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ガーナ編
(クマシ〜アクラ)
 
 


1月12日 炎(ワガドゥグ〜クマシ)

いよいよ出発だ。いつもなら少しドキドキするのだが、今日は全然楽勝だ。なにせこれから言葉の通じる国に向かうのだから、この先は今より絶対楽にきまっているのだ。フランス語からの開放感で満ちあふれていた。

昨日の夜、同じくガーナへ向かうというドイツ人とタクシーをシェアする事にしたのだが、こいつがあまりガラの良い奴ではなく、朝もかなり遅く起きてきたうえにのんびりとシャワーを浴びて、僕が待っているにも関わらず、同じくガラの悪いNZ人とのんびりとタバコをふかしている。たまりかねて「オレはもう行くけどどうする?」と聞くと「ああ」とゆっくりと荷物をかついで立ち上がった。

タクシーの運転手はいかにも誠実そうな青年だった。値段も500CFAと乗り合いの倍だったが、途中客を拾う事もなく直接僕らをターミナルまで送り届けてくれた。後で聞いたのだが、最初500CFAずつの約束だったのだが、僕が500CFA払ってドイツ人は何も言われなかったので払わずに降りてきたらしい。なんて奴だ。

ターミナルに着いた時には例のドイツ人のせいで集合時間から1時間が過ぎていたが、バスの出発時間まであと1時間という所で、丁度荷物の積み込みが始まって結果的にはベストのタイミングだった。荷物もさすがにガーナのバスはちゃんとしていて、荷物代こそとられるもののちゃんと番号入りの荷物チケットもくれて明朗会計だった。

バスは予定時間ぴったりに出発してなかなかのスピードで走り続ける。バスは一番下のクラスだと思うのだがそれでもNEOPLANという結構ヨーロッパでは有名な会社の車体を使っていた。僕が向かうクマシまでは720Km。約15時間の道のりだ。

バスターミナルにいるときから回りは英語が飛び交っていた。ガーナへ帰るガーナ人達だ。僕の隣もガーナ人のおばちゃんだった。おばちゃんといっても推定年齢は30過ぎといった所か?名前はカロル。なかなかフレンドリーな人で結構会話が弾む。しばらくして国境近くの町で闇両替をする事にしたのだがここでもカロルがすべて取り仕切ってくれたので、僕はまったくボラれる事なくガーナセディの札束を手に入れることができた。(最初の言い値はやっぱりかなり低いものだったらしい。)

国境が近づくと係員がお金を集めて回る。どうやら税関に払う賄賂なのだそうだ。僕は払ういわれは無いのだが、額が少額な事と他のガーナ人がみんな従っていたので同じだけ払うことにした。

ブルキナ側の国境はやたら事務処理が遅いのだが荷物チェックは全くなかった。バスの出口でパスポートを集められ長時間外で待つことになった。いけ好かないと思っていた例のドイツ人だがなんだかんだ買ったくだものの余りを僕に勧めてくれた。暇なのでお互いなんだかんだ旅の話題を振ったりする。

しばらくすると係員がパスポートの束を持ってきて配る。名前を呼ぶのだが僕の番の時に彼は少し考えてから「ジャッキーチェン」と笑いながらパスポートを返してくれた。回りも爆笑で場が少し和んだ。ガーナ側は事務処理こそ速いとのだが、イミグレに保健省でのイエローカードのチェック、そしてカスタムでは全部の荷物を降ろして一人ずつチェックされた。とはいうものの賄賂を払っているのでそんなに問題にはならなく、形式的な物のようだった。両方でのべ1時間半ぐらいでバスはガーナ側の綺麗な道路を再び猛スピードで走りはじめた。

この辺りで僕は何だか違和感をおぼえた。そしてそれが何だか気づいたのだが、何と道にガードレールがあるのだ。そんな物モロッコでさえなかったのに。ブルキナに入って「整っているなあ」と感心していたのに、これから向かうガーナは更に一歩進んでいるようだ。

しかしそれとは逆にどんどん焼き畑が増えてくる。何故かマリではほとんど焼き畑を見ることは無かった。それがブルキナに入ってあちこちで見かけるようになって、ここガーナでは本当にあちこちが今まさに燃えている。確かに焼き畑はらくちんだけど、一緒に焼かれて根本が灰になった木と見るとちょっと複雑な気分だった。

そしてそれは日没になると更に目立つ。バスの行く手の道路の両側のあちこちで炎が上がっている。横を見ても延々森が燃えている。この分だと明日の朝やもっともっと何日も燃え続けるのかも知れない。ここではこういう形で自然破壊を直接見ることができるのだが、自分の住む国でも目に見えない形でたくさんの自然破壊が行われているのかもしれない。

日が暮れてからの短い休憩で僕はぶっかけ飯を探してぱくついた。「何が食べたい?」と聞かれて僕は言葉が通じる事に感動してしまった。ガーナのぶっかけ飯は唐辛子が利いていて、米もタイ米(タイ産じゃないけど)でなかなか美味しかった。食べてる間も色んな人から声がかかるのだが、全部言葉がわかるので愛想笑いじゃなく、ちゃんと会話が成り立つのがうれしい。

結局バスは炎の中をひた走り、予定よりも遅れて夜の11時過ぎにクマシのバスターミナルへと到着した。重い荷物を背負って夜中の町を歩いていると建物の2階から声がかかった。どうやら教会の組織がやっているゲストハウスらしく、僕はそのまま招かれるまま$3程でトリプルルームを確保して15時間に及ぶ大移動から解放されたのだった。



1月13日 巨大市場(クマシ)

夕べあれだけ疲れていたにも関わらず朝起きてすぐに外に飛び出した。理由は色々あるのだが、ここガーナに着いてから、まるで口がきけなくなる魔法が解けたように僕は自由を満喫している。

早速バスターミナルへ行って次の行き先ケープコーストへのバスの時間を調べる。勿論今までのように身振り手振りはいらなくて、言葉だけで簡単に済んでしまう。バスは明日の午後1時らしい。そのあとターミナルのオムレツ屋で軽く朝食。オムレツサンドを丼一杯は有りそうなコーヒーで流し込みながら店のおばちゃんとの会話も弾む。

早速観光というわけで、とりあえずナショナルカルチャーセンターという所へ行ってみたのだが、ここはいまいち外れだった。だだっぴろい敷地に観光省の建物やなぜか病院やおみやげ物屋、そして地元民向けのマーケットなんかがぱらぱらあって、唯一の見所はアシャンティの王に関する博物館ぐらいだった。博物館は小さく20畳ほどの敷地しかないのだが、管理人がいちいち解説してくれるのでそこそこ楽しめた。

博物館を後にしてから町の中心へと向かったのだが僕はそこで呆然としてしまった。クマシのマーケットはでかいと聞いていたが、ここまでデカイとは。そしてデカイだけではなくその巨大な敷地にさえ収まりきれなくなった品物はどんどん市場へ続く道路へとあふれ出て、今では何処までがマーケットなのか訳が分からない状態になっている。今日は土曜日だったせいかなかなか活気があって、しかも言葉が通じるのでなんだかんだと冷やかして結構楽しめた。

市場の後は丘の上にある王宮博物館へ行ってみた。着いたときは王宮が丁度昼休みだったので、近くの屋台で何だか餅みたいなとろ芋みたいなねばねばの物体にシチューをかけた物を食べた。唐辛子が利いていてなかなか美味しい上に、おばちゃんもフレンドリーで回りのおじさんも僕が食べるのを興味深そうに見ている。「うまいよ!」というと一同笑顔がこぼれる。

そして時間になって王宮に入って見ると、そんなに期待はしてなかったのだが、入場料が$1もしないにも関わらず、とてもフレンドリーで質の高いガイドが一人着いてくれていろいろと館内を説明してくれる。この博物館はもともとアシャンティの王宮で展示も歴代の王にちなんだ物だった。

町を歩いていると日本語で声がかかった。普段なら通り過ぎるのだがここの所調子がいいので足を止めて振り返ると一人の青年が手招きをしている。「ははあ、また日本語使いか」と思って近寄っていくとなんと彼はおかしいなりにも、ちゃんと日本語で会話が出来るのだった。何でも日本に10年居たらしいけど、遊びというか、遊びがてらに店をやっていただけだと笑っていた。

