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パキスタン風の谷編
(ラホール〜パスー)
 


5月12日 ぶっ飛び大移動(アムリトサル〜ラホール〜ラワールピンディ)

8時半に目がさめた。すこし寝坊気味で一瞬今日出発するかどうか迷ったのだが、もうインドは十分だし、どうせゆっくりするなら新しい国でするのもいい。そう思って急いでパッキングをして宿を飛び出した。

国境を越える日はいつもわくわくする。と同時にとても不安で「どうなってしまうんだろう」という感覚がつきまとう。そんな不思議な心境のままザックをかつぎバスターミナルを目指す。ここアムリトサルはシーク教徒の街なので、ヒンズーの街ほど人を騙したり、あくどい事をする人は少ないようで、ターミナルに着いてからも変なのはやってこず、みんな親切に目的のバス乗り場を教えてくれた。

バスに乗り込むともう蒸し風呂状態だった。とにかく我慢すること30分でバスは国境の村「ワガ」へ向けて出発した。国境までの道は何処までもまっすぐで永遠に続くんじゃないかと思うほどまっすぐだった。きっと何もないから曲がる必用は無いのだろう。

ワガについて下りようとすると運転手が「座っていろ」と手で止める。なんだか2キロ先の国境ゲートまで連れていってくれるらしい。リキシャ代が浮いたのもうれしいが、運転手の親切がうれしかった。

実はこの国境については他の旅行者から結構脅されていたのだ。インドではインドルピーの持ち出しが禁止されているので、それを逆手にのって旅行者の荷物を探しまくってルピーを没収するの熱心なのだそうだ。もちろん全てを自分のポケットに入れるために。そしてそれが次第にエスカレートしてきて出国にも関わらず外貨申告をしろとか持ち金を見せろとかいって、ドル札を抜き取ったりするらしい。そんなわけでかなりびびっていたのだ。当然国境の手前で全てパキスタンルピーに両替して置いたのは言うまでも無い。

国境は10時半に開くらしく何人かの旅行者が入り口で待っていた。日本人も一人いたので、一緒に行くことにした。一人よりも二人の方が心強い。しかし気合いを入れて飛び込んだイミグレは思いのほか親切で終始フレンドリーに進んで、税関の方も何と荷物を開ける事もしなかった。

(後で聞いたところによると、腐敗のひどさが上層部に伝わったらしく、職員の総入れ替えをしたそうだ。今は入国の帳簿に職員の印象、処理にかかった時間を記入する欄がもうけられていて全く大丈夫)

途中警察や軍隊の詰め所があって、いちいちチェックされるのだが、パスポートを見せるだけで処理はすぐに終わった。パキスタン側のイミグレーションでは「暑いだろう」となんとカウンターの内側に入らせてくれて扇風機をつけてくれた。なんだか自分のパスポートが処理されているのを後ろから見るのが変な感じがした。(笑)

国境を抜けるとこぎれいな大型バスが止まっていた。乗ろうとすると店屋の親父が「冷たい飲み物でも飲んでいかないか?」と声をかけてくる。しかしインドとはちがってしつこくなく対応もスマートだ。なにより驚いたのが、お釣りがすぐに出てくるのだ!インドでさんざん「ユーハブチェンジ?」攻撃にうんざりしていたので新鮮だった。

バスの時間が気になったが「5分後の発車で15分おきにやってくるから問題ない」という事なので椅子に座って少し休憩する事にした。 飲み物を飲んでいるとバスはすぐに行ってしまったが、おやじの言うとおり15分ほどすると別のバスがやってきた。インドと違って国境の人が嘘をつかないなんてなんだかすごいぞパキスタン!(笑)

バスの中は自分ともう一人の日本人、そしてギターをかかえたイギリス人「リチャード」の3人だった。バスはどうやらラホールまで乗り換え無しで直接行くらしく料金も安かった。国境沿いの街は少しインドの香りがしたやはりパキスタンで「スズキ」と呼ばれる乗り合い自動車(時にはバイク三輪)がたくさん走っていた。客車に「SUZUKI」とでかでかと書いているのに本体のバイクはヤマハ製だったりするのが結構笑える。1時間ほどすると辺りはだんだん賑わってきてラホールに到着した。

最初はラホールに一泊しようと思ったのだが、この町のホテルはインドよりも腐っているらしい。なぜだか知らないが、ほとんどが泥棒宿で、ひどいのになると麻薬や銃をかくして警官とグルで金を巻き上げるとかいう所もあるらしい。なぜラホールだけがそうなのか知らないのだが、とにかくこの町は通り過ぎた方が無難と言うことで、フライングコーチの乗り場まで乗せていってもらうことにした。

バスは終点のジェネラルバススタンドに到着するとすぐ前にたくさんのフライングコーチ(エアコン豪華バス)が停まっていた。結局リチャードもラホールの話は知っていたらしく一緒にラワールピンディまで行くことになった。バスの中にはも一人「ケンちゃん」という日本人が乗っていた。ケンちゃんは結構長くパキにいるらしく、いろいろと情報を教えてくれた。

しかし本当に驚いた。エアコンの効いた近代的なバスもさることながら、ラホールからラワールピンディまでの高速道路だ。片側3車線のうえ中央分離帯も路側帯もある。例えるならマレーシア並といった所だろうか?途中に立ち寄ったサービスエリアにはほぼ日本と同じレベルのレストランや売店があった。いたる所にDAEWOOの看板が出ていた所をみると高速道路も韓国資本で作られたのかもしれない。

途中雷雨になったりしたがバスはスピードを落とす事なく夕方の7時前にラワールピンディの街にたどり着いた。とはいうものの何処のバスターミナルに着いたのか全く分からず、同じバスだったパキスタン人に行き先を言うと一緒にスズキ(パキスタンの乗り合い軽トラ)を拾ってくれておまけに運賃までおごられてしまった。

彼はスズキの終点で別のタクシーを拾ってくれて、一行4人は無事人気の宿「ポピュラーイン」にたどり着く事ができた。この宿は親父の人柄もさることながら、5人ドミにトイレ、シャワーがついていて間取りもゆったりとしている。一階にはパブリックスペースのレストランがあって沈没宿の条件を完全に満たしている。

アムリトサルから一気に来て疲れがでたのかすぐに眠ってしまったのだが、この宿なら2〜3泊して疲れをとるのも良いかも知れないと思った。
 

 
ついに15カ国目の国境をくぐって
パキスタンまでやって来た!
 
おまけ・国境両替情報
インド側    100インドRs=110パキスタンRs
パキスタン側 100インドRs=120パキスタンRs
つまり一割損をしてしまったわけです。ちゃんちゃん
没収のリスクもあるが、パキ側まで持ち込めればこっちの方がレートは1割いいです。


5月13日 パキスタンの人々(ラワールピンディ)

早寝したので気持ちよく目がさめる。まず今日は両替に行かなければいけない。昨日集め情報によると差サダル地区にレートのいい両替屋があるらしい。おまけにいろいろな店やKFCもあるというのでサダルバザールへと向かう事にした。

外に出るとさっそくいろいろなパキスタン人が声をかけてくれる。インド違ってみんなスマートだ。2、3言葉を交わすと握手をして笑顔で去っていく。そんなのを数回繰り返しているうちにやられてしまった。ホモだ。パキスタンは世界有数のホモ大国らしい。もともとイスラム圏は未婚の女の人に手を出すと親に殺されても文句は言えないというような所も多いらしく、そう言う歪んだ欲求によって男に走るやつが多いらしい。全く迷惑な話だ。

大した被害では無かったのだが、去り際に思いっきり前を触られてしまった。まあインドの駅の宿泊所で全裸のインド人にシャワー室に押し込まれそうになったという日本人の話に比べると何でもないのだが、この辺りでは男でも襲われないように気を付けないといけないらしい。シャレになってないぞ。それにしてもせっかく伸ばしたヒゲの効果もあまり無いようだ、、、しくしく。

2キロほど歩くとサダル地区に到着した。最初に行ったのはアメリカンエクスプレス。世界中にオフィスがあって信用できるスタッフがいる。両替や航空券の手配も出来て至れり尽くせりだ。しかし何とここのオフィスはライセンスが停止されたらしく今は両替はやってないそうなでイスラマバードの支店に行ってくれと言われてしまった。

仕方がないのでもう少し歩いて両替屋が15件ほど入っているビルまで行って両替した。レートは4軒ほど回ると$1=53.7の所があった。これは銀行とかと比べるとかなり良いレートだ。とりあえず$100両替して大金を握りしめて向かう先は当然KFCだ(笑)。

久しぶりというほどでもなかったのだが、やはりここらの国を旅しているとファーストフードは嬉しい。毎日ッチャパティやカレーばっかりだとやはり滅入ってくるのだ。いつものチキンバーガーをコーラで一気に流し込む。

宿に帰るとデリーの大使館宛に送られてきた関西ウォーカーとホットドッグプレスを泊まっている日本人に回覧すると大いにウケた。そのうちリチャードも入ってきて、ホットドッグプレスを見ながら「どの子が一番カワイイか?」とかアホな話題で夜遅くまで盛り上がってしまった。

何だか久しぶりに泊まったドミトリーはクラブの合宿のようで楽しかった。
 

 
町の写真を撮っていると急におやじは
「オレを撮れ」とポーズをつけた。
 


5月14日 峠越え(ラワールピンディ〜ギルギット)

もう一泊するかどうか迷ったのだが、一気にギルギットを目指すことにした。理由はまず一つはここは暑すぎると言うこと。デリーほどではないのだがここピンディは湿気が多くて蒸し暑い。そしてもう一つはここピンディには全く見るものが無いのだ。まあパキスタンに入ったばかりなので、街歩き自体が十分観光ではあるのだ。

バスは数本あって、コースター(ワゴン)、デラックスバス、ACデラックスなど時間によって場所が違うのだが、夕方4時に出るというACデラックスに乗ることにした。実はこの区間のバスは時々強盗に襲われるというのだ。もちろん警察も警戒しているので良くはなっているのだが、出来るだけ安全な方法で通過したい。

ACデラックスならショットガンを持った警官が一人同乗するので安心な上に、警官が乗っているのでいちいちパスポートチェックもなく夜中に起こされる事もない。そんなわけでそのバスをゲットすべく、僕、ケンちゃん、リチャードは2時頃に宿をチェックアウトしてバスターミナルへ向かった。

さっそくオフィスへ行ってチケットを買うと何とパスポートの提示を求められた。変な乗客を乗せない為だろう。さすがに最高級バスなので安全にはかなり気を使っているようだ。410Rsも出すだけの事はある。

パキスタンは町中の人達はみんな親切で本当に安全なのだが、どうやら山間部などではまだまだ出るそうだ。どうやら長距離移動は列車を使うなりして安全を最優先させる必用がありそうだ。

バスの発車まで時間があったのでターミナルを散策していると警官に呼び止められた。と言っても何だかフレンドリーで単に興味があるだけらしい。しばらく話していると中に友達がいるんだと言って派出所に招待してくれた。中はファンが回っていてひんやりと涼しかった。中には一人の男が昼寝していたのだが、なんだか目つきが熱い、、、ちょっとやばいか?!そしてヒゲの無い僕のパスポートの写真を見て二人は言った「オー ビューティフル!」がーん、お前らもホモか!次の瞬間「友達が待っているから」とそそくさと署を後にしたのは言うまでも無い。まったくやれやれだ。

バスは4時ちょうどに出発した。しばらくはまっすぐの道を猛スピードで走っていくが、やがて4時間ほどすると山道にさしかかって急激にスピードが落ちた。なるほどこんな距離を16時間もかかるのが納得できる。

8時を過ぎておなかが空いてきた頃バスはど田舎のこぎれいなレストランで休憩をとった。カレーとナンでおなかいっぱい。満足満足と辺りを散歩していて気づいたのだが、何と女の人は一人も食事をせずに全員バスの中で座っている。近くにいた少年に聞いてみると「このレストランは男性用と女性用が別れていないので女の人は食事をする事が出来ないんだよ」という返事が返ってきて驚いた。町中ではそれほどイスラムの戒律と言うものを感じなかったのだがやはりこの辺は厳格に守られているらしい。

バスは再び夜道をぐねぐねと曲がりながら走り続けた。結構な揺れなのだがまだまだ疲れがたまっているらしく、結局熟睡してしまい次に目がさめたのは朝5時頃の休憩だった。なんだかリチャードは下痢が酷いらしく、ケンちゃんは一睡も出来なかったようだった。
 

 
NATCOのエアコンデラックスバス
外は立派だが中は普通のバスだった。
 


5月15日 風の谷にて(ギルギット〜フンザ)

明け方泊まった茶屋でチャイを2杯ほど飲むと一気に体が暖まった。しばらくすると明るくなって陽が昇ってきた。もうギルギットも近いらしく景色はどんどんすばらしくなっていった。

いくつもの峠を越え橋を渡り川沿いの道を昇っていく。川の水はメコンのように濁った灰色をしている。どうやらこの辺の山は微粒子の砂が多いらしい。途中驚く事あった。陽が昇ってから警官は安心したのか後ろの席に移って眠っていた。そして突然バスの助手があわてだして何やらショットガンを触っていたと思ったら急に「ドン」と発砲した。

彼が単に遊んでいて誤って撃ったのか、窓の外に何かを見たのかは定かではないが、警官があわてて起きてバスから飛び出す。回りを見るがどうやら何でも無かったようで、今度は自分の席でショットガンを持ったまま眠りについた。結局ギルギットには午前8時頃まったく定刻通りに到着した。

バスで会った日本人二人とリチャードはどうやらギルギットに一泊するらしくスズキをつかまえて去っていった。僕とケンちゃんは色々考えていると日が昇ってかなり暑くなってきたので一気にフンザを目指すことにした。

例によってうろうろしていると「何処へ行くんだ?」と地元の人が声をかけてくれる。結局乗り場まで案内してくれ、ワゴンに乗ってフンザへ一気に向かう事になった。ワゴンは3人掛けのシートに4人でかなり窮屈で腕がしびれておまけに椅子は半ケツ。その状態の3時間はかなりきつかったが、どんどんすばらしくなっていく景色が期待させる。

2時間半ほどでワゴンはフンザの中心地カリマバードに到着した。さっそく宿を探すのだが、情報ノートで見た「Hider Inn」と言うところへ行ってみるとこれが当たりで、新築のドミトリーからは真正面に雪をかぶった山と緑の谷が見える。そしてこのハイダー爺さんがめちゃくちゃいい味を出していてここが一気に気に入ってしまった。

この宿には多くの日本人と韓国人が泊まっていた。いろいろな人といろいろな話をしていると一気に時間が過ぎて夜はハイダー爺さんの手料理をみんなでいただいた。中にはアフガニスタンを一人で旅してきた韓国人の女の子とか自分と同じ様なルートで旅をしているたくさんの人達、そしてインド留学中で休みを利用してカイラスへ向かうと言う女の子と様々だった。
 

 
宿のテラスから見たフンザの谷
 


5月16日 桃源郷(フンザ)

ここフンザは4月には杏の花が咲き乱れてそれはもう美しいらしい。中国の桃源郷もこのフンザがモデルになっているのでは無いかと言われているほどだ。

その桃源郷フンザではただダラダラする事にした。南インドを旅していた時は異常とも思えるスピードで駆け回っていた。2泊以上したのはマドラス、コバーラム、ハンピだけという異常さで、移動=旅になっていたような気がする。しかしここフンザは何もしなくても焦りもなく、ただ屋上のテラスから外を見ていると何となく毎日が過ぎていく、そんな心地のいい場所だ。

昼ぐらいまで寝たり起きたりを繰り返しながら、昼過ぎにやっと起き出して洗濯、そして村の中をぶらぶらしてみることにした。

ここの村人も他のパキスタン人と同様、親切で人なつっこくフレンドリーだ。そしてこの辺りのパキスタン人はほぼ白人で、髪も黄色くて目が青い人も多かった。本当に自分よりも色の黒いパキスタン人はまずいないと思う。

最初に向かったのはバルチットフォートと呼ばれる昔の王国時代の宮殿で、作り自体は大した物では無いのだが、漆喰で塗り固められた白い壁が回りの緑や山々とマッチしていた。ただ入場料が200Rsもしておまけに中は大した物は無いというので外から眺めるだけにしておいた。

そのまま城下町を歩き回っていると相変わらず村人達が挨拶してくれる。「写真を撮ってくれ」という子供達もいたのだが、インドと違ってお金を請求される事は一切無かった。

城下町を進んでいくと「長谷川メモリアルスクール」と言うのがあったのだが、良く読んでみるとこの地で無くなった登山家の方を忍んで設立された学校らしい。他にもこの辺りでは結構な数の登山家が亡くなっているらしくそれぞれの家族から寄付されたワゴン車などを見かけた。

夕方頃宿に戻ってくるとドミトリーは満員になっていた。白人の男女で、女の子の方はデンマーク人、名前はアンドレア。なんだか日本に興味があるらしくいろいろとしゃべっているうちに1時間ほどが過ぎてしまった。二人は別にカップルと言うわけではないらしくアンドレアは「あの人ちょっと変わってるのよね」とか言っていた(笑)

陽が暮れると月に照らされた山々と緑の谷が妖しく光っていた。そういえばそろそろ満月のようだ。
 

 
フンザ(カリマバード)のメイン通り
 


5月17日 沈没気分(フンザ)

ダラダラ度に拍車がかかっている。いい感じだ。体の疲れもほぼとれてきた。

今日は朝から食堂に置いてあった小説を読んだりして過ごした。何だか怪しげな題名なのだが「新興宗教オモイデ教」というタイトルで著者は何とあの大槻ケンヂだ。彼の著書には他にも「のほほんと暑い国へ行く」という自分が実際バックパック旅行をしたときの話もあって彼の独特の文体がけっこう気に入っている。

話の内容は、賭に負けた主人公が「オモイデ教」という教団に入る事になったのだが、この教団が誘流メグマ祈呪術とかいう妖しげな技で世の中の為にならない人を狂わせて抹殺するというものだったのだが、次第にいろいろな事件に巻き込まれ、ついに他のメグマを使う宗教団体と全面戦争になってしまうと言う話だった。

そんな妖しげな小説を読んでる間も窓からの風景は絶景で、思わずそれだけで何もしなくてもいいような気がしてしまう。ここから見える景色は太陽の位置によって刻々と変わっていく。とりわけ早朝の景色は朝日に照らされて輝く山々が見えて最高だ。

本を読み終わると少しおなかが空いてきたので村の方で出かけた。途中炉端でナンを焼いている所があってさっそく食べてみた。今日のスペシャル「ビーフナン」で中にビーフや具が混ぜ込んであってなかなかの味だった。

他にも村にはアイス屋、ケバブ屋などがあって一通り回ってみた。どの店も味のあるいい感じのオヤジがやっている。何だか職人という感じだ。
 

 
炉端ナン屋
伸ばしたナンを鎌の内側にペタンと張り付けて焼く
 


5月18日 久しぶりのカゼひき(フンザ)

今朝起きると体がだるかった。どうやらカゼを引いてしまったようだ。そういえばドミトリーの最大の欠点として病気が移るというのがある。昨日アンドレアが「体がしんどい」と言って寝込んでいたのだが、どうやらそのカゼが移ったようだ。

ひたすら暖かくして休んでいたのだが寝過ぎるといけないので昨日書いた絵はがきを出しに行くことにした。結構な道のりなのだがなぜだかリチャードも一緒についてくる事になった。どうやらパキスタンの民族服を作りたいらしい。

ふらふらしながら郵便局にたどり着くとすぐに切手を売ってくれて、その場でちゃんとスタンプも押してくれた。これで一安心だ。帰り際にいつもの店でソフトクリームを買って食べると少し熱が引いたような気がした。

午後は特にどうと言うことはなくベッドに寝ころんで外を見たり、リチャード+ケンちゃんとアホな話で盛り上がったりといつものように何気なく過ぎていった。全くインドで移動病にとりつかれていたのがウソのようだ。

夜の9時頃アンドレアが出来立てのシャルワルカミースを着て帰ってきた。何だかお酒とハッシッシも少し入っているようでいい感じにキマっている。「何みんな寝てるの?盛り上がりましょう!」とか言って、リチャードも疲れながらにギターを出してきてなにやら弾きだした。自分は本当に疲れていてそのまま泥のように眠ってしまっていた。この疲れをここで全て出し切ってしまわないと、、、
 

 
とある日のハイダー爺
 


5月19日 悲しみにつつまれた町(フンザ)

今朝は昨日の超強力インド薬が効いたのか、熱は一発で下がっていた。そんなわけで朝から少し歩き回ることに。

最初アルチット方面に行こうと思ったのだが、どうやらあまり高さが無いので見晴らしもいまいちかなと思い、ビクトリアメモリアル方面に行き先を変更。そして坂を上って学校にさしかかった所でいつもと全く違った光景に出くわしてしまった。

何十人いや何百人という人々がぞくぞくと学校に集まってくる。しかも女の人の中には大声で泣き叫びながら歩いている人も多かった。泣き叫ばないにしろみんな目に涙を浮かべながら沈痛な表情で下りてくる。その光景から誰か村人が亡くなった事は容易に想像がつくのだが、なんでも昨日フンザからのトレッキングコースにもなっているウルタル氷河で村の若者が一人転落死したらしい。何人もの日本人が連日行っている場所だ。

けっこう宿にあったパキスタンのガイドブックには簡単そうな事が書いてあるのだが、この辺りのトレッキングコースはかなり危険そうだ。アンナプルナで危ない目にあった自分としてはその辺が結構無謀に映ってしまう。

ともかくその行列に逆らうようにどんどん登っていくとやがて迷路の様な城下町にさしかかる。そして用水路に沿って昇っていくと段々と斜面が急になってくる。この辺りはガーネットがたくさん取れるというので注意して見ていたら、用水路の脇に赤く光る石をたくさん見つけることができた。とりあえず良さそうなのを選び袋に入れて持ち帰る。

結局からだが本調子ではないのと、道が思った以上に険しいのとで中腹まで登って引き返すことにした。途中一人のパキスタン人の少年に会って色々話をしていたのだが、彼には日本や欧米社会の「自由恋愛」にとてつもなく興味があるらしい。恋人と会うときはキスしてセックスをする。そう言う事が彼には大きな衝撃らしい。やはり戒律は緩くてもこの村はイスラムにそって生きているのだ。

宿に帰るととりあえずいつもの夕寝(笑)夜にケンちゃんとケバブじいの所へ行く。途中でチャパティを一枚買って持ち込んだのだが、おやじのケバブは本当に美味しくて思わず6本も食べてしまった。鼻の下にたっぷりとヒゲを蓄えたオヤジの笑顔を見ながら「そろそろ出発するかな」とふと思った。
 

 
ケバブ爺と子供達
マリオみたいなヒゲがイカす
 

5月20日 たけのこ山(フンザ〜パスー)

タイトルを書いていて無性に「きのこの山」が食いたくなった。(大使館に送ってくれと催促しているのではない(笑))

朝起きるとリチャードは相変わらず調子悪そうだった。今日ギルギットに下りて病院に行くらしい。何だか話しているともうイギリスに帰るかもしれないとか言い出した。彼が言うには「オレはもう7ヶ月旅をして、何を見てもどれも同じにみえてエキサイトしないんだ。イランのビザ代何て所詮$100程度だし、一度帰って又半年もすればまた再びエキサイティングな旅が出来るだろうしそっちの方がベターだろう」

これには僕もケンちゃんも全くその通りと言った感じで返す言葉はない。ただ僕の場合はこの旅が最後の長期旅行になりそうなので、興味を持続させながら何とか世界を一周してしまいたいと思っている。事実何度か興味を失って旅を続ける事に疑問を持ったりもしたが、今の興味は既に東ヨーロッパに向いていて、これは結構楽しみでもある。

朝食を食べると、リチャードとアンドレアはギルギットへと下りていった。自分はゴジャールと呼ばれる北部フンザの村パスーへ向かう事にした。ケンちゃんは宿に残るようだが、後のルートが同じなので必ずどこかで会うだろう。

フンザからパスーへ直接行く乗り物は無いので、一度カラコルムハイウェイ沿いのアーリアバードまで下りてワゴンをつかまえる。タイミング良く来たワゴンは50Rsと何だか少しボラれチックだが、まあ大した額ではないので乗ることにした。例によって乗用ワゴンに4人掛けだ。

北上するに従って辺りの景色はどんどん険しくなっていく。フンザの辺りには緑がいっぱいあって、景色も比較的なだらかなのだが、しだいに険しくなってきて緑も減ってくる。そして何よりも違うのが山の形で、フンザ辺りの山が一つの大きな山だとすると、この辺りは100個ぐらいの大小のタケノコが合わさって出来たような形をしている。山の中腹にもとげとげがいっぱいあるような感じだ。

そんな風景に見とれているうちに、ワゴンはパスーの村に到着した。パスーは本当に小さな村で、以前はいくつか良いゲストハウスがあったのだが、村人は「静かな生活」を選びそれらは数年前に閉鎖されてしまったらしい。そんなわけで村から500mほど離れた「バトゥーライン」という宿に泊まることにした。

ここもハイダーインと同じように、哀愁漂うイザトラじいさんが一人でやっている宿で、日本人には昔から有名な宿らしい。ただ宿の作りはネパールの山小屋程度で、シャワーも氷河水しか出ないので冷たくて浴びられた物ではないのだが、このイザトラじいさんの人柄にすっかり惹かれてしまった(笑)

昼飯を食べるとさっそく歩きに出ることにした。とりあえず村の方へ行ってみるのだが、村に2軒ある店は両方とも閉まっていた。地元の子供が言うには、今日村の老人が無くなったそうだ。これで二日続けて葬式に当たってしまった。とりあえず水が買えなかったのは痛いのだがそのままパスー氷河を目指すことにした。

宿から30分ほど歩くと氷河へ向かうジャリ道に出る。もちろん車は通れない瓦礫の道だ。しばらく登っていくと氷河湖に出るのだが、やはり無数の砂の粒子が溶けていて湖の水は茶色っぽい灰色に濁っている。この辺りでオランダ人の夫婦に会ったのだが、何でも夫の方は登りたいのだが、妻の方は怖いらしい。

夫にしてみれば渡りに船で、とりあえず二人で一緒に氷河の上まで登る事にした。氷河湖から氷河までは険しい物の滑落=即死といった危ない物ではないので気を付けながらゆっくり登っていく。やはり高度が2500mを越えているので登りはかなりつらい。一方オランダ人はほいほいと楽に登っていく。

氷河の上に登ると遠くに波打った氷河の本体が見えた。迫力という意味ではもう少し上までのぼらないと味わえないのかもしれないが、これ以上はかなり危なそうだし、まあこんなもんだろう。適当に写真を何枚か撮ってから引き返す事にした。

下りはさすがに楽でほいほいと下っていくのだが、下まで下りると待っているはずの妻の方がいない。よく見るとかなりしたの方の氷河湖に人影が見える。夫の方は急いで湖の方まで下りていった。そして自分が湖に着くとなにやら妻の方がかなり怒っているようだった。理由はよく分からないのだが置いて行かれたのが面白くなかったのだろうか?旅のストレスがたまってて些細なことで爆発したのかもしれない。

思うに二人で長期間旅をするというのは結婚生活以上に大変な事なのかもしれない。逆に二人でそんな長期間旅が出来るならそれはお互いの人生にとっても最高のパートナーなのだろう。ともかく夫婦喧嘩を横目に村に戻る事にした。

氷河の出口からカラコルムハイウェイを歩いてパスーまで。車通りはまばらで、これが本当に中国まで続いている幹線道路なのかと思うほどのんびりしている。宿に着く頃にはたけのこ山が夕日に照らされていい感じになっていた。

フンザとは違う景色に満足したし、ここは村も小さくて人も少ないので明日あたりグルミット村にでも行ってみるかな。いかん、また移動病が再発しそうだ(笑)
 

 
バトゥーラインの前の景色。
道路はもちろんカラコルムハイウェイ
 


5月21日 下界へ(パスー〜グルミット〜ギルギット)

朝起きると相変わらず回りは険しい山々と真っ青な空のコントラストがすばらしい。少し残念なのだがここパスーは村と言うには小さすぎて何もない。それもいいのだがなにぶんカゼやらなにやらでもう3日も風呂に入っていないのでちょっとつらい。そもそもこの辺りの水は全て氷河の雪解け水なので夏場でも手を着けるのもいやなぐらい冷たい。ハイダーインではかろうじて1つホットシャワーが生きていたのでぬるいお湯を浴びれたのだが。そんなわけで名残惜しいが朝から下界のギルギットを目指す。

この辺りまで登ってくるともう定期的な交通手段は無いに等しく、適当にやってきた車に乗せてもらうしかない。それはあるときはバスだったり、ワゴン車だったり、そしてある時は道路工事のトラックだったり、家族連れの乗用車だったりと様々だ。

そして昼前に出発しようと思ったのだが、カラコルムハイウェイにはほとんど車通りがなく、結局1時間ぐらい待っていると葬式で来ていた人達がグルミットに帰るというので乗せていってもらう事にした。料金は10Rsでいいらしい。

ワゴン車に満員乗っていざグルミットへ。ワゴンは結構なスピードで右左に揺れながら走っていく。さすが日本車だ。途中村の老人とかが話しかけてきてくれる。本当に素朴な人達だった。やがて30分ほどでワゴンはグルミットの村に到着した。こちらも集落と言うほどの規模なのだが、パスーに比べるとよっぽど都会だ(笑)

せっかくなのでグルミットの村を散策する事にした。この辺りのカラコルムハイウェイは別名「美少女街道」と言われ、可愛い小さな子供達が照れながら挨拶してくれる。パキスタン人というとヒゲもじゃのアジア人を想像するのだが、この辺りの人はみんな白人だ。髪の毛も金髪で目も青い。

村は10分もあれば一周できてしまうほど小さくて、小さな規模の村特有の暖かさがあった。大人も少女も少年もみんな控えめだがフレンドリーだ。ここもやはり去りがたいのだが、一気にふもとを目指すことにした。とは言う物それからしばらくまた車が来ずに、やっとの事で停まったのは一台の乗用車。何でもギルギットまで行くというので願ったり叶ったりだ。

当然このような場合は謝礼をするのが当然で(無料の場合もあるのだが)距離からして大体100Rsぐらい払おうと思っていた。しかし途中の休憩で気が付いたのだが前に小さく乗り合いタクシーの看板がでている。おそるおそる「いくら払えばいい?」と聞くと少し困った顔をして「うーん、100Rsぐらいかな」という。自分が思っていた金額とぴったりなので言うことは無い。でもちょっと安すぎるような、、、

事実それから先もたくさん乗せるのだが、短距離の人達からはお金は取らずに、結構長い間乗った人でも20Rsぐらい払っていたようだった。そんなのではペトロール代も回収できないと思うのだがともかく運転手はかなりのお人好しのようだ。あちこちでいろんな人を乗せては下ろして4時間ほどでギルギットの村までたどり着いた。

最後も泊まる宿を言うとわざわざ宿も前まで連れていってくれた。4人掛けの超窮屈ワゴンでも乗り継ぐと100Rs以上はかかるので本当に助かった。今日はついている。

そうしてたどり着いた宿が日本人宿の「ツーリストコテージ」だ。ここは日本人の女の人が経営していて日本食も食べられて、日本の本も読める。見事に沈没宿の条件を満たしていてやばいのだが、これからバルチスタン砂漠を越えてイランと言う前に一息ついておくのも悪くはない。

フンザで会った旅人達との再会もたくさんあった。まず昨日別れたばかりの「ケンちゃん」。フンザで一緒にポテトナンを食べた、まるでホットドッグプレスから出てきたような「普通娘」。ほんとに旅人っぽい感じが全くしなくて、その辺の三宮か梅田から拉致して来たような感じでそんな子を見るのは久しぶりで新鮮だった。あとはフンザでジープツアーの人集めをしていた女の子「ツアーリーダー」明るくて元気な子だ。

夜はとびっきりの和風スパゲティを食べてそんな人達と語り合っているうちにすぐにふけてしまった。普通娘は僕がロビーでパキスタン人といろいろ喋っているのを聞いて「英語もっと出来たらなあ」とか言っていたのでニュージーランドの話をすると結構興味を持ったようだった。一応クライストチャーチの学校も紹介して置いた。

ちょっと沈没の予感がするのだが一体どうなるのやら。はて。
 

 
グルミットの村にて
 


 

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