このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

ボリビア編

(キハーロ〜コパカバーナ)


5月7日 さらばブラジル(コルンバ〜キハーロ〜サンタクルス)

いよいよ楽しかったブラジルに別れを告げる日が来た。今日は頑張って早起きして宿の朝食をかき込んでからパッキング。

この国境は麻薬の一大ルートになっている割にシステムがいい加減だ。僕たちはまず近距離バスターミナルの近くにあるPolicia Federalで出国スタンプをもらわなければいけなかった。ガイドブックには長距離ターミナル内とかけっこういい加減な事が書いてある。やっぱりこの辺は自分で調べるのが大切だ。

出国印が押されると今度は国境行きのバスなのだが、偶然通りかかったおじさんに尋ねてみると、これがまた近距離ターミナルで、長距離のホドビアリアでもなく、「もう一つのターミナル」かららしく、僕たちはまたまたターミナルを探して歩くことになった。途中一人のインディヘナ系の青年に尋ねると親切にもターミナルまで案内してくれた。

普通の市バスに揺られて20分ほどでブラジル側の国境に着いた。国境は思ったほど交通量もなくひっそりとしていた。出国印をもらっていた僕たちはちらっとパスポートを見せるだけで素通りする事ができた。そしていよいよボリビア側国境だ。

ここは以前は結構腐っていたらしく、ロンリープラネットにも$10程の賄賂を要求されるだろうと書いていた。しかもスタンプは国境ではなく駅だか警察だかでもらうとか言っていたのだが、実際に行ってみると国境で何らもめることなくスムーズに入国印をもらうことができた。賄賂どころか出国カードの記入まで手伝ってくれるほどだった。

国境を越えると一気にあたりがホコリっぽくなった。まず両替なのだが、レートを知らないのでつらい。一人のおじさんが1ドル=6.5ボリで両替を持ちかけてきたが結局断ってタクシーでキハーロの駅まで行くことにした。ここにはどうやら公共交通機関は無いらしい。

キハーロに着いてさっそく一目でわかる闇両替屋に聞いてみると1ドル=6.45ボリだった。おっちゃん疑ってすまん、、、両替はさておいて本日の最重要事項の列車のキップをゲットするためにすぐ目の前の駅へと向かった。

所がここで僕たちは恐ろしい話を聞いてしまった。なんでもキハーロ〜サンタクルスの列車は、密輸撲滅だかなんだかで、政府がここ3日強制的に止めているらしい。だから駅の回りは列車待ちのスマグラーたちでごった返していた。そんな有様なので当然チケットオフィスなんて開いていない。

困っていると一人の女が「チケットあるわよ」と寄ってきた。ボリビア名物ダフ屋だ。最初から無かったらダフ屋と思っていたのだが、チケットを見せてもらうと5月4日とか5月3日の日付になっている。「列車が動いていないからこのチケットは有効で、今日は必ず列車が出る」と力説するのだが、相談した結果さすがにこれに20ドルものお金は払えないだろうと言うことでしばらくご飯でも食べて様子を見ることにした。

列車の方は辺りの人に聞いても人によって話がまちまちで、「列車は木曜まで出ない」という人「今日必ず出る」という人、しかも列車に乗っている警備員さえ「出る派」と「出ない派」に別れる始末でもう何が何だかさっぱりわからない。さすが発展途上国というか、一気にアジアに戻ってきたような気分になってしまった。

そして駅前の食堂でご飯を食べている間に事態は更に悪化した。軍隊がやってきていきなり駅を制圧、封鎖してしまったのだ。駅にはアリ一匹入れない構えで、閉められたフェンスをはさんで機関銃で武装した警官とかつぎ屋が押し問答している。チケットを持っている人さえ最初は駅に入れて貰えなかったのだが、そのうちキップがある人だけは入れる事になった。

並んでいた英語を話すポルトガル人によると、今日は本当に列車が出るらしく、チケットがあって場所があれば乗れるらしい。あと地元の人によると今日は2本列車が出るからしばらく待っていれば買えるというのだが、もう何を信用していいのやらわからない。

結局発車直前に1等車(特等があるので決して上級クラスではない)のチケットを2枚手に入れて駅構内に進入する事に成功した。中に入ってみると軍隊は旅行者にはおおむね好意的で、すぐに列車に乗り込む事ができた。必死で手に入れたキップなので、イベント娘は別の車両だった。

席についてゆっくりしていると隣のおじさんが話しかけてきた。スペイン語だったがポルトガル語と似た単語が多かったので大体の内容は理解できた。おじさんはキハーロ在住でこれから3日程かけてラパスまで出稼ぎに行くらしい。問題になっていた暴動も今は沈静化して大丈夫だという話だった。

これで安心とおもっていたら、イベント娘が僕の車両にやってきた。なんでも3日分のチケットがめちゃくちゃに発券されているため、彼女の車両はあちこちでつかみ合いの喧嘩になるほど座席が足りなかったそうだ。彼女も同じ座席の「先客」に「そのキップは隣の車両だ」と騙されてまんまと席を取られてしまったらしい。

仕方がないので2時間交代で立つか、と思っていたら親切なボリビア人が2等座席の空いた所を見つけてくれて彼女はなんとかそこに落ち着くことができた。「あとでそっちに遊びに行くよ」と行っていたのだが、2〜3駅すすむとどんどん客が増えてきて、しかも各車両に軍人が2人ぐらい乗って車両間の行き来を制限していたので結局遊びに行くことはできなかった。

そればかりか夜になると通路に溢れていた乗客が勝手に床に毛布を敷いて寝るもんだから、もう本当に通路をあるけないぐらいでトイレに行くことも出来なかった。

夜になると列車の照明も完全に消されて、当然窓の外には灯りなんて一切無いので完全な闇の世界につつまれてしまった。夜中やたら列車が船かと思うほど左右に揺れるので外を見てみると湿原の中を走っていた。寝ぼけた頭で今までとは違う世界にやってきたのだと思った。

駅前に殺到する人々
門は軍隊によって閉鎖されている。


5月8日 やれやれ一安心(〜サンタクルス)

少しずつ空が白くなってきた。明るくなるとさすがに通路で寝ていた人達も毛布を畳んで立ちだしたのでトイレにも行けるようになった。途中いくつか農場を中心とした集落を通った。

列車は結局19時間程かけて昼前にサンタクルスのモダンな駅に滑り込んだ。駅は最近建てたのかとても綺麗なのだが、中にあったと思われる旅行会社は全て潰れ、綺麗で大きなトイレももちろん鍵がかけられて閉鎖されていた。器だけつくっても意味がないという代表的な例だ。

僕たちはかなり疲れていたので「タクっちゃう?」とか言っていたのだが駅前に出るとすぐにミクロと呼ばれるミニバスがやってきたのでそれでセントロまで行くことにした。そして一番最初に入った少し高めのResidencial Bolivarという宿に泊まることにした。一人35ボリ(5.5ドル)はブラジルから来た僕たちには大した額じゃないけど、きっとボリビアでは高い部類なのだろう。綺麗な中庭にハンモックまであって、ホットシャワーもたっぷりと出た。

とりあえずおなかも空いていたので疲れていたのだがすぐに街に繰り出した。外に出てみるとサンタクルスは意外と整然とした街並みで電化製品うやブランド衣料の店などもあってモダンな雰囲気だった。とは言う物の炉端にはタバコの露店やなんと林檎飴屋さんまであって、今までと違う風景が嬉しかった。

「さーて何食べよっか」とさまよい歩いているとやばい物をみつけてしまった。その名はマクドナルド(笑)「どうしよう?」とお互い悩んだフリをするものの心は完全にビッグマックだった。ボリビアはセットで20ボリ(3ドル)でブラジルとほぼ同じ値段だった。店内はさすがに綺麗で、店員もほとんどが白人ベースの混血で、まるでチリ人のようで驚いた。2階でセットを平らげてしゃべっていると、白人の店員のお姉さんが「何か追加はありますか?」と注文を聞きに来てくれた。しかも少し英語を話したのでやはりボリビアではマクドナルドといえども上流階級のレストランなのだろう。

おなかがいっぱいになると今度は通りにあったインターネット屋に入ってみた。値段は1時間5〜6ボリで1ドルしない計算になる。僕は久しぶりにメールを受信してから宿に戻ってたまっていた日記なんかをかいたりしていた。

疲れていたのもあるが、国が変わっても僕たちのダラダラ度は改善されずに、結局ほろ酔いでごろごろしていると夜になってしまったので夜は適当に軽くサンドイッチを食べるぐらいで、平らなベッドに横たわる幸せをかみしめてすぐに眠ってしまった。


5月9日 移民の街(サンタクルス)

予想通り寝過ごした。起きたら11時。中庭にでて何気なく木を見たらなんと木にあこがれの「オオハシ」が止まっていた。オオハシは巨大なくちばしをもった愛嬌のある鳥でブラジルで見れるといわれていながら結局見ることが出来なくて心残りになっていたのだが、まさか宿の庭で見れるとは朝からついている。

宿の木の上にいたオオハシ

さて朝食というわけで、本で見かけたメルカドの中にある中華料理の屋台を探して街に出た。昨日はカセドラルのある街の中心だけしか見ていなかったのだが、少しはずれるとアジアのような雑多な商店や屋台が並ぶエリアに出た。

途中の公園はかなりしょぼかったのだが、それでもたくさんの人がいた。そして驚いたのは電話。ブラジルでオオハシや鶴やインコの形をしたおそろしげな公衆電話を見てびっくりしたものだが、ここではなんと「なまず」ここまで来るともう空いた口がふさがりません。まったくもう。

やりすぎです!まったく。

メルカドをグルグル回ってその餃子が食べれるという屋台を探し出すと、店のおばちゃんが「スイギョーザ?ヤキギョーザ?」とたたみかけてくる。日本語のガイドブックに載ったもんだから結構日本人が来るのかもしれない。とはいってもこんなメルカドの中の小汚い飯屋に来るのはバックパッカーぐらいだとはおもうが。

僕は水餃子、イベント娘はワンタンを頼んだのだが、ワンタンはスープがかなりおいしくてくやしかった。明日は是非ワンタンを食べなくては。メニューは他にも焼きめし&チキンや焼きそば&チキンがあってそっちの方は安くて分量も多いのだが、餃子系はさすがに材料が手に入りにくいのか量の割には高かった。

胃が落ち着くとフリースを探しにいくという事なので服屋街を冷やかすことにした。店にはたぶん中国製かな?と思われる衣類がいっぱいあった。イベント娘はラメ入りのちょっと日本では、、というようなフリースを買っていた。

このエリアは色んな店がおおいのだが、しばらく歩いていくとなぜだか白人だけのエリアに迷い込んでしまった。しかも全員服装が、男はオーバーオールに形のととのった麦藁帽。女の人は帽子ごとスカーフを巻いて膨らんだスカートを履いている。民族衣装だと思うのだが全員肌の色が極端に白くて結局どこからの移民なのかわからなかった。

結局サンタクルスは大した観光資源がないかわりに、街並みがすっきりしていて歩いているだけで結構楽しい。結局あちこち回っているだけで時間が過ぎてしまって、夜は近所の少しよさげなレストランでチキンBBQセットを食べた。特別価格なのかサラダまで着いていてたったの15ボリ。ボリビアでは太らないように気を付けないと。


5月10日 しばし別れ(サンタクルス〜スクレ)

今日は宿で朝食をとった。ブラジルから来たばかりだったので無料だと思いこんでいたら結局有料だった。まあ質の割に値段も安かったので満足なのだが。

夕方にスクレに向けて出発する事になったので、朝から両替をすましていつもの中華屋へ。昨日食べ逃したワンタンを食べようと思ったのだが結局品切れで今日も餃子になってしまった。

昼からはインターネット。たまっていたメールの返事を出して、サルバドール完結編をアップ。ただジオシティーズの簡易アップロードのサーバーが混雑しているのか、エラーが多発してちゃんと送れているのかわからなかった。ただ自分のホームページをチェックすると表紙だけはちゃんと更新されていたので一安心だ。

しとしとと雨が降り続く。空も暗くてどんよりしている。結局カセドラルを冷やかしたぐらいでバスターミナルへ向かう事にした。タクシーを使っても6ボリ。たったの1ドルだった。

ターミナルに着くとスクレ行きは思いのほか混んでいるようで、あちこちの会社を回るのだがフルだったり、バスがボロボロだったり、いい席が無かったりと上手くみつからず、結局イベント娘とはここで一旦別れることになった。まあこの先ルートが一緒なので大した別れもせずにバスに乗り込んだ。

ボリビアのバスというとボンネットタイプで窓が壊れていて、荷物は屋根に積み込むと言うイメージがあったのだが、実際はそこそこちゃんとしている。バスはボロボロだが荷物はちゃんとトランクに入るし、荷物タグもちゃんと無料で付けてくれる。ただやっぱりそこはボリビアで、僕は一番後ろの席だったのだが、席の後ろに1mぐらいの空間がある。当然遊ばせる訳はなく、ここにも人を詰め込むので大変だ。

しかも途中で拾った人をどんどん通路に詰め込んで、そいつらがまた勝手に毛布を敷いて床にぎっしり寝る。ひどい奴は自分の席の方まで足を投げ出してくるので結構うっとおしい。席が無かったとはいえ高い方のバスに乗ったイベント娘の方が正解だったようだ。

