このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 
ボスニア・ヘルツェゴビナ傷跡編
(モスタル〜ズボルニク)
 


8月1日 墓標(モスタル〜サラエボ)

国境を越えて川沿いを逆上っていく。するとあちこちで破壊されたり、壁じゅう銃弾でぼこぼこになった家がそこら中に見られる。どうやらモスタルの街に近づいてきたらしい。

モスタルは川沿いの閑静な街だったのだが、この町の中心の通りが当時最前線になっていて、街を巡ってセルビア人とクロアチア人が戦い続けたため、街のほとんどがズタズタになってしまったらしい。たぶんここはボスニアでもかなりひどい所だと思う。

もう一度整理すると、ここボスニア・ヘルツェゴビナは主にクロアチア人、セルビア人、そしてモスリムが入り乱れていた地域だったらしい。そして内戦がおこりクロアチア+モスリム対セルビアの間で戦いが繰り広げられた。そして結局国連の仲介で、北側半分をセルビア人共和国(RS)、そして南側をモスリムクロアチア人連邦(FD)とすることで合意に達したという話だ。

つまり一つの国でありながら、二つの共和国の間にはまったく交流もなく、逆に言えば何故一つの国なのか訳が分からない状態なのだ。

バスは当然サラエボに到着するのだが、サラエボは丁度二つの境界に位置していて、クロアチアから来るバスは当然FD側のターミナルに着く事になる。二つに別れているとはいっても、実質市街地のほとんどの部分はFD側に属している訳で、ここではセルビア人が少数派になっているらしい。

バスはサラエボ市内に入ると、スナイパー通りと呼ばれていた大通りを走っていく。戦争当時、この通りにはたくさんのビルが建っていて、通りの上を動く者は全てビルから狙撃されて殺されたらしい。ここもモスタル同様当時の最前線になっていたのだろう。

サラエボに着くと、おじさんはドイツマルクを全く持っていないようだった。そう、ここは全てドイツマルクの世界でもちろん米ドルも両替出来るのだがマルクならそのまま駄菓子から飴一個まで買えてしまうのだ。そんなわけで、トローリーの切符を立て替えて、泊まるところも宛が無いらしいので、隊長に紹介してもらった宿へ連れていって一緒に泊まる事にした。

なかなかお年寄りの旅行者の話を聞く機会と言うのも少ないので、結構いろいろと興味深い事を聞かせてくれた。そして一緒に銀行を探してやっとの事で現金を手に入れると、今度はタクシー代を出してくれて一緒にオリンピックスタジアム跡へ行くことになった。

当然オリンピックスタジアム自体はまったく見るべき所ではない。今は寂れて当時のオリンピックの塔が空しくそびえ立っているだけだ。では何が見所なのかというと、そのスタジアムの周りが一面墓地になっているのだ。何だか平らな長方形の所もあって、ひょっとしたら以前はサッカーグランドだったのかも知れない。

墓の規模自体は日本にももっと大きな墓園はあるのだろうが、驚くのは整然と並んだ墓標のほぼ全てが、1992〜93年、つまり戦火が一番激しいときに亡くなったとう事だ。それ以前の墓は一部の地域に数える程しかなく、戦争が始まってからどんどん墓地を拡張していって今のようになったらしい。

犠牲者はクロアチア人もモスリムも同様で、生年と没年から計算すると、多くの20〜30代の若者が犠牲になっていて、何だかいたたまれない気持ちになった。

しばらく見渡す限りの墓地をながめてから僕たちは次の見所、オスロボジェーネ新聞社へ向かうことにした。ここは戦争初期にめちゃくちゃに破壊されてしまったらしいのだが、それでも地下のシェルターを使って一日も休むことなく新聞を発行し続けたらしい。

多くのビルが修復れたり取り壊されたりしたなかで、ここはメモリアルとしてそのまま残すことになったらしい。きっと当時はこんな感じでかなりの建物がめちゃくちゃに壊されていたのだろう。少し呆気にとられながら写真を撮るために新聞社の周りを歩き回っていたのだが、ある時僕は「はっ」と我に帰った。

そう言えば、サラエボ市内には今でも地雷が残っていて、外を歩くときは舗装路か轍の上を歩くように言われていたのだ。僕は自分の足跡の上をそのまま通って舗装路まで戻った。

サラエボの見所と言えばはやり戦争の傷跡に尽きるのかもしれない。そんなわけで日も傾いてきたので街へ戻ることにした。さすがにおじさんは僕と同じペースであちこち歩き回ってつかれたのだろう。街に戻ると真っ先に「お礼にごちそうするから食事でも行きましょう」と誘ってくれた。しかもいつも行ってるような所ではなく、魚料理のレストランだ。

大した事をしたわけではないのに何だか恐縮してしまうが、せっかくのご厚意なので甘えることにした。久しぶりの魚介類豪華な食事は最高で、一気に平らげてしまっておまけにおじさんの分も少し戴いてしまった。
 

 
丘を埋める一面の墓標
 


8月2日 二つの国(サラエボ〜ベオグラード)

ここ旧ユーゴは本当に駆け足の旅になっている。しかし逆にかなり内容が濃い旅ができている。今日のバスは9時45分発なのだが、今日の行き先はベオグラード、つまりRS側のバスターミナルから出発するので7時には起きて荷物をまとめた。おじさんは年配なので眠れないのか6時には起きてごそごそしていたようだ。

結局7時半頃に宿を出て、トラム乗り場で別れて僕はRS側の境界を目指してトローリーバスに乗った。当然トローリーバスはFD側の領域のみを走る。そして住宅地の真ん中で終点、そしてその先はRS地区だ。バスを降りてしばらく歩くと荒れ地の中にぽつんとRS側のバスターミナルがあった。

こちらのバスは結構古くて、エアコンもはいってないのだが、値段の方はクロアチアからのバスに比べるとかなり割安だった。ここでうまくやりくりして、ボスニアマルク(KM)を使い切る。バスターミナルの売店でパンとコーラを買って乗り込む。

そう言えばRS側に着いてから気が付いたのだが、RS側に入るとあれほどたくさんあったボスニア国旗が全く無いのだ。バスは曲がりくねった山道を登って、いくつかの街を通り過ぎていく。バスが古いのでほとんど歩くようなスピードで登っていく。

その後もやはりボスニアの旗は無く、軍事施設らしきところにもユーゴの旗が建っているだけで、結局国境脇の橋のボスニア側に、ユーゴ国旗と申し訳程度にボスニア国旗が建っていただけだった。出国審査に来た警官の制服にもボスニアの旗はついていなくて、ユーゴ国旗の色をベースにした紋章の様な物が着いているだけだった。つまり実質ボスニア北部はユーゴの物なのだろう。

ユーゴに入るとあれほど山がちだった地形も平らになってきて、見渡す限り広大な畑が見える。そう思うとほんとユーゴというかこの辺りの東ヨーロッパはかなりの農業国なのだと思う。

結局ベオグラードに着いた時には6時を回っていた。前の同じプライベートルームにいるとまたまた懐かし顔に出会う。宿は満室だったのだが、僕はソファーで眠れることになった。やれやれ。
 

 
破壊された新聞社
 サラエボにて
 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください