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長い時間砂漠横断バスに揺られて遂にイラン国境までやって来た。鉄条網が張り巡らされたフェンスの向こうにホメイニの肖像とイランの国旗が見える。遂にイランまでやってきた。
イランの国境はまだ閉まっており、やはりバス会社の親父の情報は嘘で実際に開くのはパキスタン時間の9時半からだった。しばらくイミグレーション前でうだうだしていると、パキスタン側の出国審査が始まった。外国人はなぜか優遇されていて優先的に建物に入ることができ、チェックもほとんど無くあっけない物だった。
出国審査が終わる頃にはイラン側も開いており、警備兵の手招きでイミグレに入る。心配していたイラン入国だがこっちもあっけなくしかもフレンドリーに終わり、荷物検査もせっかくチャックまで開けて用意したのに何もチェックせずに「行っていい」と言われた。同じチェックでもパキスタン人はカバンの中身を徹底的にチェックされていた。
僕はイランについては今までいろんな本で読んだり、他人の旅行記なんかからかなり良い印象を持っていた。道徳も先進国並で理屈通りに事が進むと思っていたのだ。だからこんな風に今日一日は楽勝だと思っていたらそれは大きな間違いだった。
まず国境のゲートを出ると無数のタクシーが群がってきた。イミグレーションオフィスには一人4000リアルと書いていたのにドライバーの言い値は何と一人20000リアルだった。みんな談合しているらしく全く値段を下げようとしない。
ここから一番近い町ザヘダンまでは80キロ程なのでまあ高くないといえばそうなのだが、イランの相場からはべらぼうにかけ離れていた。結局バスが発車するのを1時間半ぐらい待っていたがバスは動く気配もなく、しかもこっちも3000の所を10000とぼってくる。
どうしようかと思ったのだがしばらくするとクエッタで同じ宿だった「兵庫くん」がやって来て、僕のバスで一緒だったパキスタン人の申し出で一緒にシェアする事でまとまった。値段はパキスタン人プライスの15000リアル。助手席の別のお金持ちパキスタン人が余分に出すと言うことで自分たちは15000で収まったのだが、実は後でもう一人のパキスタン人に騙されていた事に気が付いた。
要はバスで一緒だったパキスタン人と日本人二人で40000欲しいと言うことだったのだが、このパキスタン人は自分が10000で僕たちに15000ずつ払わせようとしたのだ。そう言えば乗る前から「カネカネ」と自分に払うようにしつこく言っていた。
僕は「やられた」と思ったのだが「兵庫くん」の方は完全に切れてしまった。彼の言い分は「お前が交渉したのだから自分たちが余分に払うのは認めるが、12000、14000、14000にしろ」と言う物で、パキスタン人の方はたった2000の事なのだが負けずに必死で言い返し激しい口論が10分ぐらい続いた。
途中のチェックポストで止まったときにその口論の様子に警察が集まってきたて前のパキスタン人紳士が警官に説明していた。まあ自分は最終的には払ってもいいかなと思っていたのだがここで怒り爆発の「兵庫くん」が予想外の行動に出た。「もういいお前要らないよ、オレが25000払うからお前はここで降りろ」そしてパキスタン人も「ああ降りてやる」とドアを開けて出ていった。
そしてやれやれで僕たちはザヘダンの町に到着した。今日の行き先はバムだったので、パキスタン人紳士が運転手に1番のバス会社に連れていくように頼んでくれた。そして紳士と別れてバスはバス会社が集まっている通りの一軒のパス会社に到着した。
「1番の会社?」と聞くと運転手はうなずく。そしてさっそくカウンターから笑顔の人が出てきて「バムなら2時にある」と言うのでさっそくチケットを買った。そして昼食を食べて町をぶらついてオフィスに戻るとなんとここは16番のオフィスだった。
バムには1番、7番、8番のオフィスしか無いはずで、このバスはバムの町に行かず途中のロータリーで下ろされてしまうものだった。つまりまんまと騙されたのだ。しかも後から8番のオフィスに行くと1時丁度にバムの町中まで行くのがあったそうなのだ。ちくしょう!!
