このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 
エジプト沈没編
(ヌエバ〜カイロ)
 


10月31日 何でこんな所に!(ダハブ)

今朝はこのダハブで一番のポイントと言われている「ブルーホール」へシュノーケリングに行くことにした。どうやっていこうか?と考えていたのだが、宿で機材一式と送迎で15ポンドで行けるらしいのでそれに申し込むことにした。

ここダハブの海岸は浅いリーフのあと急に深くなっているので、ダイビングショップでもほとんどは船を持っていなくて、その替わりに4WDのトラックやジープに揺られていくことになる。僕らの乗ったジープも激しい悪路をすっとばして30分ほどでブルーホールに到着した。

着いてみるとなるほど名前の由来がよくわかる。浅い黄緑のリーフのど真ん中に真っ青な巨大な穴が開いている。穴は幅、深さ共に100mもあるらしい。早速足ヒレとマスクをつけてステージから水の中に入るといきなり足が着かないどころか、数十メートルもあって底はかすんで見えた。

当然そんな深い所の上に居ても魚は見れないのでリーフの沿いに時々潜りながら珊瑚や小魚の群を観察する。時折アオブダイが珊瑚をかじっている金属音が「キンキン」と響いてくる。海の底深くからダイバーのはいた息がクラゲの様な丸い玉になっていくつもいくつも上に昇ってくる。そしてあるところに達するとその玉は上昇のスピードに耐えられなくなって粉々に砕けて水面へと消えていく。少し深めに潜って仰向けに水面をながめると何だか魚になったような気がした。

結局今日のシュノーケリングはたったの2本だけ。情けない話だが水温が低すぎてちょっと低体温症気味だったところに、吹き付ける風と荒波ですっかり気分が悪くなってしまったのだ。後はひたすらビーチにねっころがって太陽の熱を吸収することにつとめた。そして日没頃に再びジープに揺られてダハブの街へと戻ってきた。

昨日はコシャリというエジプト大衆食を食べたのだが不味かったので今日は「ピザ」という看板にひかれてミートピザを食べたのだが、出てきたのはエジプシャンピザとかいうやはり不味いものだった。ああ、やれやれ。そして失意のうちにメインストリートをさまよっていると、僕は何だか信じられない出来事に出会った。(というか人なんだけど)

何だか見なれた体型(失礼)そして見なれた服(いつもバックパック旅行の時だけ来ているらしい)「??」「!!!」「あれ、なにしてんの?」それは、ラオスから何度か登場する貧乏パッカーのさえこちゃんその人だった。詳しくは教えてくれなかったが、またまた会社をブッチしてしばらく旅をするのだそうで、このダハブももう2週間もいるらしい。全く何をやってるのやら。

僕が「明日もうカイロに行く」と言うと、その行動の素早さに驚いていた。まあリゾートはこんなもんでしょう。それにしてもビックリな再会だった。



11月1日 運河くぐり(ダハブ〜カイロ)

昨日の夜宿でバスの手配を頼んでいた。宿代は安かったのだがバスは高かった。そして「バスターミナルまでのセルビス代だ
」という名目で5ポンドもの割り増しをされた。とはいうもののガイドブックも何も無くバスターミナルの位置さえ知らないので仕方ない。やっぱりガイドブックは節約をするためにはやはり必須だと思った。

そんなお金を払ったにもかかわらず、朝になっていきなり「バスはフルだ」とか言われてワゴンに乗せられた。一応バスとの差額は返ってきたのだが、そう言えばセルビス代を返してもらうのを忘れていた、、、ああ、やれやれ。それにしてもここからのバス代はふざけた程高い。街ぐるみの正規料金らしいのだが他の行き先の倍以上の値段を取る。そしてタダでさえ高いのに、ダハブ→カイロは、その逆よりもさらに2割ほど高いのだ。さすがエジプト人おみごと。

そんなアクシデントがあって車は出発したのだが、更にもう一発アクシデントだ。町外れのツーリストポリスに通行許可をもらってカイロに向かうのだが、そこで何か不備があるらしく自分たちの車だけ全然出発の許可が出ないのだ。どれくらい待っただろう?結局偉い人が来たり、なんだかんだで1時間以上たってからやっとのことでワゴンはカイロへ向けて出発した。

今日はシナイ半島の先端シャルムシェイクを回っていく物だと思いこんでいたら何とワゴンは逆方向に向かって走り出した。「おいおい本当にカイロ行きなんだろうな?」と少し不安になる。先日ぼられたヌエバをすぎ、さらにイスラエルへの国境「タバ」へさしかかろうとしたときにやっとワゴンは道をそれ山道へ入った。山を一つ越えると後は延々砂漠だった。砂漠のつまらない景色にいつの間にかうとうとして、気が付いたらカバンによだれのシミがついていた(笑)

そして今日一つ楽しみにしていたのが「スエズ運河」だった。あの社会の教科書で習ったスエズ運河。それが今日見れるのだと喜んでいた。そしていよいよ運河が近づいてくると何故か料金所があって、車はどんどん谷のような所を下っていく。「おいおい、まさか?」そのまさかは的中して目の前に地の底へ続いていく巨大な穴が現れた。何と夢に見たスエズ運河をくぐってしまったのだ。なんてこったい。

そして失意のうちにワゴンはカイロ市内の外れに着いて、何とドライバーは「ここからタクシーに乗れ」とか言い出す。渋滞だから市内へは行きたくないらしい。もう反撃する元気もなく、同乗者のオーストラリア人達とタクシーを値切ってシェアする事にした。それにしても何だか今日一日、まったくエジプト人に良いようにされている。途中の雑貨屋でも今考えるとけっこうボられたし、すっかり負け旅だった。

カイロのと言うか世界的な名物日本人宿「サファリホテル」に着いたのは日も傾いた5時前の事だった。濃い日本人が集うというこの宿だが、最近は「生活向上委員会」というボランティアをやっているアモーレ氏の強烈な個性の前に全ての人が普通に見えてしまう。とにかく疲れたので荷物を降ろして休んでいるとしばらくして「館内説明会」が始まった。

これはアモーレ氏がボランティアで館内の説明会+カイロでの物価、危険、日本大使館の行き方、学生証の作り方、等々エジプト初心者に必用な事を一通り説明してくれる。これだけ聞くと「押しつけがましいんじゃ」と思う人もいるかもしれないが、実際にはそんなことは全くなく気さくな方で、情報もすごく役にたった。

とりあえず短期的なゴールにたどり着いた訳なのだが、さていったい次は何処へいったらいいのやら? ここで情報を集めてゆっくり考える事にしようと思う。



11月2日 まず用事(カイロ)

とりあえずここまで延ばし延ばしにしていた事柄が一つ。それは「黄熱病予防接種」。別に今更注射が怖い訳ではない(歯医者は怖いけど、、)イスタンブールは高すぎたし、ダマスカスは無料なのだが場所がよくわからなかった。そしてここカイロはさすがアフリカの玄関だけあって、たったの1ポンド。30円だ。

朝イチで日本領事館に手紙を取りに行ってからいよいよ「何でこんな所に有るのか全く謎の廃ホテル」の片隅にある予防注射場(?)へ。入り口だけでも引いてしまいそうなぐらいボロボロなのだが、ボロボロの廃ホテルの奥に入っていくと薄暗い怪しげな一角に白衣を着たおばさんが、、、「こ、ここが、、、」

一瞬逃げて帰ろうかと思ったのだが、ここで逃げるとアフリカへは行けなくなってしまうので観念して1ポンドを払う。そしておばさんはボロボロの冷蔵庫からアンプルと注射器のセットになった箱を取り出して、おもむろに左肩に「ぶすっ」もちろんアルコールのしみこんだ綿なんてものはくれずに針のあとから出た血が丸い玉のようになった。全てがボロボロだったのだが、注射器が新品だったのが不幸中の幸いっていうとこかも。

後は自分の体が10日間かかって黄熱ウィルスを倒してくれるのを待つだけだ。人によっては副作用で発熱する事が有るというので少し心配ではある。



11月3日  いきなり沈没(カイロ)

サファリ万歳!サファリは楽し。夕べも4時ぐらいまでしゃべっていて起きたらばっちり昼だった。 今日一日は本を読んだり、情報ノートを読んだり。結局西アフリカに着いては大した情報は得られなかった。

おしまい。



11月4日 回る人のバラード(カイロ)

世の中にはいろんな事に命をかけている人がいる。そして今日会った彼らは「回ること」に人生の全てを捧げて居るかのようだった。

スーフィーダンスというイスラム神秘主義の踊りがある。おじさんがシマシマのスカートのような物をはいて、音楽に合わせてひたすら回り続けるという舞踊だ。そしてそれはイスラム圏だと結構いろいろな所で見れるらしいのだが、ここカイロのは特に最高らしい。しかも無料だというので行かない手は無い。

早速サファリ住人とタクシーをシェアして会場へ。開演までまだ1時間半ほどあるのだがやはりこの時間に着ておかないと確実に入場できないのらしい。中でひたすら時間をつぶしていると急に民族大移動が始まったので自分たちも慌てて入り口に殺到した。

会場は意外と狭くて椅子が8列ほどステージを囲むようにあっただけだった。早速空いている席を見つけたらイギリス人らしい男が「ここは友人たちの為に取っているからダメだ」とかふざけたことを言う。「何処にいるんだ?」と言うと「会場の外」とかアホな事を言っている。そのうち係員が「詰めろ詰めろ」とつめさせてくれたおかげで結構いい場所を取ることが出来た。

そしていよいよ開演。最初は延々楽器の演奏これがまたすごい。何人かの人が一人ずつ前に出てきてソロをやる。フエ、太鼓、手のひらぐらいの小さな合わせシンバル。そしてどんどんテンポが早くなるにしながって、目も何だかうつろになってきてすっかりトランス状態。これが神秘主義なのか?

そしていよいよクライマックスは「回る人」の登場。くるくる回りながらスカートの飾りを外していったりする。それにしても回る。数えていた人によると900回ぐらいまわっていたらしい。そして回る人も段々激しくなってくると目がイッてしまって「もういい、もう十分だ〜 やめてくれ〜」と言いたくなるような怪しい状態だった。

死にそうだった目も最後には復活して力強く最後の布を上空でくるくる回してから一気に畳むと、会場は割れんばかりの拍手喝采につつまれた。回る人は初めて止まって、そして各面に向かって深々とお辞儀をする。このときもきちんと立っていた所を見ると、目は回っていなかったようだ。さすがイスラムの神秘。

これはまだ他には行ってないけどきっとカイロで一番最高の見所だと思う。ぜひおすすめ。
 

 
イスラムの神秘?
スーフィーダンス
 


11月5日 ナイルの夕日(カイロ)

午前中には旅行代理店を訪れてみた。これから先の航空券の値段をチェックするためなのだが、やはりここはイスタンブールよりも更に高くていやになってしまう。今日はサファリ宿泊者御用達のLAKES TOURという会社へ行ったのだが、どうやら30歳以上は3割ほど高くなってしまうらしい。これは全く聞いていなかったので痛い。ナイロビまで5万円以上になってしまう。なんてこったい。

ところでカイロに来て5日になるがまだピラミッドに行ってない。そんなわけでピラミッドへ行ってみようと思ってひるからごそごそ動き出してバスターミナルに行ってみたのだが、結局1時間ほど待ってバスが来なくてやめてしまった。かわりにナイル川の方へ歩いていくとナイル川に沈む真っ赤な夕日が見れた。

それにしてもナイル川、意外と小さくて汚い川だったが、底に沈む夕日はなかなかの物だった。
 

 
ナイル川にかかる橋
 


11月6日 どうする?(カイロ)

今日は久しぶりの再会だ。ニュージーランドのクラスメートの夕子が何とエジプトまでやってくることになった。インドのバラナシ以来約半年ぶりになる。今朝のフライトで到着という事だったのだが、結局9時頃になってやって来た。前に持っていた巨大なリュックもすっかりコンパクトになっていて、それでも日本のお菓子とラーメンをいっぱい届けてくれた。

昨日の夜情報ノートを読んでいてふといけない物を見つけてしまった。「モーリタニア大使館」だ。別の資料で読んだら無かったのでもうサハラはあきらめようと思っていたのだが、思わぬところで発見してしまった。アモーレ氏に住所を尋ねてみると「うーん」と考え込みながら親切に地図を探し回って調べてくれた。とりあえず情報を手に入れるために大使館に向かってみる事にした。

地下鉄を乗り継いで領事館へ向かうと、意外にもビザは領事館のレター、写真2枚、現金だけで取れるらしい。というのも、モーリタニアは西サハラの領有問題でもめているのでモロッコから陸路で入られるのを極端に嫌っていて、モロッコやヨーロッパでビザを取るには往復航空券の提示が必須になっているのだ。しかしこんなに楽に取れるなら、ここでとってもう一度スペインに飛ぶのもいいかもしれない。帰りに日本領事館に寄ってレターをもらおうとしたのだが、あいにく閉店だった。

夜のリストランテ・アモーレはニシンご飯だった。ここサファリでは料理好きのアモーレ氏が週4回夕食を作ってくれる。普通のシェア飯と違うのはアモーレ氏が献立、買い物を全てやってくれて、後は数名調理補助に回るくらいだ。そして食事が始まってからもアモーレ氏のディナーショー&アラビア語講座が続く。何処までもサービス精神旺盛な人だ(笑)

しかしいまだに数字全部も覚え切れてないので、次回はもっと真剣に聞かなくてはと思うのだった。



11月7日 おさるのミイラ(カイロ)