まあ我慢できない程じゃないのでそのまま揺られて首を痛めながら眠ることにした。


5月11日 高山病(〜スクレ)

ボリビアのバスはトイレが無いにもかかわらず意外と休憩が少ない。夜中に何度か止まっていたようだが通路で人も寝ているし降りずにそのまま座席で寝ていたのだが、日が昇ってからバスが峠の途中で停まってしまった。

外に出てみると、巨大なブルドーザーが3台ほど賢明に土砂を取り除いている。どうやら崖崩れがあったらしい。まあ焦っても仕方ないので外にでて作業の様子をながめていたら40分ほどして道路は開通して再びスクレを目指して出発した。

ボリビアは道が悪いと他の旅行者から聞いていたのだが、自分の感想では道は思ったよりもよく未舗装ながら飛び跳ねる程でも無かった。しかし大都市同士を結ぶ道路が未舗装というのがボリビアもまだまだといった所だろうか。

バスはどんどんと高度を上げて、やがて昼前にすり鉢状のスクレの街に到着した。最初街が見えたときは崩れた煉瓦とかが目に入って小汚い街だなと思ったのだが、バスが中心に近づくにつれて街並みも綺麗になってきた。青い空と白い壁のコントラストが美しい。

さっそくよさげな安宿を見つけたのだが何と部屋にコンセントが無い。そしてコンセントがある部屋は40ボリだというので仕方なくその宿をあきらめて近くの小汚い安宿を訪ねてみた。ここは一泊16ボリと安い。部屋を見せてもらうとコンセントが無かったので「コンセント付きの部屋はないの?」と聞いてみると、しばらくしておじさんが工具を持ってきて部屋にコンセントを付けてくれた。ちょび髭の気のいいオヤジで、部屋はいまいちだが洗濯もできるしまあよしといった所だろう。

所が宿でくつろいでいると体調が悪くなってきた。頭痛と息切れめまい。典型的な高山病の症状だ。僕は以前にネパールのアンナプルナに登ったときにいやというほど高山病の症状を味わっている。そして僕はとてつもなく高度に弱い。ここスクレの標高はたったの2700mなのだがそれでも僕の体は耐えられないようだった。

とにかく水をたくさん飲んだ。そして本当は眠るのは良くないのだがベッドに横になってうつらうつらしていた。夜は街に出るのだがローカルフードを食べる程食欲もなかったので、白人ツーリストで賑わっていたイタリアンレストランでパスタを食べた。こう言うときは炭水化物を取るのが一番で、自分が本当に食べたい物をたべて心だけでも元気になるのがいいのだ。

帰り道にアイスクリームを食べたらしばらくして頭痛がおさまった。それにしてもこれからアンデスという所で旅人としてはすごいハンディを背負ってしまった。

崖崩れの復旧作業


5月12日 田舎首都(スクレ)

一夜明けると頭痛はかなりましになっていた。こんな高度で何日も寝込んでたらこの先とても旅なんて出来ない。昨日は宿に着いてすぐに寝込んでしまったので今日は頑張って朝から出かけたのだが、スクレの街は奥へ入れば入るほどいろいろな表情を見せてくれる。天気もよく心地の良い散歩だった。

息を切らしながら坂をどんどん登っていくと、よさげな修道院のような所に着いた。広場の回りに回廊があって、回廊からはスクレの街全体が見下ろせる。広場では少年達がサッカーに熱中していて、その回りでは回廊の手すりに腰掛けてのんびり風景を眺める人達がいた。

スクレは一応ボリビアの首都という事になっているのだが、これはコートジボアールのヤムスクロと同じで今では首都機能は完全にラパスに移っていて、今ではほとんどの国がラパスとサンタクルスに領事館をおいている。上から見下ろすと以前首都だったとは思えない程のんびりした風景だった。

天気もいいし暖かくて眠くなってきたので昼寝をしてからカセドラルのスクエアに行った。この辺はどの街でも同じ様な風景で、×型に通路のある広い広場の真ん前に大きなカセドラルが建っている。これからはもっと同じ様な風景に何度も出会う事だろう。

ここまで登ってくる街行く人もほとんどが純粋なインディヘナで、サンタクルスまで引きずっていたブラジル気分も完全に吹っ切れたようだ。これから先にはどんな旅が待っているのだろう?

修道院の中庭でサッカーに興じる子供達


5月13日 もっと高山病(スクレ〜ポトシ)

今日は一気に1500m程高度を上げる。スクレからポトシまではわずか80キロほど。完全に舗装された綺麗な道にもかかかわらず、バスで3時間もかかる。いかにこの1500mの高度がきついかがわかる。

バスはたくさんあるので、何も調べずにスクレのターミナルに行くと、いきなり「ポトシーポトシー」と連呼している女の人に腕を組まれてしまった。どうやら空席が多くて競争が激しいらしい。とりあえず値段を聞いてみると、このミニバスが15ボリ。「ま、いいか」と思ったのだが念のためとなりの会社で聞くとたったの10ボリ。このバスはポトシ経由でラパスまで行く物らしく、ポトシまでの席がたくさん空いているので、発車直前の大安売りといった所だろう。

時間通りに出発したバスは、町外れで客を集めて回ってからどんどん高度を上げてポトシへと向かった。確かに勾配はきつくてスピードが出ないのだが、外の風景は平原といった感じで、ここが4000mもの高地だなんていまいち実感がわかない。途中に川があったりするのだが、そのうち森林限界を越えたのか木が全くなくなってサボテンだらけになってきた。

途中うたた寝をしたりして、ちょうど日が沈む頃にポトシのバスターミナルに到着した。薄暗い中で地図を読み、とりあえずやってきたミクロに乗ってセントロを目指す。セントロでミクロを降りると一緒に降りたおばさん二人が安そうな宿を指さして教えてくれた。

一軒目はよさそうなのだが、風呂無しの部屋はいっぱいで一泊40ボリ。2軒目はちょっと寂れていていまいちだが、一泊15ボリだというのでそこに泊まることにした。荷物を降ろしてさっそく腹ごしらえと言うわけで外に出ると、何故かこの街にはフライドチキン屋が異常に多い。その中の一軒に入って見ると頼みもしないのに最初にジュースが出てきて、次に「大きいの?小さいの?」と聞かれた。どうやらここはジュース一本とチキンの専門店らしい。

小さいチキンを頼むと、揚げたてのポテトの上にかりっと揚がったチキンが乗って出てきた。味の方もなかなかで、これで6ボリはお得だ。満足しながら外に出たのはいいのだが、歩いているうちに頭痛が襲ってきた。高山病の症状は少し遅れて出るらしいのだが、今頃になって深刻な酸素不足になってきたらしい。

