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モーリタニア砂漠編
(砂漠の国境〜ロッソ)
 


12月9日 サハラ越え(モロッコ軍ミリタリーポスト〜サハラのどっか)

寒さに震えながら夜が明けて再び朝がやってきた。9時過ぎにモロッコの軍のオフィサーが黒いゴミ袋一杯に入ったパスポートを配ってコンボイはここで解散となった。

10時前に出発して、モロッコ側の国境で最終チェックを受けるといよいよ地雷だらけの国境地帯へとさしかかる。この区間はと所々両脇に石が積んであってそれを1cmでもはみ出すと命の補償は無いらしい。アルジェリアルートが通行不可能になってから一気にこのルートを取る人が増えたようだが、最初の頃は結構な人が命を落としたらしい。去年も二人亡くなったそうなのだが、逆に先人達が道路沿いの地雷を踏み尽くしたのか最近はあまり死ぬ人はいないらしい。

昨日までの道は程度は悪い物の完全なアスファルトだったのだが、今日はもう砂と瓦礫で車は飛んだり跳ねたりと大騒ぎだった。そしてしばらく行くとモーリタニア側のアーミーのチェックがあった。そしてそのチェックを終えて小さな丘を越えるとバラック小屋で入国審査。以前までは後日ヌアジブのイミグレーションに出頭してもらっていたのだが、最近は国境でやるようになったらしい。

国境審査を待っていると何処からともなくビニール袋に外国製タバコを入れた男が売りに来る。これも一種のデューティーフリーショップなのだろうか?(笑)というよりも、何処から現れたのか、どうやってこんな所にやって来たのか凄く謎である。

その後はガイドを雇って数台で助け合いながら町をめざす。最初ジョゼはヌアジブへ向かうと言っていたのだが、急に予定を変えて、道を外れて悪路を通って一気にヌアクショットへ抜けるルートを取ることにしたようだ。なんでもヌアジブを通るとまたtaxがかかったり面倒らしい。同乗していたフランス人二人組は他のライトバンを見つけてそっちへ乗り換えていった。僕はというともう着いて行くしか無いので今夜ベッドで寝れないのはつらいが、そのまま一緒にヌアクショットまで行くことにした。
 
僕たち5台はガイドと共に道路をはずれ道無き道を行く。ある時は崖を駆け下りて、ある時は砂でスタックして、時々見かける轍の跡だけが他にもこのルートを通る者が居ることを物語っている。しばらくすると汽笛が聞こえてきて突然貨物列車が現れた。これはモーリタニアの天然資源の鉄鉱石を内陸から港まで運ぶものらしく、内地とヌアジブを結ぶ唯一の交通機関なのらしい。

しばらく線路沿いに走るとやがてそこは以前海であったかのような真っ平らな硬い砂地になって、一行は砂煙を上げながら今までの鬱憤を晴らすかのように80キロ近いスピードで走り抜けていった。やがて日暮れと同時に小さな茂みに到着してここで夜を明かすことになった。

例によってパンにツナと野菜だけという質素な食事をしてたら他の車のフランス人が炊き込みご飯のような料理を少しふるまってくれた。その後何とビールやらワインやらいろいろと出してくるものだから、途中からすっかりうち解けて、そのうち大宴会になってしまった。

僕達はフランス風イッキの歌を歌いながら、ウォッカやブランデーを次々とあけて、特に頭がちりちりのフランス人はかなりグロッキーになって、砂漠で吐いていた。僕も最後の方は少しだけ吐いてしまったが、たくさん飲んだおかげか車に戻った瞬間もう眠ってしまった。久しぶりの大宴会が砂漠とはなかなか乙なものだった。
 

 
道中砂漠の民に逢う
 


12月10日 ムーンライト(サハラのどっか〜マムガー〜ヌアクショット)

日の出と共に一行は準備を初めて8時頃にはもう出発していた。今日はいよいよサハラ後半。アルガン礁国立公園というガイド無しでは無事抜けられないような道無き道をひた走る。ガイドは一体どうやって道を覚えているのかよくわからないのだが、時々指を指して走る方向を指示する。

この頃からいわゆる砂の風紋をともなった砂丘がどんどん現れるようになってきた。そして一行は昼ごろに砂丘の麓にある一軒の家に到着した。どうやら途中で拾ったヒッチハイカー兼ガイドの家らしくここでお別れだ。彼はムーア人で砂漠の民のはずなのだが、数年前まで日本の会社の漁船で働いていたらしく、日本語の片言を話した。「太陽丸」など船の名前と知っている日本語をたくさん話してくれた。