夜は「元協力隊の日本人とその妻の中国人がやっている」というチョップスティックレストランという所へ行ってみたのだが、これが大外れだった。見た感じ今では奥のバーと経営が同じで、厨房も全員地元民が作っていた。きっと日本人夫婦はもう引き上げてしまったのだろう。それにしても許せないのはラーメンの麺がパスタだった事だ。ああ、ガッカリ。アクラに着いたら高級エリアでリターンマッチをする事にしよう。

直時から帰ってきてから二階のテラスで涼んでいたら40過ぎぐらいのおばさんが話しかけてきた。どうやらアメリカ人でかなりの旅行好きらしく「15年程前にドゴンへ行ったんだけど、旅行者なんていなくて、それはよかったわよ」てな事を言うので僕はちょっといたずら心に火が着いた僕は、ドゴンの現状をおもしろおかしく話して上げた。

「今じゃドゴンはほとんどモスリムかカトリックに改宗したんだよ。村でもモスクを中心にみんな生活してるし」「OH! Nooooooo----!!」「それにオゴン(精神的リーダー)もゲストハウスやってるしさ」「No! I can't believe it」「それからまだまだ」「OK That's enough. Stop it」おばちゃんは結構ショックを受けていたようだった(笑)

他にも旅話を色々したのだが「日本人もアメリカ人も仕事ばかりしてるのに、貴方みたいに長い時間をとって世界を回ろうなんて素晴らしいわ」と妙に感心されてしまった。何でもおばさんが20年近くかけて少しずつまわった世界を僕はたったの2年で回ろうとしているのだ。ちょっと消化不良な感は否めないが、それはそれでまた何十年後かにもう一度訪れてみるのもいいだろう。人生は長いのだから。
 

 
クマシのマーケット
これはまだまだほんの一部
 

1月14日 海風(クマシ〜ケープコースト)

ここの所僕は懐かしい風を感じている。湿気をたっぷりと含んだねっとりとまとわりつく風。そう、それは遠い過去の記憶で有ると共に日本では当たり前の夏の風物詩だ。通りを歩くだけで汗が噴き出してだらだらと流れていく。僕はそれを拭うこともせず
ひたすらシャツが汗でびしょぬれになるまで歩き続けた。

そろそろ海へ行こうと朝から朝食も兼ねてSTCのバスターミナルへ出かけた。バスは午後1時発なので早めにチケットを買おうと窓口へ行ったのだがなんと朝7時にも関わらずバスはもう満席という。僕はてっきり当日の朝しか買えない物だと思いこんでいたのだが何と前売りで全部売り切れてしまったのだ。

仕方がないので僕は荷物を背負ってぎゅうぎゅう詰めワゴンを探すべく、町外れのトロトロパークへと出かけた。ケープコーストへ行くトロトロはすぐに見つかって、しかも大型のワゴンだったので窮屈なのには変わりないのだが、肩が当たるぐらいのものでまあまあマシだった。それにしても係員はあざとく、僕はリュックを車内に持ち込んだにもかかわらず荷物代を請求されてしまった。2000セディだというので「そんな高くないだろう!」と斜め向かいのおばちゃんも巻き込んで抗議すると一発で、1500セディまで下がった。本当は1000ぐらいなのだろう。まあどっちにしてもはした金なのだが。

ワゴンは30分ほどで最後の一席が埋まって出発した。道中は本当に熱帯雨林の中を走り続けた。こんな景色を見るとはいつ以来だろう。というかこの旅始めてかもしれない。敷いて言うならニュージーランドの西海岸で見た深い熱帯林に少し感じが似ていた。ワゴンが検問で停まる度に後ろの青年が僕にも1つミカンを買ってくれる。二人でくるくる回しながら汁を吸って窓から放り投げると目があってまたほほえむ。

結局このワゴンはなかなかの当たりで、この区間は結構な山道や荒れた舗装路が多いのだが、このワゴンは荒い運転手のせいもあってものすごいスピードで走り続ける。バスだと4時間、そしてこのトロトロの看板にも4時間と書いてあったのに、何と快挙の3時間15分で僕をケープコーストに送り届けてくれた。しかも値段もSTCの6割ほどだし、ざまーみろだ(笑)

町外れの安宿に荷物を降ろすと僕は居ても立ってもいられなくてシャワーも浴びずにそのまま外に飛び出した。海が見える。ダカールからここまで長かったがついにギニア湾に到達した。そしてこの小さな漁師町は建物こそ全然違うが、何となく僕が育った漁師町に雰囲気が似ていた。干した魚の臭いや路地を行ったり来たりするおばちゃん達。みんななぜだか真っ黒に日焼けしちゃってるけど、ここは僕のふるさとだ。

しばらくすると少年が着いてきた。例によって仲良くなってから「僕の母親がナイジェリアにいて手紙を書きたいから切手代が欲しい」とかそんな奴だ。さすが観光地。会う子供みんなが似たような手口なので思わず笑ってしまう。最近のトレンドは「ナイジェリア(同じく英語圏)」らしい。

しばらく歩くと漁師町の暖かさを一層感じる。みんなが「どうだい調子は?」なんて声をかけてくれる。海沿いにずっと歩いていくとやがてケープコーストの砦にたどり着いた。早速中に入ってみたのだが、何と入り口でアクラの大使館員の娘だという日本人にばったりあった。付き人がいたのでゆっくり話はできなかったが、いるところにはいるもんだ。

砦自体はちょっと綺麗に修理しすぎかな?という気もするが真っ白な壁が青空に映える。ぐるりと中を一周してみるのだが、やはりここも奴隷の積み出しに使われていたらしく、奴隷を閉じこめておく巨大な部屋があった。中に入ってみるとそれはもう蒸し暑い。こんな所に長期間閉じこめておいたらきっとたくさんの死者が出ただろう。そして独房と呼ばれる部屋は窓も全くなく、中に入るだけで汗がダラダラと流れた。

さすがに張りきり過ぎると疲れがどっとでて、それから少し昼寝をしてから屋台で夕食をとって、夜は日記を書いて過ごしたりした。夜になっても暑いなんて、本当に日本に帰ってきたみたいだった。
 

 
ケープコーストキャッスル
 


1月15日 漁師町(ケープコースト〜エルミナ〜ケープコースト)

ケープコーストの朝はうるさい(笑)ケープコーストと言うよりも僕の泊まっているエリアがそうなのだろう。裏が学校な上にはやり漁師町なので、朝6時にはもうそのうるささで目が覚めてしまう。仕方が無いのでそのまま外に出て明日のバスの時間を調べがてら朝食を食べに行った。

ケープからアクラへのSTCバスは意外にも一日2本しかない。まあこの距離ならトロトロの方が安くて便利なのだが、荷物代をぼられるとやはりへこむ(弱い、、)のでSTCで行くことにした。12時発で9000セディ。朝に次の日のを買いに行ったのにもう既に座席番号は30番だった。ガーナでは意外といろいろ早めに手を打たないといけないのかもしれない。

朝食は屋台で食べた。食パンと薄いコーヒーなのだが、やはりガーナに入ってから朝食の質は一気に落ちる。イギリスパンはやはりまずいのだ。そしてコーヒーもあの甘ったるいカフェオレが懐かしくなる。朝食を食べ終わるとタイミング良く銀行が開いたのでそのまま両替をしに行った。バークレーズというアメリカの有名銀行で両替したのだが、さすがに外貨が欲しいだけあって、コミッションもないしレートもなかなかのものだった。

そしてここガーナに入ってから驚いたのは物価の安さだ。ガーナはインフレの為に為替レートは1年で半分以下に落ちる。しかし物価の上昇はインフレよりもかなり低く抑えられていて、去年$5ぐらいだったというホテルに今$2強で泊まっているし、バスの値段もイランまでは行かないが無視できるほどに安い。おまけにガーナでは今最高額紙幣は5000セディで、これは$0.7程の価値しかないので、$50も換えるとポケットはもう札束でどうしようもなくなってしまう。物価と相まって本当に金持ちになったようだ(笑)

今日は郊外の漁村にあるもう一つの砦に行ってみる事にした。エルミナという村でケープからはトロトロで11Km値段はたったの600セディだ。ワゴンは満員なのだが、砂浜沿いをずっと走るので海からの風がきもちいい。やがて30分程で活気に溢れた漁村エルミナに到着した。