とにかくたまらないので宿に帰って横になる。吐き気は少しだけなのでまだ軽症の部類にはいるのだろう。水をたくさん飲んでひたすら横になる。立ち上がるだけで頭痛がひどくなるのはたまらないのだが、眠った時に痛みで目が覚めると言うのが無いのが救いだろうか?これはここでゆっくりと順応するしかないだろう。


5月14日 下降線(ポトシ)

いつもの事だが起きたらもう昼ごろだった。体調は頭痛と吐き気の上に微熱でふらふらして何もする気が起きず、昼下がりにようやく昼飯を食べるために重い腰を上げた。

現地食は食べられそうにもなかったので、ポトシで唯一っぽいツーリストも入るようなレストランへいってパスタを食べたら、麺が持ち上げれないほどぐにょぐにょでしかもソースも不味くて、体力がほとんど残ってないにもかかわらず暴れたいぐらいだった。

いい物をたべて気分を良くして病気を直そうとしたら、全く逆効果でここに国際空港があったら$500払ってでもリマまで飛んでやろうか!という程落ち込んでしまった。夜はもうなにも食べられなそうだったので、不味いパンをかじって飢えをしのいだ。みじめとはこういう状態の事を言うのだろう。

教会の入り口の細かなレリーフ
イスラム教寺院を思い出す


5月15日 閉塞感(ポトシ)

昨日の夜は頭痛も幾分ましになったのだが、眠るとやはり頭痛がひどくなる。そして部屋も寒く、毛布を何枚も重ねてその上に寝袋カバーをかけてようやく暖かく眠ることが出来た。

昼前に街に出てみた。昨日見かけた中華料理屋でワンタンと春巻きを頼んだのだ。経営や調理が中国人だったので期待したのだが、やっぱりここはボリビアで味の方は期待はずれだった。

狭い路地をクラクションを鳴らされながら歩く。容赦なく吹き付ける冷たい風、そして目を伏せて憂鬱な表情ですれ違う人々。物乞いは更に悲惨で、毛布にくるまってひたすら寒さから耐えているだけだった。市場では頭が狂ってしまったおばあさんが延々叫び声を上げている。

もし人と国に相性があるとするなら、僕とボリビアの相性は最悪といったところだろう。昼からも教会を2つほど見に行ったが特に目新しい物はなく、ここポトシで唯一興味深かったのが街のはずれにそびえる巨大な鉱山だ。木一本無い赤茶色の巨大な山にそって道路が作られている。中腹には安全祈願かなにかの巨大な十字架が見えた。ここの鉱夫は劣悪な環境でコカの葉を噛みながら、ろくに食事もせずに働き続けるのだそうだ。

この国から逃げ出したいと思った。


5月16日 青空(ポトシ)

ポトシに来て初めて「抜けるような青空」が見えた。ポトシに来て3日。異常に高度に弱い僕の体もようやく順応してきたのか、少し体調が良くなった。歩いたりトイレへ立ったりすると少し頭痛がするのだが、それでも最初に比べたら格段の進歩だった。

外に出ると日差しが強くて暖かい。少しネパールのカトマンズを思い出した。青空を見ていると気分も良くなってきたので少し散歩に出かけることにした。セントロのツーリストエリアを少し回ったあと、どこか見晴らしのいいところは無いかと坂道を延々と登っていった。

登れば登るほど普通の生活が見えてくる。花壇に水をあげる笑顔のおばあさん、道に張った氷の上でソリ遊びをする小さな子供達。そして目を上げると街のすぐそばまで大きな鉱山がせまっている。チノやらチニートやら声がかかるがあまり悪意も感じられず、いい気分で散歩する事ができた。

夜はここポトシの食事はまったくバリエーションと言う物が無く、いた所にあるチキン+ポテト+ジュースのセット6ボリか、ボリビア料理を出す中華レストランかぐらいなもので、結局いつものチキンにおちついた。ああはやく日本食が食べたい。

ポトシの町外れから見る鉱山


5月17日 ぼちぼち悪路(ポトシ〜ウユニ)

眠るとまだ少し頭痛がするのだが、ようやく体調も上り調子になってきたので先に進むことにした。それにしても思わぬところで4日も無駄にしてしまった。

ポトシからウユニまでの間は南下してきた旅行者が口をそろえて「最悪だ」と言っていたのだが、彼らのほとんどは南米の道しか知らないので一体どんな物だろうと思っていたのだが、これが結構いい道だった。確かに全線未舗装で、所々川の中を走ったりするのだが、逆にブルドーザーのキャタピラの跡なんかが無い分スムーズだった。

朝11時にミニバスに乗り込んでウユニに着いたのは夕方だった。途中結構な山道を走ったり、フラミンゴのいる池を通ったりと景色は単調ながら所々に見所があった。そしてバスが最後の峠を登ったとき遠くに銀色に光平原が見えた。ウユニ塩湖だ。まだまだ水が残ってそうでなによりだった。

バスが町に着くと、ツアーやら宿の客引きがやって来るのだが、僕は少し控えめなスペイン語のみのおばちゃんに連れられて一軒のあまり流行ってなさそうな宿におちついた。宿の方はロンリープラネットには載ってないのだが、陽の入る大きな窓にホットシャワーも量は少ないが熱いぐらいだし、何よりも一泊13ボリと格安なのがよかった。

宿代がかなり浮いたので夜はこの前のリターンマッチという事で、ツーリストレストランにまたまたパスタを食べに行った。どうもここはツーリストの街なので、夜になると他に選択肢はあまりないのだ。パスタの方は60点ぐらいの出来だったがポトシに比べると遙かに良かった。

しかしパスタを全部平らげてからの帰り道、段々調子が悪くなってきて、宿に帰るなりベッドに寝込んでしまった。熱も無いのに体がガタガタ震える。気分が悪かったのでせっかく食べたパスタを戻さないようにと気を配っていたのだが、それも無駄な努力で30分後ぐらいに胃の中全てを吐いてしまった。もったいない、、、

やっぱりボリビアに入ってから体が徹底的に弱っているようだ。多分明日も寝込む事になりそうだが、宿が良かったのがまだ救いだった。


5月18日 体調悪し(ウユニ)

昨日綺麗さっぱり吐いたので朝起きると結構体調がましになっていた。ツアーはさすがに無理っぽいので昼ごろに起きて朝昼兼用の食事に出かけた。

今日はせっかくなので地元民の多い食堂でアルメルツォ(昼定食?)を頼んだらスープだけでおなかがいっぱいになってしまって、メインを食べ残すという失態を演じてしまったのだが、本当の失態はこのあとからやってくるのだった。

昨日懲りたにも関わらず、今日も宿に戻る途中に気分が悪くなってしまった。そしてそれは夜になっても一向に回復する気配がなく、日当たりのいい部屋で本を読んだりして過ごすだけだった。ほんとにいつになったら元気になるのだろう。かなり滅入った。


5月19日 体調劇悪(ウユニ)

夜中に目が覚めた。どうやら何かに当たったらしく、すさまじい下痢だ。トイレから戻っていてもまるでおなかの中に猫でもいるのかと思うほど常時ごろごろいっている。朝までに7〜8回はトイレに行っただろうか?

仕方がないので、「どうしようも無い時以外は飲むな」と言われていた消化器系最強の抗生物質「クラリシッド」を投入することにした。下痢の方は一通り出尽くしたのか薬が効いたのかしばらくしてから止まった。

やっぱりこんな状態ではツアーなんていけっこない。朝の調子を見てから申し込もうという判断は大正解だった。

今日も一日中バナナを食べて宿で寝込んでいた。夜宿のセニョーラがノックするから「何だ?」と思ってドアを開けると、どうやら日本人が一人やってきたらしく宿代の事とかを説明するように言われた。頭をつんつんに立てた彼「ハリネズミ君」は3ヶ月程の日程で南米を回っているらしい。これまでにもモザンビークとかパプアニューギニアとかイースター島とか結構エコな所を旅行しているらしい。

「調子が悪い」というと彼は袋からコカの葉を取り出して分けてくれた。しばらく噛んでいると舌がしびれてきて、調子が悪かった体も少し軽くなってきた。さすがコカインパワー。もう少し早く取り入れるべきだった。


5月20日 船のように(ウユニ〜イスラ・デ・ペスカード)

やっとのことで高山病ともおさらばできたようだ。体調もいいし天気もいい絶好のツアー日和だ。さっそく起きて宿のおばさんにツアーの申し込みをした。出発は10時か11時頃で呼びに来てくれるらしいので、それまで部屋でゆっくりすることにした。

11時前に呼ばれて下に降りると、結構年代物のトヨタのランクルと、結構年代物のおじさんが一人。どうやらこのおじさんがガイド兼運転手らしいのだが、もちろんスペイン語しか話せない。出発して何故だかおじさんの友達らしき人にヒッチされて、ウユニ観光の拠点となる塩の採掘所のあるコルチャニの街へ。ここでおじさんは塩対策なのか、車の前にその辺でちぎってきた木の枝やビニールシートを取り付けていた。

採掘所では湖から取ってきた塩を乾燥させて、大きなトレーラーに積み込んでいた。もちろん全部手作業でスコップでえっちらおっちらと塩を跳ね上げていた。

そしていよいよウユニ塩湖突入。最初は塩の上に出来た道のような所を走っていたのだが、目の前に巨大な湖が現れた。水も3〜10cmぐらいあって、最初はここを見学してから違うルートで塩湖に向かうのだろうともっていたら、何とランクルはそのまま湖に突っ込んだ。ばしゃばしゃと水を跳ね上げながらどんどん進んでいく。

僕はこの時期のウユニ塩湖というのは干上がっていて、延々乾いた塩の大地を走るのだと思いこんでいたのだが、どうやらはそれは全くのハズレで、どうやらほとんど水で覆われた浅い湖をランクルで走るツアーだったようだ。車から後ろを見るとまるで船のように波がたっている。

塩湖は浅くて恐ろしい程平らでしかも風が無いので水面が鏡のようで、全てが上下対称に見える。島も車も空も雲も。そしてそんな中をしばらく走ると水平線に上下対称な四角い建物が見えてきた。噂の塩のホテルだ。

この日は訪問者が多かったので、運転手は「帰りに寄るから」と何やら車を念入りにチェックして5分ほどでスタートした。塩のホテルの前には円錐状に積み上げられた塩の山がたくさんあって、綺麗だった。

塩の山々
こうやって乾燥させてから取り入れる

 

このツアーはイスラ・デ・ペスカード(魚の島)まで日帰りで行くものなのだが、水が多い為か思いのほか時間がかかる。走っても走っても島は見えてこないし、車の調子がいまいちなのか、おじさんはときどき浅瀬で車のチェックをしたりなにやら車をいじったりしていた。

やっとの事で島が見えてきたのだが、今度は見えているのに全然近づいてこない。そして島にたどり着いたのは陽も傾いてきた3時過ぎの事だった。予約した時の説明によると、行き3時間、帰り3時間のツアーだという事なのだが、これは完全に湖が干上がっていたと仮定しての話だろう。おじさんも時間が心配なのか、島を一周する遊歩道があるのでさっさと回って戻ってこいとの事だった。

言われたとおりに急ぎ足で急な斜面を登っていくのだが、湖といってもここは3800mの高地なのですぐに息が切れてしまう。ついでに頭痛も再発してしまった。頂上から見下ろすと、本当に空が水面に映ってどこまでが空でどこまでが湖なのか訳が分からない美しさだった。

もっと居たいのを惜しんでさっさと車に戻ってみると、何やらおじさんがつなぎを着てタイヤを分解している。おじさんによると「車が壊れて今修理してるから、今晩はここで一泊する」との事だ。なにー!?僕は日帰りのつもりだったので、薄い長袖の上にウインドブレーカー一枚という格好で来ていたのでこれはもう凍死ものだ。車は1時間程で治ったのだが、今からだと途中で陽が暮れてしまうので塩湖を走るのは無理らしい。

「そりゃないよおっちゃん!」と文句を行ってみるのだが、無理な物は仕方ないのだろう。おじさんも気を使って、お茶を入れてくれたり、泊まるところを手配してくれたりしてくれた。

しばらくすると同じツアーだった、ハリネズミ君が「たき火をしましょう!」と薪を集め始めた。おいおいここは国立公園じゃないのか?こんな所でたき火をしてもいいのか?と思っていたのだが、島の人も「おおたき火か?」と言うような感じで微笑んでいる。高所なのでなかなか火が着かないのだが、セメントの袋を持ってきてやっとのことで小枝に火が着いた。

僕も途中から島の回りをまわって、流木や干からびたサボテンの塊なんかを持ってきてじゃんじゃん燃やした。乾いたサボテンは良く燃えるのだがすぐに燃え尽きてしまうのでどんどん持ってこないといけない。再び薪集めに行くと何と直径30cm長さ1.5mぐらいの巨大なサボテンのミイラが、、、これいいのかなあ?と思いつつも嬉しくなって肩から抱えて持って帰った。さすがのハリネズミ君もこれにはびっくりしていたようだった。

しばらくすると空が夕日で染まってきた。夕方になると湖面まで赤くなる。ここは上下が全て対称の世界なのだ。おじさんに呼ばれて質素な食事を取ってから、遅くまで色んな国籍の人達と火を囲んだ。そして薪が尽きたら極寒の世界なので、あとは扉の無い洞窟のような所で寝袋にくるまって寝るしかなかった。

