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ヨルダン編
(アンマン〜アカバ)
 


10月26日 突然(ダマスカス〜アンマン)

もう2〜3日ゆっくりして天候の回復を待とうかとも思ったのだが、ここはあまりにも寒すぎる。そして毎日降り続く雨にすっかり気分が滅入ってしまって、急に今日出発する事にした。

アンマン行きのバスは7時には出発する。そしてこのバスは利用客が多いらしく、ロンリープラネットなんかには「遅くても前日までに予約しておくこと」と書いてある。今更急いでも仕方ないのだが、6時過ぎに宿を出ると少し早足でバスターミナルへ向かった。

バスターミナルに着くとチケットオフィスは閉まっていて食堂のおじさんが手招きする。中に入ってみるものの、僕はここでかなり厳密に計算をしてほとんどシリアポンドを残していなかったので手持ちのお金で食べれる物は何もなかった。そしてオフィスが開くと僕は真っ先に飛び込んで何とかチケットを確保した。

ほっとしてバスに向かうと向こうから見覚えのある顔がやってきた「夏休みくん」だ。彼はイスタンブールを僕の3日後に出発して、結構なスピードで移動する僕にベイルートで追いついている。やはり新学期が気になるんだろうか?彼はぎりぎりにターミナルに来たんで少し心配していたのだが、結局全員乗ることができたようだった。

今回の国境越えは今までと違って、自分以外にも結構な人数の外国人が居るのでシリアの出国は少し時間がかかった。とはいうものの、朝早く出発したので、国境自体はガラガラだった。ヨルダン側は何故か全員の荷物を出さなくてはならず、税関職員が「一応カバンの中を覗いてみるだけ」という無意味なチェックがあった。

他の外国人は全員ビザがいるらしく、事前に取っていたり、国境でお金を払ったりしていた。しかし幸い日本人は最近無料だったビザが更に不要になったらしい。僕のパスポートには入国スタンプだけが押されて帰ってきた。これで査証のページを2ページも節約できたことになる。

これは長期旅行者には死活問題で、アホな担当官にあたると、パスポートを広げたまっさらなページのど真ん中に「ドン」と押したがる。するとその見開きの2ページはもう二度とビザ申請には使えなくなってしまう。そんなことをしたがる国の筆頭はトルコだった。それ以来僕は査証のページの後半の方はパスポートカバーの中にねじ込んでいる。これは効果てきめんで、さすがにページが少ないとみんな詰めて押すようになり、見る見る無駄なスペースが埋まっていく。本当これからはビザのいる国ばっかりなので節約しなくては。

アンマンに着くと胡散臭いツアーの客引きを振りきって、自力でホテルのあるエリアまで歩いていくことにした。「夏休み君」が途中でTCを両替しようとしたのだが、何処もコミッションが$7とか言われて全然話にならない所ばかりだった。そして1時間程歩いてダウンタウンに到着した。

何件かホテルを見てみたのだが、どこもその質に比べて値段が少し高すぎる。一軒目のVenice Hotelという所はベッドのドミが3JD、ベニヤで仕切った床ドミが2JD。そして評判のFara Hotelへ行ってみたのだが、ここは値上げしたのか4JDと言われてしまった。これじゃ$6だ。結局僕は元のFara Hotelの高い方のドミに泊まる事にした。こっちはドミトリーなのだが、空いていたのできっと高い方のこっちには誰も客は来ないだろうと思ったからだ。

早速アンマンの情報を集めるべく情報ノートをペラペラめくる。すると噂の「ペトラ半額レター」について書かれていた。現在ペトラの入場料は外国人20JD(約3千円)、ヨルダン人1JD、実に20倍だ。もちろん学割は無い。そんなわけで山を越えてタダで入ろうとする人が後を絶たないのだが、噂で観光省で学生証を見せてレターをもらえば割引が受けられるという話を聞いたことがあったのだ。

さっそく40分程歩いて観光省へ向かった。ノートによると、いろんなツッコミを受けるのでそれを切り返せるだけの英語力がいると書かれていたのだが、受け付けてレターをもらいたいと申し出るとすぐに別の部屋に通されて20分程でレターをもらうことができた。これで$15節約できた事になるのだが、すっかり物価感覚がアジアに戻ってしまった僕はやはりそのお金をぱーっと使うことが出来なかった(笑)

その後懸案のインターネットカフェに行ってみたのだが、何故か自分のホームページというかGeocitiesのサーバーに全くつながらなくて、FTPだけじゃなくホームページを見る事さえ出来なかった。メールの方はたくさん届いていて、中東情勢は一応収束に向かっているらしい。とはいうもののやはり今回はイスラエルは見送る事にしようと思う。

夜はテレビで日本対中国戦の試合を見た。中国は東欧の何処かと思われる外国人の監督がいて、今までに比べるとかなりプレスがきつかった。つまらない形で2点も取られてしまったが、そこはやはりベストメンバーの日本の敵では無かったようだ。韓国が負けてしまったのが残念だがきっとこのまま決勝のサウジ戦も勝ってくれる事だろう。



10月27日 浮力(アンマン〜ザルカマイン〜アンマン)

ヨルダンの見所といえばまずペトラ、そして水の上で本が読めてしまうと言う死海だ。正直僕はヨルダンにあまり長くは留まりたくは無かった。まずシリアから入ると、商売人のがめつさが少し気になる。平たく言うと中国のような拝金主義を感じてしまうのだ。

もちろん道行く人に尋ねれば親切に教えてくれる。(「お金」という人もいるけど)だから彼らには感謝しなくてはいけないのだが、やはり良い面よりも悪い面の方がどうしても印象に深く残ってしまう。そんなわけで早起きして死海に向かうバス乗り場へ向かう。

まず通りで人に教えてもらったバスで「ワヘダットターミナル」へ向かおうとしたのだが、そのバスを乗り過ごして終点でUターンする事になってしまった。(運転手は親切で帰りの分は取られなかった)そして「ワヘダットだ」と言って降ろされたのだが、そこはワヘダットターミナルの遥か彼方のワヘダット難民キャンプのある中心部だった。

そしてまた通行人に尋ねると、どうやらセルビスで行けるらしい。タクシー型だったのでふっかけられないか警戒していたのだが、料金地元の人が値段を教えてくれたのでその通りで行けた。しかしここから死海へ行くバスは朝だけしか無いらしい。死海の近くに行くバスの客引きが声をかけてきた「死海まで2.5JDだ」しかしこれは相場の5倍ぐらいなのでおとなしく別のターミナルを目指すことにした。

またまたタクシー型セルビスに乗って町外れのマイクロバス乗り場へ、イラン以来のおちょくってくるアホな若者にも遭遇したが、親切な人の手引きですぐにバスに乗り込むことができた。ただこのバスがなかなか出発しないんだな。30分ほどしてバスはようやくいっぱいになって、マイナス300mの死海へ向かって駆け下りていった。

途中の村でほとんどのヨルダン人を降ろしてから、バスは死海レストハウスに到着した。乗っていたのは僕ともう一人ヨーロッパ人だけだった。しかし、このレストハウス周辺は眺めが良くないばかりか、ゴミが散らかってるし水も何だかあまり綺麗じゃない。僕は予定を切り替え、最近日本人旅行者の間でHOTな「死海温泉」へと向かう事にした。

死海温泉は死海沿岸のレストハウスから20キロほど南へ行った所にあって、そこへの手段はヒッチに頼るしかない。早速道路に立つのだが、今日は金曜日で休日のために通る車はみんな家族連れでなかなか止まってくれない。そしてやっとの事でアカバまで仕事へ行くというピックアップトラックに乗せてもらった。

トヨタ製のぴかぴかのピックアップトラックは海岸を130キロで走る。死海の色は見る見るうちに青くなってきて、対岸にウェストバンクの山々が見えてきた。そしてほんの10分ほどで温泉が川になって死海へと注いでいる死海温泉に到着した。

早速岸まで降りていって水に浸かってみる。最初は「思ったほど水は重くなく、浮力も大したこと無いなあ」と思っていたのだが、体全部が水に浸かると、まるでウェットスーツを着ているかのように、体が前につんのめりそうになった。危ない危ない、こんな所で顔を着けたらどうなるやら。僕の体は比重が大きいらしく、海水でも息を吸って肺を膨らましていないと沈みそうになるほどなのだが、仰向けになると僕の体は他の人ほどでは無いがぷっかりと水面に浮かんだ。

最初は面白かったのだが、そのうち飽きてきた。やっぱり海というのはたとえそれが「死の海」であっても一人で来るのは意外とつまらないものだった。そして今度は崖の上の方に有る温泉。下の方でも浴びれるのだが、下は汚い川と温泉からの水が一緒になっているので、暖かいのだが生臭くてとても浴びる気がしない。

温泉のわき出す所まで行って地元民に混じって水深の浅い露天風呂に寝ころんだ。ああ、暖かい。この感じはいつ以来だろう?最後に風呂に入ったのはサグレスだったっけかな?だとするとそんなには経っていないのだが、ダマスカスの寒さに震えていた僕には最高のプレゼントだった。

帰りはこれ又見事に家族連ればかりで乗せて貰えない。「困ったねえ」と何だか人ごとのようにつぶやいていると、向こうから真っ赤な巨大トレーラーがやって来た。これまで僕は意識的に高級乗用車ばかりを狙っていた。と言うのもここヨルダンではやはり結構ヒッチの時にお金を請求されるのだ。もちろん大した額ではないのでそれはそれでいいのだが、たまにぼってくる奴らがいてそう言うのであまりもめたくなかったのだ。

しかし、そんな贅沢は言ってられないので手を上げると何とその巨大なトレーラーは大きな音を立てて止まった。まるで列車が止まるようなそんな感じだった。小さな子供がドアを開けて手招きしてくれる。取っ手に捕まってまるで崖でもよじ登るかの様にキャビンに乗り込むとなかなかの眺めだった。運転しているのは無口だけど優しい笑顔のおじさんだった。

トレーラーはその大きさだけあってスピードは全く出ない。それでも僕はこのトレーラーからの眺めにすっかり浮かれてしまった。言葉が通じる訳ではないのだが、子供と笑顔をかわしたりしながらこのスローな移動を楽しんだ。そしてやがてレストハウスが見えてきたのでそこで下ろしてもらった。僕は少し多めに払ってもいいかな?と思ったのだが結局最後まで運転手のおじさんはお金を請求することは無かった。遠ざかるトレーラーから子供が何度も手を振ってくれた。

そこからアンマンまでは疲れていたのかほとんどを寝て過ごした。アンマン最後の夜に街に出てみたのだが、通りは休日なのもあって、結構な賑わいだった。歩いていくとローマ遺跡がライトアップされていてなかなかロマンチックだった。通りの時計屋でふとアラビア語の数字の時計を見つけたて少し興味があったので値段を聞いてみると「12JD」とか言ってくる。腹が立つよりも何だか笑ってしまう。中国製のチャチなその時計はどう見ても3JDで充分儲けが出るだろう。「要らないよ」というと一気に半額になった。

これから南に下るに従ってこういう輩はどんどん増えてくるのだろう。ああ、やれやれ。
 

 
このトレーラーに乗せてもらった。
 


10月28日 ヨルダン人気質(アンマン〜ワディムーサ)

ヨルダンの公共交通機関というのは「公共性」が無いものばかりで困ってしまう。普通あの中国やインドでさえ主要都市間には時刻表通りに走る交通機関があるのだが、ここヨルダンにはそれがない。時刻表通りに走るのはJETTと呼ばれる主に近隣諸国へ行く国営バスだけで、他は一杯になったら出発する交通機関だけだ。逆に一杯にならなければ運休と言うこともある。

そんなわけで少しでも移動を確実にするために8時にはもうバス停に向かうことにした。ターミナルに着くと、その場を仕切っているがめつそうなオヤジが寄ってきた。「ペトラならセルビスで3Jっだ」と言うがセルビスは2.5JDなのである。そしてバスは1.5JDなのだが、この寄生虫オヤジが決めたルールなのか、ここから乗る外国人は「バックパックの荷物代」と称して1JD余分に払わなければならないのだ。

寄生虫とは関わりたく無かったのでバスで行くことにしたのだが、今日は休み明けの為かバスが着くなり乗り込もうとする人で突き飛ばしあいになって、怒号の子供の鳴き声が響きわたる。僕は親切なヨルダン人技師の手引きで何とか無事席を確保することができた。つまり僕は心配していたことと全く逆の結果に苦労するハメになったのだ。

シリアから南へ行くにしたがって、人が悪くなっていくと言うがそれはあながち間違っては居ないような気がした。さっきの騒動はまるで中国を彷彿させる。そしてインドでは一度乗り込んでカバンをシートに置くとそれで戦いは終了という暗黙のルールがあるのだが、ここヨルダンでは席を離れるとカバンを床に投げ捨てられて席が取られてしまう。お金を払ってから初めて席を離れても大丈夫らしい。集金に着たのは結局さっきの寄生虫オヤジで、何故か誰も逆らえないようだった。

最初は隣の技師と話も弾んでいたのだが、途中から僕はこの技師と話すのが苦痛になった。彼は事有るごとに金の話をする。「俺の給料はいくらだ。日本では給料はどのくらいだ? アメリカは一時間で50ドルも貰えるらしいぞ」とか、そして僕の日本での給料を知ると「何故アメリカへ行かないんだ?技術者なら月五千ドルは確実だぞ。オレは何とアメリカへ行けたらもうヨルダンなんかには戻らない」とか。

この手の奴らと話していて一番腹が立つのは、アメリカや日本がそこまでたどり着くのに払った努力とかそう言うのを一切見ることなく、ただそれらの国へ行けば自分もたくさんお金が貰えると思っていることだ。世界的に移民政策が間違いだったと言われている背景にはこういう輩のせいかもしれない。そして僕は言い返した。「僕はお金よりも自分の国の方が好きだからさ」と。我ながら見事なキメ台詞だと思ったのだが、言ったすぐに「こういう事を言えるのも僕が努力したからじゃなく、単にラッキーにも日本に生まれてきただけの話じゃないか」と思って少し後ろめたい気持ちになった。

ただ「貧しくても自分の国が好きだ」と言っていたアジアの人々と比べると、このアラブは「国を捨ててヨーロッパかアメリカへ言って金持ちになりたいんだ」という人が目立つ様な気がする。途中休憩に立ち寄った茶店で一人の青年が僕に話しかけてきた。「どうやったら日本へいけるんだ?」「さあ、判らないよ」「僕の力になってくれるかい」「ダメだよ」「なんで?」しかし何でもなにも、僕が見知らぬ初対面の人の力にならなければいけないいわれは無い。その言葉を飲み込んで「僕の力なんかじゃ日本政府は相手にしてくれないよ。もっと金や地位のある人でないとね」というとうれしそうに「そうか、わかった」と答えた。

短期間の滞在では国の印象は出会った極わずかな人達で左右されてしまう。そしてヨルダンはやはり僕にとっては心地の良い国ではないような気がした。

ワディムーサに着くと宿の客引きが居たので着いていくことにした。情報ノートで見たことの有るTwaissiという宿だった。何でも洗濯禁止と聞いていたのだが聞くと「洗濯OK、キッチンも無料で使ってもいい」というので見に行ってみる事にした。宿に着くと2JD、と3JDのドミを見せられた。2JDの方は床にマットで、いかにも虫がたくさんいそうなきがした。一応3JDの方も見てみると、アンマンで会った韓国人の「朴さん」がベッドに寝ころんでいた。

朴さんによるとここは2JDまで下がるらしいので、「2JDなら良いよ」といのだが難色を示している。「じゃ他を見てから決めるよ」と言うとあっさり2JDで良いことになった。ペトラの割引券は明日の日付になっているので、今日は宿でゴロゴロしていた。夕食は朴さんと一緒に作る事にした。

朴さんはなれた手つきで韓国風のスープとサラダを作ってくれた。どっちも辛かったのだが、なかなかイケる味だった。しかしこの後少し宿のオヤジと揉める事になる。考えてみれば最初からキッチンの使用も洗濯も「出来るだけ使わせたく無いのだが、そうすると日本人の情報ノートで広まって日本人が来なくなるから仕方なく使わして上げてるんだ」という雰囲気が漂っていた。

事実、宿泊客向けのディナーが終わったのを見はからって誰もいないキッチンを使っていたのに、後からオヤジがやってきて「ここは俺達のキッチンだから、スタッフの食事が終わるまで使うな」と言ってきた。とりあえず作りかけのものを避難させてキッチンを明け渡したのだが、決定的だったのは鍋が少ないのでヤカンでゆで卵を作っていたら、いきなり文句を言われた。タダの文句ではなく「Shit」とまで言った。どう考えてもゲストに言う言葉ではない。

何だか偉い剣幕なのだ「これはお茶を沸かすヤカンだ、何故事前に聞かない?」しかし「キッチン使用可と客引きして置いてなんで事前に説明しない」と言うのがこっちの言い分でもある。何も怒ることではなく「ヤカンは使わないでくれ」「はいスミマセン」ですむ話なのをいきなり「shit」だ。そしてあげくの果てに「今後一切キッチンを使うな」とか言い出したのでこっちも「ああ、わかった。今日からトワイシーホテルはキッチン使用禁止ね。出会った旅人全てに伝えとくよ」とキッチンを後にした。

オヤジは「それは困る」と言う風なそぶりを見せたが、やはり振り上げた拳の降ろし場所を見つけられなかったのかそのまま不機嫌そうな顔でだまった。やっぱり早くエジプトに言った方が良いのかな?少なくともカイロまで行けばガラタホステルのような落ち着ける場所、気の合う仲間がたくさんいるはずだから。



10月29日 ペトラ〜腐った人達(ワディムーサ)

朝いちでペトラに向かった。もうヨルダンは十分だと思った。朴さんのアドバイスでペトラへは朝6時頃に行くことにした。何もタダで入ろうと言うわけでは無い。人がいないペトラを独り占めしたかったからだ。

チケット売場で例の割引のサポートレターを差し出すと係員は露骨に嫌そうな顔をした。「ここには20JDのチケットしかないんだ、こんな紙は良くない」と口惜しそうに、地元民用の1JDのチケットを10枚切って何やらアラビア語でかき込んでサインをした。

ゲートをくぐると早速目の前に狭い峡谷が見えてくる。インディージョーンズのテーマを歌いながら何の底を歩いていくのだが、細い回廊はぐねぐねと曲がって一向に出口が来ない。そしてそろそろかな?と思った頃急に岩の隙間からテレビで見たことのある大神殿が顔をのぞかせた。これが映画「インディージョーンズ」で有名なエル・ハズネだ。

大規模な修復をしたのかどうかは定かではないのだが、どう見てもこれが1世紀からそのまま残っているとは思えない。例によって壁を飾っている彫刻は全部イスラム教徒によって顔の部分をぐちゃぐちゃに壊されている。とはいうものの、神殿の縁の部分の残り方は尋常ではなく、まるで「去年新しく掘りなおしたんだと」言われても納得してしまいそうな程だった。

エル・ハズネからしばらく入っていくとローマ劇場があって、置くにはエル・ハズネと似たようなタイプの神殿がいくつもあった。ペトラの見所は大体この辺りの狭いエリアに集約される。とはいうもののこれだけだと3時間ほどで見物を終わってしまいそうなので、1時間ほど登った山頂にあるというエド・ディルというもう一つの神殿へ言ってみることにした。

それにしても、ペトラ内のレストラン、おみやげ物、そしてロバタクシーはしつこい。要らないと言ってもしつこいし、振り返らないと口笛で呼ぶのでよけいむかつく。そしてロバタクシーの客引きも「要らない」というと地面に唾を吐いて去っていくどうしようも無いのまでいる。そう言う事を出来るだけ気にしないようにしながらどんどん階段を上っていく。途中何度か休んだが、1時間ほどで上までのぼることが出来た。

たどり着いた神殿は、エル・カズネを少し大きくして、すこしチャチにしたような感じだった。そしてそれよりもその辺りから見下ろす険しい岩の渓谷の方が興味を引かれた。結局そこからゲートまで所々で「夏休み君」にもらった本を読みながら休憩して降りていく事になった。トータルで6時間ぐらい居ただろうか?ペトラは意見が分かれる所だが僕は一日で十分だと思った。どれも素晴らしい遺跡だが、遺跡の様式とかが一本調子なので、全部を見る必用は感じなかった。

ペトラからの帰りも相変わらずクラクションを鳴らして気を引こうとするうっとおしいタクシーや、礼儀のかけらもないレストランの客引きやらでうんざりなのに、またまたそれに輪をかけるような出来事があった。昨日立ち寄ったスーパーでジュースを買おうとしたのだが、値段はもうわかっているので、そのまま5JD札を出した。

するとお釣りが4.5JDしか無かったんで「350Filじゃないの?」と言うと「なら売らないよ」みたいな横柄な態度だったので、僕はコーラともらった小銭を返して5JD札をもって店を出ようとした。すると老人は「足りないぞ、お前釣り銭をちょろまかしただろう」などという。そんな馬鹿な。ここでもしひるんだら、すかさず小銭をせしめようと言うのか?全くせこい手口だ。所が僕は昨日の出来事や何やらで今日は久しぶりに気が立っていたので「全部渡しただろーが?何ならポケット見て見ろよ」と詰め寄ると、コイツはダメだとおもったのか「You out(出てイケと言いたいらしい)」と追い払うように手を振った。何が出てイケだ。お前がヨルダンから出ていけ。もうこれ以上ヨルダンの印象を悪くするのは辞めてくれと、もう逆に頭を下げたいような情けない気分だった。

宿に帰ってからここの所の雨でどろどろになっていたズボンを洗濯した。洗濯物を干していると猫が一匹じゃれついてきた。ヨルダン、結局完全に心を許せたのはこの猫だけだったんじゃないだろうか?猫に小判って言うぐらいだからね。
 

 
ペトラのエルカズネ神殿

10月30日 紅海(ワディムーサ〜アカバ〜ヌエバ〜ダハブ)
 
前にも書いたがヨルダンのバスは本当に面倒だ。この国には「公共」交通機関と呼ばれる物はほとんど無い。有るのはマイクロバスで、これは乗客が一杯になればすぐにでも出発するが、来ないと永遠に出発しない。要は運転手が全ての力を握っている「私的」交通機関でしかなくヒッチに毛の生えたようなものだ。

そして観光地から出発する物や観光地へ行くものはターミナルぐるみ、街ぐるみでふっかけてくる。最初宿にはアカバまで3JDと書いてあったのだがどう考えても距離からすると高すぎる。宿に迎えに来くれると考えると高いのも納得できるが、それでも相場の3倍ぐらいだ。だから僕は朝5時に起きて街のロータリーまで自力でバスを探しに行った。しかしやって来たのは結局同じバスで、外国人は3JD払わないと乗せて貰えないそうだ。

仕方無しに乗り込むとやがてバスは9割以上の白人を満載してアカバに向かって出発した。道は何処までも続く砂漠で、この辺りはシリアとかと比べると緑もなく地形も単調で全く退屈してしまう。そして午前9時にはもうアカバに到着していた。

アカバに着くとさっそく客引きに囲まれる。振り切って街に出ると店屋の人達はなかなかフレンドリーでなんだかんだしゃべりながら海の方へ歩いていくのだが、エジプトへの船のチケットを買うのに立ち寄った旅行会社が最悪だった。何だかやたら$払いを求めてくるし、JDで払いたいというと「クレジットもOKだ」とか「TCでもいいぞ」とか。

そしてJDで押し通すと今度は「エジプトのビザ代が要るから、エジプトポンドを両替してやろう」とか。もちろんエジプトのビザ代はUS$でも払えるのだ。(そっちの方が安い)そしてチケットを買うと、まだ3時間もあるのにグルになっているタクシーのドライバーを指さして「今すぐあのタクシーをシェアして港に行け。全ての乗客は今すぐ行くし、手続きに時間がかかるから急げ」などと言ってくる。

嘘っぽいのだが一応状況が判らないので1JD(高いけど外国人向け協定料金)であることを確認して港に向かうと、やっぱり長時間退屈する事になった。港には「これでもか」という程の荷物を持ったエジプト人、ヨルダン人で溢れ返っていた。そしてこいつらは平気で割り込んでくる。

一度、エジプト人がなぜか堂々と僕とオランダ人二人が並んでいる目の前に割り込もうとしたので、体を入れてブロックして「後ろに並べ」というと、逆切れして何だか文句を言って去っていった。世界三大バカはもう目の前なのだ。やれやれ。

今回僕は日本人旅行者があまり使わない、スピードボートと言うのに乗った。これはスピードも速い上に出発時間も早いので、これだと今日の目的地ダハブに明るいうちにつけるからだ。そしてどうせエジプト側の港のセルビスも最悪だろうし、遅い時間に着くと交渉がかなり不利になりそうだと思った。

紅海は何処までも深い色をしていた。沿岸は全て砂漠で、海沿いに砂漠や茶色い山々が広がっているのは何だか少しおかしな風景だった。船は紅海をまっすぐ南へ下っていく。この船の目的はイスラエルを避ける為だけなので、本当だとすぐ前のタバに向かってそこからバスに乗り換えるのが一番よさそうなのだが、それだとおそらく距離が短くてお金にならないのだろう。

何だか無意味に長い航海を終えてヌエバ港につくとやっぱりバカだった。まずいミグレーション。ここは「港でビザが取得可」なのだが本当に、優、良、可の「可」といったレベルだ。まずたくさんの旅行者が着くのが判っているのに、途中で収入印紙が品切れになって、パスポートをもって役人が消えてしまう。

そしてその役人も、カウンターでも何でも無い場所で「はいビザ持ってる?持ってなかったらパスポートとお金ね。はいはいお釣りは後でね」と適当に控えも何も無しに、パスポートとお金の束をもって行くし、返すときも適当に部屋の中で名前を叫びながら探し回って一人ずつ返していくという何ともガキの使いのようだった。

おまけに僕らは印紙の品切れで、結局全員の役人や乗客が出ていった後もその場に残されて、警備員に「おい、こら!何で行かないんだ?早く出て行け」と言われる始末だった。ほんとにもう。

そして港には見事に両替所が無かった。港の回りをさまようのだが、有るのは配線が引きちぎられたATMの残骸とかで、ようやく一台のATMを見つけて何とかエジプトポンドを手に入れた。そしてタクシーがまとわりついてくる。うっとおしいので港まで戻ってマイクロバスに声をかけると25ポンドで乗せてくれるらしい。僕はこのとき一桁計算を間違っていたのだ。「100円かあ、、シリアと同じぐらいだねー」とか。

車は猛スピードで岩山の間を駆け抜ける。同乗者はアイルランド人でダイビングのツアーらしい。そしてある時僕は青くなった。よく考えると25ポンドというのは1000円弱じゃないか!たった100キロ程で尋常じゃ無い値段だ。「やられた」と思ったのだが結局この区間は協定ボり料金でそのぐらいなのだそうだ。

ダハブに着いて寂れたメインストリートを歩いていると、一人の客引きに声をかけられた。「一泊5ポンド」さっきのセルビスに比べると破格だ。とりあえずガイドブックの類を一切持っていなかったので部屋を見に行くことにした。そして5ポンドの部屋は床マットでいかにもダニがいそうだったので、10ポンドの部屋を8まで値切ってツインのベッドの部屋に泊まる事」にした。

街はまさに白人貧乏旅行者のリゾートで、僕の知人が見たら眉をしかめるような所だったのだが、とりあえずここで一泊は避けられないし、ブルーホールという有名なポイントでシュノーケリングをやってみたかったのだ。飯はまずいし、宿以外の物は全て品質以上の値段を取るし。でも久しぶりに波の音を聞いていると心が安まった。



 
 
 

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