本当に砂漠と一口に言っても景色は様々で丸一日も走るとゆっくりではあるがかなり変化があって退屈しない。時折ムーア人の飼っているラクダの群がステップに生えている草をぱくぱくと食べていた。車が近づくと50頭ほどの群が、体をそのままに顔だけ一斉にこっちに向けるので何だか笑ってしまった。

日が傾く頃に海の近くに出た。さすが国立公園と言うだけあってたくさんの鳥が見える。ここは何処までも遠浅になっていてペリカンやフラミンゴそしてシギ達の越冬地になっているらしい。そしてやがて初めての小さな村が見えてきて、たくさんの子供達が集まってくる。

最初は歓迎してくれているのかと思ったのだが、車から降りてみると全員が全員「カドゥー」(お土産、お金)といって群がってくる。この村はかなり貧しいのかみんな着ている物がボロボロで、しかもこんな所にたくさんの車売りヨーロッパ人が来る物だからこんなひどい有様なのだろう。

子供達だけではなく大人も大人で、何とかヨーロッパから品々を安く手に入れよう必死だ。ジョゼも根っからのビジネス男なのでその駆け引きはすさまじい。フランスのがらくた市で100円程で仕入れてきたガスコンロがここでは8千円近くで売れるんだと笑っていたが、何だか僕は素直にその話を笑うことが出来なかった。やっぱり彼とはビジネスだけの関係にとどめておくのが正解かもしれない。

他にもただ同然で手に入れたビデオデッキやストーブ、旧式の携帯電話なんかを売りさばいていた。そしてそんなことに時間をかけている物だから一行は「先で待っている」と出発していった。僕たちは少し遅れて集合場所で有るはずの砂浜へ向かったのだが一行の姿はもう無かった。替わりに他のフランス人グループが休憩を取っていたのでこれに合流する事になった。

ここから先は海岸を走っていくのが最も楽なルートらしいのだが、今日の引き潮は深夜なので、ここで1時まで待ってから一気にヌアクショットを目指すことになった。僕の乗ったマイクロバスは車内で眠れるのが最大の利点で、最初からビジネスで誘ってきた彼の誘いに乗った最大の理由でもある。ともかく車内は快適で次に起きたら丁度出発するところだった。

今日は満月なので月はほぼ真上でまぶしい程の光を放っている。そして月明かりに照らされた波打ち際を時にはしぶきを上げながら走っていく。時々岩があって避けなければいけないのだがあくまでも直線だ。時折砂でスタックした車をみんなで押したりしながら走ること3時間。いよいよ町の灯りが見えてきた。

最後に砂浜から陸に上がるときに何台もの車にくわえて自分たちのマイクロバスまでスタックしてしまって頭を抱えてしまったが、その辺に地元民のスタック脱出用の鉄板がころがっていたおかげで何とか脱出する事ができた。3日ぶりの舗装路に思わず感動していると、さらに「TOTAL」や「elf」と言ったヨーロッパ石油メーカーのぴかぴかのスタンドまで現れて、久しぶりの町に興奮してしまった。

結局一行は安宿へ向かったのだが、明け方だったためジョゼはお金を浮かす為に車内で寝るという事だったので、僕も朝まで車で時間をつぶしてから町の中心に向かうことにした。うとうとしていると東の空が明るくなってきてあちこちでアザーンが鳴り出した。

こうして僕は3日目の朝にして壮大なサハラヒッチの旅は幕を下ろしたのだった。
 

 
「太陽丸」の家
砂丘から砂が吹き付ける
 なぜこんな所に?
 


12月11日 本当のアフリカ(ヌアクショット)

朝起きてすぐに町の中心部に向かうことにした。まず午前中にマリ大使館へ行ってビザの申請をしないといけない。もちろんビザはダカールでも取れるんだけど、高い上に受け取りが2日後になるので、滞在費の高いダカールで日数をかけるのはつらい。とりあえずマルシェの近くの安宿に荷物を降ろしてその足で大使館へ向かった。

最初は楽勝でたどり着けるはずだったのだが、ロンプラの地図の場所から移転したらしく、その辺で大使館の警備をしている警官に片っ端から聞きまくってやっとの事でたどりついた時にはもう10時を回っていた。

大使館の係員はフランス語がメインで英語は少しだけという感じだった。もちろん申請書は全てフランス語。ただ無表情ながら係員が親切にいろいろと教えてくれたので程なく申請書を出し終わった。申請書には伸長、肌の色、目の色といった項目があって少し驚いた。受け取りは翌日と聞いていたのになんと午後1時にビザをもらえるらしい。

結構な距離を歩いてふらふらなのにくわえてラマダーンだ。ちょっと申し訳ないなと思いつつ近くの雑貨屋に入るとキンキンに冷えたコーラがあったので思わず買って建物の陰に隠れて一気に飲み干した。「ぷはーっ 生き返る!」ヌアクショットの町はラオスのビエンチャンよりも更に寂れていて、4車線道路でさえ砂漠から飛んできた砂が時折風に吹かれて流れていく。大使館は町の外れにあってしばらく歩いていると町のすぐ外に大きな砂丘がいくつも見えた。

コーラで少しエネルギー補給したのもの、歩いているとやはりきつく、乗り合いタクシーに乗ることにした。途中菊の御紋の入った建物を見つけて「おおっ」と思ったのだが、まだ完成していないらしく、きっと近々ヌアクショットにも日本大使館がオープンするのだろう。宿に戻ると久しぶりに体を洗ってベッドに横になった。やれやれ。

結局この日は疲れがたまっていて昼寝をしてから少しだけマーケットを見て夕食を食べたぐらいだった。電源の無い宿が続いたので久しぶりにたまっていた日記を書き上げてその後死んだように眠った。
 

 
首都ヌアクショットの大通り?
 


12月12日 休息(ヌアクショット)

本当は今日にもセネガルに出発する予定だったのだが、朝起きてみると体のあちこちが痛いし、ここ数日で胃腸も極限まで弱っていたのか、昨日の夜寝ていると何だか胃が気持ち悪くなって吐きそうになってしまった。どうせこのまま出発してもセネガルでの休息は必用そうだったので、物価の安いヌアクショットでもう一泊する事にした。

10時過ぎにやっと起きて外に出てみると、砂漠特有の乾いた熱気につつまれる。数日前まで寒かったのが嘘のようだ。早速マルシェに行ってみるとこれでもかと言うくらいカラフルに着飾った女の人達が所狭しと歩いている。アフリカの女の人は本当におしゃれだ。カラフルな絞り染めのワンピースに厚底のサンダルを何気なく合わせて、ロングヘアーを細かく編み込んでこれまたカラフルな布でぐるりと巻いている。

男はほとんどがムーア人独特の刺繍の入った青い民族衣装を来ているのだが、やはり中にはおしゃれ派もいて、ストリートファッションを着こなしている。

ヌアクショット自体は本当に見所というのは無いのかもしれない。マルシェのあと唯一の見所といわれる博物館に入ったのだが、先客は誰もいなくて、チケットもその辺に座っているおじさんが替わりに切ってくれたような感じだった。中に一人英語の話せる男の人がいて、見学順序なんかを教えてくれた。

町を歩いているとあちこちから「サバ?(元気?)と声がかかる。ヌアクショットは観光地じゃないからなのかみんなおだやかでいい感じの人達だ。覚えたばかりのフランス語を使ってみるとアッという間にフランス語でたたみかけられるのは困った物だが、それでも聞いていると何となく彼らの言いたいことがわかるよな気がした。来る前は「言葉もわからないのに一体どうなってしまうんだろう?」とかなり不安だったのだが、いざ来てみれば何とかなる物だ。

午後は涼しくなるのをまってもう一度マルシェを回ってから最近あちこちに出来始めたというインターネットカフェを訪れた。その店には10台程のマシンがあって、マシンもなかなか新しい物で1時間300ウギア($1.2)と値段もまあまあ。回線は速いとは言えないが、夕方になると一気に人が居なくなって、かなり快適なスピードになった。ラマダン万歳だ(笑)

夜は昨日とおなじ店でクスクスを食べた。素朴な味なのだが、上からかけるスープがこれ又日本人の口に合う。疲れた胃には穀物が一番だ。店から出るともうあたりは完全に真っ暗で、モーリタニア一の繁華街は人影も無く暗闇に溶けていた。
 

 
アフリカの着倒れ
ヌアクショットのマルシェにて
 


12月13日 川の澱み(ヌアクショット〜ロッソ〜サン・ルイ)

一気にセネガルを目指すことにした。朝少ししんどかったので出発を遅らせたのだがそれが仇となった。9時頃に宿を出て乗り合いバスでターミナルに着いたのが10時前。そしてやっとの事でサン・ルイ行きの乗り合いワゴンを見つけて乗り込んだのだが一向に出発する気配が無い。

車内はほぼ人で一杯なのに延々客引きをしている。そして30分経ち1時間経ち、それでも出発する気配はこれっぽっちも無く、2時間を過ぎた頃ようやくダラダラと準備を初めて出発したのは12時を回っていた。バスと行っても貨物ワゴンの後ろにベンチを置いただけで窮屈甚だしい。これがアフリカ式なのだろう。

ヌアクショットを出てからしばらくは真っ白の世界だった。砂漠から吹いてくる砂と風の為に全てが色を失って真っ白に見える。そしてやがて少しずつ緑が増えてきだす。低い木がまばらに現れた。延々と続く赤い砂の上にどんどん緑が増える。おして木の数もどんどん増えてバオバブの木も盛大に登場してきたかと思うと不意に湖や川が現れた。砂漠の国からどんどん草原の国へと景色が移り変わっていく。そして一人降り二人降り、ほぼ空になったワゴンがロッソのターミナルへ到着した。

早速ヤミ両替屋から声がかかる。ワゴンで一緒だったセネガルへ行くという地元民が一緒だったので安心して彼と同じように交換したのだが、後で考えてみるとかなりロクでもないレートだったようだ。古い情報だと国境はセネガル側がひどくてモーリタニア側はわりとまともという事なのだが、今では両方ともろくでもない奴らのたまり場で、まるでネパール・インドの国境を彷彿させるほどだった。

そしてやられてしまった。船乗り場への入り口は鉄の扉で覆われていて、パスポートを見せると開けてくれる仕組みになっているのだが、一人の男に「はい、パスポート、TAX、船代を払って」と言われて言われるままに300UGも払ってしまったのだ。

「旅行人アフリカノート」の情報だと荷物代込みで140UGと書いていたので「値上げしたのかな?」と思ったのだが、TAXの領収証はたったの50UGで、船も地元民はみんな50UGしか払っていなかった。ここで久しぶりに闘志がわき上がってきて、近くに居た職員も巻き込んで抗議するのだが「もうボートにお金を払ってしまったからお金はここにない」とかしらを切る。

もっともそんな抗議を聞くような奴ならこんな汚い商売はしていないのだ。アラビア語で罵声を浴びせると少しムッとしながらも一儲けした奴は去っていった。中東やヌアクショットの人々があまりにも正直だったので、すっかり「戦う心」を失っていた自分はあっさりと騙されてしまったのだ。ここからまた少し気持ちを入れ替えないといけない。

ボートがセネガルに着くと、早速たくさんの怪しげな奴らが寄ってくる。ぬけぬけと「パスポート」ときたもんだ。怒りが頂点に達していた僕は「ノー!!!!」と怒鳴りつけた。そして全ての奴らを完全に無視してイミグレーションオフィスの警官に今度は自分でパスポートを直接手渡した。ここの警官は英語も話せて終始おだやかでフレンドリーだった。よく考えてみるとモーリタニアはあんな奴らが国境地帯に出入り出来る事自体、役人もグルなのかもしれない。

イミグレーションを出るとまたまたロクでも無い奴らが寄ってくる。マネーチェンジ、ロッソ、その他諸々。中でも両替は最悪で$1=500CFAと全く話にならない。今のレートは大体730CFAぐらいなのだが、知らないと騙される所だ。全く相手にしないとわかると「ラストプライスだ」と言って600CFAを提示してきたが当然無視だ。

日も暮れかかって早くロッソへ向かいたかったので、人で一杯のミニバスに声をかけてみるとこれ又相場の2倍以上の値段を要求してくる。断ってもしつこくつきまとってくるのでそのまま振り切って、タクシーブルースと呼ばれる7人乗りのプジョーの乗用車に乗ることにした。1.5倍程の値段がする物の、これだと定員が7人で、スピードも100キロ近くで走るので時間も半分ですむ。

タクシーの中で座っているとさっきのモーリタニア人がやって来た。彼もお金をだまし取られたらしく、ロッソまで行くお金がないので何とか貸してくれないかとの事だったのだが、僕もタクシー代を払うともう500CFA程しか残らなく、とても人の心配が出来るほどじゃなかった。

タクシーブルースは猛スピードで夕暮れのサバンナをひた走る。サンルイに着いた時には日もどっぷりと暮れていた。長い橋を渡って島にたどり着くと英語で声がかかる。「オレの友達が宿をやっていて安いから見に来ないか?」僕は今日一日でかなりやられていたので警戒していた。結局ロンプラに乗っている安全そうな宿に泊まることにしたのだが、彼は文句も言わずに「もし安いところがよかったら声をかけてくれ」と去っていった。本当は良い奴だったのかもしれない。

朝からパン一つしか食べていない僕はのどもカラカラで、とりあえず雑貨屋で瓶のコーラを買ったのだが、これがまたギンギンに冷えていて、栓を抜いた瞬間凍ってシャーベット状になった。ぐぐっと飲むと眉間が痛くなる。「ぷはーっ 最高!」生き返った僕はそのままサンドイッチ屋でシャバルマを食べたのだが、これは中東と違って牛肉、唐辛子、香菜たっぷりで美味しかった。

ふう、やれやれ。やっぱりアフリカの移動は疲れるね。



 

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