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エクアドル編

(ウアキージャス〜)


6月14日 バナナ街道まっしぐら(トゥンベス〜アグアベルデ〜ウアキージャス〜マチャラ〜グアヤキル)

トゥンベスを出発したバスは30分ほどかけて国境の街アグアベルデにやってきた。僕は出国スタンプが必用なので街の2キロ程手前のイミグレーションオフィスでバスを降りた。

時間はまだ7時前で、僕はここのイミグレは8時〜17時と聞いていたのだが、何と今は24時間あいているらしい。両替屋のおじさんがイミグレまで案内してくれて、5分程で出国手続きが終わった。両替のレートは$1=3.8ソルと悪かったが、僕は残り6ソルほどしか持ってなかったので全然OKだった。

朝食代わりにイミグレの前のジュース屋でりんごジュースを流し込んでから、三輪バイクタクシーを捕まえて国境の橋まで行くことにしたのだが、これがやっぱりぼってくる。最初の言い値は5ソル。すかさず「カーロ(高いぞ!)」と言うと標準の2ソルまで下がったのだが、お金を払う段で5ソル渡すと1ソルしかお釣りをくれない。「じゃ、乗らないからお金返せ」というと残りの2ソルも返してくれた。

三輪バイクは冷たい朝の風を切って走る。イミグレは草原の中といった感じの場所なのだが、そのうち国境特有の猥雑な街が近づいてきた。バイクは何故か少し大回りをしてトラックが荷物検査をしているような所を通ってから国境の橋の手前で泊まった。降りる段になって指をこすり会わせて「チップをよこせ」という。「グラシアス じゃ!」とオヤジとペルーに別れを告げた。

橋を渡っている途中から、チェンジマネー?とあちこちから声がかかる。ここで楽なのはエクアドルの通貨がドルなので、全く両替する必用が無いと言うこと。言い換えれば、残したソルはかなり安値で叩かれることになるという事だ。国境を越えてしばらく歩くといろんな人から声がかかる。「キト?グアヤス?」と言うので最初はバスの客引きだと思っていたのだが「とりあえずイミグレまで」と言うと、親切にバス会社を教えてくれた。エクアドルに入った瞬間、白人と黒人が増えて、人もブラジルの様に何だか陽気な感じがした。これが国境というものだろうか?

国境のウアキージャスからも直接キトやグアヤキル行きがあったのだが、エクアドル側もイミグレは街から5キロ行った所にあって、バスが停まってくれるか心配だったので、ここはタクシーを使うことにした。イミグレーションまで$1だった。こういう所は金の使いどころだろう。

イミグレーションに着いてみると、結構なバスが停まっていて、白人ツーリストが手続きをしていた。なんだちゃんととまってくれるんだ。僕も入国カードを書き終えて提出すると、あっさりと90日のスタンプをくれた。そんなにいらないってば。(笑)そのままイミグレの前でマチャラ行きのバスを拾うべく荷物を置いて待っていると、警官がバスを停めてくれて、ちゃんとマチャラで下ろすように頼んでくれた。

ウアキージャスからマチャラまでの道のりは延々「バナナ街道」だった。ペルー側は夜行バスだったから砂漠からの変化と言うのが見れなかったのもあるが、なんだかエクアドルに入って急に緑豊かな大地になったという気がした。そんな風景を見ながら「今日はどこまで行こうか?」と考えていたのだが、アンデス山系には適当な中継地点が見つからず結局グアヤキルで一泊することにした。バスはマチャラの街の入り口の同じ会社のグアヤキル行きのバスの前で下ろしてくれてそのままバスを乗り換えた。

バスは引き続きバナナ街道を爆走して、3時間ほどでグアヤキルの高層ビルが見えてきた。長い長い橋を渡ってからバスは街外れの巨大なターミナルに到着した。どうやらセントロまではかなり距離があるみたいで、バスを待っている人に聞いてセントロ行きのバスに乗り込んだ。全てがドルなので高く感じるエクアドルだが、こういうバスはたったの20セントと物価に比べてとても安かった。

セントロに着いて、目星をつけていた$3の宿に向かったのだが、見あたらないので向こうから来たおばあさんに聞いてみたら、「それはもうつぶれて、この近くにマルコポーロという安い宿があるから行ってみなさい」と教えてくれた。おばあさんは別れ際に「ここは泥棒や強盗が多いから、気を付けてね」と教えてくれた。

教えられて行ったマルコポーロは宿泊料金表にMomentitoというのがあった。連れ込み宿も兼ねているらしいが、家具を持ち込んで住んでいる人も結構いた。何よりも一泊$2と安いのがよかった。

宿がきまるとさっそく街歩きに出かけた。ペルーから入るととにかくエクアドルは豊かな国に見える。緑が多いし、外資もたくさん入っている。何よりも人が陽気なのがいい。街を歩いている間も、小学生が「外国人だ」とニコニコしてこっちを見ていたり、すれ違う単なるおっさんが「オラ!」と挨拶してくれたりと気分がいい。黒人も多くて少しブラジルを思い出した。

まず最初に行ったのはセミナリオ公園という所で、ここはとにかくおびただしい数のイグアナがいて、えづけされているので餌の時間からしばらくはみんな下に降りてきてそこら中イグアナだらけになっていた。

この辺りから周りが高層ビルだらけになって、シティバンクやマクドナルド、ピザハットなんかがたくさんあった。僕は久しぶりにビッグマックを食べてみたのだが、なんだか塩味が濃いくて味の方はいまいちだった。更にグアヤス川沿いに行ってみると、綺麗な橋や川沿いにショッピングモールみたいなのがあって「ここはヨーロッパか?」と思うほどだった。ショッピングモールの上は遊歩道になっていて、何とトイレが無料と言うのがまたまた驚いてしまった。

その他にも歴史地区という所に行ってみたのだが、ここは全くダメで、辺りに小便のにおいが漂っているし、歴史というよりもタダのスラムという感じだったので早々に立ち去って、途中のスタンドで、ぶっかき氷が入った最高に美味しい生オレンジジュースを買って街のど真ん中の大きな公園でのんびりとした。

一時期通貨危機で騒がれていたエクアドルだが、このグアヤキルのセントロだけを見ていると、ドル化してからは全てが上手く回っているように見える。物価の上昇も2割ほどで収まっているし、街の表情も明るい。「出来れば避けたい」と思っていたグアヤキルだが、実際に来てみて良かったと思う。

公園のイグアナ
全部で20〜30匹ぐらいはいる。


6月15日 温泉でのぼせる(グアヤキル〜バニョス)

一泊一泊でどんどん北上している。あせっているのか?と言われるとそうなのかもしれないが、もともとアジアとかはこんなペースで回っていたような気がする。今日も一気にキトを目指したい所だが、少し疲れがたまっていたので温泉にでも浸かってゆっくりしていくことにした。

グアヤキルの巨大なバスターミナルに着くと一階のフロア全部がチケット売場になっているのだが、数が多すぎてどこで買っていいのか分からない。うろうろしていると、「ダイレクト(嘘)バニョス行き」と声がかかる。$5と言うので客引きに着いていってチケットを買うと、窓口のおばさんのくれるお釣りが多い。おかしいな?と思っていると客引きがあわてて多い分を突き返す。つまり僕は$0.5ほどぼられたのだ。やはりこんな所で声をかけてくる奴らはろくな奴がいない。

バスの方は出発時から満員だったので、全く停まらずに猛スピードでぶっとばしていく。それは山間部に入ってからも衰えることはなく、道はそんなに悪くないのだがスピードがスピードなのでバスは飛びはね、体は窓に押しつけられてしまう。4時間程かかってアンバートの街に到着したのだが、全員そこで降りてしまう。ぼられた上に騙されたのか?と思っていると、乗務員が別の会社のバスに案内してくれて、運賃の$0.7を払ってくれた。

乗り換えたバスは1時間程でバニョスの町に到着した。思ったよりもずっと小さくて、そして程良くツーリスティックで過ごしやすそうだ。そしてここでも何故か祭り。町の中心と思われる小さな通り沿いを観客が取り囲んでいる。リマで見たようなパレードがやって来るのだが、規模は小さくてほのぼのとしていた。あちこちに仮装をした子供が歩き回っていて、町の雰囲気も楽しそうに見える。

僕はその通りから少し入ったPattyという中庭のあるよさげな宿に荷物をおろすと、さっそく温泉に出かける事にした。温泉は町の外れの滝のそばにあるというので、露天風呂のような所を想像していたら、なんと全く町民プールという感じだった。

僕が着いたのはちょうど午前と午後との部の間の清掃時間だったのでしばらく待たなくてはいけなかったのだが、$1払って中に入ると、湯加減は日本人にちょうどで20分ほど浸かってはプールサイドに座ったりを繰り返して2時間ほどするとさすがに頭がのぼせてきた。懐かしい感覚だ。

温泉帰りにアイスクリーム屋に行ったら、結構安かったので大盛りにして食べてしまった。ボリビアでもペルーでもパフェを食べると$2〜3はするのに、ここは山盛りの巨大パフェでもたったの$1.2とかなりお得になっている。ほんと沈没地にはもってこいなのだが、残念ながら明日キトに向かう事にした。気が付けばちょうど帰国目標まであと2ヶ月を切っていた。

バニョスのお祭り


6月16日 沈没宿(バニョス〜キト)

バニョスは完全にツーリストの町なので、アクティビティもトレッキング、ラフティング、そしてジャングルツアーと盛りだくさんだ。そう言うことも抜きにして、ここはなかなか休まる場所だった。そんなバニョスに一泊で別れを告げていよいよ首都キトに向かう。

アンバートで乗り換えるつもりでバスターミナルにいったら、思いのほかたくさんのキト行きダイレクトバスがあった。今回はバスの正面に「Quito」と書いてあるので間違いない。チケットを買おうと思ったら、値段が少しぼったっぽいのでそのままチケット無しでバスに乗り込んだ。バニョスからアンバートまでは70セント。もし車掌もぼってきたらアンバートで降りればいい話だ。

アンバートとキトの間の道路はまたまた人里離れた山の中を行くのだろうと思っていたら、今度は比較的平坦でそして街道沿いには常に家がぱらぱらとあるような感じだった。そんな見ごたえの無い風景をぼーっとながめていたら、3時間ほどでキトのターミナルに到着した。

ここキトは南米の中ではかなり治安がわるいらしい。殺人とかではなく、ツーリストを狙った切り裂きスリが全ての南米の中で圧倒的に多いらしい。事実、僕もラパスやリマなんかがやばいと聞いていたのだが、直接何人ものやられた人の話を聞くのはここキトぐらいだった。

こういう所では、「物を盗まない宿」に泊まるのが一番重要なので、ここ数年日本人の定宿として有名になったホテルスクレに向かうことにした。ここはとにかく宿代がたったの$1と安いうえにキッチンも使えてホットシャワーも一つだけあるので日本人のたまり場になっているようだ。宿に着くと日本語の本や日本語の情報ノートがあったのでさっそく目を通してみた。

今日は初日でだらだらした気分だったのだが、一応昼飯も食べてないので、細長いキト市内を行ったり来たりしているトロリーバスに揺られて新市街に向かった。新市街自体はなんて事は無い所なのだが、英語の本を売っている本屋やデパート、それにあちこちにファストフードがあって、他のボリビアやペルーと比べるとあか抜けた感じがした。

宿に帰ってから部屋で情報ノートの続きを読んだりしてからキッチンに行ってみてびっくり。そこにはサンパウロでの闘病生活中にお世話になった「買い物ママ」がいた。彼女はブラジルの田舎町で1ヶ月間臨時で日本語教師をしていたのだが、その時の話とかでしばし盛り上がった。再会を楽しみにしていた「金髪くん」は数日違いでペルーに向かったとかで、途中ですれ違ってしまったようだった。これからの残り2ヶ月も色んな再会がたくさんありますように。


6月17日 まぐろ(キト)

今日は日曜日なのであちこちの店も閉まっているしということで、宿のみんなと連れだって、新市街の公園で週末に開かれるおみやげ物市に出かけた。ここはキトだけではなく、近くの村からインディヘナの人達がやってきて、色んな民芸品を売っていた。値段もそこそこだったので、僕も$4ほどでインディオっぽい柄の肩掛けカバンを買った。

公園で遊びに来ていた現地の3姉妹+弟と仲良くなって、しばらく遊んだり写真を撮ったりして盛り上がった。さすがにスクレ沈没組はスペイン語も上手でうらやましい。公園を後にしてから中華料理屋に入ったら、なんとジャンジャン麺があるというので頼んでみたら、これがなかなかの味だった。

そして一同と別れてから向かったのは新市街のSUPER MAXIという大きなスーパー。今夜のシェア飯の材料を買いに行くためだ。そしてここで買ったのは何と「カジキマグロ」なんでもキトでマグロがキロ$7ぐらいで買えるというので夕食にマグロ丼を作ることにしたのだ。マグロだけはスられまいと大事に抱えて宿に帰ってきたのは言うまでもない。

肝心の出来の方は、圧力釜で炊いた飯も相まって、素晴らしい味だった。これで1人たったの$2なんて!宿も快適だし時間さえあれば沈没してスペイン語でも習いたいのに。

マグロ丼


6月18日 赤道のトイレ(キト)

エクアドールというのは英語で言うところのEquatorつまり赤道という事で、国名が赤道というくらいなので、これはもう赤道の線をまたいで写真を撮るしかない。そんなわけで召集をかけると4人のメンバーが集まった。

新市街までトローリーで行ってからバスを乗り換えて40分ほどで赤道の通っている小さな村に到着した。バスを降りると目の前に巨大な台形の建物、そして上には地球儀が乗っていた。うーんここが赤道。興奮気味に歩いていくと、記念碑を貫くように黄色い線が引かれていた。

ちなみにメンバーの中には赤道=Red Lineだから赤い線が引いてあるのだろうと思っていた人もいたのだが、もちろんそんなはずはない。そしてよく、赤道をまたいで右と左では渦の巻き方が違うというのだが、物理的に考えるとそんなわずかなズレぐらいなら転向力も渦を作るほど働かないだろう。一応実験という訳で、赤道を挟んだ両方のトイレで水を流してみたが、やっぱり両方とも時計と反対周りに流れた。洗面台の方は両方ともほとんど渦を巻かずに下に落ちていった。やっぱりケニアあたりでやってるのという奴はきっとトリックなのだろう。

左:南半球   右:北半球

 

お約束の様に、4人で赤道の線をまたいで一直線に並んで写真を撮ったり、近所のアイスクリーム屋で手作りアイスを食べたりしてから赤道を後にした。ちなみにこの手作りアイスはたったの60セントで最高に美味しかった。

帰り際特に打ち合わせてはなかったのだが、ガーナに行った自分としては是非エクアドルの野口英世像も見てみたかったので、空港の近くでバスを降りて一同を引っ張って情報ノートで見た通りを目指した。

ちなみにこの野口英世像、地球の歩き方に書いてある場所も嘘で、大使館に聞いても知らないらしく、今回のメンバーの中の通称「添乗員」が福島県民の威信にかけて足で探し回ったらしい。彼にとっては公園の木陰から突如目の前に現れた英世像はまるでペトラのエルカズネ神殿の様に見えたことだろう(笑)。みんなで英世と肩を組んで写真を撮ったりしてから英世に別れを告げて、近所のスーパーで買い物をして帰った。今夜のシェア飯は親子丼に決定。

宿に戻ると僕はあわただしく日記とメールを書いてインターネットカフェに向かった。カフェは日本語を使えないばかりか、他言語サポートがインストールされてないので、フォントをダウンロードする事も出来なかった。とはいうものの僕はフロッピーのファイルを送信して、メールを保存するだけなので問題は無かった。

夕食の方は僕は飯炊き専門と言うことで、具は他の三人に任せることにした。異国で食べる甘辛い親子丼は何とも言えない素敵な味だった。

赤道を股にかける4人


6月19日 雨降りの街角(キト)

キトの町に雨が降った。ここ南米に来てから、傘をさして外出したことがない。持ってない物はさせないというのが本当の所なのだが、いつもジャケット一枚着るぐらいで充分だったり、雨が降ったら無理にに外出する必用もないと言うのが本当のところだ。

ここ沈没宿「スクレ」の朝は意外と早い。特に僕の部屋は教会に面していてるうえに大きな窓があって8時頃にはもう朝日が射し込んでくる。教会の鐘がいい目覚まし時計代わりになるのだ。いつものパン屋で焼きたてのパンを買って、キッチンでお茶を入れて朝食を食べる頃にはみんなもう起きている。

天気が悪くて仕方ないので、今日は日記やメールの返事を書いたり、これから先のルートを考えたりして過ごした。午後に少し雨が小降りになったので、あまり観光してなかったキトの旧市街を歩いてみた。やはりこの辺りまで来ると「もうコロニアルはいいや」という感じになるのだが、新市街と旧市街の間に見える巨大な教会が気になっていたのでそこまで歩いてみた。

教会はコンクリートづくりなのだが、プラハの教会の様に塔の先っぽの装飾がかなり細かくなっている。他の教会とは明らかに違うのだが、ひょっとするとプロテスタントの教会なのだろうか?あいにく教会内は葬式をやっていたようで入ることは出来なかった。

季節外れの雨はキトの周りの山を白く煙らせていた。

雨上がりの教会


6月20日 アンデスの声(キト)

僕がキトにやってきた一番の理由は知人を訪ねることだった。知人といっても直接会ったこともなく、向こうは僕のことをしらないのでちょっと押し掛けっぽい気もするのだが、とにかく昨日電話をすると会ってくれることになった。

トローリーの終点あたりまで揺られて向かったのは、La Voz de Los Andes(アンデスの声)という放送局だった。そう、今を逆上ること20年、僕はその頃世界地図を眺めながら買ってもらった小さな短波ラジオで色んな国からの放送を聞くのに夢中になっていたのだが、その時最も遠くの南米から毎日アットホームな番組を届けてくれたのがこのアンデスの声の尾崎さんだったのだ。

スクレの住人二人と一緒にちょっと緊張気味に受付に行くと電話で「すぐに行きますから」と優しい声が聞こえてきた。そしてしばらくして声の通り初老の優しそうなおじさんが迎えに来てくれた。尾崎さんだ。尾崎さんは牧師であって、最近は「電波宣教師」という自分でも照れくさい肩書きを付けられてしまったと笑っていた。

そう、この放送局は「世界中にキリストの愛を伝える」という目的で設立されたのだが、尾崎さんの番組は他のキリスト教放送のような宗教一色ではなく、エクアドルの話や音楽、そしてなにもりも南米の日系人聴取者の心を癒すのに主眼をおいて、日本の懐かしい話題や、聴取者参加型番組といった事に力を入れたのも、この放送がこれだけ愛される事になった理由だろう。

僕も何度か放送を聞いて手紙を書いたことがあるのだが、実際そのスタジオに入って尾崎さんに会えて、かなり感慨深かった。残念ながら衛星やインターネット時代に押されて短波放送の方は昨年末で終了してしまったそうなのだが、今でもインターネットと衛星デジタル放送を使って番組を届けているらしい。

まず最初に案内されたのは、収録が行われているラジオのスタジオで、ほとんどが手作りらしい。そして次はDATに落とした番組を実際に送信所に送る制御室。局社やスタジオは思っていたよりもずっと近代的で、カトリックの国にあるプロテスタントのこの組織はそれ自体がまるで一つの社会のようだった。

敷地内には、キリスト教の大学、病院、そして何と自動車整備工場まであって、放送だけではなく、被災地への医師の派遣や色んな事への援助も行っているそうだ。

軽く見学を終えてから案内された先は、放送局の社宅内に尾崎さんのご自宅だった。そして何とそこでは奥さんが日本食をごちそうしてくださって、食卓を囲みながら昔の短波放送時代の話やエクアドルに来られてからの苦労話を聞かせて貰っているうちに2時過ぎになった。

「じゃ、2時なので今から局の方に行きますから」といってぞろぞろ着いていって案内された所は録音スタジオ。「えっとマイク取ってきますから」といきなり番組に出演する事になってしまった。番組は「赤道で会いましょう」というインタビュー番組で、尾崎さん対旅人三人の対談と言う形式で行われた。もちろんリハーサルも打ち合わせも一切無しで、少し緊張してしまったのだが、こういう番組作りがアンデスの声のアットホームな雰囲気を作り出しているのだろう。

結局30分番組を二本録音して、そのうち衛星とインターネットで流れるらしい。ちなみにアドレスは、http://www.hcjb.org/japanese で聞けるらしい。番組の後は尾崎さんの日本語部事務所に行ってから帰る予定だったのだが、話をしている内に、NHK主宰の番組コンクールで優勝したという話題がでて、ぜひそれを聞いてみたかったのでお願いしてテープを流してもらった。

番組は「マッチ箱一杯の幸せ」というタイトルで、内容はある日「エクアドルでは餅米が無いから正月にお餅が食べられない」と放送で言った所、ブラジル在住の日系人リスナーがマッチ箱一杯のもみがらを送ってきてくれて、それをエクアドルの低地に住む日系農園経営者にお願いして、3年間かかって収穫できる程に増やして、エクアドルの小学校でも餅つき大会が出来るようになるまでの話だった。

番組には小学生の餅つきのかけ声や笑い声なんかも入っていて、ホントにアットホームな雰囲気にあふれていた。結局たねもみの提供者は亡くなってしまったのだが、最後はその娘さんからの手紙の朗読で締めくくられていた。

番組を聞いている間にすっかりおそくなってしまって、何と夕食までごちそうになることになってしまった。それからも話は途切れることなく夜の10時過ぎまで続いて本当に内容のある楽しい一日となった。

尾崎さんと
スタジオでの一コマ


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