全てはアクシデントからだったのだが、こういうのも楽しいなと思った。

夕暮れの中のたき火
魚の島にて


5月21日 飛行機のように(イスラ・デ・ペスカード〜ウユニ)

日の出前に目が覚めた。目が慣れたせいかと思ったのだが回りが少し明るい。朝が近いようだ。外に出てみると東の空が赤くなっていた。

朝は雲が多いせいか、昨日よりもますます天と地の境がなくてもう訳がわからない。まるで空に浮いているような錯覚に陥ってしまう。寝袋をたたんで、紅茶と丸いパンの質素な朝食を取っていると、白人が「昨日イスラエル人が一晩中トランプをして騒ぎまくって全然眠れなかった」と怒り狂っていた。ツアー客として宿泊している彼らはちゃんとした大部屋に泊まっていたようなのだが、僕は変な扉のない洞窟だったので結果的にはこっちの方が断然よかったようだ。食事が終わって少ししてからいよいよ出発だ。

今日は昨日来た道を引き返すだけなのだが、時間帯が違うので風景もかなり違って見える。太陽が低いから全部水面で反射して水の中がほとんど見えないため島から離れてしまうと本当に車が宙に浮いているように見える。遥か遠くに見える車なんて本当に空を飛んでいるようにしか見えない。

魚の島から見下ろす塩湖
全てが上下対称に映る

 

昨日の修理はどうやらタイヤを固定するボルトが何本か折れていたらしく、全然合わないボルトで無理矢理固定したせいか、おじさんはしばしば停まってボルトがゆるんでないか増し締めしていた。途中で知り合いのツアーの車が停まっていたので修理の手伝いをして、空のど真ん中で何度も停まったりした。

そして何度目かの修理の時におじさんが「屋根に乗るか?」と天井を指さした。「もちろん」と屋根の上によじ登る。これはすごい、360度上も下も右も左も全てが空だった。さすがにこのときばかりは感動してしまった。ただ風が冷たいのと、車が巻き上げる塩水で服が真っ白になってしまうのはご愛敬といったところだろうか?

湖の真ん中で車の修理
回りはすべて青と白だけの世界だ

 

楽しいので寒いのもそれなりに我慢して、1時間半ほどで塩のホテルに到着した。今回はホテルの中に入った。すごい壁はおろか、テーブルも椅子もベッドも全て塩で出来ている。確かにすごいけど、でもこのホテルの建物以外は全部水没しているので、ここに泊まった人は一体何をして過ごすのだろうか?

ここまでたどり着くと陸地はもうすぐ。途中アクセルワイヤーが引っかかって戻らないというトラブルがあって、まあ走る分には問題ないしと思っていたら、陸に上がってからしばらくして全く動力が車輪まで伝わらなくなってしまった。クラッチかデフがイカれたのだろう。

しばらくして別の車に牽引してもらう事になったのだが、車に着いているウインチのワイヤーを使うので一度たるむと次に張った時にものすごいショックで車がふらつく程だった。そしておじさんもブレーキを軽く当ててちゃんと張ったままになるように調整すれば良さそうなものを、何度目かの時に遂にワイヤーが切れて飛んでいってしまった。

切れたワイヤーを繋いで何度かトライするのだがそのたびに切れてしまうので、前の車に乗っていた白人ツーリストもうんざりなのか、文句を言い出した。そして何とかウユニの街まで連れて帰ってもらったのだが、相変わらず引く方も引かれる方もへたくそな操作を繰り返すので、町中で引かれる方の車がワイヤーをタイヤで踏んでしまい、切れたワイヤーがものすごい勢いで飛んでいって前の車のガラスを直撃して粉々に割れてしまった。おいおい。

僕はというと追加料金もなく島に宿泊出来たし、街にもちゃんと帰って来れたしで文句は無いのだが他のメンバーはいまいち不満だったようで、おじさんはしきりに「ツアーはどうだった?」と気にしていた。本当に気のいいおじさんなのだが、もうすこしがんばりましょうといったところか?

宿に帰ってから塩だらけになった靴や、シャツを洗濯したりしてからごろりと横になった。何だかトラブルだらけだったけど、こんなのは自分にとっては楽しみでこそあれ何の問題も無い。久しぶりに心から楽しめたツアーだった。


5月22日 4000mの平原(ウユニ〜オルーロ)

やっぱり列車の移動というのは楽でいい。思わぬ病の為にウユニ滞在がどんどん伸びてしまったのだが、そのおかげでっちょうど出発が週に一度の昼間のオルーロ行き列車がある日と重なったので焼く$10程奮発して、特等のチケットを買った。

昼前に荷物をまとめて、メルカドでリャマのスープを飲んでから駅に向かうと、オルーロ行きの鉄道はサンタクルスのものとは別会社のようで、予想よりも遙かにしっかりしていて、すぐに駅員が荷物に札を付けて預かってくれた。この列車はどうやら、担ぎ屋の荷物で満杯と言うことはないらしい。

期待してなかった列車は何と定刻の少し前には駅に到着していた。さっそく乗り込むと、座席自体は日本の特急列車の普通車と同じ程度なのだが、何とビデオ上映があった。一本は南北戦争ものの「パトリオット」もう一本はジャッキーチェン主演の、なんとかブロンクスというアクションものだった。

この道のりはバスで9時間かかるのだが、列車では6時間半らしい。だから山道を行ったりするのかと思ったら、全行程かなり平らな平原をはしった。ただし高度は4000m。列車の線路は思ったよりずっとまともで、調子のいい区間は100キロ近くで、荒れた平原やフラミンゴのいる湖等、車窓がどんどんと流れていった。

夕方近くに大きな湖が現れた。地平線にほとんど隠れた太陽が遠くの並木と重なって、まるで理科の実験でみた葉っぱの葉脈のように見えてとても美しかった。そんな景色を眺めているとまもなくたくさんの街の明かりがみえてきた。こんなに大きな街はサンタクルス以来だろうか?

駅を出てみると外は思いの他暖かかった。車が渋滞するほど走っていたり、街角にはインターネット屋やレストランが溢れていてとても賑やかだ。夜も遅いので適当に見つけた安宿に落ち着いて今後の予定なんかをぼんやりと考えてみた。明日は一気にラパスまで行こう。

列車の窓から見えた風景
この辺りまで来てもまだまだ塩が浮いている


5月23日 すり鉢(オルーロ〜ラパス)

オルーロと言えば南米三大カルナバールに入っているらしいのだが、街並み自体は特に特徴もなく、後ろに鉱山も控えているのだがそういうのはポトシでさんざん見たので朝いちでラパスを目指すことにした。

バスターミナルまでは歩いてみたのだが、地図で見るのよりもかなり遠かったような気がする。幹線道路のど真ん中にまるで路面電車のように昨日通ってきた線路が走っていた。

ターミナルに着くと客引きから盛大に声がかかる。そのなかのひとりに値段を聞いてみると、10ボリ。バスはブラジルで走っているようなハイデッカーなのに2ドルしないとは、、、この辺は競争原理が適度に働いているのだろう。そのままチケットを買って待っていると、定刻を10分程過ぎてからゆっくりと出発した。

バスはガラガラだったのに、よくこんなので出発するなあと思っていたら、バスターミナルを出て少し行ったところでたくさんの客が乗り込んできた。どやら彼らはターミナル使用料の1.5ボリが惜しくてターミナルの外で通りかかるバスを待っていたらしい。他にも街中で何度も停まって街を出る頃にはバスはほぼ満席になっていた。なるほど。

今日のバスも昨日のように真っ平らな高地を延々走っていく。大地は乾燥していてあちこちで羊が茶色い草を食べていた。そしてラパスが近づくとたくさんの雪山が見えてきた。そのうち家や工場が増えてきたのでそろそろラパスかな?と思っていたら巨大なすり鉢のような盆地が目の前に広がった。どうやらラパスはこのすり鉢の一番底にあるらしい。

すり鉢の縁をぐるぐるまわってどんどん降りていく。結構な時間をかけてバスはすり鉢の底にあるバスターミナルに到着した。ここラパスは上から下ってきた旅人に聞いても、ほぼみんなが多かれ少なかれ何かの被害に遭っている。ひどいのは首を絞められて荷物を全部盗まれる通称「首締め強盗」や、ポケットやカバンをメスで切る「切り裂きスリ」、あとはわざとらしく目の前で札束を落として「山分けしよう」と持ちかけて、そこにニセ警官がやってくる「落とし物詐欺」などまったくバカのくせにいろいろと思いつくもんだ。そんなわけでターミナルに降りた瞬間から警戒心は最大モードで、もちろんカバンを置くときも必ず足で踏むようにしていた。

タクシーもターミナルにいるのは強盗とグルだったりとかいう話も聞くので、とりあえずミクロと呼ばれる乗り合いバスで行こうと道路で待っていると、ひとりのお姉さんが声をかけてきた。「ホテルはきまってるの?」思わず警戒してしまったのだが、「セントロに行きたい」というとミクロの番号を教えてくれたうえ、タクシーでもそんなに高くないらしく、何台か止めて5ボリまで値切ってくれた。宿の客引きなのだが、本当に親切なお姉さんだった。

カセドラルの前のムリーリョ広場でタクシーを降りるとすぐ前に「金髪くん」に教えて貰ったHotel Torinoという宿が見えた。ここはとにかくでかくて客室も多いホテルなのだが、値段の方は一泊20ボリと宿代の高いラパスにあっては格安だった。コンセントは無いものの、この前買った「国民ソケット」と呼ばれる電球のソケットにコンセントが付いた秘密兵器のおかげで何の問題も無かった。

今日は昼飯もろくに食べてないのでさっそく急な坂道を下ってセントロ方面に向かった。来る前はラパスというのはとにかく赤茶色の煉瓦の2〜3階建ての建物が密集したカトマンズのような所だと思っていたのだが、セントロ地区はヨーロッパのようなショーウィンドウや高いビルが立ち並んで、思ったよりもずっと都会だった。

久しぶりに見つけたマクドナルドで食事をしてから街をひと歩きしてみた。危険だと色んな人から聞かされたラパスだが、場所さえ気を付ければ常時かなりの人出があって比較的安全そうだった。

夕食は待ちに待った日本食というわけで、日本人会館の中にある日本食レストランへ行った。ばったりあった「ハリネズミくん」に「いくら丼うまいっすよ」と聞いていたので言われるままに注文したみたのだが、これがもう最高に美味しかった。しかもみそ汁、漬け物付きでたったの25ボリ。今日から毎日通ってしまうかもしれない。

上から見下ろすラパスの街並み


5月24日 大使館(ラパス)

実はラパスに来た目的はたった一つ。大使館宛に送ってもらった、海外旅行保険延長の証書を受け取ることだった。もしこれが無ければウユニからチリに抜けてそのままペルーを目指す事もできたのだが、そうなるとリマまで受け取れないのでこれはしかたない。珍しく朝8時に起きて大使館を目指した。

大使館は少し遠いものの安宿街からは充分徒歩圏内だった。歩いているうちに小腹が減っていたので、大使館の近くでパン屋をしているという立崎さんという日本人のおじさんを訪ねることにした。地図を見ていったのだが、店の名前が書いてないので分かりにくかった。かろうじて店の奥にまねき猫が見えたので入って見ると、おだやかな帽子をかぶったおじさんがテーブルに座ってタバコをふかしていた。

「ああ、いらっしゃい」おじさんはもっぱら客の相手で、中ではボリビア人のマエストロが忙しくパンを焼いていた。僕はチーズパンとチョコパンを買って店のテーブルに座って食べていると、しばらくして客も途絶えてきて立崎さんも同じテーブルに座って色々話相手をしてくれた。客はほとんどが現地人で、美味しいと評判なのかけっこう繁盛していたようだった。

大使館に着くと日本語をしゃべる係員は50才ぐらいのおばさんが一人。奥でボリビア人の相手をしているのか、ベルを鳴らしても何の反応もなく全く無視という感じだった。「はいちょっとまってね」の一言ぐらいあればいいのに。しばらくして昼休みの時間が迫ってきたので何度かベルを押してみると、やっと終わったのか窓口にやってきた。まあお世話になっていて文句を言うのは筋違いなのだが、対応はきわめて事務的でお礼を言ってもおばさんはにこりもともしなかった。なんだか大使館でこういう対応は久しぶりだった。

一件落着したあとはもう一つの大切な用事。チリでいい感じに散髪してから伸びっぱなしになっていた髪の毛を切らなくてはいけない。ポトシやスクレにもあったのだが、中のおじさんが「ガルシア!」というような感じの髪型だったので、ちょっと躊躇して入れなかった。ラパスはさすがに首都で、一軒の散髪屋に入って待っているとしばらくして髪の毛を後ろに流したおしゃれなちょびヒゲのお兄さんがやってきた。

いきなりヘアカタログを見せられて「どれにする?」と聞かれるのだが、自分の顔ではどうやってもこんな見本は無理なので適当に注文して切ってもらうことにした。鏡の前に霧吹きみたいなのが置いてあったので、「香水かなんかかな?」と思っていたら、おもむろにライターで火をつけて、ボタンを押すと火炎放射器のように炎が燃え上がった。そして炎にハサミやくし、バリカンをかざしていく。どうやら消毒だったらしい。