しかしこれだけでは済まなかった。実は2時と言っていたのは嘘でバスの時間は2時半だった。そして2時半になったがバスは現れず、他の客を見ていても全く出発する気配が無い。激しく抗議しても全然気にしないふうで「もうすぐだ」を繰り返すばかり。怒りが頂点に達した3時頃カラのバスがやってきた。
しかしイラン人は賢いものとばかり思いこんでいたのだが、今日の奴らは最高に頭が悪い。まず一人ずつチケットをチェックするのだが、全員のチェックが終わってから今度は信じられないことに荷物に油性のマジックで番号をかき込もうとするのだ。冗談じゃ無い。何とか自分たちの荷物にだけは書かせずに済んだのだが、積み込みも一つずつ一人の人間がやるのでこれでも3時半になってしまった。
乗客も全部の荷物が積み終わるまで動こうとせず、ぞろぞろと乗り込む。そしてここで信じられない事が起こった。荷物とパキスタン人を満載したトラックがバスの横に止まったと思うと、その膨大な荷物を積み始めるのだ。しかも車掌とパキスタン人が荷物代の事で延々口論している。もう冗談じゃ無い。
結局やっとの事で荷物を積み終わって出発とおもったら、修理工場の前で止まってしまった。なんでもタイヤの修理をするとかで20分。そして出たと思ったら今度は運転手が自分の飲みかけのジュースを忘れたとかで再びオフィスに戻る。そしてやっとの事で出発した時はもう5時近かった。
この後も16番バスの悪行は続く。途中運転手が知人を見つけて勝手にバスを止めて降りていってお茶を飲んだり、車掌がタバコを吸うのは当たり前でしまいにハッシッシ(マリファナ)まで出してきた。そして運転手はやる気なくトロトロ60キロぐらいで運転するので全然前に進まない。
たまりかねて抗議するとやっとの事でスピードをあげて走り出したが、とにかく道路は検問が多く300キロほどの距離で10回以上あっただろうか?それも一応形式的にトランクを開けたりするぐらいで、実質何の意味も無く警察の権力を見せつける為だけにやっているような感じだった。
こんな感じで最低なイラン人の洗礼を浴びながら夜も更けた10時半にバムの町外れで降ろされた。そしてタクシーが寄ってくる。「アルアミリまで1万リエルだ」もういい加減にしてくれ。無視して次のドライバーに2000ずつの4000千で交渉すると一発でまとまった初めてまともなイラン人に会ったような気がする。そしてたどり着いた宿は部屋こそまともなのだが、とにかくレセプションの奴の頭が悪く、言っている事が支離滅裂で訳が分からない。とりあえず交渉もめんどくなって一番安いドミトリーの部屋に転がり込む事にした。
もともとイラン東部はペルシャ人ではなくバローチ人、アフガン系が多いせいかもしれないが、とにかくろくな奴らが居ない。初日からイランの印象は今までの中でもカンボジアと並んで最低の国にランクされてしまった。
クエッタを出てから30時間もう体は限界に近く、シャワーを浴びると泥のように眠り込んでしまった。
昨日はド最低だったイランだが、ここバムまで来ると少しましになるようだ。とはいうもののやっぱり、一方的につきまとってきて訳のわからんことをしゃべりまくる(ジェスチャーからたぶん下ネタ)頭の悪い奴らも居るのだが、普通に挨拶をかわす人達はまともだった。
ここバムの最大で唯一の見所がアルゲバムと呼ばれる都市遺跡だ。事実ここは500年ぐらい前に作られた城壁都市なのだが、なぜかある時見捨てられそのまま放置されて、見た感じは人の消え失せた旧市街という感じだ。ビザの関係で日数も無いので7時に起きてさっそく出かける。
とりあえずおなかが空いたので「サンドイッチ」の看板を見つけて店に飛び込んでみたらこれが結構当たりだった。イランではサンドイッチ屋さんが何処にでもあって、具を選ぶと細長いパンを割って間に野菜やトマトと一緒にたっぷりはさんでくれる。これにイランの国民飲料ザムザムコーラを付けて2000〜3000リアルとなかなかお得だ。
サンドイッチ屋を出ると遠くに土で出来た城壁が見えてきた。15000リアル払って中に入ってみる。中に入ってちょっとガッカリしたのは、修復されている部分がほぼ新築(立替え)と言った感じで綺麗すぎるのだ。話によると元々無かったものまで「増築」しているらしい。やっぱり頭悪いのかイラン人?
修復の手が入ってないところはかなり崩れていて見応えたっぷりだった。町の中心の城の見張り台に昇ると遺跡全体が見下ろせる。上から見るとなるほど「死の町」というのもうなずける。遺跡の外にはたくさんの椰子の木が見られ、本当にここバムが砂漠のオアシスなのだなあと思った。
遺跡見物が終わるとさっそく移動だ。とにかくイランはビザがあまり無いので動き回ってやる(笑)遺跡の帰りに7番のバス会社に寄って時間をチェック。そして12時半のバスに乗るべく荷物をまとめて宿を出る。チケットを買うと普通の座席は一杯で後ろの良くない5人掛けならあるというのでそれを買うことにした。
そして驚いたのは「昼飯を食べに行くから荷物預かって」と言うと「時間が無いからサンドイッチにしろ」というのだ。と言うことは定刻通りに出発するのか?密かに期待が高まる。サンドイッチを流し込んでターミナルに戻ると荷物の積み込みが始まっていて、乗り込むとバスは時間ぴったりの12時半に出発した。
今日のバスは本当に順調でけっこうな速度で砂漠を走り抜けていく。車内では凶悪な顔をした子供が冷水のサービスをしていた。愛想は悪かったが昨日のバスに比べると全てにおいてすばらしい。バスは3時間きっかりにケルマンのバスターミナルに到着した。最後に凶悪な顔の子供が僕らだけにチップを要求してきたのだが後味が悪かったが軽く断って次のバスを探すべく表通りに出た。
今後の予定だが、ケルマンは半日ぐらいで十分観光できるらしい。そんなわけで夜行でシラーズに向かうのがベストだろう。「兵庫くん」も全く同じ意見だったので、バス会社を当たってみた。辺りにはいろいろな会社があった。(クソ16番のオフィスもあった)とりあえず結構評判のいい1番のオフィスに行ってみると夜9時丁度にシラーズ行きがあるというので早速チケットを買った。しかも荷物預かり室まであって至れりつくせりだ。
荷物を預けて早速町に繰り出す。ケルマンはなかなか綺麗な町だ。最初に金曜モスクへ行ってみたのだが、ここで初めて中央アジア・チムールの流れを汲む青いタイルで覆われたモスクを見た。結構大きくてタイルもなかなかの物だ。
中は涼しくて座っていると大学生らしきイラン人が話しかけてきた。英語学科の学生らしく驚くほど流暢な英語を話す。「最初はイランをどう思う?」とかいう決まりきった質問から始まり、世間話やお互いの国のこと。そして最後もお決まりの「自由恋愛について」だ。
イラン人はやはり国がそういう体勢なので、たまっているのだろう(笑)「おまえはヤッた事あるのか?」←止せ とかいろいろ聞かれ、そして参ったのは「お前の国では結婚してなくてもヤれるんだろ?だったらなんで結婚するんだ?結婚なんてする必用全く無いじゃないか」さすがにその質問には頭を抱えてしまった。外国人女性へのなめ回すような視線からも、イランの若者はみなこんな感じなのかもしれない。やれやれ(笑)
その後はケルマンの見所バザール。この中にはハマム博物館とか入場料を取られるチャイハネとかがあってそれ自体が町の見所になっているようだった。ハマム博物館はどうって事は無いのだが、古いハマムに蝋人形で当時の様子なんかが再現してあって、タイルがなかなかすばらしかった。
チャイハネの方は雰囲気は良かったが、停電していて蒸し暑かった上に、なんだか店員の感じが悪かった。しばらく居たのだが客が減ってくると「終わり」と追い出されてしまった。観光客がいっぱい来るから調子に乗っているのだろう。
その後は広場に座って地元の大学生たちといろいろ喋ったりしてからバスターミナルへ向かった。バスはほぼ満席で時間通りに出発した。
ここへ来て思うのだが、イランは思いのほか涼しい。クエッタに着いたときも同じ事を思ったのだが、やはりここはパキスタンに比べると圧倒的に涼しく、夜はひんやりとして快適だ。途中検問で起こされたりしたが、結構よく眠れた方だった。
昨日の夜は真っ暗な空に三日月がぽっかり浮かんでなかなかいい感じだった。そして朝起きると回りには巨大な湖があって、岸がまるで雪でも降ったかのように真っ白になっている。どうやら塩湖のようだ。ほどなくバスはシラーズのバスターミナルに到着した。
さっそく寄ってくるタクシーは今までのなかでもなかなかのボリ度だった。通りまで出ると良さそうな個人タクシーのおっさんがだいたい相場程度で町まで連れていってくれた。ここイランでは白タクが合法のようで、認可されたタクシーも普通の乗用車も同じように客を乗せている。そしてこれまでの経験ではどちらかというと無認可のタクシーの方がぼられにくいようだ。
早速宿探しなのだが、期待していた安宿が閉鎖されていたので近くの宿を回ってみた。やはり50000以下の所はなかなか無く、もう一件も最初はバス無しで10万とか言ってきたので「とんでもない」というと一気に5万まで下がった。あわよくばとダメもとでぼってきたのだろう。このへんはインド人と同じだ。
結局最初の5万の所に泊まる事にしたのだが、まあ今日はまだ「兵庫くん」と一緒なので一人$3程度と少し高めだがまあこんなもんだろう。
ここシラーズは結構雰囲気の悪い町で、風景自体は良いのだが、歩いている人のガラが悪い。通りを歩いていると「ヘロインを買わないか?」としつこく絡んでくる奴らやら、なにやらつきまとってきてペルシャ語で訳の分からないことを言ってくる頭悪そうな若者の集団や、何かにつけてぼってきたりと、とにかくそんな感じなのでもう見所のペルセポリスだけみて一泊でとっとと町を出ることにした。
そんなわけで宿に着いてシャワーをあびてさっそく遺跡見物にでかける。最初は宿の前にたむろしているタクシーをチャーターしようと思ったのだが、これも8万リエルとバカ高い。いったんは乗る決心をしたのだが、その親父がどっかへ行ってしまった為バスで行くことにした。
遺跡はシラーズから50キロ程離れたマルブダシュトという町の外れにあるのだが、結局バスで行くとたったの1300リアル。そしてそこからタクシーでぼられても3000リアルと少し疲れたがなんとかたどり着くことができた。それにしても最初の言い値は当然10000からだった。さすが超観光地。
肝心のペルセポリスの方はこじんまりとしている割には見応えがあった。ちょっと綺麗に修復されすぎかなという気もするが、ともかく2000年以上前に作られたのだと思うとなんだか感慨深い物がある。
ただ唯一残念なのは、一番の見所のレリーフの上に巨大な鉄の屋根が作られてしまっている事で、まるで博覧会の野外音楽ステージみたいな巨大な屋根がすっぽりと階段を覆っている。日光が当たらないのでレリーフの細かな部分がくっきり見えないのと、遠景の雰囲気を完全にぶち壊している。やっぱりバムにしろ、ペルセポリスにしろ、イラン人はあんまり頭良くないのか?
一番の見所は天に向かってそびえている何本かの柱で、他にも階段に描かれた各国からの貢ぎ物を運ぶ行列のレリーフなどなかなか見応えがあった。しかしながら、まあ遺跡マニアではない自分にとっては「まあこんなもんかな?」という感じだった。
帰りもバスに乗ったのだが、町に入る所で大きなネギ坊主見たいなモスクを見かけたのでとっさにバスを降りて行ってみる事にした。ここはどうやら聖者廟のようで、中に入るとまるでミラーボールの中にでも入ったかのように鏡がちりばめてあって、キラキラと光っている。中はひんやりとして昼寝をしている人が居た。
家族連れも居たりして、ここで大学生だというチャドルを来た女の人に話しかけられた。イランに来て思うのだが、チャドルを来ていて見かけ上は女の人はすごく保守的に見えるのだが、そこは20年前までミニスカートを履いていた国だけあってみんなフレンドリーだ。さすがに夫が来るとその前で他の男と話すのはまずいらしくどこかへ行ってしまった。
ここ数日狂ったような日程なので宿に着くとそのまま風呂にも入らず眠り込んでしまった。ほんとイランのビザに振り回されている感じだ。
今日もまたバスにやられてしまった。16番のアホバスにはさんざんやられたので、それ以来評判のいい1番イランペイマ社のバスを使うようにしていたのだが、ここシラーズではそのペイマでさえ腐りきっていた。
客は10人ほどだったのだが、バスは見かけ上定刻通りにターミナルを離れる。さすがだなあと関心していたら何とバスはターミナルを出た通りでエンジンを切って止まってしまった。そして車掌と運転手が客引きを始めた。
最初は仕方ないなあと思っていたのだが、10分たっても20分たっても全然辞める気配が無い。しかも頭悪い事にここはターミナルの裏口で、タクシーが着くのは通常表口なのでこんな所で客引きしても客なんてそんなに捕まるはずはない。
さすがに切れて外に降りてペルシャ語のナンバーを控えてドライバーに見せ「早く行かないと事務所に抗議するぞ」というと「後二人」とか訳の分からない事を言うだけでまったく動こうとしない。そして40分ほどを無駄にしてから二人ほど乗客をひらいバスは仕方なさそうに出発した。
そして例によって修理屋に寄ったり、軽油を入れに行ったりと遅々として前に進まない。道路脇に人影を見かけると止まって客引きをする。そして許せないのが切符を一切発行せずに全部を自分のポケットに入れている事だった。通常なら通過するマルブダシュトでも止まってダラダラ客引きをするし、完全に腐りきっている。結局1時間後に出発したバスにも途中で抜かれてしまい、シラーズについた時には5時を回っていた。
ターミナルはやっぱりボリタクシー。しばらくして走ってきた車を止めてみると町の入り口まで500だというので乗ることにした。そしてシラーズゲートという交差点で下ろされてどうした物かと思っていたら、同じタクシーに乗っていた大学生の女の子が「何処へいくの?」と声をかけてくれた。
とりあえずバックパッカーのたまりば「アミールカビール」という宿に行こうと思っていたのだが、いろいろと回りの人に聞いてくれたりして、最後はタクシーとの交渉までしてくれて「800以上はらっちゃダメよ」と笑顔で去っていった。
そしてたどり着いた宿は親父も親切で値段も他と比べるとなかなかお買い得だった。ただ個室は開いてないのでドミトリーにしたのだが、通りに面していてうるさくてたまらない。これは明日朝イチで引っ越ししなくては。
中庭でくつろいでいると日本人らしき青年がやって来た。自転車の整備をしてたので「何処からですか?」とたずねると「ラサからです」と、、、なんとも自転車に乗っている日本人はみんなすごい。いろいろとしゃべっていると宿の親父が来てなんでも「これから日本の政府の観光関係の役人が視察にくるので、うまく良いように言ってくれ」との事だった。
しばらくして二人のおじさんがやってきたのだが、宿の親父は自分の分もコーヒーやアイスクリームを出してくれて、僕は適当に話を合わせた。ただイランは紳士の国と思っていたのだが、意外とアホが多くて、数人に囲まれて顔が歪むまで殴られて全財産を取られた日本人の話やら、アフガン人だと思って無意味に石を投げてくる奴らやら、タクシーがとにかくぼってくるといった事だけは伝えて置いた。付き添いのイラン観光省の人は顔が引きつっていたが、まあ事実なのでちゃんと伝えておくべきだろう。
しばらくするとマレーシア人の女の子も招かれて降りてきて、アイスがタダだと喜んでいた。役人達が去ったあとも3人でいろいろとしゃべったりしていたのだが、そのうち一緒に夕食を食べに行くことにした。夕食は久しぶりのサーモンで、やっぱり自分は日本人だなあと思った(笑)
マレー人の女の子は「ビーニー」といって、何だか見かけが吹奏楽団で一緒だった女の子に似ていて何だか他人のような気がしなかった。事実フレンドリーで3人で盛り上がってそのまま川沿いのチャイハネまで歩いていくことにした。
シオセポルと呼ばれる古いスタイルの橋は白熱電球でぼんやりライトアップされていていい雰囲気だ。途中で中国系アメリカ人の青年と会って彼もさそって合計4人で橋の下にあるチャイハネに入った。彼は中東の研究をしている大学院生で、団体でやって来たのだがみんな結構な歳で話が合わなかったようで喜んでいた。
結局チャイハネには12時近くまでいて、翌日一緒に昼食を食べる約束をして別れた。
昨日は遅く帰ってきたのに通りを走る車の騒音で7時過ぎには目がさめてしまった。回りを見るとフンザで会ったでっかい韓国人の女の子がいた。どうやら昨日のいびきの主らしい。
午前中はたまっていた日記を書いたりして過ごして、昼前に約束していたランチに出発。3人で待ち合わせしてアメリカ人「ウィリアム」の泊まる町中の高級ホテルまで歩く。さすがに中国系アメリカ人。お金持ちだ。
ランチのあとウィリアムは飛行機でテヘランに飛ぶというのでアドレスを交換してそこで別れた。「チャリダー」と「ビーニー」は疲れたから宿に帰るといので自分一人で世界の半分と言われているイマーム広場へ行くことにした。
「イスファハンは世界の半分」という言葉があるらしい。それだけ当時のペルシャは栄えていたのだろう。そしてその中心になっていたのがこのイマーム広場らしい。早速入って見ると広大な芝生の広場の回りに回廊があって中はバザールになっている。そして一番奥にはイランで一番とも言われるイマームモスクが見える
イランに入ってからケルマンやシラーズでもペルシャ、中央アジア形式の青いタイル張りのモスクを見かけるのだがここの物は美しさ、規模とも圧巻だ。たしかに広場が広すぎるのでイマイチ迫力に欠けるのは確かだがやはり近づいてみるとなかなかの物だった。
それにしてもイランは涼しいとはいうものの、やっぱり日中は35度ぐらいまで上がるのでさっさと退散して昼寝を決め込むことにした。そう言えばイラン人のピクニックはほとんど夜から始まるらしい。町にはアイスクリーム屋さんがたくさんあるのでいちいち買いながら歩いているとちょっと胃を冷やしすぎてしまった(笑)
たっぷりと昼寝をして6時過ぎに目がさめた。朦朧と廊下を歩いているとオーストリア人に「何だ寝起きなのか?寝起きにはチャイが良いんだぞ、ほら部屋に来な!」と部屋に招いてお茶を入れてくれた。彼の名前はピフナーそしてもう一人は背が2m以上あるというスウェーデン人のパー。
そしてガバガバとお茶を飲んで目がさめると今度は水パイプを出してきた。なんでもインドで買ったらしく、手慣れた手つきで炭に火を付けてセッティングする。試しに吸ってみると何だか甘い香りがする。パーによると全部の種類の味を買ってきたので、イチゴ、リンゴ、バナナ、コーヒーその他諸々なんでもあるらしい。
タバコとはいうものの、ニコチンも無く時々むせそうになるものの味は甘いフルーツの味でタバコとはほど遠かった。ちょっと頭がくらくらするのだがそんなに悪くは無い。
そんなことをしている間に辺りはもう真っ暗になって、二人の誘いでそのまま食材を買い込んで河原でピクニックとしゃれ込む事にした。最初に向かったのはシオセポルなのだが、向こうにもっと綺麗な橋があるというので行ってみる事にした。
途中の芝生で3人で座って買ってきた野菜を切ったり、ナンにバターやジャムを塗って食べる。風は涼しくて川からはゲコゲコとかえるの鳴き声が聞こえてきて何だか懐かしかった。夕食をぺろりと平らげてから更に先へ進むことにした。さらに綺麗な橋があるらしい。