朝から日本領事館へ向かう事にした。まだモーリタニア行きを決定したわけでは無いのだが、とりあえず日にちがかかることから先に始めないといつぞやのように無意味に足止めを喰ってしまうことになる。そして夕子は学生証を持ってないというので、場所+取り方+証明書を求められた時の言い訳を入れ知恵して途中まで一緒に出かけた。

日本領事館にたどり着くと、ちょっとくらい感じのいかにも公務員という感じのおじさんが「モーリタニアですか?」と少しとまどった表情で答えた。さすがにここにレターをもらいに来るのは、シリア、スーダンと相場が決まっているのだろう。

何だか申請書以外に旅行日程とサインを書かされて「めんどいなあ」と思っていたのだが、適当にでっち上げた予定表を書いて出すと、いちいちそのルートの危険情報を調べてくれて親切にコピーまでくれた。確かにエジプト日本大使館というのは「融通が聞かない」という話をよく聞くのだが、それは職務上の事であって、実際はかなり親切な部類に入るのでは無いかと思う。

変わった行き先だった事と、他に客が居なかったせいか、結局なんだかんだで1時間近くやりとりをしてから大使館を後にした。

宿に帰るとさえこちゃんが出発する所だった。何でもまたダハブに行くらしい。相変わらず行動が謎だ。とりあえず荷物を持ってしたまで見送りに出てから昼御飯にする事にした。

夕方はまたまたピラミッドを見に行こうと思ったのだが、結局またまたバスが来なくて結局考古学博物館に行くことにした。どうも博物館が苦手な僕は「ほほー」とか言いながら結構なスピードで回ってしまった。印象に残っているのは、ツタンカーメンのマスク、ミイラ博物館(別料金)、そして王様のペットだったというおさるのミイラ。ペットまでミイラにされてしまうとは何だかちょっと迷惑な話かもしれない。



11月8日 黄熱病の悪夢(カイロ〜キザ〜カイロ)

昨日歩いている時に少しふらふらした。しかし気にせずに「今日は何としてもピラミッドを見るぞ!」と張りきってバス乗り場に向かう。この前の失敗を繰り返さない為に、今日は高いエアコンバスに乗る覚悟だったのだが、通行人に「あれに乗れ」と言われてとっさに25ピアストルの市バスに飛び乗ってしまった。

バスは少し渋滞もしたが、40分ほどでギザのピラミッド近くに到着した。バスで長い間立っていたからなのか、僕は結構ふらふらになっていた。降りたところでしばらく休憩してからピラミッドのゲートに向かった。さっそく馬やら、ラクダやらタクシーが客引き合戦を展開する。そんな物に目もくれず坂道を上がっていくと、目の前に巨大な三角が迫ってくる。「おお!これが!!」しかし思ったより大した事ないなと言うのがピラミッドの第一印象だった。

最初に見えるクフ王のピラミッドが最大で、その裏にカフラー王のピラミッドがある。元々ピラミッドというのは表面を化粧版のような光沢のある石で覆われていたそうなのだが、クフ王の物は全て盗まれてしまった。そしてカフラー王の方は上に少しばかり残っているので、どっちかというとカフラー王の方は立派に見える。

それにしてもこの辺は客引きだけではなく警察もあなどれない。会う警官みんなが「一緒に写真を撮ろう」とか「写真を撮ってやろう」とか寄ってくるので「何だなんだ?」と思っていたら「バクシーシ!」払わなかったけどこの辺は警官でも侮れない。結局その置くのメンカフラー王のピラミッドを見てから最後にスフィンクスを見に行ってそのままそっちの出口から帰る事にした。

ピラミッド、面白かったけど、感動という程の物はなかったかな。カイロまで10ポンドとかいうボッタクリセルビスを無視しながらバスを探すと地元のおじさんが「タフリールか?」と手招きしてくれて帰りも25ピアストルでカイロまで戻ることが出来た。カイロに戻るとナイル川の向こうに大きな夕日が見えた。

宿に戻ると本格的に体調が悪くなってきた。今日はスーフィーダンスの日なのでかなりの人が見に行っていて静かだったので思わずシーツにくるまって熟睡してしまった。そして目が覚めると自分の太ももや息が熱い。やっぱり熱があるのかなと思っていると、看護婦コンビの一人「ナース一号」が体温計も持ってきてくれた。

彼女らはスーツケースをぶら下げてタイにダイビングをしにきて、次はUAEだ!と思っていたらビザが取れなくてそのまま荷物を預けてヨーロッパへ。そして気が付いたらバックパッカーになってサファリに泊まっているという具合らしい。一緒に仕事をやめて親友同士で南の島のはずが、気が付いたら次はナイロビだとか。二人とも若くてかわいい感じなのだが、某所から仕入れた情報によると歳は僕とほとんど変わらないらしい。うーん。

結局頭痛と熱以外は全く症状が無いので、黄熱病の注射の副作用だろうという事になって、ふらふらしながら夕子に作ってもらった夕食を食べてそのまま寝ることにした。聞くところによると副作用が出た人はここサファリではほとんどいないそうだ。やはり僕は体が弱いのか?困ったもんだ。
 

 
カフラー王のピラミッド
 

11月9日 一路南へ(カイロ〜ルクソール)

昨日ルクソール行きのチケットを買っておいた。そろそろ動く時期だと思ったのだがまさか熱が出ようとは。それでも黄熱病の副作用なら大したことは無いと思っていたのだが、今日になって喉の痛みと鼻水まで登場してきた。そういえば今サファリではカゼが流行してたっけ?「ナース1号、2号」はじめ結構な人がやられていたと思う。

とりあえず列車に座っているだけなら大丈夫だろうと強行することにした。駅に到着すると列車はもう既にホームに入っていた。車両は座席も広くてなかなか良かったのだが、いかんせん古くてナイロン張りのシートは黒く汚れていた。車内にはエアコンが入っていて、これで10時間乗って700円ぐらいというのはバスなんかに比べても格安だと思う。

列車は出発すると延々小さな用水路に沿って走る。そして以外だったのがどれだけ走ってもこれまでおなじみだった砂漠は全く現れず、延々緑が続いていた事だった。考えてみれば列車はナイル川に沿って北上しているわけでナイルの恵みというのを直接感じる事が出来た。

西の空が真っ赤に染まる頃列車は少し遅れてルクソールの駅に到着した。駅は小さいのだがその割に駅舎は立派だった。群がる客引きを振り払ってアモーレ氏お薦めのエルサラームという宿を目指す。賛否両論あるものの、おおむね他の旅行者にたずねても「まあまあじゃない?」というこの宿の名物は「オカムラ」と呼ばれるナインティナインの岡村にそっくりなアリという青年だ。