肝心の散髪の方はちょっと短すぎたようなきもするが、これでまた3ヶ月ぐらい切らなくてすみそうなのでいいか。値段の方は10ボリとチリの約半額ぐらいだった。

散髪の後は電器屋街を冷やかして、ブラジルで壊してしまった電熱コイルを買ったり、インターネットをしたりしていると夕方になった。ホテルに帰る前にムリーリョ広場に座っていると、いきなり衛兵が行進してきたので「何だろう?」と思っていると国旗の前に整列した。どうやら旗をおろすらしい。

しばらく待っていると6時の鐘と同時に屋上でラッパがなって、国旗とたくさんの州の旗が下ろされた。しかしここでアクシデント。国旗がポールの継ぎ目のネジにからみついてしまったのか降りてこない。しばらく見ていたのだがどうやっても外れないらしく、結局国旗はそのまま置き去りにされた。そんなのでいいのか?と思うのだが衛兵はほとんどが16才ぐらいの少年で、結構落ち着きもなくニヤニヤしていて微笑ましかった。

夜はやはり昨日の日本食レストランへ行った。今日は奮発して豚カツ定食。豚カツは美味しかったのだが、今日のみそ汁のアゲが最悪で、まるでスポンジを食べてるみたいだった。一体どこからこんなに不味いアゲを買ってきたのだろう?明日はちゃんとしてくれよ。

旗を降ろす衛兵達
みんな15〜6才ぐらいの少年


5月25日 ティワナコ遺跡(ラパス〜ティワナク〜ラパス)

ラパスははっきりいって観光地ではないようだ。そして数少ない見所が郊外にあるティワナコ遺跡らしい。とりあえず何か一つぐらいは観光してみたようとおもって朝から出かけることにした。

ラパスからの近距離、中距離バスはなぜかセメンタリオと呼ばれる墓地の辺りから出ている。すり鉢の真ん中あたりでかなり不便な所なのだが、きっとターミナルからすり鉢の外に出るには料金所を通らないといけないのでこんな所に集まっているのだと思う。

セメンタリオでティワナコ行きのバスを探していると、ワゴン車がたくさん並んでいたので「これティワナコ行き?」と聞くと「乗れ乗れ」という。車内には何人かの男が乗っていたので、すぐに客が集まるかなと安心して乗った。ボリビアのこう言う乗り物は車内が一杯になるまで絶対に発車しないからだ。事実、すり鉢の外に出るまでの道路は大渋滞だった。

言われるままに前のオフィスでチケットを買って乗り込むと、なんと男達は全員降りてしまった。どうやら奴らはサクラだったらしい。結局白人の観光客が何人か乗ったところで出発したのでやれやれと思っていたら、すり鉢の外に出たところで客引きをはじめた。こうなったらもうテコでも動かない。

やっとのことでティワナコへ向かって走り出したときにはもう1時間半が過ぎていた。郊外に出ると一気にスピードが上がる。あちこちに雪山が見えた。面白かったのは道路の路肩に犬がいるのだ。まあ犬ぐらいいるのは当たり前なのだが、それが結構な数で、途中の峠では50mおきに犬が路肩に座って車の方をじっと見ている。ひょっとしたら乗せて欲しいのだろうか?

その後バスは4000mの峠を一つ越えてティワナコにたどり着いた。ここで以前外国人には1ボリ余分にとって、遺跡の前を通ってくれると聞いていたのだが、このワゴンは余分に1ボリ取っているにも関わらずそんなことは全く無視で、街に向かう交差点で外国人を下ろして、新しい客詰め込んですぐに行ってしまった。

仕方ないので土道をしばらく歩いていくと10分ほどで遺跡前の博物館に到着した。遺跡は半分以上野ざらしになっていて、これが本当に遺跡なのか単なる土山なのかよく分からない部分も多かった。遺跡見下ろすアカパナと呼ばれる高台に登ると内側に水がたまっていた。これが噂のティワナ湖か?(ちがう)

一番の見所のカラササヤという神殿はそこそこ修復されていたのだが、しかし修復にセメント使うなってば。結構雰囲気ぶちこわしで遺跡としてはあんまり面白い物ではなかった。せっかく来たので遺跡を一周してみると、どうでもいいように放置された遺跡と回りの枯れ野の風景が何となく馴染んでいて、景色としては結構よかった。

帰りのワゴンは陽気なおじさん3人組に延々話しかけられた。なぜか少しの英語と日本語の単語をいくつかしっているようで、意味を教えて上げると喜んでいた。帰りは客引きせずに順調に走ったのだが、車掌は少しぼってきた。行きは1ボリ余分に払って6.5だったのに「7ボリだ」と行ってきた。僕は遺跡の前ではなく交差点から乗ったので本当は5.5のはずだ。ま、地震が無かったので「行きは6.5だったのにおかしいじゃないか?」というとあっさり6.5に下がった。でも地元民が払うのを見るとみんな5.5しかはらってなかったので結局ぼられたのだろう。

助手席の白人は後ろのやりとりを知らなかったのか、降りるときに7ボリ払わされていた。今まであんまりこんな目に遭わなかったのだが、どうやら北へ行けば行くほど人が悪くなって行くらしい。ボリビアという名前の割には今までほとんどぼられたことが無かったので、何だか後味が悪かった。

ティワナコ遺跡「月の門」


5月26日 だらだらライフ(ラパス)

昨日夕食を食べに行ったときにばったり、イベント娘&ギター小僧に会った。彼らはウユニで無事合流して一緒に旅を続けているらしい。そして夜も彼らの部屋に遊びに行っていてすっかり夜更かしだったので起きたら12時を少し回っていた。

今日は特に予定はなかったのだが、せっかくラパスに来たのでおみやげ物屋と白人向けのカフェや安宿のあるサガルナガ通りへ行ってみる事にした。リャマのセーターやカバン何かが所狭しと売られていた。あとはけーなやサンポーニャ等の民族楽器。

僕はサンポーニャが欲しかったので、土産物屋ではなくちゃんとした楽器屋に行ってみた。さすがに楽器屋にはいいモノが置いてあった。吹かして貰っても音が違うのがわかる。ただ結構値段が張ったので迷ったあげく結局おみやげ物屋で10本以上吹いてみて、一番音程のしっかりしたモノを買った。値段は何と楽器屋の1/8だった。

買い物の後は久しぶりに甘いモノが食べたくなって、ダンボというケーキのチェーン店でパフェを食べた。さすがに朝寝坊するともうこれだけで夕方になってしまう。宿に戻ってからインターネットをしたりしているとすっかり遅くなってしまったので、最近ボリビアに進出したバーガーキングで夕食となった。

明日は早起きしていよいよペルーだ。


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