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ゆったりラオス編
(ワンタオ〜ヴィエンチャン)
 


1月29日 ついに辺境(ウボンラチャタニー〜ピブンマンサハーン〜チョンメック〜ワンタオ〜ムアンカオ〜パクセ)

旅が再開して1週間、ついにまた国境を越える日がやってきた。陸路での国境越えは何度やっても少しドキドキして楽しい。

朝から宿をチェックアウトし、路線バスで南行きターミナルへ、この辺がターミナルだと思われる賑わった所で下りるがここはかなりローカル向けなのか、全く英語表記は無く、英語を話す人にも結局一人も会わなかった。最初向かってきたバスの車掌に「ピブーン?」と聞くと首を振って向こう側を指さすのでそっちの方に歩いていったらたくさんのバス、ソンテウがたまっているターミナルらしき所についた。

物売りの適当におねーさんに「ピブーン?」というとバスまで連れていってくれた。丁度おなかが空いていたので、ココナッツ入りの蒸しパンの様な物を買った。(10B)タイの物売りは何でも10バーツだ。「シップバーツ、シップバーツ」今日も物売りのお姉さんの声がこだまする(笑)

バスは1時間ほどでピブーンのバスターミナルに着いた。ここがおそらく最後の文明都市(村)だろうと思い、水と石鹸を購入した。そこからさらにソンテウに乗り換えて国境の村チョンメックを目指す。この辺りからはだんだんと森が深くなってなかなか良い景色だ。途中大きな湖と発電用のダムを右手に見ながらまもなくバスはチョンメックの国境マーケットへと到着した。

ここでラオスKipを入手しようと思って辺りの人に聞くが「エクスチェンジ」と言っても誰にも通じなくて、イミグレの役人でさえまったく英語が話せないようだった。仕方ないのでその辺にいた白人に聞いてみたら「今は1B=200Kipで、ラオス人は喜んでタイバーツを受け取るだろうから、両替しなくていいよ」との事で結局そのまま行くことにした。

タイ側のイミグレでスタンプをもらってから国境を越える。例によって不法入国しようと思えば自由に出来るような感じの国境だ。国境の向こう側にはラオスの国旗がはためいている。いよいよ10カ国目ラオス入国だ。イミグレは同じ経済レベルでもカンボジアの時とは打って変わって立派な鉄筋の大きな建物だった。役人も英語を話すし割とフレンドリーだった。ただ土曜日だったので「オーバータイムチャージ」と称して80B徴収された。たしか30Bぐらいだと本で読んだのだが、値上がりしたのか彼がぼっているのかは結局の所分からなかった。

国境を越えて歩いていくとソンテウ乗り場があって、中には国境貿易のおばちゃん達が山盛り乗っていた。面白いのはここでは洗濯石鹸やシャンプーと言った物が持ち込み制限の対象になるらしく、おばちゃん達はスカートの中や、壺の中に分散させて隠していた。ソンテウはもうこれ以上一人も乗れないというぐらいぎゅうぎゅう詰めになってからまもなく発車した。

パクセまでの道路は特に国が変わったからと言って悪くなるわけでは無く、単に走るレーンが左から右に変わっただけだった。ただ風景はかなり寂れていて、「いよいよラオスに来た!」という実感が沸いてくる。途中検問所みたいなのがあって、おばちゃん達があわただしく洗濯石鹸を隠し始める。しばらくすると役人が乗ってきていろいろと積み荷をチェックしていく。ただ、あまり厳しく取り締まろうという風ではなく、隠してるのを見つけても「なんだー? えー?これはー」と一応取り出してみるぐらいだ。おばちゃんも「へてて」という感じで結局何一つ没収されずに検問を通過していた。

1時間半ほどでメコン川の村、ムアンカオに到着。今日の目的地パクセは目の前だ。船着き場に下りてボートに乗って対岸に渡る。この辺のメコン川は川幅も狭くて5分ほどで対岸に着いた。川下の方には建設中の橋が見えた。今年の年末ぐらいにはウボンからパクセまでが一本の道で結ばれるらしい。事実タイ側の道はこんな田舎には似合わないくらい立派な4車線道路だった。

桟橋に着くと例によってバイタクやトゥクトゥクが押し寄せてくる。適当にかわしながら土手の上まで上がるとパクセの町が目の前に開ける。商店にはたぶんタイから運んでこられたであろう商品が山積みされていて、思ったよりも開けているという印象を受けた。

しばらく歩いていると一軒の安宿を見つけた。値段を聞くと20000でダブルの部屋が有るというのだが、「安い部屋は無いのか?」と聞くと一階をベニヤ板で仕切ったシングルの部屋に案内してくれた。15000キップ。しかしこの部屋自分で電気を付ける事もファンを回す事も出来ずに後で少し後悔する。救いといえば蚊帳が付いていた事ぐらいだろうか?シャワーは汚くしかも水瓶の水を浴びるタイプだ。ラオス到着そうそう少しへこむ。

そんなわけで宿にいてもする事が無いので外に出るとすぐ近くに一軒の食堂を見つけて。丁度おなかが空いていたので入ってみる事にした。親父はなかなかフレンドリーで、食べていると情報ノートを持ってきて見せてくれた。ノートにはシーパンドン(ラオス南部地方)の情報が、英語、日本語でたくさん書かれていた。

情報ノートを一通り読み終わるといい感じで陽も暮れて来たので川まで夕日を見に行くことにした。途中の屋台で大きな串焼きを一本買って川岸で食べているとたくさんのラオス人が夕日を見にやってきた。この日は雲が多かったのか、日が沈んでからは怖い位に空が赤くなった。中州がじゃまでメコンに沈む夕日は見れなかったが、それはまた次の機会に取っておく事にしよう。
 

 
来たねえ!10カ国目!
タイ・ラオス国境



1月30日 四千の島(パクセ〜ハッサイクン〜ムアンコーン)

到着そうそうのひどい宿で少しへこんでいた。はやりラオスは飛ばしてインドへ行くべきだったのか?そんなことを思いつつも6時に起きて南バスターミナルへ。今日の行き先はシーパンドンの中心地ムアンコーンだ。

「ラオスはみんな人が良い」とみんな口をそろえて言うのだが、それはたぶんもう少し前の話なのだろう。少し変なのだが、ラオスのバスターミナルは必ず町から5〜10キロ離れた所にあるらしい。バンコクのように人口が密集している所ならまだしも、渋滞も無く土地も余りまくっているラオスでなぜそんなことをするのかよく分からないのだが、とにかく10キロ程の道のりをトゥクトゥクに揺らる。最初は3000と言ってきたが2000が相場だと知っていたので「2000でないと乗らないよ」というとあっさりそれで行ってくれる事になった。

ターミナルにつくとこれ又トラック改造バスの客引きがわんさかあつまってくる。「ムアンコーン」というと「オレのバスだ」とみんなが言う。やはりこの手の人はあまり信用出来ないようで、みんな嘘を着いて「そのバスじゃムアンコーンに行けない」とか言う。結局最初のドライバーのバスに荷物を積んだのだが、しばらくすると普通のちゃんとしたバスがやってきたので親父に聞いてみると、ムアンコーンの対岸までで、料金は同じ10万キップだという。しかもまもなく発車するという事なので、当然そっちに乗り換えることにした。

最初のドライバーは最後まで「そのバスじゃアンコーンへ行けない」と頑張っていたが、荷物を屋根から下ろすとあきらめたようだった。ちなみに最初のバスはまだガラガラだったので、そのまま待っていたら2時間は発車しなかっただろう。

バスは親父の約束通りまもなく出発した。ムアンコーンの対岸の村ハッサイクンまでの道は途中未舗装だったが、おおむね舗装された良好な道だった。しかもバスは中古だが韓国式の普通バスなので80キロ以上でビュンビュン飛ばしていく。残りの悪路も舗装工事をしている途中だったので、来年にはカンボジア国境まで舗装道路が出来そうだ。

バスは途中小さな村に立ち寄って、そのたびに山のような物売りが乗り込んでくる。タイのように一列に間を置いて乗ってくるんじゃなくて、一度にどばっと乗ってくるので収拾が付かないのだが、見てる分には面白い。

途中で運転手が下りてしまい、その後の運転は子供の車掌がする事になった。子供といっても15才ぐらいだろうか? なぜそうなったのかは分からず、まだまだラオスは奥が深そうだ。運転手が下りてから30分ぐらいでバスはバンナカサンの村に付いた。村と言うよりは単なる船着き場+集落といった感じだった。さっそくボートに乗るのだが、やはり1000Kの所を2000Kとぼられてしまった。観光客が増えてくると仕方ないのだろう。

宿はパクセの件があって結構悲観していたのだが、しばらく歩いていると、ふらふらと危ない運転の自転車の女の子がやってきてぶつかりそうになった。女の子は「ごめんごめん」と言った後「宿を探してるなら私の家がゲストハウスをやってるわ」と英語で話しかけてきたので見せてもらう事にした。宿はぶつかりそうになった現場のすぐ目の前だった。

さっそく部屋を見せてもらうとなかなか綺麗でしかもメコン川に面した一番いい部屋だった。しかし値段がなあ、、、と思っていると、たったの2万キップらしい。決して安くは無いがこの部屋でこの値段なら十分過ぎるぐらいだ。しかも心配していた電気の方もつい2ヶ月前から24時間使えるようになったらしい。部屋を案内してくれた少年は「モー」という名前で、パクセの師範学校で英語の勉強をしているらしく、いろいろと町の事とかを教えてくれた。

良い宿が見つかるとさっそく村を回りたくなる。玄関からでて小さな村を一周してみる。一般の村人はとてもおだやかで、たまに「サバイディー」と挨拶してくれる。子供もたまに手を振ってくれたりする。村はこの前まで電気が一部の時間帯しか使えなかった村なので本当に素朴な感じで、リヤカーで遊ぶ子供達や走り回る鶏、糸を紡いでいるおばあさんとまるで50年ぐらいタイムスリップしたような感じだ。

やはり「こんにちは、何かちょうだい」と手を出してくる子供に会ってしまったが、それさえも何とも思わないほどみんな素朴だった。少し歩いては日陰でぼーっとして、また歩いては一休み。ゆっくりと時間が流れてやがてメコン川が夕焼けで少し赤くなってくる。そして日が暮れてしまうと全くすることが無いのでこうやって日記を書いている。



1月31日 朝の光(ムアンコーン〜ドン・コン〜バン・ナカサン〜ムアンコーン)

どっかで聞いたようなタイトルだがそれはさておき、今朝目が覚めるとのぼったばかりの朝日がキラキラと朝もやのメコンに写っていてそれは綺麗だった。そのキラキラの上でたくさんの人達が船の上から投網を打っている。不便だがやっぱりここまで来て良かった。
 

 
寝ぼけまなこに窓から見えた風景
 
今朝はボートでコン島(コン島とコーン島は別の島)まで移動しようと思っていたのだが、6時半に起きるとまだ少し頭が痛かったのでそのまま寝続ける事にした。そして8時過ぎに1階に下りていくと宿の人に「今日5人ほど日帰りでコン島と滝を見に行く人がいるのでボートを出す、よかったらどうだ?」と言われいろいろ迷った末参加する事にした。

このころには頭痛もだいぶましになり、せっかくまとめた荷物が無駄になるが、ここにもう一泊してそれからビエンチャンを目指すのも悪くはないかもしれない。

ここシーパンドン(四千島)はメコン川随一の交通の難所で、当時インドシナを占領していたフランス軍はこの川に目を付けて、急流部分に鉄道を敷いて中国まで物資を運ぶ努力をしたが、結局は余りうまく行かず、日本軍の侵攻と共に見捨てられたらしい。船で下っていくとさすがにシーパンドンというだけあって、無数の小さな島があって交通を妨げている、途中急流を避けるために島と島の間の細い水路に入ったりしながら1時間少しでコン島に到着した。

コン島はコーン島と同じくメコン川の中にある島の一つなのだが、コーン島に比べてもまだ圧倒的に僻地で、電気も無ければ水道は川の水を汲み上げているだけという本当にひっそりした集落だ。しかし最近ガイドブックに紹介されるようになったのかたくさんの欧米人が押し寄せて、新しいバンガローがどんどん立てられているようだ。

コン島の見所は3カ所で、鉄道跡の鉄橋、置き去りにされた蒸気機関車、そしてソンパミットの滝だ。鉄道跡と機関車は滝へ行く途中にあるのですぐに見つかったのだが、ここでなぜだか滝へ行く道を誤ってしまった。標識には1.5キロと書いてあったのだが歩けど歩けどそれらしいものは見つからず不安になって地元の人に聞いても進行方向を指さすのでとりあえずまっすぐ進むと、何と淡水イルカツアーのボート乗り場にたどり着いてしまった。どおりで遠いはずでこちらは確か5キロぐらいあるはずだ。

仕方なく元来た道を引き返してようやく分岐点まで戻ってきた。標識が少しいがんで立っていた為道を誤ったらしい。今度は地元の人に聞いて確かめながら進むと、10分程度で滝に到着した。この滝は小さくて、迫力というよりは、綺麗な流れという感じだった。驚くほどの物ではないが、滝を見ながら水が落ちる音を聞いているのも悪くはない。

滝見物が終わると今度はバンナカサンという本土側の村からトゥクトゥクをチャーターして、コーンパペーンの滝を目指す。しばらく悪路をトゥクトゥクで揺られながら進むと13号線に出た。ここからは完全舗装で風に当たりながらパタパタ走っていくのは気持ちいい。30分程してバン・タコという村を過ぎるとすぐに滝に到着した。この滝は東南アジア最大の滝らしいくさすがに大きな滝だった。落差は大したことはないのだが岩の隙間を激流が流れていて、ニュージーランドでみたフカフォールがたくさん集まっているような感じだった。

滝でしばらくたたずんでいると陽も少し傾いてきたので滝を後にしてトゥクトゥクで元来た道を帰る。ボートに乗り換えてムアンコーンに着いた時にはいい感じで陽が暮れかかっていた。シャワーを浴びてからもう一度外に出ると雲が真っ赤に染まっていたのでそのまま散歩する事にした。すれ違う人が「サバイディー」と声をかけてくれる。ここラオスでさえツーリスト相手の商売はどんどんぼったり騙したりという事を覚えて行ってるようだが、一般の人々はまだまだ素朴で人なつっこくて、少しほっとした。
 

 
コン島の集落
中央に見えるのはフランスが施設した鉄道の跡
 


2月1日 ジャンピング大移動(ムアンコーン〜パクセ〜ビエンチャン)

今朝は予定通り一気に首都ビエンチャンを目指すことにした。当然ながら夜通しの移動だ。

朝少し早起きして荷物をまとめて宿で軽く朝食を取ってからいざ出発。出ようとするとモーもちょうど学校の休みが終わってパクセに帰るので一緒に行こうという事になった。

パクセまでの間はトラック改造バスだと思っていたら、タイと同じ様な長椅子の乗り合いトラックだった。しかもこのトラック2トン車なのに50人ぐらい乗ってただろうか?とにかくもう隙間が無いくらいの人で、なんだか荷物になったような気分だ。

この区間は舗装路なのもあってまだ救われたのだが悲劇はこの後に待っていた。南バスターミナルから北バスターミナルまでは町をはさんで20Km近く離れているのでトゥクトゥクで4000キップも使って移動しなければいけなかった。それは全然かまわないのだが、北バスターミナルに着くと「Vientian」と書かれた日本製の綺麗なバスが停まっていたので「これなら安心だ!」とさっそくチケットを購入した。

ベンチに座っているとラオス人のおじさんが英語で話しかけてきたのでいろいろ喋って時間をつぶしていたら「そろそろ席が無くなるからバスに乗ろう」と言い出すので「???」と思っていたら何と目の前の30年落ちと思われるボロボロのバスがビエンチャン行きだったのだ。

もしチケットを買っていなかったら間違いなく移動を1日遅らせていただろう。しかしもう後には戻れなく、仕方なしに乗り込むのだが、もう良い席は空いて無くて一番後ろになってしまった。でもまだ椅子に座れるだけましで、席からあふれたラオス人は車内にぎっしり詰め込まれた麻袋の上に座ったりしていた。

バスは出発するとまもなく悪路で飛び跳ねる。サバンナケートとパクセの間は前線未舗装で、その苦痛はその後8時間程続いた。椅子が悪い上に、ぎゅうぎゅう詰めなのでおしりを動かすことが出来ずに、もう床ずれが出来そうな勢いだ。やがて陽が暮れてきて、今度はおしりの痛さと共に寒さにも襲われる事になった。

日本製のバスだと信じていたので、ジャケット類を全部バックパックの中に入れていたので着ていたのは半ズボン、Tシャツ、そして手に持っていた長袖のシャツだけだったのだ。当然このボロバスは窓の立て付けも悪くしかもボディに穴が空いていて冷たい風が吹き込んでくる。凍える程ではないにしろラオスの冬は寒くて、全く眠ることが出来なかった。

バスは夜の11時ごろサバンナケートに到着。町の直前から急に舗装路になって、一同ほっと一息。茶色くなった上着や白髪になった頭をバシバシたたいて砂をはらう。サバンナケートのターミナルにはベトナム語があふれていて、ベトナム行きの国際ボロボロバスも停まっていた。ここでパンを買って軽く食事をとるが、運転手はパンクしたのか、後ろの内側のタイヤを交換していた。

バスは深夜0時ちょうどにビエンチャンに向かって出発。ここから先は全線舗装済みだと聞いていたのだが大嘘だった。舗装されている区間はあるもののまだまだ悪路は残っていた。ラオスの道路工事はどういうわけなのか一度に何百キロもの区間を平行して工事する。そして工事中の区間は当然通行禁止にして、その両脇をジグザグに迂回しながら通行するのだが、当然仮の道なので工事前の道よりも数段悪い。

もっと一カ所を集中して工事すればそこだけはまともに通れるし、通行止め区間も減らせるのにと思うのだがその辺はこの国の事情が有るのかもしれない。ともかくバスはサバンナケートから先も決して快適とか行かなかった。このころになると寒さで眠る事もできず、もうだいぶ泣きが入っていた(笑)

目を閉じれば、なぜか場所は白木屋で吹奏楽団のメンバーと飲んでいる図や、ニュージーランドで暮らしていた時の事がまぶたに映っては消え映っては消え。オレってこんなに弱かったっけ?自問自答してみる。やっぱり東南アジアも3ヶ月目に入り、旅の燃料である好奇心が少し弱くなっているのだろう。これはもう飛行機でインドに飛ぶしか無いのだろうか?一晩中寝るでもなくうとうとしながらそんなことを考えていた。

途中何度か集落に停まって乗客や荷物を下ろしたりして、いくつ目かの村でついに空が明るくなって朝日が昇った。朝日が昇ると急にからだが暖かくなって寒さからは解放されたのだが、おしりの方はもう限界で完全に麻痺してしまっていた。

午前10時ごろに「ん?また集落か?」と思っていたら今度は結構長い。「あれ?」と思っているとどんどん大きくなってきた。遂にビエンチャンに着いたらしい。しばらくすると本でしか見たことの無かったアヌサワリー(凱旋門)が見えてきた。実にパクセを出てから19時間が経過していた。
 

 
こーんな超ポンコツバスに19時間
そして60人近い人々と大量の物資が
(天井の穴に注目) 
 


2月2日 田舎首都(ビエンチャン)

バスは市場の回りを一周したあと裏通りに停まってエンジンを切った。どうやらここが終点らしい。このバスターミナルには入らなかったのでひょっとしたらそういうバスなのかもしれない。

とにかく疲れているのと頭が白髪に見えるほど砂をかぶっているので早く宿に落ち着きたい。しかも田舎で小さいとはいえ、はやり首都ヴィエンチャンは大きいのでこういう時に活躍するのが「長銀くん」にもらった旅行人ノート「メコンの国」だ。

最初一番安い宿に行くと、そこは自分で3人集めないとシェア出来ないと言われる。時々ガイドブックはあまりあてにならないのだが次に行った「風通しが悪い」と書かれた宿は部屋もシャワーも綺麗だ。そもそも冬のラオスに風通しなど不要なのだ。宿代は1泊$4とヴィエンチャンにしてはなかなか安いのでそのままチェックインして、さっそくシャワー室へ直行した(笑)

相変わらず寒かったのだが意を決してシャワーを浴びる。茶色い水がどろどろと足下に流れてさっぱりするが、さすがに冷たい。ところが段々水が温かくなってくるのである。なんとここは温水シャワー付きだったのだ。バンコクで遊びに行ったOLと両親のホテルは別格として、ベトナムのホイアン以来初めて温水シャワーだった。

さっぱりした上に体まで温まってもうこれは観光に行くしか無いでしょう!ほとんど一睡もしていないのになんだか一気に元気になってしまった。宿のすじから表通りにでると何ともうメコン川は目の前だった。ただヴィエンチャンの町から見るメコンは、巨大な河原のような砂の島があって余り眺めるのには向かないかもしれない。

川沿いの食堂でさっそく焼きめしをかき込む。18時間ぶりのまともな食事だ。おなかがいっぱいになれば、とりあえず今日は初日と言うことで町を把握すべく、例によって歩き回る事にした。

ヴィエンチャンは首都の割には人通りもまばらで、しかも町中の商店の並ぶ通りでも平気で赤土だったりする。まるで写真で見た50年前の日本のようだ。とにかく静かでのんびりした町という感じで、サイゴンやバンコクのような公害は全くなかった。

しかしそんなヴィエンチャンにも変化は確実に訪れているようで、なんと通りにインターネットカフェを発見した。しかも料金も1年前の本には3分$1なんて書いてあったので問題外だと思っていたら、なんと1分1.5円程度。ちょうどタイの田舎ぐらいに下がっていたのでさっそくメールのチェックをする事にした。回線もたぶん対岸のタイからもらっているのか、かなり高速で全く実用上問題なく使えた。

他にも高校生がホンダのバイクにのっていたり、カフェの店番の少年がギターを弾きながら英語の歌を歌っていたりと、もうここはタイの田舎にかなり近づいているのかもしれない。パクセやムアンコーンとは全く違った感じがする。

昼下がりにふとメイン通りに出ると、遠くに凱旋門(アヌサワリー)が見えていたので行ってみる事にした。地図で見ると遠いのだが門が大きな分すぐそこに見える。門の下はちょっとした広場になっていて、涼しい風が四方から入ってきていい感じだ。1000K払って上に登るとヴィエンチャン市内が見渡せた。

さすが田舎首都というか、辺りは森だらけでいかにヴィエンチャンがクリーンな町かよく分かる。景色を見ていると一人の若い僧侶が話しかけてきたので「ごめんなさい、ラオ語分からないんです」というと今度は英語を話すらしく、いろいろとラオスの事について教えてくれた。少年は20才、ルアンパバーンの出身で、現在学生と僧侶を掛け持ちしているらしい。

いろいろと身分証やあと妹の写真を見せてくれたのだが、妹をとても大事に思っているらしく「彼女はかわいいだろ?僕は彼女をすごく愛しているんだ」としきりに言っていた。そのへんの兄弟愛というか、日本の兄弟とは偉い違いだ。最後に「ルアンパバーンに着たら是非自分の寺に来て欲しい」と地図に丸を付けてくれた。

ここヴィエンチャンは特に見所は少ないのだが、なんだかいろいろあって、この町が気に入りそうだ。
 

 
ビエンチャン名物 アヌサワリー
下は四方から風がきて結構涼しい。
 


2月3日 出会い2件(ビエンチャン)

今朝は朝からビザの延長にイミグレまで。実は今回のビザはMPツアーのおやじに騙され、というかまあ自分の不注意なんだけど2週間のツーリストビザなので延長しないといけない。ラオスではやはり「ツーリストは金」で、日数×$1で最大15日まで延長出来るらしい。もっとも出国時に1日あたり$5の罰金を払えば全く問題はないらしいのだが。

そんなわけでとっとと申請を済ませて次に向かったのはヴィエンチャン最大の見所、タートルアン。ラオスの仏塔は他のものとちがって独特の形をしている。そしてそのタイプの最大のものがここタートルアンなのだ。本来トゥクトゥクで行く距離なのだが、例によって歩いてみる事にする。自分の足で歩くことによって、町の細かいところまでよく見えてくるのだ。

凱旋門をくぐると遠くに見えてくるのだが、金色に光っていてなんだか豪華だ(笑)。大使館街をどんどん進んでいくと少しずつ近づいてきた。やっぱり近くで見ると圧巻だ。入り口で例によって1000K(何処でも千)払って中に入ってみるのだがこれはやっぱり外から見るものらしく特に対した物は無かった。仏塔の陰で休んでいると、フランス人についていた現地ガイドが「サバイディー」と挨拶してくれる。

仏塔を後にして次に向かったのが日本大使館。はやりこういった国では大使館に立ち寄って情報収集しておくのがいいだろう。そして何よりも日本の新聞が読めるのが一番嬉しい。所が地図をたよりに探す物の、ちゃんとした場所が書いていないのでなかなか見つからない。迷っていると「古都」と書かれた一軒の日本食屋を発見したのでそこで聞くことにした。

地図に大使館の場所をかき込んでもらってから「今昼休みだから、しばらく店の中で休んでいるといいよ」と言ってくれた。ついでなのでメニューを見せてもらうと、鯖味噌煮込み定食から豚カツまで、これぞ日本食というメニューが全部$3であったので、ここで昼食にする事にした。ほうれん草から漬け物、みそ汁、おまけにスイカまで付いてこの値段は安い。こんな所でこんな豪華な日本食にありつけるとは夢にも思わなかった。

そして日本大使館につくと「図書室」に案内された。中では50前後のおじさんと大学生がなんだかラオスの治安について話をしていた。要は大学生がヴィエンチャン〜ルアンパバーンの道路の安全性について聞きたかったようだ。新聞を読んでいるといろいろ話が聞こえてくるのだが、やっぱりこの大学生どっか足りないところがあるようで、以前も睡眠薬強盗に有ったらしい。

一通り新聞を読み終わって、どうするかなと思っていると、自分が通ったルートについて話していたので加わる事にした。そして一通り話が終わった後、なぜか話がカリブ海まで飛んだので、この前噂に聞いたカリブの島を全部回れる周遊航空券に付いて聞いてみたら、いろいろと教えてくれた。

なんでもこのおじさんアマチュア無線家で、仕事をやめて無線三昧でカリブの島で無線三昧をやっていたらしい。自分も昔アマチュア無線をしていたのだが、この地域は電波の経路の途中に北極があって、電波的にかなり届きにくい所なのだ。(逆にブラジルとかアルゼンチンは楽勝)そしてよくよく話を聞いているとそのカリブ遠征の間に一度交信していたことがわかった。世の中狭い(笑)

その後そんな話や、あんな話でいろいろと盛り上がっておじさんの家に遊びに行くことになった。といってもお茶を飲みながらあーだこーだ話をしていただけなのだが、この人なかなかアメリカ人的な強さを持っている人で話をしていても飽きない。自分の意見とは食い違う事もあるのだが、全てが理論建てされていてなるほど納得できる。

9時過ぎまでいろいろしゃべってから帰ると、今度は宿のロビーで日本人3人ほどが話をしてたので混ぜてもらう事にした。途中からドイツ人のおじさんも交えてうだうだしゃべっていたのだが、その中の一人は「タイのビザを取りに来た」というのでよくよく聞いてみると、バンコクでムエタイのボクサーをやっているらしい。当然観光ビザしか取れないのだが、ここヴィエンチャンではトリプルのビザが取れるらしく、ここで取るのが一番いいらしい。

マレーシアに出国する手もあるのだが、彼の話ではマレーまで行くと2泊ぐらいになってしまうので、そんな暇があったら練習をしたいらしく、かなり真剣に取り組んでいるみたいだった。

今日はあまり観光できなかったのだが久しぶりにいろんな人と出会えて面白かった。
 

 
ラオス人民の心のよりどころ
タートルアン
 


2月4日 何だこれは?(ビエンチャン〜タデア〜ビエンチャン)
 
実は昨日の午後にビザが出来ているはずだったのだが、おじさんと話し込んでいて取りに行けなかったので朝イチでイミグレまで。窓口に行くと振り込み用紙(?)をくれ$6払って無事6日間延長。これで18日まで滞在できる。

その後は郵便局に行って、バンコク大使館宛に届いていた年賀状の返事を書く。もう2月なのにあれなのだが、ラオスからハガキが届くというのもなんだか相手に取っては面白いだろう。日本までハガキ1枚2600K。郵便局の職員はかなりいい仕事なのか、身なりの良い、それでいて親切なおばさんがたくさん窓口に座っていた。

昼ごろにホーパケオ博物館という所に行ったのだが、博物館というよりは普通の寺で、以前タイが攻めてきた時に破壊された寺院から出てきた仏像なんかが展示してあった。そのとなりのシーサケット博物館は入ろうとすると「昼休みだ」と言われてしまった。どうせ案内とかする訳じゃないのにと思うのだがおとなしく引き返す。

仕方がないので、郊外にあるというワットシェンクアンへ行ってみる事にした。ここは単なるコンクリート製の仏教、ヒンズー教仏像が所狭しと並べられているだけなのだが、すごく前衛的というか、悪く言うとアホなものが多くてなかなか笑える。ありがたみも何も有ったもの出はないが暇つぶしには丁度よかった。

結局町に帰ると夕方になってしまったので、いつもの飯屋で焼きめし。ここは地元民も多いのだが、外国人は思いっきり食べる事をしっているらしく、焼きめしも巨大なのだ出てきた。ラオスのビール「ビアラオ」を一本空けながら全部かき込むとしばらく動けなかった。ああ、満腹。

そしてメコン川が夕日に染まる。
 

 
あの、、、なんでさぁ、バッタを振り回すよ?
 


2月5日 遠足(ヴィエンチャン〜タラート〜ヴィエンチャン)

今日はちょっと足を伸ばす。ヴィエンチャンの北100キロぐらいの所にナムグム湖という巨大な人造湖がある。ここは以前は山だったのだが、ナムグムダムの完成と共に水の底に沈んだのだ。山地をそのまま沈めてしまったもので、湖の中に以前山の頂上だった島が無数に見える。

そして、ここはラオス最大の発電所で、ここで発電された電力の70%がタイに輸出されているというのを以前テレビで見たことがあった。そして自分はなぜだかこういうダムとか発電所とかを見るのが好きで(発電所マニア?)これは是非行ってみたいと前々から思っていたのだ。

まず最初はバスでタラートと言う町までいく。ここで少しうんざりすうのはラオスのバスシステムだ。ラオスではバス停という概念が無いらしく、乗客全員が自分の家の前で運転手に「停まれ」と言って下りていく。それは良いのだが、集落に入ると一人一人それをやるので全然進まない。ひどい奴は前の人が下りたあと20mほど進んだ所で再びバスを停めて下りていく。20mぐらい歩けよ!

そんな感じで90Kmを2時間半かけて到着。

ここからダムまではソンテウを使うのが普通らしいのだが、「歩いてみたらもっと地元の生活とかがよく見えるだろう」と思ったのがバカだった。歩けど歩けど全然ダムは見えてこない。もうかなりばててきた頃に看板が見えてきたのだがそれには無情にも「ダム3Km」。途中何台ものソンテウが追い抜いて行くがここはもう後には引けない。汗がだらだら流れるが、地元の子供達が「サバイディー」と着いてきたりしてそれはそれで楽しい。

しばらくするとダムに到着。ダム自体かなり横幅は広いものの所詮ラオス最大で、ニュージーランドのクライド発電所なんかに比べると大した規模ではなかった。ただダムから流れてくる川はとても澄んでいて、地元の少年が釣りをしていたりしていい感じだ。

湖の上に登ろうと道を探すが、どうやら大きく迂回した車道しかないようで、これまた後悔しながらてくてく登っていく。登り切った所で目の前に巨大な湖が広がる。たしかにこんな巨大な人造湖は見たことが無い。そして大小たくさんの島がちりばめられていてなかなかの眺めだ。湖沿いに歩いていくと小さな村があって、水揚げした魚やバナナをトラックに積み込んでいた。

少し休んでから今度はさすがにソンテウに乗って戻る。車を探していると、バナナを満載した軽トラのソンテウを見つけた。混んでいたのだがなんとなく屋根に山積みされたバナナに惹かれて(笑)乗せてもらう事にした。それにしてもよくこんな距離を歩いたものだ。10キロ近くはあったかもしれない。そんなわけで帰りのバスは窓ガラスで頭をゴンゴン打ちながら寝たり起きたりを繰り返していた。

ちょっとした遠足気分だ。
 

 
帰りのソンテウ
バナナが満載されていていい感じ。
 


2月6日 建国の父(ヴィエンチャン)

なんだかんだで、今日でビエンチャンも5日目になってしまった。最初は首都なんで素通りかな?と思っていたのだが、意外と静かな町並みや、ラオスなりになんだかんだ手にはいるのでついつい長居になってしまっている。何よりも大きいのは、無線家のおじさんとの出会いかもしれない。

今朝も宿のロビーでテレビを見ていると、「無線家さん」がたずねてきてくれた。1時間ほどいろいろしゃべったあと、彼が近所の電気修理屋に自分のパソコンを置いていて、しかもラオスのプロバイダにも加入しているという事だったので、メールを読ませてもらいに行くことになった。

当然政府関係がやっているプロバイダなのだが、回線数が少ないためなかなかつながらず、結局30コールぐらいでやっと接続。久しぶりに日本のニュースをじっくり読むことができた。

そんなこんなしているうちに昼近くになり、最後のヴィエンチャン観光に出かける。実はここヴィエンチャンに建国の父、初代首相カイソーン氏の記念館が有るらしく行ってみたかったのだが、観光局に聞いてみても「そんなの有りませんよ」と言われるしまつで、本当に無いのか?と思っていたら、なんと無線家さんが場所をしっているらしく、バイクで連れていってくれる事になった。

博物館自体は写真中心で、英語の説明も無かったのですぐに見終わったのだが、帰りに記帳すると何と、タダでカイソーンバッジをお土産にくれた。これは北朝鮮国境で買った金日成バッジと うり二つだ。どうやら北朝鮮で作っているらしい。

昼食を博物館近くのスポーツガーデンのレストランでとったのだが、ここにはラオスのハイクラスの人々が集まっていて、水上で足こぎボートを楽しんだり、生バンドの演奏をバックにビールを飲んだりしていた。ここにいるとここがラオスだと言うことを忘れてしまうほどだ。

帰り道も旅行者と関係ない路地裏のラオスをいろいろと案内してくれて興味深かった。現地に住んでいる人に近い目線で町をみられたのはなかなか良い経験だった。


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