宿に着くとオカムラが出てきて、何も言ってないはなからいきなり「なんでやねん?」とツッコまれてしまってしまった。関西人の僕としては不覚ではあるが、このときは体調も悪かったのでおとなしく部屋にチェックインして休む事にした。

今日のルクソールは異常な人出だった。なんでも3日間連続でお祭りがあるらしく、このエルサラームも2階は二人部屋やその辺の床に何十人ものエジプト人が寝泊まりしていた。盛り上がるのは良いのだが夜中まで子供達の叫び声が響きわたっていた。



11月10日 やっぱりカゼ?(ルクソール)

やっぱりカゼなんだろうか?おなかが空いたので朝食も兼ねて出かけてみるがやはりふらふらする。食べ飽きたファラフェルをかじりながら通りを歩いていくと、エジプト風即席だんじりが走りまわっていた。車の上で演奏をしたり踊ったりしながら街を練り歩くのだが、一台全員がコックの格好をしていたのでよく見てみるとなんとおみこしの上で料理を作っている。何だか笑ってしまった。

そのまま祭りの人混みをかき分けていくと銀行があったので、少しお金をおろそうとしたのだが何故かうまく行かない。もちろん「Cirrus」のマークはばっちり入っている。きっと田舎なので通信回線の調子がわるいのだろう。後日トライする事にして宿に戻るがやはり調子が悪い。

結局今日一日宿で寝倒していた事になるのだが、それでもまだつらい。夕食を食べに外に出てみるとルクソール神殿がライトアップされて赤く染まっていた。
 

 
町のお祭り
 


11月11日 ダンダラ遺跡(ルクソール〜ケナ〜ルクソール)

ここルクソールに来るまで全く知らなかったのだが、この近くのダンダラという遺跡が最高にいいらしい。聞く人によれば、ルクソールの全ての遺跡よりも良かったとか言うので、これはもう行ってみるしかない。

調子悪いなりに頑張って起きて駅に向かうも、今日の列車はもう無いのだそうだ。仕方がないので町外れのバスターミナルへ向かうと1時間程で途中のケナという街まで向かうバスに乗ることが出来た。しかしそのケナで降りた物の全くどうして良いかわからず、とりあえず近くの警察の検問所に行って尋ねると「とりあえずそこに座っておけ」と言って、通りがかる車に何台か声をかけてヒッチしてくれた。

ヒッチしたバスっぽい乗り物は川を渡ってしばらく走ると再び警察の検問所で止められて、なぜだかそこで降ろされてしまった。そしてここでもまた警官が適当に通行人の車をつかまえて頼んでくれる。警官に「お金は払うな」と言われたのだが、何だか申し訳なかったのだが、次にこの車を降ろされた場所からダンダラまでは徒歩10分だった。

遺跡に向かう田舎道でもたくさんの警官がライフルを肩からかけて厳戒態勢だった。遺跡に入ろうとすると若い警官に止められて、ボスの所まで連れて行かれて、用件とか色々な質問を受けてようやく遺跡に入れる事になった。なかなかの厳戒態勢だったが、このボスから「もし3時までに遺跡を見て回れるなら、警察の車がその時間に出るからルクソールまで乗せていってやろう」という申し出があって、大急ぎで回ることにした。

ダンダラ遺跡は遠景はあまり修復されてない汚い感じがあったのだが、神殿内部の壁画はものすごかった。ルクソールに有るようなものよりも遙かに細かくて緻密で、残り方も異常なくらいいい。タダ残念なのがイスラム教徒が偶像の顔の部分を引っ掻いたりして壊している事だった。高いところも銃で撃ったのかボコボコになっていた。

そして更に驚いたのは置くの方の部屋には何千年も前に塗られた色がまだまだ残っていた事だった。ルクソールの方にはもっと色の残った所があるらしいのだが、ここは細工は本当に素晴らしかった。

帰りは警察の申し出通り警官に送ってもらった。これはツアー客のバスが4時頃一斉に出発するための護衛らしく、護衛の4WDの後ろに乗ってVIP気取りだった。警察の車には足下に無造作に自動小銃や防弾チョッキがころがっていて、しかも窓にはあちこちに機銃を打つための穴が開いていて、なかなかの緊迫感だった。

警察の車だけあって、サイレンをガンガン鳴らし巻くってとばすもんだから、行き2時間かかったのに帰りは1時間でルクソールまで戻ってきてしまった。宿に帰ると一気に疲れが出てしまったが、車一台でここまで帰って来れたのはラッキーだった。

夜は日本食だった。実はこの宿の屋上に、日本人長期滞在者がやっているレストランがあって、祭り開けの今日から営業を再開するというのだ。シェフの「九州さん」は丸刈りのちょっと変わった感じの人だったが人当たりはよく、そして照り焼きチキン丼も病み上がりの体にはとてもうれしかった。日本食万歳!
 

 
デンデラ遺跡の浮き彫り
 


11月12日 でかすぎ(ルクソール)

カゼはなかなか良くならない。そしてルクソールでは本当にダラダラしているのだが、これはきっと体が「休め」と言っているのだと思って今日はカルナック神殿1カ所にとどめる事にした。

オカムラに教えられた通り駅前からカルナック方面に向かうミニバスをつかまえるのだがこれがなかなか苦労して、結局そっち方面に行くエジプト人に教えてもらってやっと見つけることができた。バスはゆっくりで15分程でやっとカルナック神殿前に到着した。

カルナック神殿は思っていたよりも圧倒的にでかかった。柱のでかさもさることながら本数や神殿の広さ、そして高くそびえる壁。行くのがすごく簡単な割に、どれをとっても正にルクソールのハイライトと言えるだろう。

そして神殿の天井のほうにもまだまだ色が残っている所があった。彫刻もしっかりとしていたのだが、こっちの方はやはりダンダラの浮き彫りに比べると少し見劣りはする。

遺跡が広かったので炎天下をぐるぐる回っていると体調が悪いこともあって疲れてしまった。そんなわけで今日も宿に帰って昼ね。そして日没のアザーンが鳴ること再び川辺をぶらぶらしていると、日没後の薄い色の空が見えた。ナイルの夕暮れだ。
 

 
カルナック神殿の柱
何十本もある
 


11月13日 墓だらけ(ルクソール)

ガイドブックの大御所「地球の歩き方」によるとルクソール西岸は自転車で回るのが楽しく効率的らしい。しかし行った旅行者全部が「自転車はきつすぎる」と口をそろえて言う物だから、僕は思わず宿で申し込めるツアーに参加する事にした。このツアーは入場料込みで45ポンドとなかなか良心的な価格設定がされている。

朝8時半頃にワゴン車が迎えに来て、何故か町から10キロも離れた所にある唯一の橋を渡ってルクソール西岸へ。この時点でもう1時間ほどが経過してしまった。そして車はメムノン巨神という大したことのない遺跡を見てから王妃の谷へと向かう。

王妃の谷といえばネフェルタリの墓が有名なのだが、入場料が$30もするのでこっちはあきらめてガイドについて2つの墓を見て回った。一つは忘れてしまったがもう一つはティティ王妃の墓で、こっちはなかなか程度の良い壁画にくわえて子供(王子)のミイラが展示されていて少し不気味だった。

王妃の谷の次はいよいよ王家の谷へ。僕は実はここに来るまで王家の谷には神殿なんかが有るのだと思っていたのだが、ここは洞窟墓地の集合体だったのだ。そして驚いたのは数千年も前の洞窟の壁画に塗られた色がオリジナルのまま完全に残っているという事だ。これにはさすがに感動してしまった。

そして王家の谷ではガイドお薦めの、ラメセス4世、6世、そしてアメノフィス(アモンホテプ)2世の墓を回った。ラメセス6世の壁画は素晴らしかった。青く塗られた天井に胴の長い天空の動きを司っている女の人が空を支えている絵が描かれている。所々洪水で水没したのか色がおかしくなっていたが、これは今日見た中で一番の壁画だった。

そして意外と良かったのがアメノフィス2世だ。こっちはあまり有名では無いらしいのだがガイドのお薦めと言うことで、彫刻は無く壁に延々細かな絵が描かれている。所がこの絵はどちらかというとマンガっぽい適当に書いたような絵なのだ。絵自体はもちろん素晴らしいのだが、見ていると何だかほのぼのとしてしまった。

墓巡りの後はハトシェプスト葬祭殿なのだが、ここは数年前に観光客襲撃事件があってたくさんの日本人が亡くなったところだ。と言うわけでかなり警備が厳しかったのだが、どっちかというと中に入るよりも外からながめる方が良かった。上の方も工事中で上がれないし、これならラメセス3世葬祭殿とかに行きたかったのだが、まあこのへんがツアーの短所という所だろう。

その他には壺屋やパピルス屋に連れて行かれたが、別にしつこく「買え」と言われるわけではなく、製造の実演を見れたりして、結局このツアーはなかなかの当たりだった。

それにしてもルクソールは暑い。全行程マイクロバスで回ったにも関わらず、フェリーに乗って宿に戻ってきた頃にはかなりくたびれていた。これを自転車で回るなんてよっぽど体力が有り余っているのだろう。とにかく西岸自転車ツアーは真冬以外には絶対お薦め出来ないと思う。

これで一応ルクソール関係は一通り終了。明日はいよいよ移動しようと思う。
 

 
ラメセス6世の墓
 壁画の色はオリジナルのままらしい
 


11月14日 移動日(ルクソール〜ハルガダ)

いよいよ長居してしまったルクソールともお別れだ。。最初はもう一度ダハブへ戻ってダイビングの上のクラスのライセンスを取ろうかとも思ったのだが、ダハブ行きのバスは町ぐるみで法外な値段設定になっているので少し馬鹿らしい。そんなわけでカイロへ戻る途中にあるハルガダへ向かうことにした。

宿で聞くと「バスは10時だ」といわれたのだが、その時間のバスは無く、10時半のバスのチケットを買って再び宿でゆっくりすることにした。そして10時半前にバス停に行ったのだが、予想通りバスは始発にも関わらず30分ほど遅れてやってきた。ただバス自体は割と綺麗なエアコンバスで、快適な4時間程の移動で目的地ハルガダに到着した。

ハルガダに着くと多くの客引きに囲まれた。特にしつこいのが「カサブランカ」と「アラスカホテル」の客引きだったのだが、どっちも良い噂を聞かないので自力で歩いていくとハッピーホームという中級ホテルっぽい安宿があったので入って見ると思いのほかきちんとした対応で、ここに泊まろうかとも思ったのだが値段が少し高かったので「他に見て回ろうと思う」というと兄弟が経営しているという「カリフォルニアホテル」を紹介してくれた。

カリフォルニアホテルは完璧なバックパッカー宿なので、度は超してはいないもののシュノーケリングやダイビングの勧誘が少しうっとおしかった。部屋の方は朝食付きで10ポンドと言うこと無しだ。とりあえずまだ体調が本調子ではないので明日のダイビングは断った。

ロビーに降りると日本人の女の子が座っていた。彼女はタイビングのインストラクターで、つい最近ハルガダにやって来たらしくしばらくここで働くそうで、今見習いも兼ねていろんなポイントで潜っているらしい。真っ黒に焼けていかにもダイバーという感じなのだが、僕もここ数日でかなり焼けてしまったので人のことは笑えない。

宿のエジプト人と比べると腕は僕の方が黒かった。ああ日焼けしすぎ。ハルガダは意外と涼しく、宿で寝ころんでいると気持ちがいい。明日はゆっくり休んで、明後日にでも潜りに行ってみようかと思う。



11月15日 ハルガダウォーカー(ハルガダ)

今日はハルガダをぶらぶらと歩いた。まず朝から行ったのは「サラダイバーズ」という日本人の奥さんとエジプト人の旦那さんの経営しているダイブショップだ。エジプトでは日本人が立ち寄りそうな所のあちこちにチラシが置いてあって、なんでもチラシを持っていくと日本人は15%オフになるらしい。

とはいうものの最近は日本人のダイブマスターも帰国して、奥さんもおなかが大きくて潜れなく、エジプト人のガイドが結構いい加減とあまり良い噂は聞かないのだが、一応話を聞いてみると僕は10ヶ月潜ってないのでチェックダイブと言う別料金になってしまうらしく、それだと2本で$60とかなり割高だった。

うーんどうしよう?と思いながらも取りあえず宿を後にしてそのままビーチに向かう事にした。しかしハルガダのビーチは全く駄目だった。とにかく海沿いの土地を全てホテルが買いあさって、全てが入場料のいるホテルのプライベートビーチになっているのだ。所々パブリックビーチもあるものの、岩だらけだったりゴミが散乱していたりでとてもリゾートどころじゃない。しばらく歩いていくとホテル建築予定地の大きな更地があったので、そこで何とか海を見ながらしばしぼーっとすることができた。

ついでなのでそのままどんどん歩いていくと、シガーラというもう一つの集落に到着したのだが、こっちはいろんな店やマクドナルドまであって結構な賑わいだった。

帰りのバスは案の定ぼってきた。最初は50ピアストル出してみたのだが、乗客までグルになって1ポンドだとか言ってくる。仕方ないかと思って払ったのだが、やはりエジプト人は25ピアストルしか払っていなかった。この街も「町ぐるみでボる」という体勢ができあがっているようだった。

宿に戻ると裏のダイブショップの兄ちゃんが声をかけてきた。なんでも二本で$40。しかも初心者でもOKだというのでそこで申し込む事にした。いきなりで少し不安なのだが、昨日の日本人のインストラクターも同じボートで潜りに行くというのは心強い。



11月16日 紅海にて(ハルガダ)

紅海でダイビングというのはダイバーのあこがれらしい。そして張りきってダイビングへとのぞんだんだけどやっぱり久しぶりのダイビングはきつかった。

ここハルガダのダイブショップはショップごとに船を持っているわけではなく、各ショップが港へ行って船長と話をつけて乗せていってもらうというシステムになっている。だからいつでも好きなポイントに行けるというわけではなさそうだった。

船に乗りこんでいきなりガイドが「レックダイブ(沈船)やりたいか?」と聞いてきた。1年ぶりのダイブでいきなり沈船、、、しかも船は25mぐらいの所に沈んでいるので、オープンウォーターだとガイドによっては潜らせてくれない深さだ。「うーん大丈夫かなあ?」と思いつつもあれよあれよという間にポイントに到着した。

そして勢い飛び込むのだが、いきなりインフレーター(浮力調整用の機械)のホースからエアが漏れていた。まあ水中ではほとんど使わないんでいいのだが、水面で浮力を確保するのに結構エアを使う必用があった。そして水面の流れがかなりあって潜行用ロープまでたどり着くのに一苦労だった。

潜ってみると意外と透明度は悪かったのだが、底には朽ち果てた船が横たわっていた。そして船の中には小さな魚の群が巨大な玉のようになって固まっていた。沈船は岸に近いせいか魚の数が少なかったのと、他の初心者の小太りの男2名が異常にエアを消費してしまって、結局30分ほどであがったのだが、僕のエアはまだ110も残っていてガイドに驚かれた。

僕は水面に上がるといつも気分がわるくなってしまう。潜っている時に空気を飲み込んでしまうのか、浮上したときにそれが一気に膨らんでしまうのだ。ダイビング用語でリバースブロックと言うらしいのだが、これがなかなか問題だ。そして今日はいつもよりも深く潜ったので一層苦しくて、機材を降ろしてしばらくすると吐いてしまった。でもさすがに一度吐くとその瞬間完全に治るのでその後はデッキの上で昼寝を決め込んだ。

2時間ほどで2本目のポイントに到着した。かなり沖の方だったのだが、意外と透明度は良かったのだが珊瑚が結構死んでいて魚もそんなに多くなかったので少しガッカリだった。やっぱり所詮内海なのでこんなもんなのかもしれない。こっちの方でも潜る前に昼食を出されたのだが、案の定浮上すると一気に吐いてしまった。やれやれ。一瞬費用の安いマラウイあたりでガイドのライセンスを取ろうかともおもったのだが、こんな調子ではとても無理だ(笑)

今日はとても遠いポイントに行ったので港に帰ってくると完全に真っ暗になっていた。
次は世界的に有名なメキシコあたりでトライしてみたいと思う。



11月17日 砂漠(ハルガダ〜カイロ)

カイロに戻ることにした。やはりエジプトのバス代は高く、距離やコストじゃなく「客が乗るぎりぎりまで値上げする。」といった感じなのでこういう路線は高い。一日2本ある30ポンド(その他は全部45)のバスに乗るべく10時には宿を出発した。

30分ほど前についたのにもうチケットはほとんど売り切れで、何とか後ろの方の席を確保してバスに乗り込んだ。

景色は相変わらず砂漠でうとうとしたり、途中茶店で休憩したり、映画をみているうちにカイロに到着した。そしてこの映画がアラブっぽいというか、イスラエルが中東戦争中に捕虜のエジプト人を虐殺する場面からはじまって、イスラエル人が色んな悪事を働くと言う物で、今回バスで上映されるのは2回目だった。

土地勘のある街をまっすぐサファリホテルまで戻ってくると結局一杯で泊まれずに隣のスルタンに一泊だけする事にした。それにしてもサファリは相変わらずのメンバーで「帰ってきた」という感じがした。



11月18日 日本領事館(カイロ)

朝いちでサファリホテルに引っ越しした。そして前に頼んで置いたレターをもらうために日本大使館へ向かった。何かと評判の悪い日本大使館だが着くとすぐに受け取る事が出来て、おまけに丁寧に桐のマークの入った封筒までくれて恐縮してしまった。

とりあえず宿に帰ってサファリでまったりしているとあっという間に夜になってしまった。



11月19日 オールドカイロ (カイロ)

カイロではいったい何をしていたのだろう?いまだにそれらしい観光地といえばピラミッドと博物館ぐらいだった。そんなわけで今日は頑張って旧市街に向かうことにした。地下鉄一本で行けるのも魅力的だった。

しかしいざ行ってみるとオールドカイロはキリスト教一色という感じだった。まず最初に目に入ったのは古代キリスト教のコプト教会。中に入ってみると独特の建築様式で文字もコプト文字が使われていた。隣にあったコプト博物館も古くからの書物や装飾品などが展示されていてなかなか目新しかった。
 
コプト博物館の横にはバベルの塔とギリシャ正教寺院があって、裏通りに入っていくと小さなユダヤ教会やたくさんのおみやげ物屋が狭い路地に並んでいた。雰囲気はイスラムのくせにキリスト教会ばかりなのだが、不思議と違和感は無かった。

もう一つのカイロを見たような気がした。
 

 
オールドカイロのコプト教会
 

11月20日 スーパーマーケット (カイロ)

覚悟を決めた。もうここカイロでは心ゆくまで沈没しようと思う。そんなわけで沈没生活を快適な物にするために、ナイル中州のゲジーラ島にあるSainsbury'sというスーパーに行くことにした。ここは西側資本で出来たデパートで品揃えはもちろん全て定価販売で、いちいちぼられる心配や値切ったりしなくていいのもうれしい。

宿のみんなに聞いてもなぜあまりバス路線を知らないので行きは歩いていくことにした。約30分ほどで少し高級なエリアの中にあるスーパーに到着した。着いてビックリ、本当に日本やニュージーランドにあるような清潔で近代的なスーパーで、2階には電気製品や日用品もある。

そして最もうれしかったのが、海外で暮らす日本人の身方「辛ラーメン」(韓国製)があった事だった。日本製ラーメンは輸入品のためどの国でもかなり値段が高いのだが、韓国製は韓国人コミュニティーの力かどの国でも安い値段で手に入って、味も日本製と比べても遜色無い。中国製のまずいラーメンばかりで過ごしていた身には、このラーメンらしい腰のある麺が何よりもうれしい。

その他にも調味料や夕御飯の食材を少し購入してから、バスに乗って宿に戻った。あとは食事を作ったり、仲間達としゃべったりしているうちに一日が終わっていく。今はこれでいいんだ。



11月21日 ついにビザ(カイロ)

沈没とはいうものの次の行き先を見失ってしまっては、この宿にもう8年も住んでいる人のように本当の沈没者になってしまう。最近少し未知なる物への欲求も高まってきたので下調べして置いたモーリタニアのビザを取りに行くことにした。

行くかどうかはまだ決心が固まっていないのだが、とりあえずモーリタニアのビザはヨーロッパやモロッコで取るには往復航空券が必用で、しかもモロッコでは政府の圧力でその区間は払い戻しの出来ないチケットしか買えないらしい。所がここカイロでは日本大使館のレターのみでいとも簡単に取れると言うのでここで取っておくのがいいだろう。

早速大使館に行って申請用紙をもらったのだが、何とアラビア語とフランス語でいきなり出鼻をくじかれてしまった。そう言えば西アフリカは英語が通じない世界なんだった。事務のおばさんに聞いてみると親切にいちいち教えてくれて、申請書を書き終えてお金を払うと1時間ぐらい待たされたあと領事自らビザを渡してくれた。

きっとこんな所でモーリタニアビザを取る人はほとんどいないのだろう。申請書も最初何処にあるかわからず、出てくるまでに20分以上かかったし、値段もよくわからなかったようで、営業時間、受け取り日なども適当みたいだった。そんな適当な業務のおかげで一日で取れてラッキーだった。

深夜、仲の良かった「かっちゃん」と「ナース1号2号」そして「画伯」がケニアに飛ぶので結局3時過ぎまで起きてみんなで見送った。この4人は毎晩遅くまでロビーでしゃべっていたメンバーなので明日から一気に寂しくなってしまう。僕もそろそろ次の予定を考えないと。
 

 
夕食は豚骨ラーメン
麺がパスタなのはご愛敬
 


11月22日 お買い物 ハーンハリーリ(カイロ)

サファリホテルの一日は大体こんな感じだ。

11頃起床。とりあえずお湯を沸かして昨日の残り物か、一階まで降りてターメイヤ(コロッケの入ったサンドイッチ)を買ってくる。まったりとしているうちに1時を回って何となく罪悪感にかられて外出。4時になると陽も傾いてくるので、いつもの店でケーキを買って帰宅

ケーキでお茶。情報ノートを読んだり旅の話や雑談をしている間に7時を回ってリストランテアモーレ(シェア飯)の調理の手伝い。9時から食事。アモーレ氏のディナーショー&アラビア語講座&本日のサファリニュース。以後雑談

12時頃ぱらぱらとシャワーを浴びる。104号室では麻雀を打っている人達も。そして深夜は中東問題や旅の意味などちょっとまじめな話題も登場。

ケニアへ出発する人がいる日には朝3時頃に出発するのでみんなで見送り。踊り場にて「なごり雪」大合唱。(近所迷惑)そして4時前に力つきてベッドへ。そして朝のアザーンの頃には全員熟睡。

僕はもうこんな暮らしを初めて2週間にもなる。そして今日の罪悪感による外出はハーンハリーリというスーフィーダンスで有名なスーク(おみやげ物屋街)へ出かけた。さすがにこの辺は観光客向けで英語やら日本語でガンガン声がかかるのだが、アモーレ氏のアラビア語講座のおかげで、あっさりとかわすことができた。

スーク自体はなかなかいい雰囲気で、特に奥の方に入ると迷路のようで、アラビアンナイトの世界に迷う込んだようだった。
 

 
ハーンハリーリのスーク
 


11月23日 インターネット(カイロ)

カイロはインターネット天国と言うほどではないがそこそこ安くて回線も速い。中でも「エジプトインターネット」は学割で一時間8ポンドとそんなに安くは無いが、回線が圧倒的に速くてすばらしい。

普段は自分のパソコンをつないでインターネットをするのだが、ここはIBMのアクセスポイントが無いため、GRICで長時間つなぐとものすごい金額になってしまう。だから今日はここで1時間ほどネットサーフィンをすることにした。

まず最も欲しかったのはマラリア情報。あちこちのリンクをたどってマラリア予防薬や治療薬の情報をあつめる。いくつかのサイトをまわるのだが、マラリアに関しては5年も前の情報は全く使えない。なにせマラリアもどんどん進化して抗生物質が効かなくなるので常に最新の薬を用意しておかなくてはいけない。

一通り情報を集めてからメールの受信や掲示板を回ってあまった時間で新聞のチェック。なぜか木村拓也、工藤静香結婚というどうでもいいような情報をゲットしてしまった。



11月24日 セインズベリー(カイロ)

この前買った辛ラーメンを食べ尽くしてしまった。そして今週は水木金土とリストランテアモーレが休みなので再び食材を買いに行くことにした。

カイロも何処も出かけない割にはこれだけいると土地勘も着いてきて、今日は楽勝でバスをつかまえてスーパーへ。もうすぐラマダーンが始まるのでラマダン食やラマダン飾りのコーナーが賑わっていた。結局辛ラーメンは買えなかったのだがそれなりの食材が手に入った。

そろそろ動きたくなってきたので明日あたり旅行代理店に行ってみようと思う。


11月25日 チケット買えず(カイロ)

見送られるのはうれしいが、親しくなった旅人を見送るは少し寂しい。そんなわけでここサファリでは冗談混じりで足の引っ張り合いが行われる。

「当然来年までいるよなあ!?」とか「じゃ、ビザ延長に行こうか?」とか「ラマダーンの祭りは楽しいらしいよ」とかそんな会話が行われる。宿の中でも親しい「ちいママ」達がそろそろトルコに向けて出発するらしく、どっちが先に出るかというくだらない争いが繰り広げられていた。

昼過ぎに起きて旅行代理店に行こうとおもったら、ちいママが部屋に遊びに来て、だらだらしゃべっている間に3時になってしまったので慌てて出かけたのだが、結局今日はチケットを買えなかった。まんまと策略にはまってしまったのだ(笑)

明日こそ、、、、


11月26日 行き先決定(カイロ)

ついに次のキップを手に入れた。行き先はマドリッド経由のカサブランカだ。

前回聞きに行ったときには学生証があればルーマニア航空、ハンガリー航空のユースチケットが買えると言われていたのだが、いざ今日いってみるとやはり僕の年齢はぎりぎり引っかかっていて、結局年齢制限の無いイベリア航空が一番安いという事になった。

最初は安いチケットでマドリッドへ飛んでそこから陸路でモロッコと思っていたのだが、イベリア航空だとモロッコもスペインも似たような値段だったので、カサブランカまでのチケットを買った。

カイロの旅行代理店は何かとトラブルが多いらいしのだが、ここDe Castro Tour と近くの Lakes Tourは例外でこれまでトラブルの話をほとんど聞かない。かなり信用出来そうだったので、持ち金を節約するためにクレジットカードで支払うことにした。長かったがこれでやっとカイロを脱出する事が出来る。

宿に帰ると今日は久しぶりにリストランテアモーレの日だった。料理はもちろんアモーレ氏のディナーショーも楽しい。中でもアモーレ氏作詞作曲の「行けバックパッカー」という歌は密かにこれからの旅の応援歌にしようと思っている。
 

行けバックパッカ 作詞作曲 アモーレ丸山

1)
日本の社会に背をむけて 君は出ていくバックパッカー
「知らない町を見たいのさ」 君はつぶやいた

行け行けバックパッカー 地球の果てまでも
行け行けバックパッカー 日本を脱出しろ

(ありがとう!)

2)
鑑真号に揺れられて ユーラシアの夢をみる
「豊かな青春 貧しい老後」 君はつぶやいた

行け行けバックパッカー 地球の果てまでも
行け行けバックパッカー 中華が待っている

(シェイシェイ!)

3)
年金保険に目をつむり 君は旅するバックパッカー
ビニール袋をぶら下げて 屋台を探し歩く

行け行けバックパッカー 地球の果てまでも
行け行けバックパッカー パッポンにはまるなよ

(コップンカー!)

4)
甘いにおいにつつまれて 君は沈没バックパッカー
「旅にも休みは必用さ」 君は言い訳した

行け行けバックパッカー 地球の果てまでも
行け行けバックパッカー 野良牛にぶつかるな

(ナマステ!)

以後どんどん作詞していくらしい。
 

 
行けバックパッカーを熱唱するアモーレ氏
 
 
ご飯をたべたあと「いよいよ出発するよ」と報告すると残念がってくれる人がいた、離れるのは少し寂しいのだが、旅を続けているとまたきっと何処かでもう一度会えるような気がする。

11月27日 ラマダーンがやって来た(カイロ)

僕は中東に来るまでラマダーンというのは単なるやっかいな物だと思っていたのだが、これは少し違ってラマダーンはお祭りなのらしい。そして特にエジプトでは町内会ごとに日没にあわせて振る舞い飯が出るのでそれを食べ歩くも楽しい。

今日は昼ぐらいから予防注射をやっている大きな病院のような所へ行った。この前の黄熱病とちがって先進的でとても清潔でしかも巨大な施設だった。

そして結局僕はここで、A型肝炎(HAVRIX)と狂犬病を打つことにした。A型は本当は1ヶ月後と1年後の計3回打つのが良いらしいのだが、カンボジアで会った先生によると1ヶ月後は実質不要で2回でも充分らしい。そして今回はその2回目だ。一方狂犬病は今日が1年後のブーストという事になる。

通常狂犬病は噛まれてからの治療で問題ないそうなのだが、肩や首等頭に近い所をやられると希に治療が間に合わないらしい。僕は免疫が出来ているのでせっかくだからブーストを打っておく事にした。

なんだかんだで宿に帰るともう昼下がり。今日からラマダーンなので、みんな2時ぐらいには仕事を終えて一斉に帰りだすのでものすごい混雑だ。おなかが空いて気が立っているのか車の運転も荒くて道路を横断するのもちょっと苦労した。

4半頃におよばれをするために下に降りてスークを歩いているとさっそく地元おじさんから声がかかる。そして一緒に机に座って日没のアザーンを待つ。大の大人がみんなおあずけをくっているのが何となくおかしかった。アザーンのあとみんなで一気にかき込む飯はなかなかのものだった。

 

ラマダン食会場の飾り付け。


10月28日 なごり雨(カイロ〜マドリッド)

カイロに雨が降った。結局全部でカイロには20日いたことになるのだが、カイロが別れを惜しんでくれているのだろうか?滅多に雨の降らない国の空港は意外な大雨であちこち雨漏りがしていた。

旅立ちの朝チェックアウトしようと思ったのだが、昨日打った狂犬病の予防注射の副作用なのか少し熱があるようだったので、もう一日分払って夜までベッドをキープする事にした。考えてみればバンコクを出るときもさんざん体調が悪かったのはひょっとしたら予防注射のせいだったのかもしれない。なんだかあの時と同じ様に微熱と体の節々がギシギシするような感じがした。

昼間は荷造りをしたりまったりとしていつもと同じようにダラダラしてしまった。ちいママ達北上組はもう二人の「世界一周新婚旅行夫婦」が加わる事になったので、出発をおくらせたようだ。結局見送られることになってこの勝負は僕の「勝ち」だ。

夕方からは昨日と同じでラマダン食をごちそうになりにいった。本当にカイロのラマダーンはみんなが楽しんでいるようだった。今日は昨日と違う町内会を尋ねたのだがさっそく声がかかってテーブルにつく。しかしここの町内会は昨日の所と違ってすこしアグレッシブだった。

昨日と違って、人が集まってから盛りつけが始まるので、食事がやってくるとみんなで壮絶な奪い合いになる。見ていて楽しいのだが、おなかが空いて気が立っているのかあちこちでいさかいがおこっている(笑)そんな様子を見ながら端っこで小さくなっていると、近くのおじいさんとおばあさんが、配膳係に僕の分を持ってくるよう頼んでくれた。

向かいの小学生や通りすがりのおじさん達が「日本人かい?カイロへようこそ」と笑いかけてくれる。よく「エジプト人は騙したりぼったりで最悪」という話を聞く。これは僕がサファリホテルという温室の中で暮らしていたからなのかもしれないが、商店が10円20円ごまかしたり、時々うるさい客引きがいる以外は本当にみんな親切ないい人だった。

「ウェルカム」あちこちから声がかかった。もてなしの心を人一倍もったアラブの人々。そして日本以上に義理人情が大切で、自分のために一つだけ買ってきたサンドイッチさえ、いちいち回りの人全員に一応薦めてみてからしか食べられない愛すべき人達。そんな人達に会えて中東へ来てよかった。

そしていよいよ別れの時がやってきた。夜の9時半頃になるとみんなが部屋をたずねてくれたり、サイン帳を書いてくれたりした。ブダペストから中米に飛ぶ「ちいママ」。カイロで後半年のんびりすると言うモバイラーの「やっさん」それにレバノンのサッカー観戦で会って、昨日も僕の頭を散髪してくれた「美容師さん」。そしてレバノンはもちろんシドニーやフランス大会も見に行っていたという「サッカーマニア」そして最後にこのサファリで旅の疲れを落とすことが出来たのもすべて「アモーレ氏」のおかげだ。

記念写真を撮って握手をしてからゆっくり階段を下りると、いつもは自分が歌っていた「なごり雪」が聞こえてくる。サファリは最上階にあるから階段をぐるぐる下りていると丁度1階に着く頃に曲がおわる。そして「がんばれよー!」の大声援を聞いてから僕は気持ちを切り替えて夜のカイロにはじけるように飛び出した。

「汽車を待つ君の横で僕は時計を気にしてる。季節外れの雪がふってる」

飛行機は飛び立つと、季節外れの雨のせいでカイロ夜景に別れを告げる事も出来ないまま空高く昇っていった。再び旅が始まる。


 

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