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とまどいの韓国編
 

9月28日 突然の旅立ち(下関〜

ついにと言うか、やっとと言うか、いきなりと言うか、出国することになった。仕事も無い旅行の予定も無い自分としてはいつ出発しても良かったんだけど、日に日に現状に流れていきそうで怖くて、突発的に船のチケットを予約した。出航は18時ちょうど。

17時ごろから出国審査が始まりパスポートには「KANMON」のスタンプが押される。関門海峡のKANMONなのだが、イマイチ関門海峡といっても形がつかめない。船は出航してからも延々1時間ぐらい九州と本州の間の川のような所を延々と進んでいった。これからしばらく日本とお別れなので感傷に浸ろうと思っていたのだが、気温はどんどん下がっていき、海峡を抜けた頃には自分一人を残して甲板の上からは誰一人いなくなって、風の温度が少々日本に長居しすぎた事を教えてくれた。

船の中は韓国だった。自分が乗った船は2隻のうちの韓国側の船だった為、自動販売機、案内所の職員、船の中の通貨もすべてが見たことの無い目新しい物だった。乗客はやはり行商のおばさん達が中心で自分の様な旅行者はほとんどいなかった。同室のおじさん(北の某国の主席似)は貿易の仕事をしていて、中国、韓国へ何十回も行っていると言うことで、いろいろ中国の情報を聞いたりしたあと、10時の消灯後すぐに眠りについた。

これから長い長い旅に出るような実感は不思議な程全くなかった。
 

 
いよいよ出国(下関旅客ターミナル)
 



9月29日 旅のはじまり(釜山)

目が覚めたら釜山港だった。どうやら夜中にすでに到着し、沖に停泊して税関が空くのを待っていたらしい。8時30分ちょうどに下船が始まった。入国審査官は思っていたイメージと違いフレンドリーだった。税関はちょっと印象が悪かったが、カードを渡し検査台に荷物を載せると、アゴで「行け」という風なゼスチャーをされて、あっさりと入国。

まずフェリーターミナルの釜山銀行でT/Cの両替をした(\100=W1128.48、手数料無し)やはりここは先進国でT/Cの方が現金よりもレートが良かった。このところの円高のせいか、思っていたよりも多く貰えて少しうれしい。

現金が手に入ったら次は地図だ。今回は何せ地図はおろか旅行ガイドさえ持っていないので地図の入手は必須事項だ。この辺はNZ旅行でだいぶ身に付いたのか、すぐにそれらしい観光案内所を見つけて地図と韓国の観光ガイドブック(無料)を手に入れる事ができた。

地図の次は今夜の宿。韓国ではヨグァン(旅館)という安宿がいっぱいあって、W15000〜30000で泊まれると聞いていたので、さっそくヨグァン街を探してうろついてみた。何軒か有るにはあるのだが、あまりにも雰囲気が怪しくて少し引いてしまった(笑)。港周辺だから仕方ないのかとか思いつつ、駅方面に移動する事にしたが重いリュックを背負っての移動はかなりきつく、駅に着いた頃にはTシャツは汗でびっしょりになっていた。下調べついでに駅の見学と時刻表のチェック。どうやら、次の目的に慶州(キョンジュ)に行くのは割とローカルな線で、急行と準急しか無いようだ。とりあえずお目当ての列車がみつかったので、次は駅前の安宿街へ。

ここもやっぱりあやしい。怪しすぎる。そう言えば韓国では、ビジネスと民宿と連れ込み宿のすみ分けが無いらしくみんなヨグァンに泊まるといってたので、そういう事なら怪しいのも納得できるのだが、やはり引いてしまう。旅館街を行ったり来たりしながら、ついにリュックの重さが限界に来たとき一軒のヨグァンに入ってみた。おばさん2人がやっている様な感じだったが、日本語はともかく英語もダメなようだったが、今すぐチェックインできるという事で、一泊する事にした。(W20000) 少し高いような気もするが、風呂付きならこんなものかもしれない。

重たいリュックを下ろして、真っ先にシャワーを浴びた。何かじっとりと体にまとわりついていた物が流れていくようで爽快だ。シャワーの後着替えて西面(ソミョン)のショッピング街に繰り出す事にした。地下鉄でW450。韓国は先進国にしては公共交通機関が驚くほど安い。10分ほどでソミョンに到着。ここでは今回の旅に必用なパソコン用のACコンセントの変換器を買う予定だったのだが、変換器が見つからず、というかまず電気店が見つからない。何時間も歩き回ってやっとLGグループの電気店で変換器では無いが、ACコードを見つけた。なんとかVAIOのACアダプターに合いそうだ。目的を果たしてようやく昼食。ここは世界マック制覇計画の一環として「プルコギバーガー」を食べる事にした。やはりというか、見かけは韓国人なので早口の韓国語でまくし立てられてしまった。「英語話せますか?」と聞いたら苦笑いしてたが、「コーラ(韓国でも「コーラ」らしい)、Here、Midium」で何とかやり過ごした。思い返せば、友人の連夏も慶男も韓国人の中でもすごく英語が出来る方だったんだ。

ここでは、自分は外国人で韓国語も話せないのに、回りを歩いている人には誰にも分からない。なんだか沢木耕太郎か誰かが書いていたような気がするが、本当に透明人間にでもなったような感じだ。電車に乗っててもいきなり韓国語で話しかけられて「チョ ヌン イルボンサラム」(私は日本人)とか怪しげな韓国語で答えてみたり。そういえば、釜山の地下鉄では、スーツを着たおじさんがいきなり列車の中で商売を始めるのには驚いた。今日は乾電池で動くひげ剃りを売っていた。おいおいええんか?とか思っていたのだが、かなりの人数の人が買っていて不思議事におばさんや若い女の子まで買っていた。韓国はまだまだ奥が深そうだ。
 

 
釜山駅前広場



9月30日 都会からの脱出(釜山〜慶州)

昨日の夜は少し街に出てみた。韓国の街は夜になるとますます元気になって、自由市場は活気でいっぱになってくる。伝統的な食材を売る屋台の隣では、ゲームセンターから「Dance Mania」の聞き慣れたナンバーが流れていて少し滑稽だった。

釜山も良いところなんだが、あまりにも日本に似すぎている感じがするので、一気に慶州まで行ってしまうことにした。慶州は新羅の古い都で人口14万人の落ち着いた所らしく、韓国人の友人のお薦めの場所でもあった。観光案内では高速バスが便利だということだったが、何となく列車を選んでみた。若い係員のいる窓口で一番下のクラスであるトンイルホー(統一号)の切符を買った。2時間以上もかかるのにたったの3000W(270円)だ。韓国の公共交通機関の安さにまたも驚かされた。

出発してからしばらくして、海が見えてきた。海雲台(ヘウンデ)という海岸で釜山ではメジャーなデートスポットらしい。途中遠足の小学生が乗ったり降りたりしながら昼過ぎに慶州に到着した。思っていたよりもずっと田舎で期待感が高まる。早速駅前の旅館にチェックインして街を歩くことにした。

NZを旅行していたときは、車を手に入れる前は歩いて行ける所ばかり行っていたような気がするが、そんなことではこれからの長い旅行ではとてもやっていけないかもしれないと気合いを入れ直し、仏国寺(ブルグクサ)行きのバスを探す。全く情報は無かったのだが、偶然「ブルグクサ」と書いてあるバスが走っているのを見かけて目で追ってみたらバス停に止まったのでそこから次のバスに乗ってみた。もちろん表示はハングル文字なのだが、NZで友人から少しだけ読み方を勉強していたのが幸いした。

仏国寺は新羅仏教文化の中心らしく、日本の仏閣と似てるもののかなり満足できた。楓の林の下で休んでいると、時おり涼しい風がふいてきた。これが10月後半だったら紅葉でさぞかし綺麗な事だろう。途中に会ったカップルに写真を取ってくれと頼まれたが途中で僕が外国人だという事に気がついたみたいだった。自分の写真もとってあげるというのでカメラを渡してお願いした。後でデジカメの画像を見せてあげたら「ワンダフル、スバラシー」と言って笑っていた。

バスターミナルでは観光地らしくタクシーや食堂の客引きの声がかかった。寺にもおみやげ物屋の日本語ガイドのお姉さんに声をかけられたが、とてもこれからの旅を考えるとおみやげなんかを抱えて持っていく事は出来ないので断ると、特に不機嫌になるわけでもなく「ごゆっくりね」と去っていった。日本人の観光客も何人かいたが、自分以外はツアーガイドがついていたので、あのお姉さんも大変かもしれない。ターミナルに戻ると偶然石窟庵(ソクラム)行きのバスを発見したのでそちらも行ってみる事にした。なんだか調子がいい。

石窟庵自体は驚くほどの物では無かったが山頂から見晴らす田んぼと山々の風景はすばらしかった。ただ標高が高いため、かなり風が冷たくて半袖で来たことを後悔した。

慶州駅前に帰ってきたらすごくおなかが空いてきた。そう言えば今朝からパン1個しか食べてなかったけ。裏通りにある一軒の食堂に入ってみる事にした。壁のハングル文字のメニューを見たら「ビビンバプ」とあったので早速注文してみた。おばさんは英語も日本語も全く理解しないみたいだけど、親切にゼスチャーで「おかわり自由だから」と教えてくれた。おばさんは韓国語、こっちはあやしい韓国語と英語でいろいろ会話したりして食堂を後にした。日本でもそうだが、田舎の人はとても暖かい。

今日は何もかもがいい感じなので、明日もこの調子でいきたい。明日は太田方面に向かう予定。慶男の住む牙山までもう少しだ。
 

 
慶州の仏国寺



10月1日 行き当たりばったり(慶州〜大邸〜天安)

今日は午前中を慶州見物に、午後からを移動に当てることにした。午前中は昨日もらった地図を見ながら、古墳公園、鴨雁池、半月城跡なんかをまわってみた。なんだか秋の遠足の季節なのか、何処へ行っても小学生の団体でいっぱいだった。

昼ごろに昨日のおばちゃんの食堂へ行った。覚えてくれていたのか「コンニチワ」と挨拶してくれた。ラーメンを頼んだら、「辛ラーメン」(韓国で一番メジャーなブランド)だった。辛ラーメンはニュージーランドでもよく食べてたのでなんだか懐かしかった。でも激辛唐辛子ラーメンにキムチを付けるのはいかがなもんだろう?(笑)

昼食後、市内バスでバスターミナルへ。高速バスターミナルなので英語も通じてインフォメーションとかもあるのだろうと思ったら大間違い。全てハングル文字のインフォしかなくて、ガイドブックも持ってないし、もしハングル文字が読めなかったら半泣き状態だっただろう。ターミナルで大邸行きのバスを発見してさっそく切符を購入。バスは3列シートの豪華なバスだった。

大邸から慶男に電話してみたら、いま天安という所の友人の家にいるから是非来てくれという事で、天安行きの交通手段を探す。バスはみつからなかったが、歩き回っていると偶然鉄道駅にたどり着いたので列車で向かう事にした。天安は雨だったが慶男が駅まで迎えに来てくれたので濡れずに友人宅までたどり着くことができた。今日はもう一人慶州から慶男の大学の友人がやってくるらしく、けっこう大人数。

激辛ラーメンを食べたあと韓国焼酎を飲んで雑魚寝。なんだか学生時代を思い出すようだった。



10月2日 独立記念館(天安〜牙山)

今日は慶男と友人のトラックにのって、お寺と独立記念館に連れていってもらった。独立記念館というのは日本の植民地支配からの独立という事で、展示内容は日本の教科書に出てこないような残酷な物であった。韓国人とその手の話しになると、まず日本人があまりにも歴史的事実を知らないのに驚くらしい。謝る必用は無いけど、その事実があった事を覚えていて欲しいと言うのが、彼らの共通の意見のようだ。

いろいろな事を考えさせられる1時間を終えて、次に向かったのは慶男の実家。トラックは田園風景をしばらく走って温泉街を抜けて彼の実家に到着した。田んぼに囲まれたいい感じの所だ。しばらくして、慶男の母親が帰ってきてすごく歓迎してくれた。さっそく唐辛子づくしの夕食を頂いた。

会話は友人達もほとんど英語が話せない為に、通訳をはさみながらでしか出来ないのだが、それでも慶男のニュージーランド時代の写真や彼女(日本人)の写真を見ながらみんなで盛り上がった。

 

 
天安の独立記念館
塔の向こうの広大な広場には無数の大極旗が
 


10月3日 旅の洗礼(牙山〜ソウル)

午前中に慶男の家を出発した僕はソウル行きの列車にゆられていた。この時間はいっぱいなのか、立ち席しかないのだが、値段が一緒なのはどうも納得行かない。

ソウルでは宿もすぐに決めて街に繰り出すことにした。まず韓国観光公社でフェリーの時刻を調べて、板門店行きのツアーを申し込んだ。何もかもが順調な様で跡になってこれを後悔することになるのだが。

この日はデモ行進があって、大勢の人の行進と膨大な数の警官と行き場の無い交通渋滞を見ることができた。ものすごい活気の南出門や明洞を歩き回っているうちに少しつかれてきたので宿にかえって少し休むことにした。

少しうつらうつらしていたのだろうか? 次に目が覚めるとどうしようもない感覚が急に襲ってきた。すごい吐き気がして急いでトイレに駆け込んて、何回吐いたか分からないがとりあえず吐き気が収まると急に寒気がおそってきた。下痢も強烈だ。寒いのだが1階まで毛布を借りに行くことも出来ない状態だった。しばらくベッドでふるえていたがそのうち何とか動けるようになり、毛布を借りに行くことができた。

そう言えば今日はNZ時代の友達の蓮夏に電話する約束をしていたのだがとてもそんなことが出来る体調じゃ無い。しかも明日は板門店ツアーなのに。言葉も通じない所で一人で病気と戦わなければいけない。旅の洗礼というか誰もが自分で解決しなければいけない問題なのだが、とにかくつらくて一瞬出来るなら日本へ帰ってしまいとさえ思った。たぶんこれを乗り切ったら少したくましくなれるのだろうか?

明け方まで夢と現実の間でとうとしていたようだった。



10月4日 休養日(ソウル)

朝目が覚めると少し体調がましになっていた。重い体をひきずって、旅行会社に電話をしに行ったが、いきなり「あなたキャンセル料50%よ」みたいにまくしたてられた。確かにいけないのは申し訳ないが、そんな状況ではどうしようも無いという物だ。とにかくもう一度別の日に申し込むならキャンセル料を払わなければならないのだろう。飯門店はあきらめてそのまま払わずに出国するという手もあるのだが。

そんなことを考えながら一日中ベッドで過ごす。外出といえば近くのセブンイレブンに朝食や昼食を買いに行くぐらい。まだ旅は始まったばかりなので、今日はとにかく体を休めて回復させないと。

夕方蓮夏と電話で連絡が着いた。彼女の両親が「うちへ来てもらいなさい」と言ってくれてるようなので、明日から木曜日までお世話になることにした。チケットがとれれば金曜日に出国する事になりそうだ。

それにしても蓮夏、、、「のりチャン」と呼ぶのはやめてくれ、、、、



10月5日 起死回生(ソウル〜板門店〜ソウル)

目が覚めると体が軽くなっていた。この分なら大丈夫だろうとう事でさっそく荷物をまとめて大韓旅行社のあるロッテホテルへ。キャンセル料を払うつもりで明日の予約をしたいと伝えたら、明日も明後日もツアーは全部フルだという。困った顔をしていたら「今日ならあるわよ」という事で急遽予定を変えて今日参加することにした。その場で料金を払ったがなぜか昨日のキャンセル料は要求されなかった。スタッフが違うせいだろうか?ともかくラッキー。復活の第一歩としては上々だ。

今日は午前中に蓮夏宅を訪問する予定だったので、電話で予定が変わったことを伝えてその足で調べておいた丹東行きの船会社でチケットを購入した。出発は金曜日だ。さすがに国際航路だけあって受付のおねえさんは英語を話すし出国の書類とかもまえもってくれた。本日唯一の「負け」はこのときの両替にあった。米$払いだとあまりレートが良くないので、1階の銀行でよく考えずに両替したのだが、あとで領収書を見るとたった$100の両替に「通信料」というのが1000円以上かかっている。釜山銀行では一切コミッションは無しだったのに。銀行だからぼってるわけではないとは思うのだが、通常外貨をほとんど扱っていない銀行なのかもしれない。安易に近くの銀行を選んだ事をちょっと後悔した。

約束の11時20分にロッテホテルに行くと何人かの個人参加者が待っていた。彼らと一緒にバスに乗り込んで一路板門店へ。行きのバスの中ではガイドさんが朝鮮半島分断の経緯を詳しく説明してくれたので良く理解できたが、パレスチナ問題にしろ朝鮮半島分断にしろ結局イギリスや米国の勝手な口約束のせいで起きたわけで何とも当人達には複雑な事だろう。

しばらく走ると「統一大橋」が見えてきた。去年まではとなりにある「自由の橋」を使っていたようだが今は新しくできたこちらの橋をつかっている。ここに検問所があって全員のパスポートチェックが終わるといよいよ橋を渡って一般人が立ち入れないエリアへ突入する。橋は4車線ぐらいある大きなものだが、有事に備えて1車線に封鎖されさらに所々ジグザグにしか進めないようにバリケードがある。この辺からは鉄条網、軍用車両、敬礼する兵士がよく目につき緊張が高まってくる。しばらくして国連軍の駐屯地に到着するとまもなくレストランで食事をした。ここにはおみやげ物屋や米軍の散髪屋まであった。1回$5.50だったので一瞬心が揺れたが、たぶんGIカット専門店だろうと言うことでやめておいた。その後観光バスから国連のバスに乗り換えて非武装地帯(DMZ)を目指す。運転手は国連軍の米兵だ。

この非武装地帯は両国の分断線から南北2キロの帯状になっていて、その中には両国の停戦合意に基づき2つの村が作られている。とはいうものの、北側は鉄筋コンクリートの建物が立ち並ぶ「宣伝の村」で誰も住んでいないと考えられているらしい。南側に住む人々には納税の義務と兵役の義務が免除されているらしい。
 

  
北朝鮮側の宣伝村。真ん中に
見えるのが世界最大の旗棒
 

まず最初は停戦軍事委員会本会議場、いわゆる例のマイクケーブルがある両国にまたがって立っている建物の方へ向かった。バスを降りるとそこからは全部撮影可なのが不思議な程緊張感につつまれている場所だ。両国にまたがって数軒の会議場が立っていてその会議場を一本のコンクリートのフタが貫いている。これはマイクケーブルを通すための溝らしい。このコンクリートのフタを一歩でも跨ぐとそれは「亡命」という事になる。

(1)   (2)    (3)

(1)休戦軍事会議本会議場(水色)テコンドー兵が警備している。上の鉄筋の建物は北朝鮮側
(2)両国の分断線。ここを越えると亡命とみなされる。本会議場内側から撮影
(3)本会議場内部 意外と小さくて質素な建物。

 
本会議場は数名の微動だにしない兵士に警備されている。彼らはテコンドーの訓練を受けた肉弾戦のエキスパートらしく、このような拳銃ぐらいしか武器の携帯の許可されない地域では彼ら自身が最強の武器となるのだろう。また会議場の外では、2名のテコンドー兵士が建物に体を半分かくして北側をにらんでいる。狙撃から身を守りつついつでも攻撃に転じられるという所だろうか? ともかくこの辺りは自由に撮影できるため北朝鮮の建物をバックにとか、テコンドー兵士の横で写真を撮る事もできる。ピースサインの女の子二人に囲まれたテコンドー兵士はそれでもぴくりとも動かない。世界で一番アンバランスな光景かもしれない。
 
 

 
僕も負けずにミーハーモード。
机の上のマイクケーブルが両国の分断線。今立っている位置は北朝鮮。
それでもテコンドー兵は全くぴくりとも動かない。
 
 
次に向かったのは分断線をずっとみわたせる小高い丘の上のような所だった。遠くに巨大な国旗掲揚台(160m)に北朝鮮国旗がたなびいている。風景はひたすら田園風景なのだが、山々に設置されたスピーカーからは金日成をたたえるプロパガンダの歌が大音量で流れていた。日本語ガイドはわりと堅い感じで案内していたが、欧米人客向けの米兵は、観光客に「どっからきたんだい?」とか、音楽が止まると「旧式だからレコードを替えてるんだろ」とか笑っていた。丘の下に「帰らざる橋」というのがかかっていて、その川の向こうも北朝鮮になる。
 
 
 
真ん中が帰らざる橋。
川の向こうは北朝鮮
 
 
帰らざる橋は3人の若い韓国兵に警備されていたが、そんな緊張感とはうらはらに彼らは笑って手を振ってくれた。DMZを離れ一般人の入れる地区に入っても、警備は相変わらず厳しく川沿いはフェンスと鉄条網で覆われて機関銃で武装した兵士が見張り台に立っている。川沿いは特に潜水艦等の上陸に備えて厳重なのだろう。日本のように河原でバーベキューとはとても行かない雰囲気だった。

休戦中の国境を遊び半分で見に行くというのはちょっと不謹慎な気もするが、ぜひみなさんにもここだけはお薦めしたい。
 
 



10月6日 日本と韓国の違い(ソウル〜水原〜ソウル)

昨日の夜は少し行き違いもあったが、無事蓮夏のマンションにたどり着くことができた。蓮夏の両親とも笑顔で凄く良くしてくれて、逆に恐縮だった。弟もすごくフレンドリーで、いろいろ音楽の話しを夜遅くまでしてたので、今日はかなり寝不足気味。

朝から小雨がぱらついていたのだが、蓮夏、お母さん共おすすめの「民族村」へ行ってみる事にした。水原まで電車で30分、そこからシャトルバスで20分。民族村は思っていたよりもかなり大きな所で結局夕方までいる事になった。

中は時代別、地方別の家屋が復元してあるような感じで、日本の古い家とよく似ているような感じなのだが、決定的な違いは床に油紙のようなものが敷いてあること。これはオンドルのためのもので、韓国では古い家では調理の煙をそのまま床をくぐらせて排出する床暖房がつかわれていて、今でも電気温水器に変わっているが近代的なマンションでさえオンドルは健在だ。

退屈こそしないものの、なんだかあんまり刺激が無くてのんびりしてたら、いきなり今日のメインイベントがやってきた。それは「農楽」といわれる韓国の伝統的な民族舞踊(音楽)で4つの楽器で構成されている、大きなゴング、小さなゴング(棒でたたくシンバル)、小さな片手の太鼓、首からぶら下げる表裏で違う音のする太鼓がそうだ。

しかしこの農楽の目玉は、何といっても小太鼓奏者が頭にかぶっている帽子で、帽子のてっぺんに1mぐらいの柔らかな鞭のような棒がついていて、棒の先には4mぐらいの新体操のような細いテープがとりつけてあって、頭の動きだけで円運動や上下の動き様々にあやつるというものだ。この農楽には日本の祭りにはあまり無い「疾さ」がある。ものすごいスピード感で目が釘付けになってしまった。板門店がおわってもう韓国にはあまりときめくような物は無いだろうなと思っていたのだがこれはすごい!ぜひ次回は本物の祭りの農楽を見に行ってみたいと思う。

農楽のあとはなぜかタンザニア民族村からのゲストでタンザニアの太鼓とダンスがあった。この凄い盛り上がりのあとで少しかわいそうかなと思ったが、こっちの方もなかなかすばらしく、がんばっていた。機会があったらタンザニアにでも行ってみようかと思った。
 

 
民族村の農楽



10月7日 平凡な日(ソウル)
 
韓国での予定をほぼ終了して、今日は特に大した予定はなかったのだが、蓮夏がソウルを少し案内してくれるというので、昔の宮殿へ連れていってもらうことにした。景福宮(キョンボックン)という所なのだが、その前には以前日本統治時代の総督府があったらしい。総督府も景福宮に負けずとも劣らないすばらしい建築で、以前まで博物館として使われていたらしい。ところが最近のその場所は風水的にものすごく重要な場所なので、そのような植民地支配の象徴が立っているのはふさわしくないという議論がおこり、賛成派、反対派の熱い議論が交わされたが、結果として破壊して新しい建物を建てる事にしたらしい。と言うわけで景福宮の前は現在工事中だった。

宮殿は思っていたよりも広大で満足できた。他にもソウルには宮殿が有るらしいが、ここは規模の割に入場料もたったの70円とお得らしい。

宮殿内では何組ものカップルが結婚写真を撮っていた。なんでも小道具やアシスタント付きで合計200枚ぐらいの写真を撮って、良いもの何枚かを結婚写真に使うらしいのだが、それらの費用が衣装等全部込みで30万円程度するらしい。値段はともかく韓国人の「モデル立ち」はひょっとするとこう言うところから来ているのかもしれない。

宮殿のあとは「独立門」という所へ連れていってもらったが、こっちははっきりいってがっかり。小さな石の門があっただけだった。でも今日は景福宮、独立門とも蓮夏も行くのは初めてらしい。ソウルっ子なのに。

その後少し時間が余ったので、漢江の河原を少しぶらぶら。河原には小さな売店んが20mごとに10件ぐらいならんでいた。韓国ではこういう場所で若者がたむろするときは、カップラーメンを食べるのがポピュラーらしい。

両国の文化やこれからの自分の進路についていろいろ語ったあと4時半ごろに帰宅。今朝は久しぶりに朝寝坊できたしゆったりとした一日だった。



10月8日 サヨナラ韓国(ソウル〜丹東)

今朝はかなりの寝坊で、朝起きたら9時半だった。蓮夏はなんだか昨日の家庭教師の時に出されたイカを食ってからえらい気分が悪いとかで昨日は早くから寝込んでたので今日もすっかり寝込んでるものだと思っていたら、ちゃんと早起きして日本語クラスの授業に行ったらしい。朝御飯を食べてから荷物をつめたりメールを書いたりしてだらだらしていると11時頃蓮夏が帰ってきた。今日で金一家ともいよいよお別れだ。結局意気投合した弟のジョンハとは昨日すぐに寝込んでしまった為、お別れの挨拶が出来なくて残念だった。

そんなこんなしている間にいよいよ出発の時間となって、金夫妻は1階まで、蓮夏は開峰の駅まで見送ってくれた。お父さんは静かな感じの人だがとても親切で、お母さんはなんだかいつもニコニコしていて楽しい人だった。「ソウルに来ることがあったら、ぜひまたいらっしゃい」と笑顔で送り出してくれた。一行に別れを告げて地下鉄で東仁川まで。フェリー会社のおねえさんによると、ターミナルにはタクシーで行くしかないわよとの事だが、地図を見ると大したことないので歩くことにした。てくてく歩くこと20分いよいよ仁川国際フェリーターミナルに到着。ここは下関とは違って雑然とした小汚い感じでいよいよ中国への窓口という感じだ。

船はこの時点ですでに1時間遅れており結局出航したのは18時30分、1時間半遅れだ。船の中は意外に中国人はほとんどいなくて、おそらく95%以上が韓国人だったと思う。船は前週が船の整備の為に欠航したと言うことで、ほぼ満員で自分たちの部屋は11人定員の11人だった。

仁川港は干満の差がめちゃくちゃ激しいので、堤防で遮断された内海と外海が扉の付いた運河のような通路で結ばれている。干潮時はこの運河に船を入れて水を抜いて外海との高さを同じにする必用がある。事実この運河で30分ぐらい停船していたようだった。

室内にはいるとさっそく韓国語で話しかけられるが、分からないとゼスチャーをすると今度は中国語に。「イルボンサラム」というとみんな、ああと納得した様子。室内は自分ともう一人の韓国人の女の子を除いて全員行商の韓国人だったので。この韓国人の女の子はソウルの外国語大で中国語を専攻していて、今回1年間の予定で丹東の大学で韓国語を教えながら自分は中国語を学ぶ事になっているらしい。彼女はさすが大学生だけあって英語がけっこうしゃべれるので、そんな事を話しているうちにすぐにうち解けて、その後一緒に食堂に食事に行ったりお互いの夢の事とかその他いろいろな話をした。名前はヒョンキョン(賢京)なんかキョンキョンみたいだがそれはさておき、のほほんとした感じのいい子だった。ちなみにメールアドレスは、moonで名字の「ムン(文)」と自分の顔が満月みたいに丸いというのをかけているらしい。失礼ながらぴったりだと思った(笑)

その後甲板にしばらく出て、風呂に入って帰ってきたら、賢京はすっかり爆睡状態にはいっていた。自分もパッチアダムスの韓国語字幕版なんかをぼんやりながめながら気がついたら眠ってしまっていた。

なんだかあっけない韓国最後の夜であった。
 
 

 
仁川港から外海にでる運河
扉と前にもう一隻船が見える。

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