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リトアニア編
(ヴィルニウス〜シャウレイ)
 

8月11日 秘密警察(ヴィルニウス)

目が覚めると首が痛かった。最近何処でも寝れるようになったのはいいのだが、乗り物の座席で寝ると寝ている間に首が前後左右に揺すられて必ず首が痛くなるのだ。「あいてて、、」と思いながら外を見ると街が見えた。どうやらカウナスの街のようだ。僕が今日向かうのはヴィルニウスなので、まだあと2時間ほど眠れる。

そして次に目が覚めるとヴィルニウスの街に着いていた。街は思ったほど大きくなく、バスターミナルの規模はさすがに大きいものの、まだ6時前だったために辺りは閑散としていた。そしてここで問題が・・・。何と荷物を入れたトランクが開かないのだ。運転手のオヤジが悪戦苦闘するも全く開く気配なし、刺すような朝の空気の下で40分ほど待つことになってしまった。結局運転手が無理矢理ガキを壊しながら開けてやっと僕たちはその場から解放された。

そんなこんなで結局結構良い時間になったので、早速駅のATMで少しばかりのお金をおろして宿へ向かうことにした。本当にここヨーロッパではATMが便利だ。本当にもうキャッシュカード無しの旅行なんて考えられないほど。駆け足旅行には絶対の必需品だ。

路線バスに乗ってたどり着いたYHAはなかなか綺麗だった。そして料金も一泊目が29Lt、そして2泊目からが24Lと安いのもうれしい。2段ベッドの並ぶ狭苦しいドミトリーにチェックインしてシャワーを浴びた。

同室には見かけまるっきり日本人の香港人と、もう一人の日本人、そして数人の白人が泊まっていた。ユースという場所柄か白人もみんな声をかけてくれて会話が弾む。特にイタリア人とワーホリ2連発でイギリス、アイルランドで働くというオーストラリア人とは話が合った。

しばらく宿で休んでから市内観光に出かけることにした。特に当てもないのだが旧市街に向かって歩き出す。そう言えば、サラエボで一緒だったおじさんに「KGB博物館が有るので行ってみるといい」と言われたのを思い出して早速向かってみる事にした。

博物館は一見普通の建物で看板が出てないとKGBの建物だったとは分からないだろう。公開されているのは半地下になった囚人用の監獄の並ぶフロアだった。まず各監獄があって、新人用の写真撮影室、看守の詰め所、尋問室、そして
驚いたのが叫び声が漏れない様に全ての壁を分厚い布で覆った拷問室。部屋には拘束着か飾られていて壁の布には所々血痕が残っていた。

そしてもう一つは水牢。フロアの真ん中にぎりぎり両足で建てるほどの床があって、その回りに水を入れるらしい。凍るような冬場そこに入れられると、眠ることも出来ない。我慢して起きているか氷水の中に落ちるかのどちらかしかないのだ。最近ユーゴ、アウシュビッツ、ここと暗黒系を結構見てきてるのだがやはり人間の考える事は際限が無いなと思った。

そしてそこを抜けると最近整備して公開されたという処刑室があった。処刑には二通りあて、一つは銃殺、もう一つは溺死らしい。処刑室の半分が板で仕切られていて水攻め用になっていて、もう半分側には多数の弾痕が残っていた。そして床は血を洗い流すように風呂のような排水溝が設けられていた。処刑室の床は展示用にガラス張りにされていて、床には眼鏡や靴、そして人骨らしき物が散乱していた。

KGB博物館の見学を終えて、さあ今度は明るい観光だ!と思っていたら急に空が暗くなって雨が降り出してしまった。仕方がないので遅めの昼食にしたのだが全然止む様子が無いのでしばらく雨宿りしてから宿に帰ることにした。まあ最近移動ばっかりだったからたまにはゆっくり休めと言うことなのだろう。
 

 
KGBの拷問室
手前の扉のようなクッションが全面に張ってある
 


8月12日 湖に浮かぶ城(ヴィルニウス〜トラカイ〜ヴィルニウス)

今日も朝から晴れたり曇ったりのぱっとしない天気だ。とはいうものの最悪明日一日中雨と言うことも考えられるので郊外の見所のトラカイ城へ行くことにした。

路線バスでまたまたバスターミナル。着いたときには気づかなかったのだが、ここのバスターミナルは2階が大きなスーパーになっている。これはすごい!普通東欧だとこう言うところは小さな商店が無数にあってしかも同じ物を売っているのだが。遠足用のおやつを仕入れてバスに乗り込む。

今日のバスはトルコのドルムシュと同じ大きさのバンだった。少し走るともう郊外といった感じで緑が増えてくる。そういえば最近針葉樹の比率が多くなってきたような木がする。30分ほど走るとバンは湖のそばの小さなバスターミナルで停まった。

大きな二つの池に囲まれた細い土地がずっと伸びている。細いとはいうもののまあそこそこの広さがあって幹線道路と家がまばらになっているのだが、湖と森に囲まれたこんな所に住めるなんてうらやましい。道をまっすぐ進んでいくと湖に浮かぶ島が見えてきた。真ん中に赤煉瓦で出来たお城が見える。

天気はあいにくの曇りなのだが、たまに青空が見える。湖の畔で休憩してからお城に入ってみる事にした。城の内部は例によって博物館になっているのだが、やっぱり自分には博物館は似合わないようだ(笑)さらっと見てから中庭に座ってしばらくぼーっとする。城は本当にこじんまりとしたもので、修復前の写真はもう半分以上崩れていて、ほとんど新築に近いような感じに見える。

とはいうものの湖に浮かぶお城はなかなかいい感じで、城から出た後もしばらく城の回りを歩いたり、遠くからぼーっとながめたりして過ごした。

そうこうしているうちにおなかが空いてきたのでオープンカフェのような所に入って座っていたのだが、いつまで経っても注文を取りに来ない。他の白人の所には行くのだが僕の所には来ないのだ。何だか気分が悪くなってその場を後にした。そしてスタンドでホットドッグをぱくついてから街へ戻ることにした。

帰りのバスはもう熟睡。気が付いたら街に着いていたという感じで、そのままターミナルの二階で夕食の買い物をしてからインターネットカフェでHPの更新。そしてそのまま宿に戻ることにした。

宿に戻ると昨日のオーストラリア人が良い酒をゲットしたと言って薦めてくる。彼はその土地の酒とか食事を思いっきり楽しむタイプらしく、地元の情報誌(英語)を読みながらアプリコットやチェリーのウォッカを探していたらしい。味の方はなかなかいい感じだったのだが、後で紅茶を飲んでいる時に「これを入れると美味しいよ」と注いでくれたのだが、酔っていたのかめちゃくちゃな量を入れられてその後のお茶は強いカクテルのようだった。やりすぎだってば。ほんとに。
 

 
トラカイの湖に浮かぶお城
 


8月13日 おバカな奴ら(ヴィルニウス)

バルト3国の治安はおおむね良いらしいのだが、ここリトアニアは何故か国粋主義者(平たく言うとネオナチ)が多いらしい。愛国心が人々をそう言う方に走らせるのだろうか?いずれにしろあまり頭がいいとは言えない事はたしかだ。

そして今までは話に聞いているだけだったのだが、今朝出かけるときにいきなり丸刈りの歯抜けの30代ぐらいの奴に道をふさがれて腕を捕まれてしまった。歯抜けに金歯と、アメリカ映画なら女の人にちょっかいをだしてヒーローにぼこぼこにされるような正に悪役&頭悪そうな奴だった。

横にもう一人いたので、反対の腕で絡めて腕を引き抜いて小走りで走るともう追っては来なかった。やれやれ。他にも街を歩いている時に近くにいた日本人が通りがかりに3人ぐらいの頭の悪そうな10代の若者にこづかれたりしていた。「おまえら調子こいてたら、世界三大バカリストにくわえるぞ!」と心の中で叫びつつ、もう相手にしないことにした。アホは言っても分からないからアホなのだ。
 
街を歩いていても何となく攻撃はしてこないものの、そう言う感じを受けることがある。言われてみれば昨日のカフェでもあからさまに無視されていたのかもしれない。何だか観光気分も失せてきたのでそのまま昨日のインターネットカフェへ行ってもらったメールの返事を一気に送信してきた。

そういえば、メールが一通来ていて、遊び人だった後輩が遂に婚約したとかで驚いてしまった。遂に年貢を納めたとは。あと夏の吹奏楽コンクールの結果も届いていて、我が楽団は相変わらず真ん中ぐらいだったらしいのだが、去年と比べると技術的な指摘が減っていて、毎年着実に進歩しているようでうれしかった。

カフェから出てもまだ早い時間だったので、気分を切り替えて旧市街を歩いて回ることにした。旧市街はパステルカラーの家々や教会、そして石畳。日本から誰かを連れてきたらきっと感動するに違いないのだが、僕に取ってはもう見なれた風景で、さらっと流すことにした。

それよりも興味深かったのは国会議事堂で、ソ連軍が侵攻してきたときに人々が盾になって国会を守ったときのバリケードが残っている。そしてその前には死者を弔う十字架が建てられ、未だにいくつかの花が供えられていた。その愛国心が何だか今若者を中心に変な方向へ行ってるような気がするのがちょっと残念かもしれない。



8月14日 十字架がいっぱい(ヴィルニウス〜シャウレイ〜リガ)

何だかやっぱり人の多いところは変な奴らが多いわけで、ヴィルニウスを後にすることにした。色々考えてみたのだが、やはり海沿いは今日本で言うとお盆休みと言ったところか、何処も超満員らしいのでおとなしく次の国ラトビアへ抜けることにした。

せっかく昼に移動するならどっか途中で一カ所寄り道しようと思い、候補に挙がったのが「十字架の丘」で有名なシャウレイ。昨日のうちにバスの時間も調べていたのだが、何故か時計が1時間狂っていてターミナルに着いたときは既にバスは行ってしまったあとだった。まったく間抜けなのだが、たぶん時差の調整を2回やってしまったのだろう(笑)

次のバスは3時間語なのだが、ここで機転をきかせて駅へ行ってみると、なんと10分後にシャウレイ行きの列車があるというので早速切符を買ってホームへと向かった。

ここで驚いたのは、列車のドアが全ての車両1つしかあいておらずに、各車両の車掌がそれぞれの扉の前で待機しているという、昔懐かしいソ連、中国スタイルなのだ。思わずうれしくなってしまったのだが、対応の方は愛想もよくフレンドリーで、スタイル以外は完全に西側化しているようだった。

列車は時には草原の中を、時には白樺の林の中を縫って走っていく。ぼーっと窓を見ていると何だか無性に「白樺チョコ」の事をを思い出してしまった。いくつか駅に停まったあと、何だかここのような気がして、隣のおばさんに「シャウレイ?」と聞くと「ダーダー」と言うので慌てて列車を飛び降りた。

そして列車を見送ったあと僕は唖然とした。駅名の表示がシャウレイとは似ても似つかないものだったのだ。「がーん、やられたー!」駅には時刻表も案内所らしきところも無くて、全く状況がつかめない。一瞬途方に暮れたのだが、駅名だけ違うなんて事もあるかもしれないと少し落ち着いて回りを見回してみると、ポスターのアドレスにシャウレイと書いてある。やれやれ当たらずしも遠からずという感じのようだ。

それにしてもバスターミナルというか、街の中心はいったいどこにあるのだろう?人口第4の都市にしてはしょぼすぎる。思い出したようにヴィルニウスのYHAで会った日本人にもらったロンプラのちぎったのを取り出してみると、、、地図が無い、、、使えん、、、 とにかく「駅はバス停の東にある」とだけ書いてあったのでその通り西へ行ってみることにした。迷ったかな?と思った頃に小さなバスターミナルが僕の目の前に現れた。

ここから十字架の丘まで10キロほどらしく、どうやら路線バスが有るらしいので荷物を預けて時間までカフェでピザをぱくついた。そして時間が来てバスに揺られて無数の十字架が有るという丘を目指す。そして僕は見晴らす限りの草原の三差路でバスを降ろされた。「何処じゃここはー?」何だかとんでも無いことになったような気がするのだが、回りを見ると道路標識があって何だかリトアニアで「十字架の丘はこっちに2キロだよん」と書いているような気がしたので分岐している道にそって歩き出した。2キロと言うのがロンプラの少ない情報とも合致していたのでたぶん大丈夫だろう。

僕が歩いている間もどんどん車が追い抜いていく。こんな田舎の何もない道では考えられないほどの交通量なので、たぶんこの先で間違いないのだろう。巨大な農地のしきりっぽい街路樹の脇を歩いていると時折木漏れ日がまぶしい。そして何やら先に小さく茶色い棒がたくさん建った小さな丘の様な物が見えてきた。「おおあれか!」

そして近づいてみるとそれは無数の十字架が丘を埋めつくしているのがはっきり分かる。結局20分程かかってやっとこさ丘の前までたどり着いた。それにしてもものすごい数だ。何でもこれはソ連占領時代にシベリアに送られた人達のことを忍んで誰かが建て始めたらしいのだが、いつの間にかこんなものすごい数になってしまったらしい。

当然ソ連当局は何度も丘を焼き払ったりしたのだが、そのたびにまた一から誰かが立て始めるという、ここはいわばソ連に対する抵抗の証、民族運動の精神的よりどころだったのだろう。今日もたくさんの人々が手作りや売られている十字架をもって訪れていた。

小さいのは手のひらぐらいから、大きいのはトラックでないと運べないような物まである。丘の上にはキリストとマリアの像があって、上までのぼってみると一層十字架の数が尋常じゃ無いことがわかる。この十字架は今なお増殖中みたいなので、10年後が楽しみだ。次の移動の事もあるので、近くの教会と修道院を駆け足で回って、もとの三差路まで歩いて戻ることにした。

車があまり通らないようなバス停でバスを待つのは何だか楽しい。三差路までは結構な車が来るのでヒッチも出来そうだったのだが、何となく天気も良かったので20分程待ってバスに乗った。そして乗り継ぎもうまく行ってリガ行きのバスを無事つかまえる事ができたのだが、このバスがとんでもないオンボロバスだった。こんなにボロいのはインド以来かも知れない。中は何故かロシア人が多くて家財道具も含めて超満員だった。

国境の検問所でバスを降りたときに気が付いたのだが、このバスはどうやらカリーニングラード(ロシアの飛び地)からやって来た物らしく、ナンバーにロシア国旗がついていた。通りでボロくてロシア人だらけなはずだ。国境では大した問題もなく、リトアニア側はパスポートをちらっと見るだけ、ラトビア側は全員のパスポートが回収されてしまったのだが、トイレに行ってしばらくするとスタンプが押されて戻ってきた。

リガに近づいてくるにつれて、道も広くなってきて家もまばらに現れてくる。陽はどんどん傾いてリガのターミナルに着いた時はもう夕暮れだった。ちょっと宿探し厳しいかな?と思ったのだがまさにその通りになってしまった。

最初に「隊長」に教えてもらった旧市街のど真ん中にあるサーカス団の寮へ行ってみたのだが、既に満員で泊まれなかった。仕方が無いので今度は夏の間YHAになっているというラトビア大学の寮に向かうのだがこっちもダメ。仕方がないので最後の手段で、駅前にある共産時代の遺物っぽい際物ホテルに行くことにした。タダでさえ今日は疲れているのに重い荷物を背負って歩き回るのは本当に気が滅入る。唯一救いだったのは信号待ちの時に隣にいたおばあさんが「ヤポンスキーかい?遠いところからよく来たねえ」みたいな感じで笑いかけてくれた事だった。

そして怪しげな階段を上ってレセプションへ。ここも部屋はあるにはあるのだが、何とトリプルルームしかなく、これだと17ドルほどしてしまう。途方に暮れていると都合良く二人の白人がバックパックを背負って階段を上ってきた。1+2=3。おお!渡りに船とばかりにどちらから言い出したという訳でもなく何となく部屋をシェアする事になった。二人はフィンランド人できっと大学生のホリデーか何かだと思うのだが、まあYHAのドミに泊まると思えば同じ事だし、こっちの方が少し安い計算になる。

宿は思っていた程ひどい物ではなく、部屋は広大でベッドが3つと補助ベッドが2つぽつんと置かれていた。シャワーは有料なのが少し驚いたのだが、一回80円ほどで溢れんばかりのお湯が出たのでよしとしよう。さすがに疲れていたのかシャワーを浴びて洗濯するとすぐに眠ってしまった。
 

 
十字架の丘のほんの一部
 

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