外国人がここに来る理由は観光以外には無いのでさっそくお金目当ての子供が集まってくる。寄付金のリストが載ったノートを見せてくるのやら「友達になってくれ」とか「あちこち案内してやろう」とか。「ノーマネー、ノーギフト」と言って歩いているとやがてみんな何処かに消えていった。

エルミナキャッスルはケープコーストと違って砂浜の上に建っているような感じでそのせいか高い壁と掘で囲まれている。ここもまた世界遺産に登録されているだけあって見応えもたっぷりだ。砦の上に登ると下の砂浜では地元民達が泳いだり昼寝をしたりしている。その脇では巨大な丸太をくりぬいて船を造っていたりと見ていて飽きない。

一方町側を見てみると市場にはたくさんの小舟や人が群がっていて活気がある。本当にガーナの漁村がそのまま有るという感じで、浜では男達が漁に使う網を縫ったりしていた。一人の男が声をかけてきたので「自分のふるさとも漁村で、たくさんの漁師が網を修理しているよ」と言うと「そうかそうか、それはいい」と笑った。

ここでも僕は中国人にされてしまった。それだけ田舎に来たという事なのかも知れないがやっぱり「チンチョン」おちょくってくる奴らがいてそれなりにうざったい。さっきの子供達もまだまだ待ちかまえていたりするので、早々にエルミナを後にした。

宿に帰ってくると豪快に昼寝。やっぱりこういう蒸し暑い気候では昼寝は必須だ。夕方からは今日エルミナへ行く途中に見つけた感じのいいビーチへ行ってみた。何処までも続く砂浜とたくさんの椰子の木。しばらくぼーっと海をながめていた。僕はこの海に流れ着くのに一体どれだけの偶然が必用だっただろう?

一つの出会いで旅のルートが大きく変わってしまうように、一つの出会い人生も大きく変わってしまう。すべては偶然の上に成り立っていて、僕がこんな旅をしてこの海へとやって来たのも一つの奇跡といえる。そしてその旅がさらに僕の人生をも変えて行くだと思うと何だか運命の力のような物を感じた。

夕方タウンホールという所へ行ってみた。中にある体育館では若者が音楽に合わせてダンスの練習をしていた。何も一緒に踊ろうと言うわけではなく、「インターネットカフェがやって来た」という看板があったので入って見たのだった。ここは値段はそこそこするのだが回線が速いので全部のメールをフロッピーに落としてしかもホームページまで更新しても15分しかかからなくて、結局70円ほどしかかからなかった。

カフェを出ると丁度夕暮れ時だったので、そのまま海沿いを歩いて夕食を食べに行った。Woman Centreというボランティア団体がやっているレストランが美味しいらしいのだがあいにく休みだったようで、そのまま屋台でご飯&シチューを食べた。魚が入っていてなかなかだ。帰りにその辺のバー(といっても駄菓子屋に椅子が並べてあるようなもの)でビールを飲む。地元の人達と言葉を交わしてほろ酔いでなま暖かい海からの風に吹かれながら宿へと歩いて帰った。

宿でさっきのフロッピーをチェックすると色んなメールが届いていたのだが、その中で一つショックなのがあった。サファリホテルの「夕子」からだった。何でも僕たちがサファリにいた時に一緒で、夜遅くまでしゃべっていた仲間の一人が亡くなったそうだ。そう言えば僕が出発する前も「カゼかなあ?」と調子悪そうだったのだが、急性白血病だったらしい。本当に人の運命っていうのは何なのだろうと思った。
 

 
活気有るエルミナの漁村
 

1月16日 いざアクラ(ケープコースト〜アクラ)

今日も朝っぱらからけたたましい騒音でたたき起こされる。気合いで2度寝して久しぶりに自分で紅茶を入れてパンをぱくついた。今日はアクラへ向かうのだが、バスが昼にしかないので、朝はたっぷり日記やメールの返事を書いたりするのに費やした。

集合時間少し前にバス乗り場へ行ったのだがバスの姿が全く見えない。待てど暮らせどバスは来ず、結局出発時間から遅れる事1時間半でようやくやってきた。来たバスが折り返すというそんな実現不可能なスケジュールを組んでいるのがさすがにガーナのバスだ。

そしてアクラに向かう道路も結構いい加減なものだった。道が悪いのはもう慣れっこなのだが、こんなメイン幹線が穴だらけな上に、何と交通量の割に明らかに狭すぎて、町の入り口にさしかかると渋滞してしまう。そして最悪なのが路肩も亡いので一台タンクローリーなんかが走っていたら、もう追い越すのは不可能で、延々1時間も30キロぐらいで走り続けないようなそんな代物だった。やっぱりこの区間はトロトロが正解のようだ。

ちょっとストレスのたまる移動を終えてアクラの町にさしかかったときにはもう4時前になっていた。バスは町外れのターミナルへ着くのだが、早速タクシーが寄ってくる。「エイ チャンチョン」とかいきなりむかつく言葉を投げつけられて不機嫌になった僕はすべてを振り払って歩いて市内まで向かうことにした。約3キロの道のりだ。

僕はアクラにかなり都会的な物を期待していた。だからアクラの碁盤の目の様になった安宿のある地区の地図を見て、きっと高いビルとかがいっぱい有るのだろうと勝手に思っていた。所が市内にさしかかると何とほとんど平屋か2階建てでビルの陰も形も無い。100万都市のアクラだが、第一印象はいかにもぱっとしない街というものだった。

そして参ったのだがこのぱっとしない街のぱっとしない安宿が軒並みフルだというのだ。僕はモロッコ以来宿を訪ねて「部屋が無い」と言われた事は一度もなかったので、久しぶりに困ってしまった。有るにはあるがダブルやトリプルしか無いと言うところばかりで、結局1.5倍ほどだして、Prince Crown Hotelというぱっとしない宿のダブルを確保した。

この時間からだともう航空会社を訪ねたりするのは間に合わないので、とりあえず中心の市街地を歩き回ってみる事にした。海沿いが商業の中心地らしいのだが、結局のこの辺もいくつか綺麗な外資系の銀行があるぐらいで、摩天楼というにはほど遠い物だった。

ガッカリした僕は、美味しい物でも食べてここは気持ちを切り替えようとトロトロに乗ってOSUというちょっと高級なエリアに出かける事にした。そしてOSUにはいくつかの中華料理屋があるのだが、中に一軒Seoul Grilleという韓国料理のお店があったので早速入って見た。店構えからするとそんなに高級そうじゃなかったので入って見ると、まあそこそこの値段だった。

一応日本食もあって、僕は久しぶりに豚カツを食べてみたのだが、やっぱりこれは少し韓国風だった(笑)とはいうものの食べれない物でもなく、付け出しのキムチをおつまみにビールをがぶがぶと飲んで少し機嫌が良くなった。明日は一つ韓国料理を試してみようと思う。
 

 
アクラ中央郵便局
 

1月17日 遠く離れて(アクラ)

「首都に来たらまず大使館」というのは結構多くのバックパッカーが実践していることじゃないかと思う。大使館には危険情報の他新聞や日本の本が置いてあることが多くて、中には情報ノートがある所まである。そしてここガーナは西アフリカでは数少ないの日本大使館のある国なので早速だが訪ねてみる事にした。

地図を便りにトロトロを乗り継いで更に歩いてたどり着くと、、、移転していた。ショック。その辺のガーナ人に訪ねてみるのだが、みんな適当な事を言うので更に迷ってしまい、やっとの事でたどり着いたそこは、とにかく立派な建物だった。たぶん今まで行ったどの日本大使館よりも立派だった。

しかし中はその立派な建物とは裏腹にとりわけ行く価値はなかった。新聞も2〜3ヶ月前のものが、たった5部ほど置いてあるだけで、図書館も無いし、危険情報さえ窓口で頼まないと閲覧出来ないようになっている。他にも「現地人と結婚しただろうおばさん」がいたのだが、彼のビザを取りに来たのだが、なかなか日本人の係員がでてこないと怒っていた。

結局無駄足で、そのままここから脱出するための航空券の値段を調べに行くことにした。これは大使館街から近いはずだったのだが、何とこっちも移転していて、教えてもらったオフィスに着いた時にはもう汗ぐっしょりだった。そしてそれに輪をかけたのだが、ここの係員の態度が最悪だった事だ。

ここは前にリスボンでチケットを買ったUSITという学生向けの旅行代理店の提携店になっていたのだが、サービスと言う物を全く理解していない対応だった。まず「南アフリカへ行く値段が知りたい」というとなんと「うちは知らないから南アフリカ航空へ行け」と言われてしまった。ヨーロッパ方面の安いフライトに着いて聞いてみても「行き先と航空会社は? あー?」みたいな対応で呆れた僕はとっととそのオフィスを後にした。ちなみにM&Jという旅行代理店だった。

一気にやる気の無くなった僕はもうガーナから飛ぶのを辞めた。隣のトーゴならヌーベルフロンティアという世界的なフランス系の格安航空券会社があるので、問題なく飛べるだろう。気持ちを切り替えて、ここアクラで唯一行きたかった、Dr.ノグチの記念庭園のあるコレブTeacheing Hospitalへ向かう事にした。

タクシーで行くのが手っ取り早いだろうという事で、流しのタクシーを拾おうと道路で建っていたら、いきなり現地の青年に声をかけられた。「Korlebu HospitalならCircleからトロトロで行けるから一緒に探して上げよう」という有りがたい申し出だったので一緒にサークルまで向かう事にした。

このサークルというのは交通の要衝になっていて、ここへ行けば大体の場所へ行けるようになっていて、特にここへ向かうトロトロは全部手をくるくる回しながら「臭い臭い臭いっ」(本当はCircle Circle Circleと言っているらしい)と連呼しているのですぐにみつかる。

話をしているとこの青年はリベリアからの難民らしく、現地語が話せないので全部英語で通しているのだが、これがなかなか無視されたり不快な思いをすることがおおいのらしい。一緒にいた女の子は「さっき知り合った」という事だった。難民しててもちゃっかりナンパしてるんだと少し安心したような気分になった(笑)

タクシーブルースに揺られてたどり着いた病院は巨大な街のようだった。とりあえずMedical Schoolという看板を目指して歩いていくと売店のおばちゃんに「ノグチでしょ?」と言われてすぐに目的地にたどり着くことができた。日本庭園の中に野口英世博士の銅像と石碑があった。日本庭園は少し荒れ放題という感じもしたが、92年に一度修復されたものらしい。

庭園の前の医療研究所には野口博士に関する小さな展示室があって、当時使っていた顕微鏡や亡くなったときの新聞記事、そして中でも40を過ぎてから字を習ったという母が英世に宛てた手紙は心を打つ物があった。展示室を案内してくれた研究生に展示の事を聞かれて、色々と日本語の文章を翻訳してあげると興味深そうに聞いていた。

僕が野口英世について細かく知ったのは、恥ずかしながら少年マガジン連載の「Dr.NOGUCHI」というマンガからだった。しかしながらこの作者はなかなか力があって、事実に沿った伝記物にも関わらず、僕はこのマンガが大好きで毎回書かさず読んでいたのだった。だから一応彼が生まれてから死ぬまでのエピソードについては一通り知っていたので今回の訪問は感慨深いものだった。

病院の洒落た食堂で昼食を食べてから街へ戻ることにした。帰りのバスは街の海沿いの中心部に着いた。「臭い臭い臭いっ」とトロトロが走ってきたので乗ろうと思ったのだが、近くに航空会社のオフィスがあったのでちょっと立ち寄ってみた。しかしやはりガーナからはどう頑張っても$600はかかってしまうので、もうこれで完全にガーナから飛ぶのは無くなった。とりあえず明日港へ行ってみてめぼしい船が無ければ明後日にもトーゴへ抜けようかと思う。やはり僕は少し疲れているようだ。

宿に戻ってもいまだにシングルが空いてないという事なので、向かいの宿に引っ越しすることにした。こっちもダブルしか無いのだが、それでもこっちは2/3ぐらいの値段なのでよく考えずに決めたのだが、こっちはこっちでウザイ「太鼓を習わないか?」とかその手の男がたくさん出入りしている上に掃除も行き届いて無くて汚いし、ちょっと失敗だった。ま、寝るだけと割り切るしかない。

とりあえず、明日でガーナ最後なので何かこう元気が出ることがあるといいのだが。
 

 
母シカが清作(英世)に宛てた手紙
シカは英世にこの手紙を書くために字を習った。
 


1月18日 無駄足(アクラ〜テマ〜アクラ)

宿を移ったのは大失敗だった。そして宿が悪いというのはこうも旅のやる気に水を差す物だと思い知った。本当にこの宿はこれまでの旅で泊まった中でもワースト3に入るほどだった。部屋が汚いのはまだしも、太鼓やツアーの客引きが常に出入りしていて煩わしいのに加えて、娼婦のようないでたちの女が夜遅くまで下品な笑い声をたてるし、何よりも窓が片側にしかないので暑くてたまらずドアを明けると、今度はマラリア蚊の大群に体中を刺されまくってしまった。はあ、、、やる気無し。しかし何故かアクラの宿は安いところは全部うまっていてこんな所しか空いてないのだ。

宿にいるのももっとイヤなので、朝から出かけることにした。まず最初はアクラの港でもあるテマと言う街へいった。ダメもとで南アフリカか南米へ行く安い船が無いか調べてみるためだ。テマまでの道海沿いを走っていて、なかなか夏を感じさせるいい風景だった(本当は冬なんだけど)しかし収穫はそれぐらいで、あちこちたらい回しにされて歩き回っても結局南ア、南米への旅客サービスというのは見つからなかった。本当はもっと探せばあったのかも知れないが、その時にはそんなガッツはなかった。今までのアフリカの疲れが、ボディーブローのように後になって少しずつ効いてきたのかもしれない。

テマは日本人が来ないので、あちこちから「チンコン」「シン・ファン・ホン」とあちこちから声がかかってウザイ事この上ない。日本政府は日本人と中国人の違いを世界に教えるために、広報費を10億円ぐらいかけても良いんじゃないかと真剣に思った。笑い事のような気もするが、反中感情の高い国(インドネシア、インドなど)で間違って襲われたらたまったもんじゃない。

そんなわけでそうそうとテマを後にすることにしたのだが、次の行き先はガーナ大学。ガーナ最大の図書館と本屋で今後の旅の情報を集めようと言うわけだ。一度アクラに帰るのは面倒なのでいろいろ聞いて回ると、ここから直接アクラ郊外のラゴンへ行くワゴンがあるらしい。訪ねた青年は何と仕事の手を休めて僕のために5分以上もかかるところまで連れていってくれた。一瞬「お金を要求されるかな?」と思った自分が恥ずかしかった。

ワゴンでは隣のおじさんおばさんが英語を話すのでいろいろと会話が続く。そして高速道路を走っていた時におじさんが「We get off here」と言ったので「ここが大学なの?」と訪ねると頷くので僕も一緒に降りたのだが、振り返ったおじさんが僕の姿を見て驚いた。何とおじさんは良く聞こえなかったので適当に返事をしたようで「本当にすまない」と畜産試験場以外何も見えない高速道路の路肩でヒッチを手伝ってくれた。

運良くすぐにラジエターの水を足している車を発見して、高速道路の終点まで乗せて貰えることになった。そしてワゴンに乗り換えてたどり着いたガーナ大学はさすがにでかかった。「図書館はどこ?」と聞いても「どの図書館だ?」と言われる始末なのだが、結局行ったメインの図書館にもガーナ最大の本屋にも旅行関係の本は一冊もなかった。考えて見ればこの国の普通の学生がロンプラ何かを片手に世界を回ったりするのは到底不可能だ。金銭的にもそうだが、入国審査と言うもっとやっかいな物がまっている。

ちょっと複雑な気分で大学を後にして向かったのはいつもの「オス」と言われる商業エリア。アクラで一番高級でおしゃれな街らしいのだが、ほとんどの建物は2階建てか平屋で、一歩はいると土道だったりする。やっぱアクラはイケてないなあ(笑)イケてない割にはインターネットだけは安くて一時間で$1もしない。久しぶりに色んなサイトをのぞいてからPapayeという地元の人に人気のファーストフードでチキンを食べて宿に戻った。

明日はこの街を脱出してトーゴに向かう。綺麗で落ち着ける宿があったら良いんだけど。
 

 
ガー大の図書館
 

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