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カナダ編

(バンクーバー〜大阪)


8月11日 屈辱のカナダ入国(サンタクララ〜バンクーバー)

朝起きるとさすがにのどがカラカラだった。僕の方は台所へ行って麦茶を何杯か飲むと落ち着いてきたのだが、上司の方はかなりやばい状態になっていたようだった。やっぱり普段の調子で飲んではいけないお酒なのだろう(笑)

9時を回った頃にいよいよ出発準備をはじめる。今回の借りていたマシンのデータを、ありがたく頂いたUSB対応HDDに移す。荷物をパッキングして一息つくと出発の時間がやってきた。

上司にマウンテンビューの駅まで送ってもらってそこからおとつい乗ったカルトレインで空港へ向かう。サンフランシスコはカルトレインの駅前にあって、しかも空港ターミナルまで無料シャトルバスがあり 至れり尽くせりだ。わずか$3で1時間も離れた空港にたどり着けてしまった。

空港は馬鹿でかくで少し迷ってしまったが、そこはアメリカ、インフォメーションで訪ねるとチェックインカウンターのあるところを丁寧に教えてくれ、カウンターでも黒人のフレンドリーな係員がてきぱきと搭乗券を発券してくれた。

結構な時間があったので窓から発着する飛行機をながめながら「ああ、こんなふうに、もう旅も静かに終わるのかあ」などと思っていたのだが、まさかのカナダでとんでもない目にあってしまった。

2時間のフライトを終えて近代的なバンクーバーの空港に到着すると前の方の席だった僕は真っ先に飛行機から飛び出し、意気揚々とイミグレーションに向かった。今回はアメリカ入国の時と違ってリターンチケットもあるし、全く何の心配もする必要がなかったのだ。

そしてイミグレーションで「観光」と答えて素通りかと思いきや、なにやらいろいろつっこんだ質問をしてくる。僕は全くやましいところなんてなかったのですべて正直に答えた。

「カナダに知り合いはいるの?」「いません」
「今日はどこに泊まるの?」「ユースとか安宿に泊まろうと思ってます。」
「予約はしてる?場所は知ってるの?」「いえ、知らないけどカナダなら立派なインフォもあるし、そこで予約します」
「旅行資金は?」「7年もエンジニアやってたんで、ばっちりです。」

こんなやりとりのあと「行っていいわ」といわれたので、やけに手間取ったなあと思いつつも、出口の方に向かっていくといきなり出口で捕まって「こっちだ」と別室へつれて行かれた。そういや税関申告書の上にところにバッテンが書いてある。「まったくなんだよう」と思うながら検査台の所で荷物を広げる。

「別に怪しいものも持ってないし、楽勝!」と思っていたのだが、荷物が少なすぎたのか「荷物はどうした?」と聞かれた。「ホンジュラスで全部盗まれて、新しく必要最小限のものだけを買ったんだ」と答えると、パスポートを見ながら見る見る表情が険しくなっていった。

どうやらカナダは、イミグレーションと税関の棲み分けがあまりはっきりしていないらしく、税関職員が入国に関する取り調べも行っているようだった。「2年も旅行をしてるのか?お金はどうした?途中の国で働いたのか?」と、このビザ泥棒めと言わんばかりの対応だ。

当然本当の貯金額を答える。そしてクレジットカードを2枚見せるとそれを持って奥の方に消えていった。カード会社に照会に行ったのだろう。戻ってくると貯金額やカードの限度額なんかを二人ががりで交互に、しかも何度も同じ事を聞いてくる。「カナダで働くのか?」と。

僕はこの辺でたいがい腹が立ってきた。僕がカナダに来たのは3日間の無料ストップオーバーがついていたからだけで、でなければ誰がこんな国にくるか!同じような問答が繰り返され、僕は荷物に入っていたティッシュ一枚からシャンプーの容器まで徹底的にあけられ、カゼ薬を見つけると「なんだこれは!?」と険しい顔をして聞くので「かぜ薬だ」というとまたまた別室に持っていっていちいち調べられてしまった。

そして検査は身体検査までいってしまった。隅っこのついたての所へつれて行かれて、服こそ脱がされなかったものの、僕は胸の貴重品入れを全部探られ、ポケットの中のも全部出さされ、屈辱にも壁に手をつかされて、ボディーチェックまでされてしまった。 搭乗じゃなくて今から街へ出るのにだ。

帰国の、しかも日付の変更できないチケットを持っているにもかかわらず、さんざんの扱いに「じゃあ、このチケットを今すぐ変更しろよ!今すぐ出ていってやるよ。こんな給料の安い二流先進国で誰がはたらくもんか!」と喉のあたりまで出かかったちょうどそのに「行っていい」と申告書にスタンプが押された。

「君には二つの選択肢がある。この荷物を自分でつめるか、私たちがつめるか」おまえが詰めるのが当然だろう!と言いたいのを押さえて、自分でバラバラにまき散らされた荷物を詰め込んで出ていくと係員は「協力ありがとう」と手のひらを返したように言った。

その後僕はその「無罪」のスタンプの押された紙を持って再びイミグレーションへ向かい、簡単な質問の後6ヶ月の滞在許可スタンプが押された。本当は「そんなにいらないから4日と書き直してくれ」と言いたかったのだが、またもめるのもあほらしいのでそのままおとなしくイミグレーションを後にした。

つまらん事で1時間も無駄にしてしまった。今日は宿探しをしなくてはいけないのだ。しかもアメリカから電話した宿はすべて満室だったので、さっそく空港のインフォに言って「安宿を探してるんだけど」と相談すると一枚のリストをくれた。これだけあれば一軒ぐらいあいてるだろう。

早速公衆電話の椅子に陣取って上から順番に電話していくが、相変わらずどこもフルだという。あまりやすい所も危なそうなので、$15ぐらいの所を中心にかけていたのだがそうも言っておられなくなって、$10ぐらいの所にもかけてみるがやはり部屋はないらしい。「こんな所で野宿か?」といやな予感がしてきたのだが、試しにかけてみた最後の2つのうちの一つでようやく空きが見つかった。しかも最後の1ベッドらしく、クレジットカードの番号なんかが必要だった。

同じような経済レベルの観光国家ニュージーランドではインフォも宿もかなり充実しているのに、ここでは思いの外苦労してしまった。電話なしで街へ出ていたらきっと宿なしだっただろう。宿の主人は「エアポートシャトルに乗れ」というのだが値段をみてびっくり、なんと$10以上もする。何とか地元のひとにききまくると、路線バスを乗り継いでいける事がわかった。とはいうものの、この国のバスはお釣りをまったくくれないので近くのセブンイレブンでアイスを買ってようやくバスに乗り込んだ。

バンクーバーは坂の街で、バスは軽く上ったり下ったりを繰り返して、やがてダウンタウンのウォーターフロントへと到着した。宿はどこにあるのかはっきりとは分からないのだが、地図を頼りにあるいてみる。おしゃれな観光客向けの土産物屋が並ぶ通りをどんどん下っていくと、蒸気で動いている時計があった。そしてさらに進んでその通りが終わってしばらく行くと寂れた一角があって、目的の宿はそこにあった。

はっきりいって玄関からみると中に注射器の針でも転がってそうな雰囲気だった。しかし他に泊まるところはないのでベルを鳴らして入ってみると、いきなり日本語で話しかけられた。ラテン白人っぽい顔をしているのに日本人のようだった。 どううやらこの宿は、日本人ワーホリのたまり場というかアパートになっているらしく、宿泊客もほとんど日本人だという。全くの偶然なのだが、日本人宿なら治安も大丈夫だろうと、出発までの3泊する事にしてお金を払った。

部屋はお世辞にもきれいとは言えなかったが、長期旅行者の自分には十分。まるでエジプトのカイロで泊まっていたサファリホテルのようだったのが、なんだか懐かしかった。同室はワーキングホリデーで来ていた二人と、もう一人は「会話」というものができない、謎な日本人だったのだが、なんだかんだ残りの二人にバンクーバー情報を聞いるうちに眠くなってきたので寝ることにした。そういえば本当に今日は長い一日だった。


8月12日 歩こう(バンクーバー)

朝起きてうだうだしていると、なんとこの宿では日中に限ってインターネットが無料で使えるらしい。何人か順番待ちしていたのだが、そのうち自分の番が回ってきたので、早速Hotmailを使って自分のメールボックスからPOPを使ってメールを引っ張ってくる。

懐かしい「買い物ママ」からメールが来ていた。斜め読みすると「バンクーバー」と書いてあったので、「あれ?何でオレがバンクーバーにいることを知っているんだろう?」と不思議に思って読んでみると、なんとバンクーバーにいるのは「買い物ママ」その人だった。さっそくメールでバンクーバーにいると返事を書いた。

他にも日本で日記を読んでくれていた人から「帰国にあわせて、そのまま大阪で飲もう」というありがたい申し出があった。中米であんな事があったにも関わらず、旅を続けて、そして表紙だけでも更新しておいてよかったと思った。

一段落して、朝昼兼用の食事をとりに街に出ることにした。バンクーバーのダウンタウンは危なそうなエリアとこぎれいな観光客でにぎわうエリアが隣接しているのだが、さすがにセントラルの方まで出ると近代都市らしくこぎれいなビルが立ち並んでいた。とりあえずベイエリアの方へ歩いてみる。どうやらまだ観光をしようという意欲は残っているらしい。

バンクーバーのウォーターフロントはどこかニュージーランドのオークランドに似ていて懐かしかった。でもそれは単に懐かしいだけといった感じもしないではなかった。フェリーターミナルの巨大な桟橋をぐるりと回ってみる。湾の対岸にはちょっと高級そうな住宅街が広がっていて、そんな風景をバックに無数のカモメが飛び交っていた。

何となく行き場を失った僕は、とぼとぼと宿に帰る。部屋に戻ると同室のワーホリで冬の間ずっとスノーボードをやっていた、ライオン頭の「ライオンくん」とそのクラスメートらしき女の子がいた。なんだかんだしばらくしゃべっていると、ライオンくんが「ちょっと寝込んでたんで、リハビリに散歩でも行きませんか?」と街を案内してくれる事になった。

最初にロブソンストリートというバンクーバーで一番の繁華街を通ってから、いかにもカナダっぽい針葉樹の公園、そしてLost Ragoonというただの池をを通ってそのまま半島の反対側のイングリッシュベイという海岸に出た。ここまで約6キロという所だろうか?散歩にしてはなかなかハードだ。

イングリッシュベイははっきり言って汚い海岸。カンクンから来た自分にはなおさら汚く見えた。みんなこんな所に寝っころがって何やってんの?!そんな海水浴客を横目に見ながら進んでいくと、なにやら絶妙なバランスで石を積み上げたオブジェみたいなのがごろごろとあった。ライオンくんによると、これはなにか原住民の習慣というかアートなのらしい。 もちろんやっているのは白人で、お金を入れる空き缶がおいてあるのは言うまでも無い(笑)

帰りは趣向を変えてバンクーバー名物「ホモ通り」を探検しようという事になったのだが、通りに入るといきなり手を握りあったやさ男のカップルや、すね毛を剃った仲良し男4人組、そして果てしなく続く虹色の旗が目に入ってきた。そしてぶったまげたのが、表にハーレーなんかがいっぱい停まっていてるカフェバーだった。

表に数人、革ジャンにトゲトゲのアクセサリ、そしてタトゥーに頭を剃ったマッチョなおじさん達。「なんだ普通の店もあるんだ」と思って店をのぞくと全員男!!しかも店の奥では熱々ムードだった。や、やられる!あわててその店を離れるのだが、この辺は本当にそういうおじさま達の社交場になっているようだった。

無事宿に帰るとなんだか疲れたのか眠くなってきてしばらくうたた寝をしてしまった。そして夜はまたまたライオンくんとなんだかんだ話をしているうちに更けていくのだった。



8月13日 両手に花(バンクーバー)

今日は平日なのでみんな学校へ行っているのかインターネットはガラガラで、朝起きてつないでみると「買い物ママ」から返事が届いていた。彼女は今友達の所へステイしているらしくさっそく電話してみると「今夜友達と韓国料理を食べにいくので、一緒に行こう」という事になった。

夜まで時間があったので、街にでて最後まで残っていたフランスフランの現金をカナダドルに両替したり、街を歩いたりした。本屋に入って気がつくと各国のロンリープラネットを立ち読みしていた自分「おいおい、まだ行くつもりか?」とツッコミを入れたり。でもそのうち行き場所が無くなって、宿に戻ってきてしまった。

夕方5時頃「買い物ママ」の友達のまほちゃんが真っ赤な車で迎えに来てしまった。「あまり小綺麗じゃ無いけど安くておいしいんだよ」と連れて行かれた韓国料理屋はここ数ヶ月で入ったレストランで一番高級だったかもしれない。味の方もまあまあで満足していたら、その後にスペシャルが待っていた。女二人曰く「デザートは別腹」。

次に連れて行かれたのは、なんといったらいいのだろう、中国風のアイスミルクティーの中にビー玉ぐらいの大きな団子みたいなのが無数に入っている飲み物だった。つぶつぶのなら飲んだことはあるのだが、この大きさは、、、そしてストローも直径1.5cmぐらいあって笑ってしまったのだが、味の方はさすが地元民のお勧めだけの事はあっておいしかった。

その後もまほちゃんは、僕の最悪なカナダの印象を少しでも挽回しようと、あちこち車で連れていってくれた。そういえば彼女は高校時代からもうずっと10年以上もカナダに住んでいるらしい。住めば都という言葉もあるが、やっぱり彼女にはここが一番なのだろうと思った。

車で大きな橋を渡って、対岸の山の上の高級住宅街に行くとバンクーバーのダウンタウンが見下ろせた。季節がらかすみがかかっていたのが残念だが、冬になって雪が積もったりすると雪明りでさぞかし美しいことだろう。最後にノースバンクーバーの港へ行ってから、両手に花の楽しいひとときは終わった。

2年間にも渡る旅の最後の夜に、こんなに普通でいて、楽しい思い出ができてよかったと思った。


8月14日 カナダからの手紙(バンクーバー)

前略、お元気ですか?

僕は今、旅の最終地点バンクーバーにいます。日本を出てからもう2つも歳をとってしまいました。
今思い返すと一直線に駆け抜けてきた本当に矢のような2年間でした。

バンクーバーを旅の最後に選んだのはある意味失敗だったのかもしれません。うまく言えないのですが、この街には僕の居場所が無いのです。今まで通り抜けた多くの街には、確かに心地のよい居場所があったのです。それはお気に入りの屋台だったり、チャイハネだったり、旅人の集まる宿だったりカセドラル前の広場だったり。そんな居場所がこのバンクーバーにはまったく無いのです。

昨日居場所を失った僕は、何となくにぎやかな灯りに引き寄せられるように巨大な吹き抜けのあるショッピングセンターへと入っていきました。吹き抜けの3階から下を見下ろすと何とそこには何と無数の星がキラキラとまたたいていました。まるでサハラで見た満天の星空のように・・・実際それは大きな噴水池の中に投げ込まれたカナダのコインなのですが、ちょっと感傷的になっていたせいなのでしょうか?ともかく僕には無数の星に見えたのでした。

旅が終わります。外に出るとすべての小さな事達が僕の無意識に飛び込んできました。すれ違う人たちの何気ないしぐさ、はるか遠くの看板の一字一句、目に写るすべての人の細かな表情が。旅での居場所を失った僕は今から日本に帰る訳なのですが、日本には僕の居場所は見つかるのでしょうか?

そちらは相変わらず元気にしてますか?
もしこの便りが届くことがあったら、もし、、、いや、そんなことはきっと無いのでしょうね。

それでは。


8月15日 End of the Road(バンクーバー〜大阪)

気がつくと日付変更線を超えていた。あと4時間ほどで僕の足跡は世界を一回りする。

それはまだ幼稚園に入る前の事だった。木造平屋の我が家に突然地球儀がやってきたのだ。内側に電球が入っていて、スイッチを入れると等高線や海の深さが色分けされて浮かび上がるというこの家には似合わない近代的な物だった。今思えば母親がセールスマンにうまく丸め込まれて思わず買ってしまったものなのだろう。

ともかく、畳の和室に置かれたこの不似合いな物体ばそのときから僕の恰好のおもちゃになった。くる日もくる日もくるくると回してみた。世界の終わりはその反対側とつながっている事がわかった。そして日本がこんなに小さいことも。世界一大きなソビエト連邦。そして日本より小さいのに大韓民国。 さらに反対側を見るとブラジルやアルゼンチン。

「でも、こんな所へなんて、一生かかっても行けないんだろうなあ」

それから二十数年の月日が過ぎた、1999年9月。僕はついに夢を実現させるための一歩を踏み出した。何も知らずに飛び込んだ韓国、中国。そしてたくさんの微笑みをくれたインドシナの人たち。詐欺や騙しだらけだけど、その詐欺師さえ愛嬌のあるインド。そして敬虔なイスラムの人々。アフリカには貧困が溢れていたが、それでも毎日人々は生きている。ブラジル人の底抜けの笑顔とインディヘナのどこか寂しそうな笑顔は全く対照的だったが、どちらも優しさで溢れていた。そして中米での最悪の事件。

楽しいことも辛いことも、うれしいことも悲しいことも。暑いことも寒いことも。いろんな事を全部ひっくるめて僕の旅はもうすぐ完結する。旅で出会った数多くの人たち、僕の旅の出演者が僕の脳裏に一人、そしてまた一人現れては消えていった。

まだまだ行きたい所もある。見たいものもたくさんある。つまり結局のところ夢は叶わなかったのだが、その方がいいのだと思った。夢は夢のまま、いつか叶う日を夢見て。

旅を終えた僕は近代的なゲートを通って2年ぶりの日本に降り立った。そして今日もまた同じような夢を叶えるために名前もしらない誰かが旅立っていく。

この日記は僕の2年間の旅、そして僕の人生の一部の記録である。もし何か夢を見ながらその一歩を踏み出せずに足踏みをしてる人がいたら、僕は優しく笑ってそっと 背中を押してあげたい。

「Hit the road!」

「さあ、行こう」 と。


世界一周旅行記 HIT THE ROAD −完−




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