このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
目がさめたのは夜も明けぬ4時頃だった。どうやら列車はトルコ側国境のカピクレ駅に到着したようだ。係員に起こされてホームにあるポリスチェックで出国スタンプをもらった。すぐに出発してブルガリア側の入国審査だと思っていたのだが、列車は一向に発車する気配が無く、再び横になって眠ることにした。
次に目がさめるともう回りはかなり明るくなっていて、周りを見回していると鉄条網や監視塔が見えてきた。遂に国境にやって来たのだ。緩衝地帯の森を抜けると看板がキリル文字に変わり、風景も少しヨーロッパの農村という感じになってきた。
最初の駅に止まると早速イミグレーションの職員が乗り込んできた。ブルガリア側は列車内で手続きができるのだが、これが予想外に厳しかった。どうやら最近東欧では日本の偽造パスポートを使って不法就労する中国人が激増しているらしく「何処から来た?北京か?その靴は中国製じゃないのか?」等と厳しい口調で追求された。ルーマニアビザがパスポートにあったのも悪かったのかもしれない。
「ひょっとして入国拒否?」と不安になったのだが、紙に書いたサインとパスポートを見比べてしばらく考え込んだあと無造作にスタンプを押して口笛を吹きながら隣のコンパートメントへと去っていった。まったく、人の迷惑を考えろよ中国人め!(笑) ともかく、こうして僕は生まれて初めて国際列車で国境を越えを無事終えたのだった。
この辺りから列車はほぼ各駅に止まるようになった。国際特急のはずなのに見渡す限り畑で家一見ないような駅を次々に止まるので、まるでローカル列車に乗っているようでうれしかった。この辺りはたぶん共産時代に建てられて、維持費がカットされたため廃墟になったと思われる工場のような建物がたくさんあって、一見貧しい国に見える。しかも全然街らしきものが現れないので「本当にこの列車、ちゃんと目的地に向かってるのか?」と不安になってきた頃、突然たくさんの建物が視界に入った。プロブディフだ。
列車を降りてから念のためホームの係員に確認しようと「プロブディフ?」と訪ねると係員は表情も変えずに「ホームから離れろ」と手で合図するだけだった。その逆に態度が共産主義の亡霊を引きずっているようで何だか逆にうれしくなってしまった。僕は今までとは全く違う文化圏にやってきたのだ。
駅を出てからは少し困ってしまった。情けない話なのだが次にどう行動していいのか全く分からないのだ。とにかくお金がいるので駅の2階の銀行で両替したまでは良いのだが、はてどうやって宿を探して良いものか?
最初は駅にわらわらと民宿の客引きがいたり、紹介所があったりというのを想像していたのだが、どうやらここではそう言うのは期待できないらしく、仕方がないので町中のインフォメーションまで行くことにしたのだが、タクシーに聞くと「10レバ($5)だ」とまったくボリボリで、仕方無しに3キロ程の道のりを重い荷物を背負って歩くことにした。
通りは石畳で回り全てがキリル文字の世界だった。変な話なのだが泊まるところの宛も無いのになんだか少しわくわくしてしまう。しばらく歩くと街の中心らしい大きな広場に出た。無意味に広くて革命戦士の銅像なんかがあったりしてなかなか旧共産圏らしい。そこから歩行者天国の繁華街を歩いていくとインフォにたどり着くはずだったのだがいざ着いてみると何処にもそれらしき物はなかった。30分ほど探し回っていると地元の英語をしゃべれる女の子が見かねて「何か迷ってるの?」と声をかけてくれた。
「民宿を探しているんだ」と言うと、「ここのインフォはだいぶ前に閉鎖されたので、この先に別の所があるよ」とわざわざ地図を書いて説明してくれた。彼女はイギリスの大学で勉強しているらしくたぶん夏休みで里帰りしているのだろう。流暢な英語を話した。
彼女が「すぐだよ」といったインフォはなかなか遠かったのだが、ともかくそこで予算に合う民宿を紹介してもらえた。一泊$8で家主はエカテリーナというおばあさんだった。ばあさんはとにかく全く英語が出来なくて、こっちはまったくブルガリア語が出来ないのに、何かとブルガリア語で一方的に話しかけてくる。
状況はなかなか楽しいのだが、あまりにも何を言っているのか分からないので少しつらいところもあった。宿はいわゆる官舎っぽい質素な作りのアパートで、それは石畳の並木の道のそばにひっそりと建っていた。
いつもなら夜行の移動もへっちゃらなのだが、国際列車というのは意外な落とし穴がある。それは国境で起こされて手続きをしなければいけない事で、必ず入国と出国の2回起きないといけないので、あまり眠る事が出来ないのだ。そんなわけでシャワーを浴びて横になるとそのまま泥のように眠り込んでしまった。
次に目がさめるともう日が傾いていた。旧市街のいい感じの街並みを抜けて歩いていくと高い丘が見えてきた。どうやら昔の遺跡らしく展望スポットでもあるようなので登っているとたくさんのグループやカップルが夕日を見に来ていた。夕日自体はかすんでいてあまり綺麗に見えなかったのだが、山の上からの街並みは今までのどの国とも異なった感じがした。
ヨーロッパ風の街並みや、ローマ時代の遺跡なんかをみると、いよいよ本当にヨーロッパにやって来たんだという実感が沸いてきた。
昨日さんざん昼寝をしたにもかかわらず、朝寝坊だ。10時過ぎに起き出して朝食を食べに街へと出かけ、昨日ビールを飲んだいい感じのカフェでブルガリア風サンドイッチとコーヒーを頼んだ。
そしてサンドイッチをほとんど平らげた頃に突然嵐がやって来た。なにやら荒れ模様であちこちのテーブルのパラソルが風に吹き飛ばされて壊れたりして辺りは騒然としていた。自分にすればここプロブディフに来てからたまらないくらい暑かったのでこのまま涼しくなってくれと期待してしまう。
風は全くやむ気配もなく、太陽が照りつけているのに辺りは嵐の様相だった。タンポポの綿帽子が空を覆い、ちぎれた木の枝が飛んでくる。時折突風で巻き上げられた大きな粒の砂が腕や足にバチバチ当たって痛くてたまらなくて、思わず建物の陰に隠れる。
そんな嵐の中を昨日行けなかったローマ劇場跡へと向かった。旧市街から教会を見ながら丘を登っていくと突然目の前にローマ風の半円の劇場が現れた。それは劇場跡というよりもまさしく劇場で、タダ見防止のプラスチックの板と音響機材、ステージの照明なんかが据え付けられていた。たぶん今夜あたりなにかイベントでもやるのだろう。プラスチックの板は先ほどの嵐で壊れたり吹き飛ばされたりして、劇場の中の様子もばっちり見ることが出来たのだが、そんな感じで余り感動というほどの事はなかった。
午後からは昨日見過ごした旧市街の見所を回ることにした。見所といってもだいたい、古い「だれそれの家」とかいうのがほとんどなのだが、復興形式とよばれるブルガリア風の建築に石畳の坂道となかなか味のある街並みだった。
旧市街を歩いていると一人の英語を使う青年に出会った。何でも大学で放送関係の勉強をしていて、ローカルラジオ局でDJをしているらしい。そして今家に日本の女の子の友達が来ているとかいっていたのだが、なんとなく少し怪しかった。
元々ブルガリア人は控えめで、滅多なことでは向こうから話しかけてきたりしないらしいのだが、彼は終始フレンドリーだった。そして「宿に帰る」と言ってもずっと着いてきて、どうやら何かを期待しているようだった。アパートに着くと「ここがホテルなのか?」と驚いていた。「お土産をくれ」とか何とかいっていたのだが、相手にしないとわかると残念そうに引き上げていった。
悪い人では無さそうなのだが、なかなかこの先何処まで人を信用して良い物か悩んでしまう。
何だか最近朝が弱い。たっぷり寝ているはずなのに全然起きられないのだ。何とか気合いで起きあがり10時まえに出発しようと支度をしていると、プライベートルームのばあさんが入ってきてブルガリア語で延々話しかけてくる。
何だかよく分からないのだが、ジェスチャーからするに「困っているからお金を欲しい」とか「有料で朝食を食べていかないか?」とかそんな感じだった。どっちもアレなので、さっさと別れを告げて通りにでた。2日前「どうしたものか、、」と考えながら歩いてきた歩行者天国も今日は土地勘もあって楽しい。
駅に着くとすぐにソフィヤ行きがあったので早速切符を買ってホームへと向かう。いまいち出発ホームが分からなかったので近くにいたスーツを着た大学生風の集団に訪ねてみると、何と彼らは日本でもよく見かける「モルモン教」の布教活動の若者達だった。当然アメリカ人なので英語もペラペラだった。
ブルガリアは首を横に振ったら「yes」の意味だとか、色々ブルガリアの事について教えてもらっているうちに列車がやって来た。列車は大幅にオーバーランしたので、走って列車を追いかけているうちに一行とははぐれてしまった。