橋はハージュ橋というらしく、こっちの方がかなり細かな作りになっていて橋の下にあるチャイハネもシオセポルのものよりもずっといい感じだ。パーによるとイスラム革命前はこの橋の上でミニスカートの女の子達が夜な夜な踊っていたらしい。今ではそんな派手な様子もなく、黒いチャドルに身を包んだ人達が静かにチャイをすすっていた。
帰り道に一軒のチャイハネの前でイラン人に呼び止められちょっと寄ってみると、チャイをおごってくれた。話の内容は大したことはなかったのだが、なんだか外国人に会って嬉しそうだった。
それにしてもヨーロッパ人は元気で、一体何キロ歩いただろう?さすがに宿に着く頃にはもう時計は12時をまわっており、さすがのピフナーももう眠る寸前と言ったところだった。当然僕もシャワーを浴びるとそのまま1分でKOだった(笑)
今日は休日なのでどこも閉まっているのかな?と思ったが意外と多くの店が開いていた。そう言えば以前テレビで金曜礼拝でイマーム広場が人々で埋め尽くされていたのを見た事があるので、ひょっとしたらその様子が見れるかと思い、またまたイマーム広場へ。
しかし広場は割と閑散としていて、話しかけてきたおじさんに聞いてみると、あれは特別な時だけだという事だった。ちょっとガッカリしたが、12時前になるとコーランが鳴り響く(アザーンでは無くコーランの朗読)イマームモスクを見ながらコーランを聞いているとなかなか雰囲気が出ていい感じだ。
そしていつもの昼寝をするとすっかり回復。例によって廊下で朦朧としていると今日はビーニーだった。「今から自炊するから一緒に食べる?」とのお誘いでチャリダー氏も一緒だった。
一時間ほどかかるという事なのでザムザムを飲みに近所のサンドイッチ屋へ行くと日本人の大学生が二人ほどいた。いろいろ喋ったりしたのだが、自分が「イラン人の特に若者の頭の悪い行動やアホな質問にちょっとうんざりだ」というと「単に興味があるだけでしょ?こっちも向こうから見れば変に映るかもしれないじゃない。お金あるくせに汚い格好してバスのったり」と素で返されてしまった。
もちろんそんなことは言われるまでもなく頭では理解出来ている。しかしここの所やっぱり余裕が無いのがいけないのだろうか?期待が大きすぎた分だけ、旅に疲れぎみの今の自分にはいちいち引っかかってしまう。集団でおちょくり半分にぎゃーぎゃー言ってくる奴や、指で輪っかを作ってそん中に反対の指を突っ込んで「やってる?やってる?」とニヤニヤしながら聞いてくるたまり切った奴らやら、、、
ここイスファハンはなかなかの都会で、東イランに比べると人々もずっとスマートで、ここへ来てからはまだましにはなったと思うのだが、はやりそんなことが一日に何度かある。
宿に戻ると「屋上ね」とビーニーが声をかけてくれた。屋上で夕暮れの空を見ながら3人で食べるサンドイッチはなかなかの物だった。チャリダー氏のパスタも美味しかった。何よりも3人で夕暮れの屋上でいろいろアホな事をしゃべっているのがなぜだか最高に楽しかった。
食事の後はチャリダー氏とビーニーはどこかへ出かけるみたいだったので、一人で夜のイマーム広場へ行くことにした。夜のイマーム広場はそれは美しく、昼間の10倍は素敵な場所だと思う。これなら「世界の半分」という言葉もあながち言い過ぎではないと思う。所でここイランの夏と言えばピクニックらしく、広場は無数のピクニックの家族連れで埋め尽くされている。
歩いているとあちこちの家族連れから「こっちへ来て一緒に食べなさい」と声がかかる。英語をしゃべる人もそうでない人も同じように声をかけてきてくれてとりあえず座らされる(笑)。結局3家族ほどと一緒にチャイを飲んだり夕食を頂いたりしながら楽しいひとときを過ごした。
やはりイランの女の人は外見とは裏腹にとてもフレンドリーでおしゃべり好きだった。「結婚してるのか?」と聞かれて「まだだよ」というと「どうだい?オレの女房をあげるよ、なかなか働き者だぞ」とか言い出してその場は大爆笑。当人のおばちゃんも「がははは」と大笑いだった。何だかイラン人って陽気だな(笑)
ちょっと元気をもらってからライトアップに照らされた噴水を見ながらその場を後にした。
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