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チリ北上編

(ウシュアイア〜ヴィーニャデルマール)
 


2月26日 鱒の刺身(ウシュアイア)

それにしても長い間いたものだ。ここに着いたのが2月2日だから2月のすべてをここで過ごした計算になる。滞在が長くなってしまったのは南極ツアー待ちいうのもあったが、やはり何と言っても上野さんとの出会いが大きい。言葉では表せないが、ガダルカナルで死線をくぐり、激動の昭和を生きてきた人というのは何かこう独特の雰囲気を持っている。

午前中は日記書きに追われて過ぎ、昼からは生まれて初めて大きな鱒を一匹裁いてみる事にした。これは太公望氏が釣ってきた巨大な鱒のうち一番小さいのを頂いたのだが、それでも4キロは軽くありそうだ。とにかくよくわからないので背中から包丁を入れて半分に開き、腹側も削り取るようにして無事半分に分離成功。

次に皮をはいでから繊維に垂直になるように刺身にしていく。こう書くと簡単そうなのだが、猛烈に難しくて最初の半分は中落ちのようになってしまった。最後の方はようやくまともな刺身になったのだが、これはかなり練習が必用そうだ。そして料理学校がなぜあんなに高いか妙に納得してしまった。

昼からは宿代を払いに上野さんの家を訪ねた。ここの所上野さんは少し体調を崩していたのでみんな心配していた。別れ際に「また、ちゃんと就職して暇が出来たら来ますから」というと「そんなのんびりしてたら、もう間にあわんぞ」なんていうので「うちの爺さんは93まで生きたんだから頑張って下さいよ」と釘をさしておいた。まあ今日も起きあがって豆腐づくりなんかをしてたんで、きっともう大丈夫だろう。

いつか又この最果ての地へと帰ってきたいと思う。

魚との格闘のあと


2月27日 未来(ウシュアイア〜プンタアレナス)

4時に目覚ましが鳴った。今日の行き先はポルベニール。このバスはポルベニールからフェリーに乗ってプエルトモンまで行くマイナー経路を通るので、フェリーの時間にあわせてこんなとんでもない時間に出発するのだ。

ここウシュアイアでは数は多くは無いけど良い出会いがたくさんあった。上野さん、田中夫婦、青山さん。そして今日も田中奥さんは「長いつきあいだから」とわざわざこんな時間に起きてランドクルーザーで僕とプエルトモンへ行くという謎娘をバスターミナルまで送り届けてくれた。

あわただしい別れをして真っ暗闇に停まっているバスに乗り込む。そしてバスは発車したかと思うといきなり坂道でギアが入らなくなって立ち往生してしまった。そして何を思ったか空いているはずもない部品屋の前に停まって延々携帯電話であちこち電話している。そして2時間近くエンジンルームをあけてがちゃがちゃやってから結局代替えバスを持ってきてそれで出発する事になった。だったら最初からそうしろよ、、、

この遅れは痛い。ポルベニールに行く僕は全くかまわないのだが乗客のほぼ全員がフェリーに乗ってプンタアレナスへ向かうはずだ。何だか偉いことになりそうな気がした。そしてバスは何故か2時間程走って郊外の砂利道で停まり全員別のバスに乗り換えさせられた。そしてフェリーに間に合うはずも無いのに「プンタアレナスへは問題無い」と言っているので何だかいやな予感がした。

「ひょっとしてこのバスはポルベニールをすっ飛ばして、常時フェリーがある別ルートでプンタアレナスへ行くのでは?」まさかと思ったがそのまさかになった。バスは行きに見た風景の中を走ってはしけのある港に到着した。そこで全員バスを降ろされて「ポルベニールに行く奴はいるか?」と聞いて回っていた。乗り換えたバスでプンタアレナス行きの客を運んで、ポルベニールへ行く希望者があれば、最初のバスで来た道を戻ってそこまで行ってくれるのだそうだ。

しかし今から戻っていたのでは結構な時間になってしまう。「チケットはポルベニール行きなんだけど?」と言うと「プンタアレナスでもいいのか?」というので結局僕もそのままプンタアレナスへ行く事にした。$40の所を$35で行けるので文句は無い。ほとんどの人が通り過ぎるこの未来と言う名の村に少し興味があったのだが、今回は縁が無かったとあきらめることにした。

プンタアレナスには午後7時と結構早い時間帯に到着した。それでも前回も泊まったTourismo Manuelに着いた時にはもうほとんどのベッドが埋まっていて僕たちはかろうじて今夜の寝床を確保することができた。ここは2段ベッドドミというあまり条件は良くないのだが、宿の主人が陽気なのと値段が安いので結構な人気だ。謎娘は「私、落ちるから絶対下」と僕が上段で寝ることになった。まあ寝るだけなのでどっちでもいいのだが、普通その歳で落ちるか?(笑)

宿が決まってからバスの確保へと向かった。僕はここで一度リオガジェゴへ向かってからブエノスへと乗り継ぐかチリの国内バス(アルゼンチン経由)でプエルトモン方面に向かうか迷いに迷っていたのだが、結局チリバスでプエルトモンへ戻ることにした。ちなみに値段は、リオガジェゴまで$20、そしてそこからバリロチェへは$80ぐらいする。でもチリバスならバリロチェから更に8時間のプエルトモンまで乗ってたったの$35。そして実はこの後にとてつもないおまけがつくのだった。

再びはしけ船に乗って南米大陸へ


2月28日 貸し切りバスで行こう(プンタアレナス〜プエルトモン)

バス会社へ行くとほとんど人気が無かった。昨日の説明では8時のバスはフルで、9時半のバスが有るという。そしてそのチケットを買ったのだが、座席表には僕と謎娘の二人の名前しか無い。たった二人じゃバスは出ないだろう。ひょっとしたら国境手前で人が乗ってくるのかもしれないが、不安は高まっていく。

やがて豪華なバスがやってきて言われるままに乗り込むとバスは本当に僕たち2人と3人の乗務員だけを乗せて出発した。一体こんなんで経営が成り立つのか?日本人的には「昨日の夜僕たちがあわられなければ、こんな無駄なバスを走らせる必用は無かったのでは?」と申し訳なくなってしまう。

そしてそのままチリ国境を越えてしまったのでこれでもうだれも乗る事はできない、正真正銘の「お二人様貸し切りバス」になってしまったのだった。というのもこのバスはチリの国内バス扱いで特別にアルゼンチンをトランジットで抜けられる様になっているため、アルゼンチン国内での乗り降りは一切出来ないのだ。僕達も乗客名簿を持った乗務員と一緒に手続きをするので、チリの出国スタンプこそ押されたが、アルゼンチン側の入国記録は一切残らなかった。そしてチリ出国時にバスのトランクにアルミの封印が取り付けられた。しまった、歯ブラシを出すの忘れてしまった。

アルゼンチンに入ってしばらくするとリオガジェゴの街に到着した。ここは最果ての田舎町だと思っていたら、結局今日一日これより大きな街は全く現れず、延々パンパの中をひた走ることになった。貸し切りバスで完全にリラックスした僕たちは、ブランケットを何枚かずつもってきて、思い思いの席を二席つかってうたた寝モードに入った。

目が覚めるとまたかぶりつきの席に戻ってきて景色を眺めるのだが景色は変わらない。360度見回しても草原以外何もない。「遥か草原を一掴みの雲が、あても無くさまよい飛んで行く」こんな風景をロバ、おさると延々旅したマルコはさぞかし辛抱強い子供だったことだろう。

小雨が降って2重の虹を作ってしばらくしてから夕日が草原を照らし、やがて回りが真っ暗になると景色を見ることも出来なくなってしまった。10時頃に乗務員が気をつかってビデオを上映してくれた。しかしその映画は何でこんなバスの中で?といいたくなる「シックス・センス」だった。霊感を持った少年と実はもう死んでいるドクターとのふれあいの物語だと思うのだが内容が難しすぎていまいち僕の英語力ではよくわからなかった。

謎娘は幽霊のシーンがあまりにも恐ろしかったらしく、その後明け方まで眠れなかったらしいが、僕はバスの中程に陣取って朝まで熟睡していた。たった二人の乗客の為に運転手は後退で夜通し運転していたらしい。全くご苦労様です。

チリの国境と豪華貸し切りバス


3月1日 続・貸し切りバスで行こう(〜プエルトモン〜アンクー)

朝目が覚めると昨日とは打って変わって山の中を走っていた。ダム湖沿いを走っていてなかなかの景色だ。僕は現在位置を把握するべく道路標識と地図を交互にながめたりしていた。

しばらくしてバスはバリロチェの街を通った。ここはなかなか観光地としても有名な所らしく、気に入ったらチリ側国境で降りて引き返そうと思っていたのだが、何だかあちこちで見たような感じの街だったのでそのままプエルトモンまで抜けてサンチャゴ経由でブエノスアイレスに行くことにした。

バスは長い峠を越えて途中で昼食を取ってから2時前ぐらいにプエルトモンの近くまでやってきた。ここで乗務員一人がカバンを持って降りていった。そして「何処へ行くの?」と聞かれたので謎娘が「チロエ島のアンクー」と言うと何とこのバスはチロエ島へ行くので近くまで連れていってやるという事になった。実は乗務員はプエルトモンの街をすっとばしたかったようなので、僕もどうせ宛が無いしそのままアンクーまで行くことにした。

道はどんどん細くなっていってやがて港のような所にたどり着くとよく見かけるはしけの船がやって来た。バスごと渡るので運賃もただだし至れり尽くせりだ。そしてやがてバスはアンクーとカストロ方面の分岐点で停まった。僕たちはいっぱいお礼を言ってからコレクティーボに乗ってアンクーの街にやってきた。

宿は田中奥さんのお薦めを聞いていたのでそこへ行ってみたのだが、やはり値段が少し高くて(部屋のグレードの割には格安だが)同じエリアの安宿のおばさんに声をかけられてそのままそこに泊まる事にした。1人2000ペソはアルゼンチンの物価に慣れていた僕には格安だった。

宿が決まると早速散歩に出かけた。ここの特色は壁がウロコ状になったカラフルな家々だ。特に見所というのは無いのだが街自体がカワイイ感じなので日本人には人気があるようだ。そんなまちを歩いているといきなり日本語で声がかった「コンニチワ!」おいおいこんなとこまで怪しい日本語使いがいるのか?と思って振り返ると、南極ツアーで一緒だったノルウェー人のビヤーンだった。

彼はプエルトモンまで一気に飛んでから昨日のバスでここチロエ島へやって来たらしい。どうやらここは結構有名な観光地らしい。しばらくしゃべりながら街を散歩してから目に付いたカフェに入って夕食を取った。カフェは大きなプロジェクターでMTVなんかを流していて、地元民がビールを飲んでいるような所だったのだが、ここで出てきた魚介のスープは最高に美味しかった。$5でこの味は素晴らしすぎる!さすが海鮮王国チリ(笑)これはちょっとここでは贅沢をするべきなのかもしれない。

アンクーのかわいい家々


3月2日 シーフード三昧(アンクー)

朝起きると生憎の天気だった。この前プエルトモンに来た時とまったく同じ感じで、曇ったり雨が降ったりを繰り返すといった感じだ。外に出ると霧雨が顔にあたる。とりあえず近くの砦へ行ってみた。詳しくはわからないのだが、いわゆる何処にでもある植民地時代の象徴の砲台がいくつかあるだけだったが、砦からの眺めはなかなかだった。

次に向かったのが博物館。ここチロエ島はチリ本土と隔離されていたため、原住民の文化が結構残っているようで、独特の絵画と石像がたくさん展示されていた。野外部分の回廊にはたくさんのおばあさんが手作りの民芸品なんかを売っていたのだが、気の毒にもあまりもうかってはなさそうだった。

午後からは思い切って髪の毛を切ることにした。実は南極へ行く前ぐらいからかなり伸びていて限界に近かったのだが、南極は寒いから髪の毛が長い方がいいだろうとそのままにしていて、結局切りそびれていたのだ。街を歩いていると目に止まった「UNI SEX」と書かれた美容院に入ってみた。

恰幅の良いおばさんが豪快に子供の髪の毛をじゃきじゃき切っている。 「なんか荒っぽいなあ」と思っていたのだが、僕の番はさすがに丁寧にちゃんと切ってくれた。シャンプーもしてくれてなかなかいい感じに仕上がった。最初に値段を聞いていなかったのでちょっと不安だったのだが、何とたったの2500ペセタ($4.5)だった。

頭がさっぱりして気分が良くなった僕は、謎娘と合流してビヤーンお薦めのシーフードレストランへ行くことにした。僕が頼んだのがクラントと呼ばれる、魚介、牛、ソーセージ、鶏を一緒に煮込んだ料理だ。この皿に陸海空のすべてが入っているというので前から食べてみたかったのだ。

しかし出てきた皿はあまりにも巨大だった。まあ貝殻が着いているので実際に食べられる量は見かけよりも少ないのだが、それでも魚介を食べるのに必死でイモやはんぺんのような物はほとんど残してしまった。味の方はまあまあという所だったが、やっぱり日本人的には魚介は魚介だけで食べるもんだと思った。

陸海空を征する料理クラント


3月3日 ウニワサビショーユ(アンクー〜プエルトモン〜サンチャゴ)

心残りが一つあった。それはこの前にプエルトモンに来た時にウニを食べなかった事。サンチャゴへのバスの乗り継ぎに時間が有ることだし、僕はこの前の陽気な市場へと向かった。

早速呼び込みがかかる。結構しつこい。そしてこの前はただ陽気なおばちゃん達だなあと思っていたのだが、他の店に行こうとすると途端に笑顔が消えてむっとする。やっぱりここはタダの観光地なのか?

適当な店でウニとアワビの盛り合わせを頼んだ。確かにウニとアワビはなかなかリーゾナブルな値段だったのだが、何故か缶ビール一本で1000ペセタも取られた。スーパーで買うのの4倍だ。結構ぼられた。まあ値段を聞かなかったのも悪いのだが、こんな屋台で定価の4倍はいくらなんでも取りすぎだろう。

やっぱりここは観光地だった。戻ってこなければ楽しい思いでだけが残っていたのだろうが、まあそう言うのも旅の一つという事だろう。

昼からは皮肉にもいい天気になって、革細工が並ぶ通りをバスターミナルまで歩いて戻ることにした。途中でおばさんに声をかけられてちょっと奥の方に連れて行かれたのだが、体育館のような所へ入って見ると犬のコンテストをやっていた。地方大会だからなのか結構行儀の悪い犬もいて、何だか微笑ましかった。

預けていた荷物を受け取ってから夕方5時のバスに乗った。大手のTUR BUSよりも900ペセタ安かったのでそのバスにしたのだが、バスのシートもいまいちでブランケットもお茶のサービスも無いし、やっぱり安かろう悪かろうだった。

それにしてもバスの移動が続く。よく体力が続く物だと自分でも感心していたのだが、僕はまだ体力が本当の限界に来ていた事に気づいていなかったのだった。

プエルトモンの野菜売場


3月4日 ダウン(〜サンチャゴ)

たっぷり熟睡した。目が覚めるとバスは見覚えのあるサンチャゴの街へさしかかろうとするところだった。それにしてもでかい。パタゴニアから戻ってきた僕はめまいがしそうだった。

とりあえず前に泊まっていたヌエボホテルを目指して歩く。たった1キロちょっとなのだがリュックがとてつもなく重く感じる。やっとのことでホテルにたどり着いてベッドを確保すると早速外にでて食事を取ることにした。南極以来同じく北上組のたぐーさんや謎娘も同じヌエボだった。やはり日本人貧乏パッカーが集まる所と言うのは限られているらしい(笑)

街は日曜日なのでほとんどの店が閉まっていて、あちこち探し歩いた末結局チリローカルのファーストフードでホットドッグを食べて宿に戻ってきたのだが、宿にたどり着く頃にか頭痛と目眩がひどくなってきた。ベッドに倒れ込んで熱を計ってみると、37.5度。平熱の低い僕には十分病気の範囲だ。

結局今日一日寝て過ごすしかなかった。救いだったのはついでだからと夕食を謎娘が二人分作ってごちそうしてくれた事だった。夕食を食べてからもひたすら眠った。

ウシュアイアから14時間、プンタアレナスから30時間、プエルトモンから18時間と3本のバスを乗り継いだのだが、やっぱり無理はするもんじゃ無いと少し反省した。

ふと夕方目が覚めると
こんな空が見えた。


3月5日 雑務に追われる(サンチャゴ)

朝起きたらいくぶん体調はよくなっていた。熱も下がっている。止せばいいのに僕は早速雑務をこなし始めた。とりあえず真っ先にしなければ行けなかったのがホームページの更新。この前更新したときに表紙のリンクが間違っていて南極編が読めなかったままだった。気づいてはいたんだけど、ここまで移動移動で更新する暇がなかったのだ。

表紙の修正とメールの返事を書いて、この前つかったインターネットカフェに行ってみると、何だかフロッピーを使うと割り込みがぶつかっているのか、すぐに落ちてしまう。何度かやっていると遂にシステムまでおかしくなって、店員に「ウィルスだろう?」とか言われるのだが、テキストファイルを開いているだけなのでそんなはずはないのだ結局マシンを換えてテキストファイルぐらいは読み書きできるようになったのだが、ホームページの方は更新できなかった。

昼からは少したまっていた日記を書いて夕方、加トちゃんに教えてもらった1時間500ペセタのインターネットカフェへ向かった。天気もからっと晴れて、暑くもなく寒くもなく、サンチャゴの街を歩いているだけで何となくウキウキしてしまう。途中クーデターの舞台となった旧造幣局前の広場を通って30分ほどえカフェに到着した。

ここでも結局フロッピーからのプログラム起動はセキュリティの関係上出来なかったので、実の姉にメールでファイルを送りつけて更新を頼んだ。

今回のカゼ(たぶん)は咳と喉の痛みがすごい。他の症状はこのころには完全に消えていたのだが、ここでもう一発長距離移動なんかをするとまた病気になりそうなので、しばらく休養を取ろうかと思う。

チリの国旗がたなびく憲法広場


3月6日 寝坊(サンチャゴ)

昨日はなんだかんだで夜更かしをしてしまったので起きたら昼前だった。そしてあわただしく朝昼兼用でご飯を食べるものの眠くなってそのままお昼寝。まあ体調も考えるとこれくらいが丁度なのかも。こんな事じゃいつまでたっても日本に帰れないなあとか思いながら昼下がりに起き出してバスの情報を集めるために南ターミナルへと向かう。

ターミナルに着くと国際バスの窓口が豪快に並んでいた。いくつかの会社が次の目的地ブエノスアイレス行きの看板を出していた。色々見ているとさっそく一人の客引きっぽいおじさんが声をかけてきた。話をきくと朝10時発で30000ペセタ。少し高いがセミカマと呼ばれる良い座席で食事つきなのだそうだ。

その後おじさんは日本語を覚えたいらしく「まず数字を教えてくれ」と紙に色々書いて僕の所へもってきた。僕は最初少し警戒していて、カバンやポケットに気を配りながらおじさんに1〜1000までの数字を教えて上げるとうれしそうに礼を言って去っていった。本当にただの勉強家の客引きだったらしい。

帰り道は夕方だったためか、路上のあちこちに大道芸や露店が出ていた。この前は南極しか頭になかったのだが、じっくりと腰を据えてみてみると、ここサンチャゴはかなりご機嫌な街だ。体調も完全じゃないしもう何泊かしていこうと思う。

夜のカセドラル


3月7日 ご機嫌Walk(サンチャゴ)

だいぶ体調も戻ってきた。いまだにのどの奥から咳はでるのだが、とりあえず前にもこんな事があったのでまあ大丈夫だろうと朝から散歩に出かけた。

普段は商店やら地下鉄の駅がある南側のエリアに繰り出すのだが、今日は趣向を変えて北側のエリアを探検する事にした。そしてこれが大正解で、大通はその中央が巨大な公園になっていて、たくさんのお年寄りやカップルやらで賑わっていた。

そして日陰に座っていると何やら色っぽい格好をした女の人が寄ってきて何やら話しかけてくる。最初はイケナイお誘いか?と思っていたら、手には十字架。そして回りを見回しても何人かの色っぽいお姉さんがその辺のおじさんやらに布教活動らしきものをやっていた。お色気で布教とはさすがラテン、、、

しばらく大通りを歩いて今度は市内のど真ん中にある丘に行ってみる事にした。この前来たときは町外れの山に登ったのであまり景色は期待していなかったのだが、ここはもう歩いているだけでチリが全部つまっているような場所だった。

丘は遊歩道になっていて、上の方には古い城や砦なんかがある。岩肌に刻まれた階段を上っていくとすぐ目の前に高層ビルが見える。そう、ここは高さが無いので街に近い分、街の生活、行き交う人々をすぐ目の前に見下ろすことができる。僕は一度でこの場所が好きになってしまった。きっとサンチャゴの見所で何処か1カ所と言われればここしかないだろう。

一番頂上まで登って手すりに腰掛けてると、どこからともなく覚えのあるにおいが、、、振り返るとキマっているお兄さん二人。とはいうものここはわりとしっかり警備されていて、入るときに名前を書かされたりするので公園にありがちな治安の心配もしなくていい。

お気に入りの場所を後にしていつもの歩行者天国に戻ってくると、相変わらず大道芸や露店で賑わっている。まだ南米の首都としえばここサンチャゴ以外どこにも行っていないのだが、ひょっとしたら僕は一番最初に一番いい場所を見終わってしまったのかもしれない。

ともかく明日は移動だ。

丘の上のお城


3月8日 再会(サンチャゴ〜ヴィーニャデルマール)

もう地図が無くてもスイスイ地下鉄を乗り継いであちこち行けるようになった。今回はアクシデント的な滞在だったが、おかげで土地勘も着いて少し離れづらくなってしまった。

この前迷ったり、どうやって時間や値段を聞いたらいいのかよく分からなかったバスターミナルだが、今回は結構余裕がある。簡単なスペイン語で情報を集めたりもできるし、最初チケットを買うことにさえ緊張していたのが嘘のようだ。

一度見た風景をまたまたバスに揺られる。ブドウ畑の間を抜けると懐かしのヴィーニャデルマールだ。本を一度も開くことなく、コレクティーボをつかまえて僕は1ヶ月半ぶりに汐見荘へと帰ってきた。そして中に入るといきなり再会があった。

パリから飛んできた直後にサンチャゴのヌエボホテルであった「大道芸人」だった。彼は20才なのにもう既にインドに1年とかかなりディープな旅をしている。さすがに人生経験が豊富なのか、卒業旅行の大学生のようなやんちゃさや頼りなさは全くない。

この時期汐見荘には思いの他宿泊客が少なく、結局泊まっていたのは僕と「大道芸人」そしてメキシコに何度も行っている、この辺では珍しい程美人の女の子「メヒコリピーター」の3人だ。その二人も明日一緒にペルーへ向けて出発するので、ヘタしたらここで一人になってしまうかも。

今日一応ブエノス行きのバスをチェックしておいたのでさっさと早めに行きたい所なのだが、やっぱりこの宿は居心地が最高なので思わずずるずる居てしまいそうで怖い。そして本当に怖いのは最近移動がおっくうになってきている自分自身なのかもしれない。

汐見荘の前の坂道


3月9日 ガトー(ヴィーニャデルマール)

壁の張り紙によると、ランチリ主宰のイースター島ツアーがあるらしい。料金は通常の航空券代と同じでホテルや朝食、市内観光まで着いているというお得さだ。その値段なら十分検討の余地はありそうだ。メヒコリピーターが今日説明を聞きに行くというので一緒に行くことにした。

所が担当者が病気で休んでいるとかで詳細が分からなかった。それでもメヒコリピーターのスペイン語力はかなりの物で、交渉して4時までに担当者の家に電話をかけて確認して返事をくれるらしい。しかし、電話確認するぐらいならその場でやってくれそうなものだが、そこはやはりラテンというか何というか。

そのままインターネットカフェにいくと、何だかホームページの表紙が消えているというメールがたくさん届いていた。この前FTP出来なかったので姉にメールでファイルを送りつけて更新を頼んだのだが、何かの不調でファイルが無くなってしまったようだ。とりあえず更新するつもりで用意をしてきたので写真数枚がかけている以外は復旧することができた。(もしどっか不都合が有れば連絡求む)

買い物をしてコレクティーボで帰ってきたらもう昼寝をしたくなるほどいい天気だった。ここの所昼も夜も「大道芸人」たちカップルにごちそうになっているので、お返しも兼ねてGato(猫)という紙パックの割には美味しい2リッター入りのワインを買ってきた。

そして昼からはマンガを読みながらちびちびやって、夕食までに全部飲みきってしまった。いかんいかんこんな事では。とりあえず日本に居たときはワインを飲むと(特に赤)必ず後頭部が痛くなったのだが、慣れとは恐ろしい物でこれだけ飲んでいるともう完全になれてしまった。


3月10日 坂道(ヴィーニャデルマール〜ヴァルパライソ〜ヴィーニャデルマール)

まったりと寝坊して、ゆっくりと朝ごはん。風は冷たいが紅茶のカップが空になる頃には暖かい日差しが差し込んでくる。そして本棚からおもむろに何冊か本をひっぱりだす。

そんな生活もさすがに何日もすると体がなまってくるので、今日は昼から隣町のヴァルパライソまで行くことにした。ダラダラしている間に昼飯の時間が来たので軽くかき込んでから宿の前の長い坂道を海まで下っていく。坂の向こうには海がキラキラと光っていて、何だかトルコのトラブゾンの風景を思い出してしまった。

小銭があんまりなかったので列車をつかまえようと線路沿いを延々ヴァルパラ方面へ歩いていくのだが駅は全然現れない。どうやらこの区間はとてつもなく駅間が長いようだ。額に汗がにじんできた頃僕はちょっと洒落たレストランのあるビーチにたどり着いた。

砂浜に出てみると、初老のおばさんが砂浜に何十メートルも漁の仕掛けを広げて手入れをしている。僕のふるさとでもよく見かけた風景だ。そしてその先にはたくさんのペリカンが羽を休めていた。ペリカンはとてもゆっくりと羽ばたく。その羽のしなり方も他の鳥とはひと味違うし、手(羽)足を大の字に広げて着地する様子はまるで恐竜のようだった。

しばらくして列車が来たので乗り込んだ。さっき見たのとは違う、まるでイスタンブールで走っているようなボロボロの近郊電車で、まどから海風が入ってくるのが嬉しい。海岸沿いを10分ほど走ると列車は終点に到着した。駅を降りるとそこは大きな港だった。

桟橋あたりは遊覧ボートの勧誘やら、おみやげ物屋やら、物乞いで賑わっている。街自体はちょっとヤバ目な雰囲気があるのだが、それでも今日は土曜日の昼間という事でそんな雰囲気も帳消しにしてしまうほど、家族連れやカップルばかりだった。

ヴァルパラの名物といえば、アセンソールと呼ばれる公共エレベーターだ。ただこれはモナコのものと違って全て有料なのだが、ヴァルパライソ自体が崖に囲まれた港という感じなのでそんな商売も十分成り立ってしまう。僕はちょっと変わった見所という野外美術館へ行くためにアセンソールに乗った。料金は1回110ペソ。

乗り込むとしばらくしてドアが閉められて、かなりのショックと共にゴンドラが70度ぐらいの斜面を登っていく。「これってワイヤー切れたら、、、死ぬよな」変な振動や異音を出しながらもアセンソールは何とか頂上まで無事上り詰めた。

この野外美術館は美術館と名前が付いているが、実際はその辺の民家に落書き(失礼)がしてあるような感じに見える。ただし作者はなかなか著名な画家らしいのだが、野外なので薄れてきていて本当の落書き見たいに見える。そして回りのくたびれた家々も手伝って、この丘自体が芸術作品になっているのかもしれない。総評:大した事無いけど散歩コースにはGood(笑)

帰り道の列車はスペインで見たようなハイテク冷房車だったのでちょっとガッカリしたが、さすがに乗り心地はばっちりで、危うく寝過ごしてしまうところだった。列車自体はどうと言うことはなかったのだが、キップに絵が描いてあってなかなかカワイかった。

なかなか良い週末だったのだが、さすがにそろそろ動かないとと焦ってきた。

飛び立つペリカンたち。


3月11日 秋の気配(ヴィーニャデルマール)

今朝一人女の子が「寝過ごした!」と慌てて出ていった。しばらくしてから宿のおじさんが「今日から時間変わるんだけど、あの子しってるのかな?」と言うので良く聞いてみると今日で夏時間が終わって一時間遅くなるらしい。きっと彼女はバスターミナルで待ちくたびれていた事だろう。

冬時間になったからどうと言うことは無いだろうと思っていたらいきなり寒くなった。天気が悪いのが本当の原因なのだが、なんだか空が「はいはい、夏は終わったからさっさと行きなさい」といっているようだった。

本当は今日出発しようと思っていたのだが、咳もまだ完全に止まらないのでもう一泊だけする事にした。昼間はひたすら日記を書いたりメールの返事を書いたりして、夕方少しセントロへ行ったのだが、結局インターネットをやってバスのチケットを買ってきただけだった。

ただ面白かったのが、帰りのコレクティーボの運転手がいきなり日本語で話しかけてきたので驚いていたら、以前日本のマグロ漁船で働いていたらしい。

日が沈むと本当に秋の肌寒さだ。とりあえず出発が決まったので、ここからが本当の南米旅行だと思って気を引き締めなくては。


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