列車はしばし田園風景の中を走り続ける。プロブディフの時もそうだったが、街の近くでさえほとんどの地域が見晴らす限りの畑や森で「本当にあと10分で街に着くのか?」と思ってしまう程だった。ソフィヤも若干他の街よりは大きい物の、思っていたよりこじんまりとした街だった。
プロブディフでの失敗を繰り返さないため、早速駅の地下にある「ИНФО」(インフォメーション)でプライベートルームを申し込む事にした。何軒か電話したあと「少し高くなるけどいい?($10)」と紹介された宿は最高だった。ホテルなら$50ぐらいは払っても良いんじゃないかと言うような広くてログハウス風の綺麗な建物だった。
宿のおばちゃんも、片言の英語とドイツ語をごちゃ混ぜなのだが、十分会話が成立するレベルで、街への行き方とかいろいろ教えてくれる。何よりもフレンドリーで親切な対応が旅の疲れをいやしてくれる。
宿が決まると休む間もなく早速市内へと繰り出す。宿からは一度アレクサンドル・ネフスキー寺院へ出た方が便利らしいので教えてもらった通りトローリーバスに乗る。ソフィヤのバスは全て事前に売店でビレットを買ってから乗らないといけなくて、乗り込むとバスの柱に備え付けてあるパンチでビレットに穴を開ける事になっている。この穴はバス一台ごとに全て異なっていて、この穴開けを忘れると「不正乗車」としてかなり罰金を取られてしまうらしい。
最初に訪れたアレクサンドル・ネフスキー寺院はバルカン半島最大の寺院らしく、その巨大な建築から壁画、シャンデリアまで素晴らしかった。ソフィヤの見所は割と一カ所に固まっているので、そのあとも聖ソフィヤ教会、ロシア教会、旧共産党本部、聖ペトカ地下教会、聖ネデリヤ教会などを次々と回った。
中でも地下教会はイスラム全盛期に建てられたらしく、一段下がった半地下に建っていて更に階段で地下に下りると入り口があって、そこから再び祭壇のある階まで上るようになっている。内部は崩れているものの綺麗な色の壁画が残っていた。当時のイスラム全盛時代には異教の教会はこのような形式で建てるしかなかったのだろう。
ソフィヤの中心部は若干雰囲気が暗い物の西側諸国とくらべて遜色無いと思う。通りにはたくさんの広告が立ち並んで、マクドナルドもあちこちにある。そうそう、ここで驚いたのはマクドナルドのメニューに何とビールがあるのだ。値段も40円ほどだった。いろいろな国のマックにいったが、これは初めてだった。
一通り街を見回してから明るいうちに宿に戻ることにした。宿では外の芝生の庭でおばさんがくつろいでいた。宿は本当に快適で、もう少しソフィヤに観光資源がいっぱいあれば十分沈没出来てしまいそうだ。
ソフィヤ近郊というかブルガリア最大の見所に「リラの僧院」というのがある。そこへ行くツアーもあるのだがかなり高いらしい。そこへ行く直通バスもあるらしいのだが、これまた朝6時半発と少し早すぎる。なにせターミナルが街の外れにあるので宿からだと5時には出発しないといけない計算になる。それはたまらんと言うことで、リラ付近で最大の街であるブラゴエフグラード(アクセントは「ゴ」でよろしく!)に向かうことにした。
何も考えずに駅に行くと次の列車まで3時間以上あるらしい。途方に暮れていると、バスの客引きとかタクシーとかが集まってくる。さすがに首都の鉄道駅で声をかけてくる人を信用するのもヤバそうなのでそうそうに立ち去って、すぐ近くにあるバスターミナルらしき所へ行ってみた。
なんとなしに覚えたキリル文字をフル動員して行き先を解読していくと何と「БРАГОЕВГРАД」と書かれたバスを発見した。ばっちりブラゴエフグラード行きだ。ただそのバスは満員だったので見送るとすぐに40分後に出るバスがやって来て、それに乗ってソフィヤの街を離れた。
バスは車をかき分けて街を離れると、順調に山がちな郊外の道路を走り続ける。そしてしばらく走ってから急に街道を外れて小さな道へと入っていった。そして小さな村をいくつか通り過ぎていくのだがこれが本当に中世の街並みのようで、両脇にはブドウ畑が広がっていて村の中心の小さなカフェでは昼間っからおじいさんおばあさんがビールなんかを飲んでいた。なかなか微笑ましい光景だった。
ブラゴエフグラッドに着くとまたまたやられてしまった。たよりにするはずだったバルカンツーリストが開店休業状態というか、実際に休業していたのだ。そんなわけで民泊をあきらめて近くの山の上にあるという一泊$14のホテルへ向かうことにした。そしてホテルは本当に山の上にあった。なんでそんな所に建てるかなあ?ホテルに着いたときはもう汗びっしょり、リュックの重さで肩が外れそうだった。
早速ベッドに倒れ込むのだがしばらくすると天気が怪しくなってきて遂に雨が降り出した。今日はなんだかひたすら時間を浪費してしまったような気がする。
いよいよリラの僧院へレッツゴーなのだが、いまいちどうやって行っていい物やらよく分からない。とりあえず街のアブトガラ(バスターミナル)へ行ってみると30分後程にリラ村行きのバスがあってすぐに乗ることが出来た。
バスはなぜだかドイツ製の中古(かなり古い)のハイデッカーだった。そしてバスは昨日にもまして田舎の村々を遠回りしながら通り過ぎていく。思わず全部の村で一階ずつ降りて村の親父とカフェでお茶でもしたい気分だったが今日はなにせ急がなければ行けなかった。
しかしせっかく急いだのにリラ村から僧院行きバスは何と12時40分発だった。何と3時間もあるではないか。うむむ。仕方が無いので通りでヒッチハイクをする事にした。ゴミ箱で段ボールを拾ってヒッチハイクボードを作った。
しかしブルガリアのヒッチはその国民性なのかなかなかうまく行かない。地元(田舎)の人は親切なのだが普通僧院なんかには行かないのだろう。そして僧院に行く人はだいたいソフィアから来た家族連れなのだ。やっとの事で止まった地元のカップルの車なのだがいきなりメモに「20DM」と来た。さすがに20はきついので「10レバならいいよ」と言うとあっさり交渉がまとまった。事実片道20キロ(帰りは空車)で500円なら文句も言えないだろう。
そうしてやっとのことでたどり着いた僧院は苦労の甲斐あって凄かった。この僧院の中心には最近修復されたという「聖処女教会」が建っていて、その修復の為に国外に散らばっていたブルガリアの超一流美術家達をわざわざ呼び戻して壁画の修復に当たらせたらしい。そのせいかどの壁画も唸るほど素晴らしいのだ。
例に寄ってアホ面でひたすら壁画を見上げる事数十分、大体満足したので周りの僧院をぐるりと回ってみる事にした。この僧院は現在でも使われているのかどうかはよく分からなかったが、一部旅行者に解放されていて$15程で泊まれるらしい。
しかも当初こんな所には宿泊施設なんて無いと思っていたのだが、食事中に知り合ったベトナム系フランス人によると、すぐ近くに$5で泊まれるドミトリーがあるらしい。しかしそんなに宿泊施設があっても、ここまで来るのはソフィヤ6時半発の直行バスとか、リラ発の日々3本ほどのバスぐらいしかないのに不思議だ。
ここに泊まる事にも心惹かれるのだが、数少ないバスの時間が迫ってきたので僧院を後にする事にした。そしてラッキーな事になぜかこのバス、リラ村行きのはずなのだが全面に「СОФИЯ」と書いている。運転手に「ソフィヤ?」と聞けば「ダー」と答える。そして5レバ払ってアッという間に車上の人となった。
帰りはやはり疲れがたまっていたのか、ほとんどの道のりを寝倒していた。意識が戻るともうそこはソフィヤで、ほどなく町外れのターミナルで降ろされた。そしてまず宿探しをしなければいけないのだが、電話をかけるのにカードが必用で、しかも日曜日なので全ての店が閉まっていてどうしようもない。
仕方がないので情報をたよりにトラムに乗って市の中心に向かうのだが、何と途中で終点だとか言われてしまう。日曜だからかな?と思っていたら、途中に道路工事で巨大な大穴が空いていて、無情にもトラムの線路をぶった切っている。こんなメインの幹線を通行止めにしてしまうなんて、ひどい話だ。
仕方なく代替えのTM5とかいうバスで市内に向かうのだが、ここでもテレカは買えなかった。万策尽きたて「もう直接乗り込むか」と思ったところに親切なおじさん登場。このおじさん、空港で働いているらしく流暢な英語を話した。あちこちの店でカードを探してくれたのだが結局何処もしまっていて、電話局まで連れていってくれた。電話を探している間におじさんが「ルーマニア人は怠惰だ。長い間社会主義だったからね」とぽつりと言った。
宿のほうは前の気に入っていた宿はあいにく留守なようで、もう一軒情報ノートからメモっていた民宿に連絡が着いて、迎えに来てくれることになった。親切なおじさんも最初はタイミングが良すぎたので少し疑ってしまったのだが、宿が決まると笑顔で「良い旅を!」と去っていった。うたがってごめんなさい。
結局出迎えのおばさんに連れて行かれた宿は、バスターミナルの目と鼻の先だったとさ。ちゃんちゃん。このおばさんは「サチコさん」といって流暢な英語を話すのですごく頼もしい。さち子といってももちろんブルガリア人で実際は「САЧКО」(SACHKO)なのだがなんだかたよりになる近所のおばちゃんといった感じだ。
夜はさち子さんが別料金でブルガリア料理フルコースのフルコースを作ってくれた、久しぶりの豪華な食卓だった。はやりたまには贅沢しないとね。
当初の予定ではここソフィアからマセドニア、ユーゴ方面へと下る予定だったのだが、せっかく目の前にルーマニアがあるのでそのまま列車で北上する事にした。列車の予定はさち子さんに全て教えてもらったのでばっちりだ。
とりあえず少し朝寝坊をしてからパッキングして10時頃には宿を出て駅に向かう。荷物を駅に預けてから案内係に最終確認をした。意外だったのは値段を聞くと「国際列車は国際カウンターで聞いてくれ」と片言の英語をしゃべった事だった。言われたとおりツーリストカウンターでブカレスト行きの列車のチケットを購入した。約$19と国内に比べるとべらぼうに高いのだが、真夜中に国境で降りて切符を買えるものかどうかも不明なのでおとなしくその値段で買うことにした。
列車の時間までまだまだ6時間ぐらいあったので、文化宮殿(別名エンデカ)と呼ばれる所へいってみた。このエンデカは宮殿と呼べるような代物ではなくて、オーバーデザインの近代的な劇場があって、地下にチケットオフィスなどが集まっている共産時代の一台文化中心だったらしい。建物自体や広場のモニュメントも共産チックでなかなかイカしている。
この文化宮殿は共産主義も終わり少し寂れている感じもするのだが、それでも中にインターネットカフェがあって一時間200円ほどでアクセスできるのには驚いた。
早めに駅に戻ってあれこれしている間に発車時間が迫ってきた。所がいくら探してもチケットに書かれている番号の車両が全く見あたらない。焦りながら車掌や乗客に聞いてもみんなバラバラでまったくらちが空かない。たまりかねて、車掌に「何とかしてくれ」というと車両まで案内された。さっき「違う」と言われた車両で一番安い席だったためか、車両番号の札さえかけられていなかった。
今日の列車はけっこう賑わっていて各コンパートメントともかなりの人が乗っていた。発車するとすぐに山間に突入して、斜面にぽつぽつと建っている集落が中世を感じさせる。しかし列車が進むに従って一人二人と降りていき、そしてあれほどいっぱい乗っていた乗客も夕方頃までには一車両に10人程になっていた。
いつの間にか列車は山を抜けて広大な平原を走っていた。ふと気が付くと見渡す限り地平線まで全てひまわり畑だった。夕日の方を向いたひまわりはなんだか首を傾げているようだった。
やがて夜も更けてうつらうつら寝たり起きたりを繰り返しているうちにブルガリア側の国境の町に到着した。なんだか列車の切り離しをやっているらしく、いつまで経ってもイミグレ職員が来ないので、ひょっとして寝過ごしたのか、それとも降りてどこかに行かなければいけなかったのかと少し焦る。1時間以上してから急に職員がやって来て、無線機でパスポート番号とかを照会したあと「ガシャッ」とスタンプを押してくれた。そして列車はゆっくりと動き来だした。
しばらくすると大きな自動車用のイミグレーションが見えてきた。照明に照らされていて、真夜中なのに何台かのバスとトラックが停まっていた。そしてそれを過ぎると突然大きな川が現れた。ドナウ川だ。真夜中なのであいにく水の色はわからなかったが「これがドナウ川か」と思うと感慨深かった。そしてまもなくルーマニア側の駅に到着して、ここではあっけないほど簡単に入国審査が終わった。
やっとの事で手続きから解放され、ふたたびコンパートメントの長椅子にごろりと横になるともう意識は無かった。何度かうとうとと目がさめたりしたのだが、気が付いたら列車は街の中を走っていた。いよいよルーマニアの首都ブカレストにやって来たのだ。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |