このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
タイで買ったニセキティちゃん時計のおかげで5時15分無事起床。ぼーっとしながらパッキング。しかしこれ以上物を亡くさないように気を付けて何度も確認(笑)
ワゴン乗り場に行くと昨日の切符売りが手を振ってくれる。「ここでしばらく待ってろ」という事で待つこと15分、昨日見た黄色いワゴンがやって来た。まだ定員に足りないのかしばらく呼び込みをしたあとほぼ定刻通りの6時過ぎにペシャワールへ向け出発した。
それにしてもワゴンはやっぱりきつい。車両自体は普通のハイエースのワゴンなのだが、中を改造して椅子をぎゅうぎゅう詰めにしてあるので、定員は何と20人(笑)横4人掛けは当たり前で、前後にも1列増やしているのでもう勘弁してくれという感じだ。
自分は昨日車を見ていたので、前後の間隔がちゃんとある席を選んだのだが、後ろのパキスタン人は狭いとか文句をいいだして、挙げ句の果てに僕が座っている椅子の背もたれを膝でガンガン押してくる。地元の人も嫌というほど狭いのだ。
そして車は舗装路を難なくまっすぐに走ってペシャワールへ着くのだろうと思っていたらこれがまた大間違い。途中の峠はまさに九十九折り。九十九といっても実際に99もあることは希なのだが、ここは300ぐらいあったんじゃ無いかと思う。わずか直線で10キロを1時間半ぐらいかかっただろうか?
タダでさえ曲がりくねっているのに、当然未舗装でおまけに大きなトラックが時速5キロぐらいで走っている。そして時々壊れて道の真ん中に停まっている。全員で外に出て押したりして何とかどかす野だがなかなか大変だ。
この峠は冬季は閉鎖されているらしいのだがなるほど納得。一カ所氷河になっている所をぶち抜いて道路が走っているのだが、道の両端は高さ5mぐらいの氷の壁になっている。しかも丁度通る前に氷が崩れて迂回路を通らなければならなかったりとなかなか進まない。
やっとの事で頂上まで来るも下りもさんざんの悪路で、舗装路が現れたときには本当にやれやれと言った感じだった。
そのあとの道は南下するに従ってどんどん気温が上がってくる。水を飲んだらお湯になっていたのだが、久しぶりの感覚だ。結局ワゴンは定刻+1時間ほどでペシャワールのジェネラルバススタンドに到着した。
リキシャが寄ってきたり、水売りの少年とか物乞いとか、町へ下りてきたという感じだ。とくにここペシャワールではそう言うインド的な光景を良く目にした。アフガンからの難民が溢れていたり、パターン人が多いせいかもしれない。適当にバスをつかまえて新市街の宿にたどり着くとさっそく町巡りだ。
今日は日曜日でほとんどの店が閉まっているのだが、飲食関係は結構やっている。歩いていると一軒の屋台があった。ポテト、天かす、野菜にスパイス振ってその上にヨーグルトを欠けたようなもので、試しにトライしてみると味のほうはなかなかだった。
おいしいと評判だったソフトクリームにも挑戦してみたらこっちの方も本当においしかった。これが10Rsなんて、日本にあったら毎日5本ぐらい食べているかも←止せ
夜は何だか昼間の疲れかやたら眠たく9時ぐらいには眠ってしまっていたようだ。
ペシャワールと言えば場所柄アフガン人が多い所らしい。そしてペシャワールから少し行くとそこはもう「部族地区」とよばれるパキスタンの法律が適用されない地域になる。
そこでは銃の製造から麻薬の密造、ありとあらゆる「違法行為が合法的」に行われている。さすがにその中にはパーミットが無いと入れないのだがその手前のガルハナマーケットまでは結構普通にいけるらしい。バスを乗り着いてマーケットにつくと、なぜか月曜なのにほとんどが閉まっていた。
一方境界の向こうはスマグラーマーケットと呼ばれていて、暗黙の了解でツーリストも少しなら入り込んでいた。スマグラーへ向かう路地に入ると、さっそく物売りが押し寄せてくる。この場合の物売りとは「麻薬売り」だ。
パキスタン、インドでは麻薬売りといっても「マリファナ、ハッシッシ」と限りなく合法に近い誰もが普通にやっているような物を扱っているのだが、ここではいきなり「ヘロイン?」と声がかかってびびってしまった。
しかしここは雰囲気もあまり良くなく、買わないと分かると石を投げてきたりした。これ以上いると危険だと思い来た道を引き返す事にした。安全第一なのだ。戻るときも「写真は撮るなよ」とか言われエリアから出るときには背中を突き飛ばされた。かなりむかついたが安全第一なのでそのまままっすぐ幹線道路まで戻った。
この部族地区はパターン人と呼ばれる人達が掟にしたがって統治しているらしい。あとこの辺りはアフガン人だらけでやっぱり同じ様な商売をしているらしい。そんな事で僕にはアフガンやこの部族エリアについて悪い印象しか残らなかった。
ガルハナもほとんどが閉まっていてほんとにつまらないのでとっととバスにのってペシャワールに戻ることにした。帰りのバスからアフガン難民キャンプが見えた。それはもう広大な敷地で、ほとんどの家は土で作られているようだった。
サダルに帰ってくると今度はする事がないので久しぶりにインターネットを試みる事にした。情報ノートに書いてあったコンピューター学校へ行ってみるとあっさりと日本語入力可のマシンを使えることになった。しかも何とOSはWINDOS2000だ。うーんいつの間にそんなものが、、、、
メールを受信すると20通以上届いていた。丁寧に一つずつディスクにセーブ。あとは掲示板巡りやニュースを見たりで約2時間ほど使ったのだが、料金は意外と安くて二時間で60Rs。驚いた情報では小渕前首相が亡くなった事、あとジャンボ鶴田?
あとは最近以前アドレス交換をしたときにはメールやってなかったのに「最近パソコンを買いました」とか「遂に大学生になりました!」←きゃー。 とか言うメールが届いていて結構嬉しい。また返事を書いて今度はピンディからでも送らないと。
メールが終わってからはサダルを一回りした。インドでかったサンダルがもう限界に来ていたので新しいのを購入。するとすかさず物乞いが寄ってきて「その古いのをくれ」とか言うのであげた。あとはフルーツジュースや食堂で軽く食事。やっぱり町はいろいろな物があって便利だ。
夜になるとチトラールで会ったアイルランド人達がぞくぞくとチェックインしてきた。パキスタンはやっぱり旅人の通り道が結構集まりやすいらしく、あちこちで再会がある。明日ラワールピンディに向かうのだが、いろんな人との再会が楽しみだ。
朝は隣のベッドの日本人がパッキングする音で目がさめた。どうやら朝いちで出ていくらしい。僕はといえば例によって二度寝してから軽く朝食。そして9時ぐらいにラワールピンディへと向けて出発した。
ワラールピンディまではフライングコーチと呼ばれるエアコンバスが走っているはずだったのだが、乗り場が昔と変わっているらしく、路線バスの車掌に「フライングコーチ」というとしばらく走ってから道路脇で客待ちしていたペシャワール行きのフライングコーチの前で下ろしてくれた。
今日のバスはラホールから乗ったのとは違ってかなり冷房がちゃんと機能していて快適だった。ただ道は余り良くなくて、しかも荷物があったので一番後ろの席に座ったら結構飛び跳ねてしんどかった。途中結構大きな川があったのだが、あれがインダス川だったのだろうか?
結局ピンディまでは3時間ほどかかって、そして全く知らない所で下ろされてしまった。さっそく聞き込みをするが、どうやらスズキでこの前泊まっていた宿の近くまでいけるらしい。そしてスズキを降りてからサダル地区へ向かうことにした。
前の宿は快適なのだが駅から遠くて、しかもクエッタ行きの列車が早朝発なので何とか駅に近いところに宿を取りたかったからだ。そしてサダルでみつけたAl Azamと言う宿はシングルで前のドミトリーよりも安くて100Rs。スタッフも親切で結構お買い得だった。
宿に荷物を下ろすと一番はじめにやるのは最も時間がかかることからだ。もちろん列車のチケットの入手。これが出来ないと先へ進めない最優先事項だ。クエッタまでの列車は今の時期砂嵐と炎熱で地獄らしい。そこで最後の希望「エアコンクラス」なのだが、ここパキスタンはインドみたいに他の階級を排除するための異常な運賃差(ACが2等の10倍とか)は着けてないので比較的お買い得なのだ。しかも学生だと半額になってしまう。
自分は身分からいうと学生ではないのだが、NZで英語を習っている時に作った国際学生証がある。そしてその学校の学生証も持っていて、まあ寺子屋塾みたいな所だったので有効期限が入ってないのだ。そう言う意味では学生だとは言えないこともない(笑)そんなわけでさっそく鉄道局のオフィスで学割証を発行してもらった。
そしてそれをもってチケットの予約に行くが、あいにく結構混んでいてあさっては満席らしい。でもおじさんが言うには「軍人用の席が各列車2席確保してあるから、今日6時にもう一度来て予約が入ってなかったらその席を売ってあげるよ」との事で出直すことになった。
それからは久しぶりのKFCで鶏をしばいてからインターネットカフェ。サダルのカフェはIPが外に抜けるかどうかは不明だったのだが、とにかくメールの返事を出したかったので寄ってみる事にした。中は学生か学生上がりぐらいの若者がやっているベンチャー企業といった感じで、与えられたマシンにフロッピーをつっこんでこっそりFTPを立ち上げてつないでみると、、、「........conected to 133.xxx.xxx.xxx」思わず「Yes!」となぜだか英語で叫んでしまった。(笑)
回線状態はお世辞にも良いとはいえずにノーレスポンスが5分ぐらい続くこともあったが、なんとか中断しながら少しずつ送ってHPを全部更新することが出来た。メールも全部送り終えて新たにまた3通ほど届いていた。うーん、ネットに振り回されているような気もするのだが、イランを前にこれで肩の荷が下りた感じだ。
そんなこんなで6時を回って鉄道オフィスへ。顔を見ると覚えていてくれたらしく端末を叩いて予約を入れてくれた。ラッキー。何だか切符がワラ半紙にカーボン敷いて書き殴ったような感じで「なんだこりゃ?」と思ったがこれでどうやらクエッタまで涼しくいけるらしい。
喜んでいると外は大荒れの暴風になってきて、本当に涼しくなってきた。空を見ると前線がくっきりと見える。砂嵐に目をつぶりながら歩いていると駅前で警官に呼び止められた。といっても笑顔でフレンドリーだ。「ハローちょっと座っていきなさい」「いやほら、空見て!今にも降りそうだから」「まあそう硬いことを言うなちょっとぐらい」「はあ、それじゃあ、、、」てな感じで警官二人と駅前の椅子でしばし歓談。そのうち本当にやばくなってきたのでおいとますることにした。
結局温度が10度ぐらい一気に下がっただけで雨はほとんど降らなかった。陽もどっぷり暮れて夜のサダルを歩いてみる事にした。夜のサダルは安全そのものだった。なにせ人通りが多い上に町の雰囲気もいい。そして何よりも交差点ごとに警官が立っているので全く問題なしだ。
道路脇には時計売りや中国製の電気製品、ジュース屋、体重計屋、その他何屋なのかさっぱり分からないものとか、そこはさながら子供の頃楽しみにしていた近所の神社の夜店のようだった。夜店を冷やかしているとたくさんの人から声がかかる。風もも涼しくて本当に日本の夏みたいだった。日本の四季何てしばらく経験してないから忘れてしまいそうだな。
イスラマバードは世界で最もつまらない町らしい。いわゆる計画都市で生活感も何もなくてただ機能だけを求めて作られた町だというのだ。そんな町へ朝からお出かけ。
例のぎゅうぎゅう詰めワゴンに乗ってイスラマバードの中心地で降りる。そこからまたスズキやワゴンを乗り継ぐ。歩けばいいのだが、とてもじゃないが距離がありすぎる。そうこの計画都市はブロックごとの隙間が狂ったように長い。通常の町だと1ブロックで100mといったところだろうか?しかしここイスラマバードは軽く500mはありそうだ。
「3ブロック先の大使館」とかいうとあっという間に2Kmを越えてしまう。ともかくそんな困った町なのだ。事実町は緑が多い。裏を返すと余裕を持って道路を造りすぎたのかスカスカで、もうちょっと一カ所に集めないと不便でたまらないかも。もともと歩行者用に作られた町じゃ無いのかもしれない。なんだか町の様子が自分が勤めていてた西神ニュータウンに似ていて少し懐かしかった。
今日の用件は2つ。日本大使館で新聞を読むこと。そしてアメックスでTCを買うこと。
日本大使館は列が出来ていたのだが、日本人だという事ですぐに中に入れて貰えた。新聞を読んでいると日本語をしゃべるパキスタン人に声を帰られた。「アナタ日本人? ナンデそんなに黒くナッちゃったノ?」うーん、なかなか大きなお世話だ(笑)
もう一件のアメックスの方は何とここではルピーでしか買えないと言われてしまった。デリーでOKだったのでまさかパキスタンでダメだとは思っていたかったのだ。なんでもトルコではカードで買えるらしくアドレスをくれたのだが、自分のカードの有効期限が6月末日までなのでちょっと厳しい。まああと30万ぐらいあるので何とか送ってもらっている間食いつなげるかな。いざとなればシティバンクがあるし。
そう言えば今日はちょっと怪しいパキスタン人に二人ほどあった。一人はサダルで少し日本語を話して「もしよかったらティーでも飲みに行かないか?」と誘ってきた。もう一人はワゴンの中で話しかけてきて、フンザから来たと言っていたが、なんでもやたら日本人が泊まる宿に詳しく「○○ゲストハウスに泊まってたの?」とか聞いてくる。こっちも「冷たい飲み物でもどうだ?」
うーんやっぱりあやしい。とりあえずトルコの予行演習もかねて二件とも断っといた。そうえいばピンディでも睡眠薬強盗に会った人が居るとか言ってたっけ?この先はもっと用心しないと。
ピンディに戻ってからは日本人のたまり場Popular Innに顔を出してみた。2〜3人知っている人が居たのでしばらくだべったりしながら情報ノートを読んだりして過ごした。そして夕食はその情報ノートお薦めの中華料理屋のラグ麺。これはもともとカシュガルとかあっちの方の料理らしいのだが、要はうどんにあんかけをかけたような料理でなかなか美味しかった。
帰りに少し移動に備えて買い物をしてきた。いよいよ明日はクエッタへ向かう。楽しみにしていたイランはもう目と鼻の先だ!
今日はいよいよ大移動の日だ。それにしてもなんでインドやパキスタンの列車は始発だっていうのにこんなに朝が早いのだろう。 大枚をはたいて買ったキップを無駄にしないように4時半に起きて荷物をつめる。
朝のラワールピンディは少しひんやりとしている。乾燥地帯特有の感覚だ。とは言う物駅に着く頃には汗がにじんでくる。さっそく駅のオフィスで藁半紙の切符に座席を記入してもらい乗り込む。ACは一両しかないようで中にはいるのひんやりとACが効いていた。やったー!
AC寝台は思っていたよりもボロかったが形式的には高級だった。ドアが着いたコンパートメントでベッドも2段で幅も結構広い。同室の青年はアーミーのオフィサーらしく、休暇でワラールピンディに帰ってきていたらしい。一通りいろいろ喋っていると列車はゆっくりと動き始めた。
2段寝台の利点はいつでも寝れること。3段だとインドは昼間はたたんでしまうので寝れないのだ。そんなわけで昨日の寝不足もあってさっそく熟睡。しばらくして少し暑苦しくて目がさめた。なんでもこの列車は電源車が無いらしくホームで停まるとバッテリーのみになってエアコンが止まってしまうという情けない事態になってしまう。
長時間停車の時は耐えきれないわけで、そんなときは駅員が何処からともなくよれよれの電線を2本持ってきて、列車の端子に引っかける。駅のコンセントから取ってきているようだった。とにかくこれで安心。しかしお前はエバンゲリオンか!と言いたい(笑)
この列車は一度ラホールに戻ってから西へ向かうらしく、ラホールでジュースを飲むために外に出たらそれは暑かった。エアコンの効きが悪くて結構汗がにじんでいたのだが、それでも外の暑さに比べると結構頑張っていたみたいだ。
ラホールからは景色にも飽きてきてひたすら寝倒した。途中で客が4人に増えていたのだがそんなのもお構いなしに寝て寝て寝まくった。いつの間にか夕方になり夜になったのだが心地の良い揺れのためかいくらでも眠れる。
ああ、それにしてもよく寝た。
朝起きたら、というか結構な時間だったのだがシビーという駅に着いていた。同室の親父の話では3時間ぐらい遅れているらしい。と言うことはクエッタ到着は4時頃なのだろうか?まあいいや寝ていればいいし(笑)
しかしさすがに眠れなくなってきたので下に降りて外を眺めることにした。そこは全くの砂漠だった。厳密に言えば所々短い草が点々と生えているのでステップと言った方がいいかも知れない。なんだか「ケッペンの気候区分」とかいう懐かしい単語が頭にひらめいた。たしかステップはBsだっけ?
砂漠といってもいろいろで最初はだだっぴろい瓦礫の平原だったのだが、そのうち山がちになってきて何だか険しい死の谷を縫って走る様な感じになってきた。遠くにも山がたくさんあるのだが、緑は一切無くて全くの荒れ地だった。
しかし驚くことにそんな水一滴見あたらないような所にも人は住んでいるのだ。線路脇にテントで作った家が数軒あって、何人かの人影がみえる。一体何のために、そしてどうやってこんな所で暮らしているのだろう?謎は深まるばかりだ。
そんな景色にも見飽きるとまたまた昼寝。そして今度目がさめるとみんな荷物をまとめに入っていた。いよいよクエッタに着くらしい。時刻は3時を少し回ったところだった。
クエッタの駅に着いて外に降りてみると、暑さはそれほどでも無くてほっとした。とはいっても35度以上はあったと思うが。さっそく駅前のホテルにチェックインしたら、何だかパスポートのコピーを取ってこいとかめんどくさかった。ようやくチェックインして軽くシャワー。
ここでしなければいけないのは、イラン国境行きのバスの情報収集、そしてもう一つはイランリエルの両替だ。なぜだかイランリエルはここクエッタで両替するのが一番レートが良いらしいのだ。そんなわけで市バスに乗ってバザールへ。
「バザールバザール」と連呼していたバスに乗るとさっそく車掌が隣に座って「何処からきた?」とか質問を浴びせてくる。そして持っていたパキスタンが乗っている本を見せてあげたら興味深そうに見ていた。そしてバザールに着いてお金を払おうとしたら「フリーフリー」となぜだかタダにしてくれた。うーん(笑)
ここまではクエッタの印象最高だったのだが、やっぱりヤミ両替は何処でも腐っている。特にここはアフガン人がやっていて、ここ数日でアフガン人に対する印象は最悪になってしまった。インド人に匹敵するほどコスイかも。目標金額は$1=8300だった。
まず一件目の両替商で聞くと$1=8400Rs。ここ数週間イランリエルは高騰しているのでかなり言い数字だ。$100札を出して両替しようとすると「50、50」と連呼する。どうやら$50札が欲しいのか?と思いカバンの中を探ると何とそいつが身を乗り出してきて札に触れようとする。「触るな!」と怒鳴ると「ノープロブレム アイムモスリム」関係あるかボケッ!その後もしつこく触ろうとする。どうやらチェックするふりをして抜こうという魂胆のようだ。
別の両替屋に行くとやっぱり「50、50」ときた。奥の一応ライセンスがあると書いてある両替屋は$1=8150。ほんとはこんな物なのかもしれない。途中に寄った両替屋は最悪で、$100札を見せると一人が「ちょっとチェックさせろ」とひったくる。でもう一人が計算機を見せて「レートレート」とまくし立てるが当然札からは一瞬も目を離さない。すると「レートレート」と騒ぎ立てるのでこりゃだめだと思い札をすり替えられる前にひったくって店をでた。
なんだかごちゃごちゃ言いながら着いてきたが、別の店に入るとあきらめて戻っていった。全く油断もすきもない。結局おなじ店を何度か回っているとどんどんレートが下がってくる。逆だろこら!たぶんコイツからは札を抜いたり騙したり出来ないと思うと途端にレートが下がる。
しかし頑張ってなんとか$1=8220まで引きだした。そして渡された札は810000。1枚足りないと言うと白々しく数える。「うーん81枚しかないなあ」とかとぼけながら1枚足して渡してくるのだが、それをもう一度数えようとすると途端に慌てだして「問題ない、問題ないと言ってるだろう!」とひったくって別の束と一緒くたにまぜて、もう一度目の前で今度は10枚づつ数えながら渡してくる。
たぶん、数えたときに何枚か札を抜いていたのだろう。幼稚な手口だ。今度こそ82枚あるのを確認して抜かれないように膝で押さえた。そして端数の2000だが「2000札が無いから5000渡すから30Rsをくれ」とか言ってくる。なぜかこの時は82枚ゲットしたことで緊張が切れていたのか「そんなもんかな」と渡してしまったのだ。最後の最後でやられた。
30Rsというと5000リエルぐらいに相当するので結局$1=8200になってしまった。しかしイランでは今8100ぐらいになっているらしいのでまあ少し徳したことになる。それにしてもアフガン人のセコさというかずる汚さにうんざりなのだが、まあ旅行者に寄ってくるのは大体こんなのばかりでアフガン人だからという事は無いのかもしれない。
ともかくお金も手に入ったので明日はいよいよイランに向けて出発だ!
