかかることにした。
もちろん修理といっても、大工道具だけではマザーボードなど電気系を修理する事はできない。やったのは最近打ってるだけでぽろぽろ外れてしまうだけのキーボードの修理とアフリカのバスで飛んでしまったネジをジャンク箱の中から探して取り付ける、そして折れたACアダプタ端子を瞬間接着剤で固定。そんなものなのだが、こういう場所が無いと出来ない事なのでありがたい。
その後は上野さんに頼まれて本家にあるパソコンをさわっているとそのうち調理が完了した。本格的な魚と牛のしゃぶしゃぶだ。驚いたのはしゃぶしゃぶと言うのは決して鍋を沸騰させてはいけないのだそうだ。たしかにあんな薄い肉を熱湯に漬けたら味もふっとんでしまう。沸騰しない程度の絶妙な火加減で食べる魚&肉は最高だった。しかも野菜も下ゆでしてあるからアクも出ないし。さすがプロの料理人だ。浴びるほどワインをごちそうになって上野さんの移民話や戦争話を聞いたりしていると6時を過ぎたので、お先に失礼して一人そのまま旅行会社へと向かった。
旅行会社に着くとさっそくお姉さんが電話で確認してくれて「あなた、最後の一つに予約がはいったわよ」とうれしそうに教えてくれた。と言うことは$1600で南極に行けると言うことで、妥協はしたもののまあこの辺りが手の打ち所だろう。その場でお金を払ってチケットをもらった。支払いはクレジットカードでもトラベラーズチェックでも出来たのだが、最近円が安くなってるらしいので全額TCで払うことにした。
なんだかんだ難航したけど、これで南極ツアーも決まってすっきしりた。また明日からダラダラ生活が始まるのだが、この時間を使ってホームページを改装してみようかと思っている。
しゃぶしゃぶ。
土鍋がすばらしい!
2月13日 ステーキ(ウシュアイア)
今日は退屈なような、あわただしいような一日だった。朝から上野さんが倒れた。元気なじいさんだなあと思っていたのだが、どうやら最近あちこち動き回って疲れがたまっていたらしい。幸いこちらの方は半日ほど入院して夕方には落ち着いたようなのでやれやれだった。
昼からは田中奥さんが卒業旅行の大学生を連れて帰ってきた。ここ数日は田中さんが送迎係になってしまいそうだ。大学生も僕と同じ船で南極へ行くらしい。最近の大学生はリッチだ(笑)
僕はというとインターネット屋に行った帰りに巨大なステーキを一枚買ってきてジュージュー焼いて食べた。1枚500gほどあるのだがそれで$1程なので毎日肉ばっかりだ。ワインも安いので毎日1本ぐらい飲んでいる。あまり長居すると体に悪そうだ。今日こそ禁酒すると心に誓っていたのに言ったはなから一本飲んでしまった。
こんな巨大ステーキがたったの$1
2月14日 ミートパイ(ウシュアイア)
する事もないので朝からインターネットに行った。インターネットカフェで一通もメールが来てない事ほど寂しいことは無いのだが、ここ数日暇で色んな人にメールを書きまくっているので今日も盛大にメールが来ている。フロッピーに素早く保存してから今日は趣向を変えて港へ行ってみた。
港にはSilver Shadowという超巨大な豪華客船が泊まっていた。これは本当にもう2万トン以上有る巨大客船で外から見ただけなのだが中には超豪華なシャンデリアなんかが飾ってあった。一方その横には漁船が三隻。全部元々は日本の船だったらしく、上からペンキで塗られているものの「かしわぎ丸」などと船名が入っていた。船をながめているとアルゼンチン人の船員が「おお、ハポネスか?この船は大阪へ行くんだ」と説明してくれた。
宿に帰ると久しぶりにギャル二人がやって来た。一人はブエノスでアルバイトをしているバックパッカーくずれで、もう一人はアフリカから来た、どっかネジの一本飛んだ「謎娘」だ。食堂でお茶を飲んでいると太公望氏がミートパイを作ってくれ、そして卒業旅行の大学生がパスタを茹ですぎたとかで少しくれたので夕食を作らなくてラッキー。今日の食費$1.5也。偶然スーパーで安売りしていたチョコを買ってきて食べながらふとカレンダーをみたら2月14日だったので少しへこんだ。
超豪華客船
2月15日 カルボナーラ(ウシュアイア)
昨日はなかなかいい天気だったので翌日の今日は釣りびよりらしい。朝から太公望氏はリュックに寝袋やテントを詰め込んで田中奥さんの車に送られて少し離れた山中へと向かっていった。ギャル二人と大学生もセントロの方に降りるらしくて一緒に便乗していった。
宿には誰もいなくて暇なので思わず昼寝をすると夕方になってしまった。はて何を作ろうかと思ったら牛乳がいたみかけていたのでそれでカルボナーラを作る事にした。ベーコンをカリカリに焼いてから野菜とぶち込んでガーリックと一緒に炒める。そしてクリームが無いので牛乳を入れてから小麦粉でとろみをつけてその上から麺をぶち込んでおしまい。味の方は☆二つ半といった所でまずますだった。
夜になっても誰も帰ってこないので「上野さんとこで何かごちそうになっるのか? ちぇっ」と思っていたら、釣り場は本当に遠くて往復で5時間ぐらいかかったそうで9時ぐらいに戻ってきた。謎娘は夜12時になっても帰ってこないので、どっかで迷ってるんだろうと思っていたら、本当に迷っていて上野邸にもどって上野さんの車で送られて帰ってきた。そして意外な再会。
もう一人女の人が乗っていたのだがよく見ると何処かで見たことがあるような・・・イスタンブールのガラタで会った女の人だった。「濃い彼女」はもう既に世界をあらかた回り尽くして、まだ行ってない所を探して回っているので話を聞いていてもかなり濃い。男のバックパッカーでもこれだけ濃い人は珍しいかもしれない。ガラタの面々の近況なんかを話したりしているとイスタンブールでの出来事ももう遠い過去の事の様に思えた。
得意料理の一つ
カルボナーラ
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |