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マリ編
(ディボリ〜サン)
 


12月20日 普通列車で行こう(カイ〜バマコ)

例のバッシェはたくさんの人が駅に行くのにも関わらず、駅から3キロも離れた「一応ターミナル」で止まった。そしてたくさんのタクシーが「トレンステーション?」と集まってくる。要はグルなのだ。

僕は道中一緒だったマリ人の留学生ララのおかげですぐにタクシーを見つける事ができたが、たった3キロの距離を一人500CFAも取られてしまった。法外な値段なのだが談合してるので交渉は無駄だし、今から歩いたりして列車に乗り遅れるとすべてが台無しだから仕方がなかった。

駅について著しく態度の悪い駅員からチケットを買った。出来たら1等に乗りたかったのだが言葉が通じないので出てきた2等のキップをもって列車に向かったのだ。後からララに聞いたら1等は既に売り切れで、2等でさえ指定された座席はほぼ列車の端で、あと10分遅れていたら席無しだったかも知れない。本当に滑り込みだ。

元はと言えば週2本しかない国際列車を運休するというのがいけないのだが、幸いここからは一日1往復バマコ行きが出ている。と言うのもこの区間は道らしい道がほとんど無くて、すべての輸送を鉄道に頼っているからだ。「とりわけマリ国鉄の2等車は悲惨だ」と何かのガイドブックで読んだことがあるが、一晩中しびれた足で飛び跳ねながらここまで来た僕にとっては、それは極上のベッドだった。

発車するとホッとして一瞬で眠り込んでしまった。そして目が覚めて又眠る。よく考えてみれば、昨日のジャンピングバッシェの中でさえ、最後の1時間ぐらいは寝ていた様な気がする。アフリカは人間をたくましくするのかもしれない。午後からも相変わらず寝たりおきたりを繰り返していたが、この列車駅に着いたときに売り子が群がってくるのが結構楽しい。

僕のお目当てはビサップと呼ばれるハイビスカスのジュースだ。ここアフリカでは人々の「冷やすこと」に対する情熱というのは凄い。カフェなんかでは必ず冷えたジュースが出てくるし、もし冷えたのが無ければ「こんなのしかないんだけど?」とわざわざ持ってきて触らせてくれる。そしてこのビサップはビニール袋に半分凍らせて売りに来るのだが、それが電気の通ってないような村の駅でもちゃんと凍って出てくる。一袋たったの50CFA。10円ほどだ。僕は駅に着く度に窓の隙間からちぎれる程手を伸ばして売り子たちからジュースを買うのだった。

セネガルからの国際列車はダイヤ通りに走ることは絶対に無くて通常バマコには夜の10時以降に着くらしいのだが、この列車は毎日の住民の足だけあって、何とか夕方の7時頃にはバマコの駅にたどり着いた。バマコの駅はスリ、ひったくりの類がかなり多いらしく、僕はララの荷物を運ぶのを手伝いながら緊張気味に駅を出た。

いつもならここで宿探しなのだが、今日はつてがあった。なんでも「夕子」の友人の両親がここバマコにいるというのだ。夕子は国際交流ボランティアに参加していて、そのリーダーが何とマリ人で「マリに行くなら是非両親を訪ねると良い」という有りがたい申し出があったのだ。

とは言う物のフランス語以外は通じそうに無いし、いきなり行くのも驚かれそうなので、ララに頼んで電話でいきさつを説明してもらうと「全然問題無いからいらっしゃい」という暖かい返事だった。タクシーだと2500CFA($3.5)とかなり高い様な気もしたが、とにかく疲労困憊で場所もわからなかったのでタクシーで行くことにした。

結局これは大正解で、運転手は値段こそとるが、あちこち住民に聞きまくって家を探してくれて、僕は無事ウスビー家で42時間ぶりに落ち着くことができた。ああ、とにかく疲れた。。。
 

 
列車がやってくると
この通り大騒ぎ
 


12月21日 喧噪の首都(バマコ)

昨日の夜は久しぶりにゆっくりとした。突然夜に訪ねてきた泥だらけの汚い日本人に驚くこともなく、ウスビー一家のパパとママは本当暖かく向かえてくれた。おなかがぺこぺこだったのでご飯を少し頂いてから、蚊帳付きの寝室に通されてその後はもう泥のように眠った。

一夜明けて思ったのだが、どうやらこのウスビー一家はマリでもかなり上流階級のようだ。家族だと思っていた子供とおばさんはどうやらこの家の使用人らしく、言われてみれば家の中も日本の我が家なみに綺麗だし自家用車もある。息子のサコは京都大学で先生をしていると言うし、まあなるほど納得という気はする。

朝は使用人のおばさんが、ミルクたっぷりのカフェオレと美味しいフランスパンを出してくれた。パンは何も付けなくてもカフェオレの甘さだけで充分味わえる。木に囲まれた涼しいテラスで食べる朝食は最高だった。本当はこのままゴロゴロしていたかったのだが、旅の鉄則「時間がかかることから取りかかる」に従って一番にブルキナファソ大使館へ向かうことにした。

タクシーで行けばいいものを、相変わらずローカル交通手段を使う。西アフリカは車を持ってる者はみんな殿様商売で、特に貧しい国へ行けば行くほど料金が上がるという傾向があるので、これからはいくら日本人でも公共交通機関(といっても結局は運転手の私的商売機関なのだが)を乗りこなさなければいけない。

まず最初は昨日列車で付いたバマコの中心部なのだが、とりあえず南から走ってくる緑色のトラックがたくさんあったので、一台つかまえて乗ってみる。運賃はたったの125CFA。ちょっと不安だったのだが予想通り市内の中心部へと到着した。昨日の1/20の値段だ。

それにしてもバマコの喧噪はすさまじい。とにかく首都の繁華街が2km四方ぐらいの中に詰め込まれていて、道路も裏路地のような細い道路しかないのに何千台もの車があちこちから集まってくるので道路は常に渋滞。そしてサハラ横断のフランス人達が売りつけた旧式のポンコツ車ばかりなので排気ガスの汚染が半端じゃない。これは時間帯を限ればネパールのカトマンズよりもひどい。

そして車がそれだけ来るもんだから人もものすごくて、とにかくマーケットなんて正月の境内よりもひどいありさまで、活気があっていいのだが、町を楽しむというにはあまりにも窮屈過ぎるような気がした。

そんな喧噪を横切って、今度はクリコロ通りと呼ばれる郊外へ向かう道で再び車を拾う。大使館は「ヒポドローム」と呼ばれる競馬場の近くにあるらしいので、とりあえず「ヒポドローム」と言って車を探すがみんなクビを横に振って「エクスプレス」という。なんだ?特急だから止まらないって事か?

何台か断られたあと、一台の車が「エクスプレス」と行って乗せてくれた。やがて「ここだ」と言われた所で降りると「エクスプレス」という名前のカフェがあった。なるほどこれの事だったのか。どうやらヒポドロームは幹線から少し奥まった所に有るし広域の地名にもなっているのでそれじゃわからなかったのだろう。

さっそく大使館を探すのだが、目印にしていたスイス大使館が目立ちにくく建っていたので見過ごしてしまい、結局迷って1000CFA払ってタクシーに乗ることになってしまった。このタクシーも値段はダカールと比べるとかなり高いのだが、いちいち通行人に聞いて大使館の入り口まで来てくれたのでまあよしとしよう。

大使館に入ると、ここもモーリタニアのマリ大使館同様女の係員で、やっぱりぶっきらぼうなのだが親切だった。申請書を書き上げてお金を払うと2時に受け取りに来るように言われた。僕が申請している間に一人の日本人がやって来たので軽く挨拶すると、なんでも彼はダカールで取ったビザの入国日が少し先に指定されていて、変更をするためにやって来たらしい。

係員は「ノープロブレムだ」と言うことなのだが彼も引き下がらず、あちこちに電話してもらった結果どうやら本当に変更は出来ないらしい。彼は一風変わった感じの人だったのだが、トンブクトゥから帰ってきたばかりらしく、いろいろな情報が聞けて良かった。

回りをぶらついて2時頃大使館に戻ると結局30分ほど待ってビザを受け取った。窓口の若い男の係員がチップを要求してきた。ま、いいかと思って200CFAほど渡そうとすると「そっちの500の札」とか言うので結局一銭もあげずに大使館を後にした。きみ欲張りすぎ。

バマコの街に戻るともう昼下がりになっていて、マーケットとカセドラルをちょっと見てから旅行会社に寄ってみた。トンブクトゥ行きのフライトの確認をするためだ。所がエールマリは直接会社に確認しないといつ飛ぶかわからないとかで、結局明日オフィスが開くまでわからないらしく、そのかわりにここからの航空運賃をいくつかたずねてみると、やはりナイロビまではダカールと同じく$700近くした。参考までにカイロまでのチケットだとエアモロッコで$550と予想外に安かった。意外と西アフリカも思っていた程高くはないようだ。

帰りはワゴンがどれも満員で止まってくれずに時間を食ってしまったが、少し戻ってターミナルへ行くとすぐに乗れた。夕暮れに染まるニジェール川を渡るとそこから先は景色も単調なので窓から見える景色に全神経集中して記憶をたよりに何とかウスビー家の近くで降りる事ができた。

今日の夕食はたっぷりのモツ煮込みだった。
 

 
バマコのマーケットの喧噪
 


12月22日 予定を立ててみる(バマコ)

今日は朝からいろいろと情報集めをしなければいけない。まず最初はここから移動するバスなのだが、いまいちバスターミナルが何処に有るかわからず、片言のフランス語を駆使してママに聞いてみるがいまいち場所がわからず、パパが車で送ってくれる事になったのだが、結局セグー行きならバスはたくさんあるらしく、チケットは当日に買うそうだ。

ターミナルでパパと別れて今度は乗り合いバスでまたまたバマコ市街へ向かう。まず最初に懸案のエールマリのオフィスへ行ってみたのだが全く英語が通じなかった。結局わかった情報は以前週三便あったフライトも今はたったの1便に縮小していると言うことぐらいだ。週一便だと上手く組み合わせないとトンブクトゥに何日も足止めを食うことになってしまいかねない。これは念入りに計画を建てる必用がありそうだ。

次に向かったのは観光省なのだが、いわゆる窓口のようなものは無くて敷地内でうろうろしていると、英語を話す係員が自分のオフィスに連れていってくれていろいろとパンフレットをくれたりした。しかしここでも結局対した情報は入らず、ボートならモプティに着いてからオフィスで聞かないとわからないとの事だった。結局はすべてはモプティに着いてから計画するしかなさそうだ。

バマコ自体にはそんなに観光名所というのはないらしく、ただ混雑した街を歩き回るぐらいだった。それでも川原へ行くと「シノワ、シノワ(中国人)」と魚を干しているおばちゃんや子供達から声がかかる。「ノン ジャポネ」と答えると珍しいのか、みんな何だかうれしそうにほほえむ。

観光地という意味では街の中心にあるアートセンターと呼ばれる所へ行ってみた。要はここは雇用促進の為のお土産工房といったところで、たくさんの職人や見習いの子供が彫刻を彫ったり皮をなめしたりしている。工房のせいか売り込みもあまり激しくなくてなかなか楽しめた。

ただやはりマリは観光立国という事で、たまに英語をしゃべる怪しげな奴らが近づいてくる。「ドゴンへ行かないか?」とか「音楽に興味がないか?」とか英語をしゃべる時点でかなり怪しそうなのにくわえて、何故か日本語で書かれた紹介状みたいなのを持っている。頑丈にテープで補強された年季の入った紹介状を見せて「オレはガイドなんかじゃない、日本の友人から手紙が届いたんだが日本語がわからないから翻訳してくれ」と見せる。

まずそんな年季の入った手紙の内容をいまだに知らないのか?しかも、友人なら何故読めない日本語で送ってくるよ?と心の中で突っ込みながらちらりと見てみるが、やはりインドやその辺でも良くあるような「彼はいい人です」的な手紙だった。申し訳ないがガイドを雇う気はないし、雇ったとしてもここで雇えばガイドの交通費食費等無駄な出費がかさむので断るのだが、なかなかしつこい。何とかまいて立ち寄った食堂も実はこの手の輩のたまり場だった。やれやれ。

ミッションカトリックとシェ・ファンタというバマコの2大宿の近くなので仕方はないのだが、お土産売り、ハガキ売り、ドゴンのガイドなんかが飯を食べ終わるとかわるがわる話しかけてくるので面倒くさい。「たくさん日本人の友達がいる」とかなんとか。「それは名前を知ってるだけだろ?」とツッコミながらビールをくいっとあける。ここマリのカステルというビールは何処の店でもキンキンに冷えていてなかなか美味しい。

面倒な売り込みがウザかったのでさっさと店をでて歩いていると、なんとキャッシュカードの看板らしきものを見つけたのでながめていると一人の男が英語で話しかけてくる。「ハロー、これはマリ人専用のもので、インターナショナルのはあっちにある。君はVISAカードを持っているか?場所を教えてあげるから今から一緒に行こう」とかバカっぽい。

まず何でATMの看板の前で、こんなにタイミング良く偶然に、しかも英語を話せるマリ人が話しかけてくるよ?本当にマリはインドに負けないツッコミ王国かもしれない(笑)普通の人々はただ「サバ?(元気)」とにっこりほほえんで去っていくだけにこういう輩の存在が残念である。

結局大した情報は得られない一日だったが、帰りにふらっと寄ったAMEXの代理店で聞いてみると、パリならアルジェリア航空のチケットが$300程であるらしい。やはり南米へはヨーロッパから飛ぶのが濃厚になってきた。自分としては南アフリカ経由で行きたいのだがここまで値段が違うとつらい。これは更にギニア湾岸諸国で情報をあつめる事にする。

家に帰るとママが写真の整理をしていた。京都で働いている息子「サコ」の結婚写真や京都での色んな写真だった。僕は直接彼の事を知らないのが残念なのだが、完璧な関西弁を操る「ここが変だよ日本人」に登場しそうなキャラクターらしい。奥さんは日本人で、結婚式の衣装はマリの伝統衣装、和服と両方あって、羽織袴の黒人と言うのもなかなか似合うもんだと変に感心してしまった。

お礼に僕が持ち歩いている日本で取った自分の写っている写真を見せると大いにウケた。友達や後輩との記念写真ばかりで風景が写っていなくてつまらないかとも思ったのだが、僕が小学校4年生の時の写真がママにはなぜか大ウケだった。なかなか写真というのは良い小道具で、一気にうち解けてそのあとは通じないなりになんちゃってフランス語+ボディーランゲージで盛り上がった。

夕食はチキンで、今夜はパパの薦めでみんなと同じようにそのまま手で食べる事にした。アツアツのチキンを手でちぎりながらスープとかき混ぜて食べる。美味しいのだが指が熱さになれていないので少し大変だった。いつものように親戚や知人がたくさん集まっての賑やかな夕食だった。
 

 
パパ&ママと
 


12月23日 ニジェールの夕日(バマコ〜セグー)

いよいよパパ&ママともお別れだ。まだ一応ラマダン中なのか、日の出前にみんな起き出して僕が起きた頃には二人は再び眠りについていたようだ。しばらくすると使用人の少年が朝食の用意をしてくれて、そのうち二人も起きてきて、一緒に写真を撮ってからいよいよ出発だ。

バマコのバスターミナルはウスビー一家のあるソゴニコという地区の外れにあるのだが、ここは結構中心から離れている上に各バス会社が独自のターミナルを持っているらしい。とりあえず昨日しらべておいたSOMATRAという大手の会社を当たってみると、セグーへは一時間に一本の割合で出ていてすぐにチケットが手に入った。

バスターミナルでバスを待っているといきなりマリ人がやって来て「おまえの仲間がいるから来い」と手招きをされて行ってみると、何とターミナル内の写真現像屋さん(現代カラー)でアジア人の女の子が店番をしていた。韓国人だと思って、なんちゃって韓国語で話しかけてみると、返事は韓国語だったのだが何と彼女は中国人だという。

中国人なら手っ取り早いので筆談に切り替えていろいろと話をしてみると、彼女は中国の延辺出身の朝鮮族なのらしい。どおりで韓国語も達者なはずだった。なんと仕事の為に一人で中国からマリにやって来たらしいのだが、なかなか明るい女の子で一緒に働いているマリ人達とも上手くやっているようだった。

所でやってくるバスにチケットを見せてもみんなクビをふるので、おかしいなあと思っていたら、何と僕の前のバスは全部満席で、僕が買ったチケットは2時間程後に出る物らしい。まあこれは僕がフランス語を話さないのがいけないのだが、とりあえず急ぐ理由もなく、写真屋の女の子にもらった段ボールを店の前の地面に敷いて、どかっと座って待つことにした。

結局バスは12時ごろで、乗り込むとすぐに発車するのが救いなのだが、どうもこの路線は乗りたい人とバスの本数が釣り合ってないらしい。ともかくバスはメイン道路のラウンドアバウトをくるりと回ると結構なスピードで郊外へと走り抜けた。

バスは若干中型のバスで補助席が全部埋まっているものの、一応全員が座れるように配慮しているのはさすが人気ナンバーワンの会社だけの事はある。なんだかんだで4時間近くかかって夕方頃にようやくセグーの村に到着した。目星をつけていたホテルフランスという安宿にチェックインすると、とりあえず喉を潤してからそのまま直でニジェール川の川岸へ行ってみた。

感想は「でかい」そして「豊か」だ。川というのは大地に恵みをもたらす物なのだが、こういう乾燥地帯ではそれは一層大きな物となる。川が森を育て、物資を運び、そして魚もたくさんとれる。川岸では夕日をバックに男女かまわず裸で沐浴している姿や、荷物を山積みにして川を行き交う小さな船なんかが見える。高校の頃に読んだ「私のニジェール探検記」という本があったのだが、そのあこがれていた風景が今自分の目の前に広がっているかと思うと、少し興奮してしまった。

川岸でゆっくりしているとしばらくして足の不自由な手こぎ車の男が近寄ってきた。英語で色々話しかけてきて「1000フランくれ」とか言ってきたので断ると、いきなり「Fuck you!」ときた。思わず頭に血が登ってそのまま男を車ごと川に落としてやりたい気分だったが、こっちからも2〜3言い返すと少し気分も落ち着いた。

所がしばらくしてまたやってきて「さっきはすまなかった。やっぱり1000フランくれ」。うーん謎だ。もちろん上げるわけはないので再び「Fuck you」とか言いながら去っていくのだが、何だか表情が笑っているのでこっちもおかしくなって、お互い「Fuck you」「Go to hell」などと応酬しながらお互いいつの間にか大笑いしていた。なんなんだろうかこの男はまったく(笑)

あれもマリならこれもマリ。まだまだマリは奥が深そうだ。
 

 
ニジェール川に暮らす人達
セグーにて
 


12月24日 不思議な風景(セグー〜ジェンネ)

セグーは静かな町だった。一気に移動するのが少ししんどいので立ち寄ってみたのだが、まあその程度の町なので朝から一気に本当の目的地モプティまで移動することにした。

昨日の内にチケットを買っておいたのでターミナルに着いてさっそく目的のバスを探す。しばらく待って荷物の積み込みが始まったので荷物を渡すと当然のように荷物代を要求してくる。西アフリカではこのシステムは一般的で、これでターミナルの従業員の給料を捻出していたりするのであながち不当な物ではないのだが、外国人にはどうもふっかけてくる傾向がある。

そしてこのSOMATRAという会社は本によると荷物代を取らない事になっているのだが、バマコではあまりにも当然の様に要求してきたのでつい払ってしまった。しかし、ここでは回りが誰も払っていないし拒否するのだがしつこくつきまとってくる。しかも500CFAも要求してくるので近くのフランス人に聞いてみると、彼らはちゃんと給料をもらっていて、やっぱり荷物代はただらしい。この言葉のわかるフランス人からはだまし取ろうとしないという姿勢にやたらと腹が立ったので怒鳴りつけるとさっきの男は急に「わかったわかった」と何処かへ消えていった。

バスに乗ってからもこの珍しく英語を話すフランス人と少し会話をしたりしていたのだが、彼らはどうやらモプティの手前で降りてそこからタクシーをシェアしてジェンネに向かうというので僕も便乗する事にした。

ジェンネへの分岐でバスを降りると交差点には空の小型トラックが止まっていた。もちろん通常料金では車が一杯になるまではテコでも動かないので早速フランス人が交渉する。運転手の言い分はこのトラックは18人乗せるので、今すぐ出したければ18000フランだという。こっちは6人なのでそれだとひとり3000という事になる。わずか30キロの距離にしては結構いい値段だ。

結局ねばる事30分、15000フランで合意して出発した。運転手は最後まで荷物代とかほざいていたが、フランス人が強い調子で突っぱねていた。やはり言葉が通じるというのは心強い物だ。道は細いながらも舗装されていて、風景も川が近いせいか結構豊かに見える。しばらくすると本当に川にでて、フェリーに乗り込む。

このフェリーというのが結構な代物で、大きな鉄板にヤマハの船外機が着いているだけというようなもので、方向転換なんかは二人の男が巨大な竹の棒で突いて行うという人力フェリーだった。川幅は狭く5分程で渡ってしまうような距離なので連絡はスムーズだった。フェリーには車はもちろんバイク、人、そして何故かフェリーの上では地元民が民芸品を並べておみやげ物屋を開いていたりともう訳がわからない。

そして降りるときも僕たちのトラックはセルが壊れていてみんなで押してエンジンをかけるのだが、船は岸ぎりぎりまで行けずに車はしばらく浅瀬を走ることになる。しかも運転手は僕たちを置いてとっとと岸へ上がってしまったので僕たちは全員靴を脱いでじゃぶじゃぶ川を渡るハメになってしまった。

ジェンネの入り口には検問所があって、なぜかジェンネの町の入場料を取られてしまった。最近のマリの観光地ではこういう事がかなり流行っているらしい。そして料金を払ってゲートを抜けるとやっとこさ本で見たとおりのスーダン様式の大モスクが見えてきた。これはさすがにすごい!

着いたのが夕方だったので、まず宿を決めようとフランス人達の向かうロンプラ推薦のCHEZ BABAというレストラン兼宿に向かったのだが、あいにく部屋は満室だった。それは良いのだが主人は「ルーフならあるからとりあえずレストランに座れ」と薦めてくるのでしばらく待っていたのだが、通された場所は泥で出来た家の屋根の上で土の上にマットを敷いて寝るだけ。しかも蚊帳も無いどうしようも無い所だったのだが、それでも2250CFAも取るらしい。マラリア汚染地帯でとんでも無い話だ。

即その宿を後にして向かったCAMPMENTは意外にも親切な対応だったが値段は結構はった。ま、蚊帳無しの土の上の倍の値段で部屋に泊まれるなら悪くはないのでそのままチェックインした。今日ジェンネに来たのは実は理由があって、ここジェンネでは月曜日にさぞかし大きなマーケットが開かれるらしい。もちろん僕もそのマーケットが目的なのだが、普段のジェンネの姿も見てみたかったので早速夕暮れの村を散歩する事にした。

ジェンネも間違いなくマリ観光のハイライトなのでやはりいろんなのがいる。単に笑顔で「サバ?」と去っていく子供達やおじさんおばさんもいれば、「チュバブ カドゥー」(外国人金くれ)と群がってくる子供達もいる。そして面倒な押し売りガイドやドゴントレッキングの勧誘なんかも。あれもマリ、これもマリ。嫌なことほど目につくけど、やっぱり普通の人はみんなおだやかでいい笑顔をしている。

モスクから離れるに従って観光客目当ての人達は減ってきて笑顔の交流が増える。中でもひとりの漁師のおじさんが取ってきたばかりの魚を僕にみせて「ワシは漁師で、あんなボートを使って漁をしてるんだ。わっはっはー」と笑う。僕も知っている限りのフランス語を並べてみるのだが、もって勉強していたらと悔やまれる。

夜はあえてさっきの白人たまり場レストランは避けて地元のぶっかけ屋台へ行ってみたのだが、やはり行商人向けなのか食べきれないほどの量で、値段も少し高めだった。味の方は、、、ごめんなさいと言った感じで、どうもセネガルから来るとマリの食事はちょっと貧相に感じてしまった。
 

 
ジェンネの夕焼け
 


12月25日 朝市(ジェンネ〜モプティ)

朝焼けのモスクを見ようと思って早起きをした。外に出るとまだ空気はひんやりとしていて、人影もまばらだった。モスクには朝日があたり始めて良い色になっている。ジェンネの朝市というぐらいだからもっと早朝から始まるのだと思っていたのだが、意外とスロースタートのようだ。

宿に帰って朝食を取ってから再びモスクを訪れてみると、ものすごい人々が行き交っている。所狭しとみんなが店を出すものだから、通り抜けるのも大変だった。 品物自体は観光客がみてどうという物はあまり無く、中国製の電気製品や毛布、衣類等が並んでいたりするのだが、魚の干物やその場で牛一頭解体して肉屋をひらいている様子はなかなか雰囲気があった良かった。

一通りマーケットを見終わってから荷物をまとめてモプティに向かう事にした。ブッシュタクシー乗り場に着くとそこそこ人で詰まったトラックが停まっていたのでさっさとチケットを買って乗り込んだ。やはり外国人からは何が何でも荷物代500フラン取らないと気が済まないらしく、払う以外に方法はなかった。

ラッキーにもブッシュタクシーは程なく動けない程ぎゅうぎゅう詰めになって出発した。同乗のフランス人は3時間待っていたらしく、そして地元民の青年は6時間らしい。今日は何となくついているのかもしれない。見覚えの有る道を今度は逆に走っていく。トラックの荷台に木の長椅子が置いてあるだけなので風がものすごくて思わず顔を伏せてしまう。

途中やはり一度壊れたりしたのだが、それでも何とか3時間半でモプティの町にたどり着いた。途中メイン道路からモプティへ曲がるセバレという町で、最高に頭の悪そうな15〜6の子供たちが「ドゴンのガイドだ」と群がってきたのにはげんなりしてしまった。日本語で書かれた紙を見せてくるのだが「コイツは最低だから絶対に雇わないように」と書いてあって笑ってしまった。

モプティでもやはり時間がかかることから片づける。最初にリュックを背負ったままエールマリとCMN(ニジェール川客船)のオフィスを訪ねる。タイムテーブルをチェックするのだが、エールマリは係員がいなくてわからず、CMNの方はスケジュールはわかったのだが、何と祭の関係で今週は日程がずれるらしく、船で往復するとトンブクトゥが5泊になってしまう。スケジュールも流動的みたいだった。

飛行機については旅行代理店でも聞いてみたのだが、今は飛行機が故障していて国内線のフライトは無いとかいう恐ろしい情報をゲットしてしまった。真偽の程はわからないのだがこれでトンブクトゥはかなり難しくなりそうだ。だめもとで明日もう一度エールマリのオフィスを訪ねてみるしかないだろう。

宿は2軒ある安宿のうちの結局安い方のバル・マリという所に泊まる事にした。バル・マリは典型的な飲み屋兼売春宿で、一階はいかにも場末の怪しげな雰囲気だ。2階も少し引いてしまいそうなのだが、ツーリストは一番奥のテラスのある一角に集められているようで、そのあたりはそうでもなかった。

それにしてもモプティは何処を歩いていっても、ボートとドゴンで嫌になってしまう。一軒の安レストランを見つけてぶっかけ飯を食べてご機嫌だったのだが、やはり入れ替わり立ち替わり人がやって来て「ドゴン・ドゴン」だ。そこまで言われると何だか行きたくなくなってくるから不思議だ。うーんこれからどうしよう?
 

 
月曜市でにぎわう
ジェンネの大モスク
 


12月26日 黄金の都(モプティ)

朝一番で宿をチェックアウトした。エールマリがあるならそのまま予約を入れるし、無ければもうあきらめてそのままドゴントレッキングの基地バンジャガラへ向かうつもりだったからだ。そしてそのまままっすぐエールマリオフィスに向かうと、下っ端の少し頼りない係員が出てきた。今日は彼しかいないようなので聞いてみると、とにかくフライトは有るのだそうだ。

年内は28日と30日、年明けにもちゃんとフライトはあるらしい。これならトンブクトゥも1泊か3泊という選択肢が出来るので現実的だ。さっそく28日のチケットを買おうと思ったのだが、なんとここのオフィスではチケットは変えなくて、予約を入れておくから当日の朝空港で買うように言われた。しかも予約と言っても係員の小さなスケジュール帳に名前と連絡先を書くだけで、ものすごく不安だ。

マリ最大の航空会社がこんなんでいいのだろうか?とりあえず不安なので「連絡しないのか?」と聞いてみるのだが、必用無いの一点張りで、心配なら明日の朝もう一度確認に来るという事で決着した。なんだかものすごく不安だがこれで「幻の黄金の都」へ行けるのかと思うと何だかうれしくなる。

とりあえずその足で宿に戻って再びチェックインして、午後からはぶらぶらとモプティの町を歩き回った。町の中心地は観光客相手の奴らでうるさいのだが、バル・マリのある下町まで来るとほとんどそう言うのは無くなる。途中に小さなスーダン風のモスクがあるのだが、こっちはジェンネとはちがって形だけで実はコンクリートで作られていた。サバ、サバ言いながら町をあるいて、子供からカチカチに凍ったビサップを買う。そして昼飯を食べてまたまたぶらぶらする。

夜になって気が付いたのだが、今日聞いた飛行機の値段が何だかかなり高い。聞くところによるとエールマリは国営だったのが最近株式を売買して民営化されたらしいのだが、それに伴ってかなりの値上げをしたらしい。持ち金は足りるのだがこれはかなり財政を圧迫してしまう事になりそうだ。

なにせここマリは両替事情が最悪で、US$さえ出来ないことがあるらしい。そして出来てもレートはとてつもなく悪いのだそうだ。だからセネガルでこれから使う分のセーファーフランをかなり作ってきたのだが、これは予定外の出費だった。何だかトンブクトゥはおいといて先にドゴンの方へ行った方がいいのかな?とか昼間の意気込みも何だか覚めてきてしまった。

とりあえずエールマリもバンジャガラ行きの乗り場も同じ場所にあるので、明日の朝の気分で決めることにする。



12月27日 ラマダン終了(モプティ〜セバレ)

とりあえずどうしようか迷いながらも宿をチェックアウトして外に出てびっくり。何と宿の前の大きなサッカー場は言うに及ばず、そこへとつながっている道路の上すべてに人々がゴザを敷いて座っている。なんでもラマダン明けのお祭りなのらしい。

中東では広場やモスクに集う様子は良く見ていたが、ブラックアフリカに入ってからやたらとこの道路を全部塞いで行うお祈りが目に付く。セネガルでも人々がモスクではなく路上で同じ方向を向かってお祈りをしている風景をよく見かけた。習慣なのかもしれないが、イスラム教徒以外にとっては迷惑以外の何者でもない。宿のおやじにも「ノールート」とか言われるがそんなバカな話はないので、失礼の無いように草履を脱いで強行突破する。

幸い出足がよかったのか、致命的な状況になる前になんとかその一角から脱出する事が出来て、なんとかエールマリのオフィスまでたどり着くことができた。気分はもうトンブクトゥから少し遠ざかってバンジャガラ行きに傾いていたのだが、何と今日はお祭りだからバンジャガラ行きのトラックは出ないらしい。なんてこったい。とりあえずエールマリオフィスで予約の状況を聞くと、昨日の係員とはちがう白人が出てきた。

相変わらず英語はあまり通じないのだが、どうやらここのシェフ(チーフ)らしくなかなかしっかりしている。色々話をしていると、彼はレバノン人でもうずっとここで働いているらしい。昨日の予約は全く問題ないとの事なので、急遽トンブクトゥ行きを強硬する事にして、宿も空港に近いセバレに移す事にした。

オフィスから出るとものすごい勢いで、ボートやドゴンの売り込みがくる。この前「トンブクトゥ行きの飛行機なんて無い」とか嘘を言っていた奴もぬけぬけとやってきてアレやこれや薦めてくる。それにしても腹が立つのは、こういう奴らがお互い結託して情報を回しあいしていて日本人が何処に泊まっているとか、何処へ行くらしいとかいう情報を交換していることだ。そして更にむかつくのは、一つを断ると、同じ奴が「なら、トンブクトゥはどうだ?ボート?四駆を手配するぞ?オレの友人の店を見に来ないか?バスのチケット?オレにまかせろ」とか様は素人があれこれ掛け持ちしているだけなのだ。

あまりにもウザイので、なかなか美味しいと評判のパン屋さん「ル・ドゴン」で早めの昼食にすることにした。しかしここでカフェオレを飲んでいてもポストカード売りやなんやらかんやらが代わる代わるやってくる。一応店側との紳士協定なのか、一度断るとそれ以上しつこくは薦めてこないのがせめてもの救いだった。

昼過ぎに例の18人乗りのピックアップでセバレへ向かう。セバレは救いようの無いアホな自称ガイドがたむろしているのが欠点なのだが、綺麗で安い宿がたくさんあって、以外とこちらに泊まってモプティへ往復する人が多いらしい。そして僕の見つけたOASYSという宿も噂通り綺麗で値段も合格だった。

明日は8時に空港へ行かなくてはいけないのだが、今は航空会社からの送迎はやっていないらしく、タクシーが唯一の交通手段らしい。しかしセバレからだと空港は3キロ程なので歩いて行くことができる。試しに夕方頃下見を兼ねて散歩に出かけることにした。

町の外れで道をそれて、赤土の未舗装路をどんどん進んでいくと彼方に滑走路が見えてくる。更に近づくと管制塔はなく、ほったて小屋が一つ建っている。本当にあんな所でチケットが買えるのだろうか?空港にたどり着くと技師が測量器を使って何やらデータを取っている。少し英語が話せるらしく「明日トンブクトゥへ行きたいんだけどチケットは何処で買えるの?」と聞いてみるのだが、結局よくわからないらしい。大丈夫なのか?

来た道を戻ると子供が何人かついてくる。その中の二人は英語を習っているらしく、簡単な事をしゃべる。将来のガイド候補と言ったところだろうか?みんな僕の後ろを着いてくるだけで楽しいらしい。やっぱりこんな所を徒歩で歩いている外国人なんてあまりいないのかもしれない。

夕暮れの町に帰ってきたら、祭りの影響か安いめし屋が全滅で結局探し回ったあげく宿で食べるしかなかった。どうも今回のアフリカはラマダーンに振り回されてばかりだ。宿のレストランで自転車で旅しているというイギリス人と一緒になった。その後3人組のアフリカで働いているというオランダ人。そして同じくナイジェリアで教師をしているというフランス人とどんどん英語人口が増えてきて、久しぶりに英語でいろいろと込み入った話が出来てなかなか楽しい夕食だった。



12月28日 飛行機は来なかった(セバレ〜バンジャガラ)

朝起きたら昨日のイギリス人が何やらもめていた。何でも今すぐ出発したいのに、宿のお釣りがないらしい。まったくここはインドか?それにしても料金設定が一室7500フランや6000フランなのに、何でお釣りを用意してないんだろう?マリに入ってから結構そんなことにうんざりさせられる。僕はというと結局昨日の宿と食事の合計分の札をかき集めて、端数は切り捨てさせてとっとと空港へ向かって出発した。

空港に着くとイギリス人の3人組が飛行機を待っていた。彼らは短期で来ていてトンブクトゥへ行くのだが、飛行機があまりにも信用出来ない(このときは僕は何も知らなかった)ので横に四輪駆動車を待たせてあるらしい。つまり何があっても今日中にトンブクトゥへ行こうというわけだ。

僕はというと全く人気の無い空港や、航空電波標識、管制用のアンテナとうの設備に無邪気にときめいていた。所が時間になっても飛行機がやってこないので「おかしいなあ?」と思っていたのだが、フランス語を話すさっきのイギリス人が尋ねてみると何と飛行機はまだバマコにいて、フライトに関しては何も情報が入ってこないらしい。ここでイギリス人達は飛行機をあきらめて四駆で出発していった。

僕は相変わらず係員が「もう少し待て」というので呑気にのどかな風景をながめながらぼーっとしていた。遠くからむせんで「バマコ、バマコ!」と呼びかける声が聞こえるのだが、応答は無いらしい。そのうち係員が空港ロビー(笑)を開けて中にはいるように薦めてくれた。コンクリート打ちっ放しの建物に椅子が並べてあってその上に寝ころんでうとうとしていると今度はフランス人カップルがやって来た。やはりトンブクトゥへ行きたいらしい。

珍しく英語をしゃべるフランス人達と無駄話をしたり、寝たりしている間にさらに1時間程がたって、結局係員がやってきて「トゥデーノーフライト」なんじゃそりゃ!何でも「バマコに電話したら今日は飛ばないんだって」という事だった。エールマリと言えばマリのフラッグシップじゃないのか?うーん、ミニバス会社以下だぞ。ひょっとしたらバマコの空港で延々客引きをやったが人があつまらなかったのか?何だか本当に有りそうで怖い。

幻の都は幻のままの方がいいのかもしれない。妙に納得して僕はその足で第二候補のバンジャガラへ向かった。少しでもましなガイドを見つけるためだ。しかしこれまたブッシュタクシーが満車になるのを待っている間中、知能レベルの低い自称ガイド達に囲まれるのだ。とにかく相手したくないので自分は英語をしゃべれないことにして、返事は全部日本語でする事にした。

そのうちバンジャガラへ向かうというドイツ人、ノルウェー人の二人組がやって来てしゃべっていると、さっきのガキ達が戻ってきてわざとガイド同士英語で「オラオラ、この日本人ふざけやがってよ、英語しゃべれないフリしてやがったんだよ」みたいなことを言って再び去っていった。全員顔が悪人である。そう。黒人というのは顔を見るだけでかなりの確率で善人なのか悪人なのか予測できるかも。これがインド人と白人だと善人そうな奴にころっと騙される事もあってなかなかむずかしいのだ。

やっとの事で車は超満員になって、整地された未舗装路をバンジャガラへ向かってひた走っていると、壊れた(笑)これでマリに入ってから自分が乗った車が壊れるのは3回目だ。ま、今回は30分程で治ったのでこれはまだ壊れた内に入らないのかもしれない。

バンジャガラでもやはりガイドの売り込みは結構激しいのだが、こっちはまだまだおだやかで最初の言い値も結構良心的だ。ただ自分で行こうとすると「前に外国人がドゴンの聖地に間違って入って大問題になった」とか「個人で行くと入村料がめちゃくちゃ高く4000CFAも払わないといけない(ロンプラによると500CFA)」とか申し合わせたように言うのは何とかして欲しい。

まあトンブクトゥに行けなくなったて予算もだいぶ余裕が出来たので、一人雇うことにした。全部こみこみで結局三泊四日で45000CFA。高いのか安いのかは知らないが、ジェンネであった日本人のおじさんは13万CFAも払ったというのできっとぼられているのだろう。

かくして幻の都ツアーはドゴントレッキングに取って代わられた。
 

 
国内第二の都市(?)の
モプティ空港
 


12月29日 苦難のトレッキング(バンジャガラ〜カニコンボレ)

朝起きたら調子が悪かった。「これはやばいかな?」と思いつつももう前金を払っているので今更やめるわけにも行かずとっとと準備をして出かける。これがつらいトレッキングの始まりだった。

車がやってくると、いきなり「ガイドの友人」という二人と相乗りさせられることになって不信感が高まる。ま、場所は少し余っていたので実害はないのだが。そして車は1時間かからずに最初のギキボンボという村に到着した。時計はまだ10時前で、今日は夕方までここで過ごしてから崖の下のカニコンボレという町まで歩くらしい。

とりあえず村の長老の家に案内されるのだが、この村は典型的なアフリカの村で、何ら特徴も無くドゴンと言われなければわからないほどの所で、長時間いるのにはとても暇な所だった。やっぱり全行程2泊でまわるんだったと少し後悔するのだが、結果的に最後はこれに救われることになる。

昼ごろに「スパゲッティドゴン風」とか言うのをガイドが料理してくれるのだが、タマネギとトマトにサツマイモが入っていて味のほうはもう一つだったうえに、これが僕の胃にとどめを刺してしまったらしい。何故か急に予定を変更して一番暑い午後1時に出発したのもいけなかったのだろう。

バンジャガラの断崖とよばれる東西120キロに及ぶ崖を下るとすぐにカニコンボレの町に到着した。カニコンボレもこれ又見所の無い村で、今日一日は全く興味がわかない一日だった。宿もちゃんとした宿があるようなのに、ガイドのソリーはコストを下げるためか知人だという村の長老の家に向かう。そこには旅行者向けの部屋がいくつかあって、白人が何人かもう既に泊まっていた。

僕はというと村を回ったりするのだが、やはりあまり見所が無いのと体調が悪いのでさっさと床を整えて眠ることにした。熱をはかると37度と少しあった。しかしこれはこんなもんでは到底おさまらなかったのだ。



12月30日 ついに寝込む(カニコンボレ〜エンデ)

朝食はカフェオレとドゴン風の揚げパンだった。昨日のドゴン料理はお世辞にも美味しいとは言えず、久しぶりの洋食に僕は思わず調子にのって油っこいパンを山ほど食べてしまった。

午前中の移動はたったの3キロ、しかも朝9時前には出るので10時前には次の村テリーに到着していた。健康なときなら全く物足りない日程なのだが僕の体はこのころにはもう悲鳴を上げていた。テリーの村はおそらくこのコースのハイライトで、村のすぐ上にある断崖には今は誰も住んでいないものの斜面にはたくさんのドゴンの家が所狭しと建てられている。これはさすがに見応えがある。

熱はあるものの時間もたっぷりあるので午前中はひたすら宿でゆっくりして体調を整えて、昼から村の子供に案内されて崖に登ってみた。おおむねここバンジャガラ断崖の歴史は次の様な感じだ。

ここバンジャガラ断崖の下は以前はすべてが森に覆われていて、断崖には食物を加工する文化を持たなくて木の実のみを食べるピグミーが住んでいた。やがてそこにドゴンがやって来て、同じように斜面に村を作った。最初は共存していた両者だが、ドゴンが工芸用や薪のためにどんどん木を切ったりするのでそのうちピグミーとの間で争いが起こるようになった。結局ドゴンが下の森を切り森林が後退するとピグミーはそれを追って南下し、ドゴンは木が無くなった平地に降りて集落を作るようになった。ここテリーでは最後の一人は20年前に崖から降りたそうだ。

相変わらず下痢がひどいのだがそのまま押して昼下がりに出発した。ソリーの話では4キロというのだがとてもそんなもんではなかったような気がする。あるいはそれほど体力が落ちていたのか、今夜泊まるエンデの村に着いた時にはもう立っているのもやっとで、そのまますぐに床に倒れ込んでしまった。

昼間は無理して昼食を少し食べたのだがこれがさらにいけなかったらしく、もう夕食は米一粒さえ食べれないほどだった。しばらくして熱を計ってみると38度を大きく越えていた。どうやら細菌性の下痢にやられたらしい。嘔吐は無いのが救いなのだが、これはもうここまで1年以上封印していた抗生物質を使うしかない。ドゴンの村には医療は無いし、車道もない。バンジャガラまでは自力で帰るしかないのだ。

僕はアフリカの果ての文明から置いて行かれた村で自分のひ弱さを痛感するのだった。
 

 
断崖に今も残る
ドゴンの集落あと
 


12月31日 パノラマ(エンデ〜ベニマトゥ)

朝起きると平熱は越えているもののだいぶ熱は下がっていた。さすが下痢系最強の抗生物質だけの事はある。もう一つぶ飲んで、今朝は2きれだけ朝食を食べる。

今日の予定は午前4キロ、午後4キロと楽な日程に救われる。それでも今日の中継地ヤバタルに着いた時にはもう息が上がっていた。着くと同時に竹のベッドに横たわる。熱は37度台で安定しているのでもう峠は越えたのだろう。

ここヤバタルの村はテリーと同じように断崖に少し家が残っているのだが、ここは村自体が緩い斜面の上にあって他の村に比べるとなかなか面白かった。とはいうものの近年その緩斜面からもどんどん下の平地に移り住んでいるらしいのだが。

この辺りまで来ると頻繁にドゴンの挨拶を聞くようになった。これはなかなか面白くて「ウ セオ?(あなた元気?)」と聞かれて「セオ(元気)」と答えるのだが、その次は家族や両親、子供について延々と繰り返されるのだ。

「ウ セオ?」「セオ」「ディ セオ?(お父さんは?)」「セオ」「ナ セオ?(お母さんは?」「セオ」「ギネ セオ?(家族は?)」「セオ」「ウルモ セオ?(子供は?)」「セオ」これをお互いやるもんだから、いつまで経っても挨拶がおわらない。

面白いのは集団と個人が出会った時で、「セオ?」と聞かれて全員が「セオ!」と返すので、まるで運動部か何かのランニング風景のようで笑ってしまった。彼らは外国人には普通フランス語で「サバ?」と挨拶してくれるのだが、僕は調子にのって「ウ セオ?」とドゴン語で挨拶してみた。その後が続かないのだが、今度は逆に返ってきた。「ウ セオ?」「セオ」「ギネ セオ?」「セオ」「ジャポネ セオ?」「セオ」 うん、きっと日本人は全部元気だ(笑)

昼食は要らないといってもソリーが「たくさん食べないと歩けないぞ」と皿に山盛りにするのだがさすがにスプーン4杯ぐらいしか食べられなかった。それでも昨日に比べると大した進歩なので、この分だと明日までには回復しそうだ。

午後は涼しくなるまで休んで一気に300mの断崖を登る予定だったのだが、ソリーがたまたま同じ方向に向かうロバ車を見つけたので暑いうちに断崖の下までそれに乗って出発する事になった。これは助かった。ここが今回で一番きつい行程なのだが、のんびりとロバ車に揺られて、結局僕は最後の3キロ程の崖を時間をかけて登っていけばいいだけだった。

どんどん登るにしたがってパノラマが開けてくる。振り返ると何処までも延々と断崖が続いている。よく考えるとこの地形だけでも大した物で十分観光資源になりそうだ。更に登っていくといよいよベニマトゥの村に到着した。

さすがにすべてが登りだったために息があがってしまって、しばらくへたりこんだが、しばらくすると断崖を吹き上がってくる風が冷たくて気持ちいい。体調も抗生物質が効いてきたのかほぼ問題ないぐらいに回復してきた。村自体はメインの道路からそんなに離れていないために意外と開けていて大したことはないのだが、やはり地形がすごいので村の回りの高台に登ったりして景色を楽しんだ。昔はこのがけの下すべてが密林だったというからそれはすごい景色だっただろう。

今日泊まったところは珍しくモスリムではなくキリスト教徒の集落だった。村の少年が話しかけてくるのだが、なんでもドゥールの学校では英語も教えているそうだ。そしてどんどんガイドが増えていくのだろう。

夜に何やらソリーが村の青年と大喧嘩していた。どうやらお金の事でもめているようだった。やっとのことで収まったのだが、彼は一人で家族を支えているらしく、言われてみればあれだけのお金をとっているくせに質素な服装をしているし、リュックも肩紐が切れたのを何度も修理してある。他のガイドが金のネックレスや時計をじゃらじゃらさせているのとは対照的だった。

彼が言うには、上にも何人か兄弟があったが、故郷を捨てて出ていったり、偶然ドイツ人と結婚することができてドイツへ渡ったままもうここ5年間一切便りをよこさないのだと怒りを露わにしていた。この「いち抜けた」というのはアフリカ人気質らしく、故郷へ帰って自分の学んだことを生かしたり、自分の国に投資したりという事をする人が極端に少ないらしい。

僕にはこの大陸の末端に暮らす人々がほんの少しでも豊かになるように祈る事しか出来ないのだった。
 

 
ベニマトゥから見下ろす遥か続くサバンナ
昔はすべてが密林だった。
 


 1月1日 幸せはどこに?(ベニマトゥ〜バンジャガラ)

あけましておめでとうございます。と言うわけで年が明けた。これで3年連続正月を海外で過ごしている。夕べも何かというと日本での正月の事を想い出してしまった。クリスマス、忘年会、初詣、新年会に御用始め。食生活が貧弱な為日本食の思い出が頭を駆けめぐる(笑)

夕べは夜中に何度か目が覚めてトイレへいったら、それは見事な星空だった。灯りが全くないというのはこういう事なのだろう。天の川やいくつもの流れ星を見ながら「今年も一年良い年になりますように」と思うのだった。

朝になるともう普通に朝食が食べられるようになっていた。とはいえまだまだ油断は禁物で少し控えめに食べて村を後にする。相変わらずがけの上や谷を歩いていくので景色が変化に富んでいて楽しい。途中何やら狩人の格好をした人達とすれ違ったのだが、何でも通常夏にやる仮面の祭りが今日ベニマトゥであるのらしい。もちろん観光客をターゲットにしているわけで、ツーリストは結構なお金を払わないといけない。

ここドゴンは「壮大な神話世界と文化をもつ人々が欧米人の偏見に衝撃を与えた事で有名になった」らしいのだが、こういう精霊信仰は日本人の僕にはなじみが深い物で、今回のトレッキングでは崖にへばりついた家以外は特にあまり日本人にはインパクトの有る物では無いのかもしれない。そんなことを考えているうちに2時間程で道路がつながっているドゥールの町にたどり着いた。

ソリーが「オレの親友の家に招待する」というので行ってみたら、ガラの悪そうな成金ファッションの20台の青年の経営するおみやげ物やに通された。まあソリーも色々村とのしがらみがあるので仕方ないだろうとは思うのだが、僕はここでセバレの超ウザイクソガイド達と再会してしまった。

そして事もあろうに、そいつらは「この日本人は英語をしゃべれないフリをしたり、延々無視をしてやがったんだ」と言うような事を言いながら「Hey mem!」等とふざけた口をきいてくる。急激に僕の機嫌が急激に悪くなっていくのを感じたソリーは一人の子供に僕をカンプマンまで案内するように指示して「車が来たら迎えにいくから」と僕を送り出した。

結局ソリーの手違いで車は相乗りになってしまった。最初から狙っていたんじゃ無いかと勘ぐってしまうのだが、彼は少しでも僕が快適なようにと屋根の上に乗ったりと最大限に気をつかっていたのできっと僕の思い過ごしだろう。相乗りになった相手は珍しくブラジル人のカップルだった。両方とも流暢な英語を話すのですぐにうちとけて、この後の予定を話すと「是非ブラジルで再会しましょう」とアドレスをくれた。

ところでこの車自体は悪くはないのだが、運転していた15〜6の少年の運転が究極にヘタでどうしようもない。途中でエンストしたりして、最後には町の入り口で石に乗り上げてタイヤが完全にパンクしてしまった。町の入り口だったのがせめてもの救いでそのまま宿に帰って久しぶりにベッドの上に横たわった。

市場で買ったマンゴーを川原で食べたり、冷蔵庫で冷えたコーラとかに感動したりしながら自分はつくづく文明に毒されてるなあと思わず笑ってしまった。そのまま散歩していると一人の女の子がついてくる。別にお金を要求するわけではなく、単に興味があるらしい。片言のフランス語で何とか意志疎通をはかる。女の子の名前はアイサ。「バンジャガラはどう?」と聞くと「うん、大好き」と笑顔で答えた。

あれもマリ、これもマリ。体調のせいもあって落ち込んでいた僕は少し元気になった。
 

 
アイサと通りがかりの少年
 


1月2日 不運な男(バンジャガラ〜モプティ)

ああ、どうして僕の乗る車はこういつも壊れるのだろう?朝少し遅めにブッシュタクシー乗り場へ行ったら見事に誰もいなかった。あらら、、、これはもう一日コースか?と思っていたのだが、ラッキーにも後から人がきて、1時間半ほど待つだけで車が出ることになった。

この車は普通の四駆でたったの12人(アフリカではかなり少ない)しか乗らないしサスペンションもよく効いてていて「今日の移動は楽だなあ」と思っていたら甘かった。1時間程して車は故障して停まってしまったのだ。なにやらドライブシャフトのあたりからオイルを抜いている。こりゃだめだ。

木の陰で休んでいるとへんてこな英語を話す夫婦と一緒になった。フランス語にしか聞こえないのだが良く聞いていると英語の単語が時々聞き取れる。「これが噂に聞く世界最低のリベリア英語か?」と思って聞いてみたら彼らはなんとナイジェリアから来ているそうだ。よくよく聞いてみると聞き取れなくもない。ナイジェリアは母国語が英語なのだが、かの国ではみんながみんなこんな英語をしゃべっているのかと思うと驚きだ。

夫の方は普通の英語もしゃべるみたいなんで色々な話をして時間をつぶした。やがて2時間程して車は何とか治ったのだが、結局たったお60キロの距離に4時間半。待ち時間を入れると6時間もかかってしまった。本当に西アフリカの移動は予定が立たない。途中日本の団体っぽいワゴンを見かけた。正月だからそう言うツアーも人が集まるのかもしれないが、こんな国のツアーを扱う旅行会社は気が気じゃないだろうと思う。

さてモプティなのだが、さすがに客引き達にも顔がわれてきたのか、徐々に「こいつはだめだ」と声をかけてくる奴らが減ってきて歩きやすい。宿はバル・マリは遠慮して少し値段ははるのだが、Baffaroという一泊$10ほどの所に泊まることにした。朝食もついているらしい。

この後も激しい移動が待っているのでとりあえずここで完全に体調を整えておかないといけない。ここで2〜3日ゆっくりと休養を取るべきかもしれない。



1月3日 休憩1(モプティ)

本当に休養を取ることにした。朝から付いている朝食を食べてそしてまたたまっている日記を書いたり部屋でゴロゴロしたり。一応セバレにブルキナ行きのバスの情報収集をしに行ったのだが、そこで出会った「アクラル」という男によると、セバレからちゃんとしたバスがボボデュラッソまで出ているという。とりあえず時間だけ確認しておいた。

相変わらずこの季節にも関わらずモプティは暑いので、少し出歩いては休んでを繰り返していると次第に夕方になった。まだ下痢が少し続いていたので夕食は軽くパンだけで済ませることにした。もう一泊ぐらい休んだ方がいいのかもしれない。



1月4日 休憩2(モプティ)

今日はジャストリラックスの一日。最初邪険にしていた自称ガイドたちとも何度か顔を合わしているうちにうち解けてくる。セバレの奴らはどうしようも無いが、中には「コイツはだめだ」とわかっていてもフレンドリーな奴らもたくさんいる。

モプティへ帰ってきていらい「ル・ドゴン」というパン屋にはまっている。値段はそこそこだが、ここでは最高に美味しいパンが食べられてとてもくつろげる。これまでのマリが「ビサップがあるから移動がつらくてもがんばれる」だったのだが、ここのパンも移動の疲れをいやしてくれる。おかげで体調ももう少しで完全に戻りそうだ。

アクラルの話によると、ここから先は快適らしいのだが、まだまだマリの事なので何が有るかはわからない。何も無いことを祈るばかりだ。


1月5日 最後の最低移動(モプティ〜サン)
 
朝一番にブッシュタクシーに揺られてセバレまでバスのチケットを買いに行った。所がアクラルの姿はなく、替わりにナイキのベレー帽子をかぶった一目で人の悪そうな成金っぽいオヤジにつかまった。その辺の奴に聞いたらバスはワゴンしかないというので警戒心が走る。

オヤジは大きな快適バスだと言い張る。しかし他に選択の余地はなく、そのチケットを買おうとすると、何だか普通の紙に適当に行き先を書いて渡された。そしてチャチな聞いたことも無い会社のハンコが押してある。一瞬やめようかとも思ったのだが結局この怪しげなチケットを買ってしまった。集合は16時半らしい。

12時まで宿でゴロゴロしてからまたまた「ル・ドゴン」で時間つぶしをした。そして16時には乗り場に着いていたのだが「座れ」と言われて延々待たされるだけだった。来るバス来るバス全部違うという。段々悪い予感がしてきた。

そして日も完全に暮れた夜9時に突然回りで客引きをしていた今朝のガラの悪い男が僕一人だけを呼んで「バスが来た」と車まで連れていった。悪い予想は的中して、そこには座席を4人掛けに改造したギュウギュウ詰めのワゴンが停まっていた。「ハイハイ もう勝手にして下さい」僕はもうマリのこの手の奴らにはもう腹が立つよりも情けない気持ちでいっぱいだった。しかも件の男はさらに僕に荷物代1000フランを払うように要求してきた。

西アフリカのこの手の奴らは上手い制度をつくったものだ。これだと運賃は決まっていても荷物の正規料金なんて物は存在しないので何とでも言える。男はバス会社とは関係なく、客引きのコミッションと荷物代で生きている寄生虫野郎だったのだ。呆れながらくしゃくしゃに丸めた1000フラン札を渡すと男はさっさとどっかへ消えた。

所がこのワゴンがなかなか出発しなくて、さらに1時間以上客集めをしてからようやく出発した。それにしてもあちこち停まる。やっとの事でサンまでたどり着いたと思ったら今度は運転手が「寝る」と言い出してどこかへ行ってしまい、ギュウギュウ詰めの車内にいるわけにも行かず、僕は寒空の中野宿する羽目になってしまった。

唯一の救いは、夜中にふらっとやって来た地元の人が、カフェオレとパンをおごってくれた事だった。タダでさえ外国人の少ないこの町でしかも野宿とよっぽど哀れに見えたのだろうか?寒空のなか、このコップに半分ぐらい練乳というカフェオレの甘さと暖かさが僕の疲れた体を癒してくれた。


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