ここクエッタは思っていたよりもずっと涼しくてしのぎやすい。まあ涼しいといっても日中は30度を軽くオーバーしているのだがそれでも日陰の芝生で寝転がっていると何処からか良い風が吹いてきて涼しい。今日はいよいよ地獄のバルチスタン砂漠を越える日なのだが、この分だと砂漠も意外としのぎやすかったりするのかな?と期待が高まる。
ここまでもうたいがい疲れていたので午前中は日記の整理をしたり、芝生でカラチから来たというビジネスマンとだべったりして過ごした。そして2時前にシャワーを浴びてチェックアウト。それから同じ宿の日本人「兵庫くん」となんだかんだしゃべっているうちにバスの時間になった。
オフィスに行くと「今日はここの事務所はお前一人だからバスはターミナルから出発する」とか言い出す。良くある話なのだがここの良いところは「ターミナルまでのリキシャ代を半分出す」という申し出で、リキシャマンとの交渉までやってくれた。本来なら全額出して当たり前の所なのだが、パキスタンやインドでこういう対応をされると変に納得をしてしまう。
リキシャに揺られて着いたバスターミナルは、大型バスはもちろん、無数のパキスタン仕様のギンギラバスで埋め尽くされていた。写真を取っているとどこからか運転手がやってきて「オレも一緒に撮れ」とバスの前に立つ(笑)そんなことをしているうちにバスの出発時間になった。
結局30分ほど遅れたが、こういう国にしては結構まともに出発した方で、バス自体もデラックスと言うにはほど遠いが、一応シートもリクライニングしてまあまあのバスだ。
所が客層が結構くせ者で、どうもこのクエッタ辺りというのはあんまり雰囲気が良くない。シートの下に荷物を入れていたのだが「オレの荷物がおけないからどかせろ」とかいきなり後から来て人の荷物を引っぱり出す奴やら、自分は思いっきり椅子を倒しているくせに「席が狭いから椅子を起こせ」とか勝手な事をいう奴やらで、けっこううんざりだった。
まあこの辺は変に敵対してもなんのメリットもないので、むかつきながらもペットボトルの水を薦めたり、話しかけてみたりしているうちに少しずつ態度も柔らかくなっていって、その後はそんなにむかつく事も無かった。
日が沈むと辺りは本当に涼しくなってきた。やはり乾燥地帯だけあって温度差が激しいようだ。結局朝まで気温は上がらずに本当に温度に関して言えば快適な旅だった。道路の方はトルコから来た旅行者が「酷い道で体が踊りまくった」と書いていたのでどんな物かとおもったが、東から来た自分にとってはしごくまともな道路だった。
途中何度か故障で止まったのと、いちいち検問が何回もあったのがうっとおしかったが、それ以外大きなトラブルはなかった。夜中の休憩で止まった集落は電気もなくひっそりとしていて、夜空を見ていると熱心にお祈りする老人の姿がちらほらあった。
日が昇ってから一人の老人が砂漠のど真ん中で降りていった。360度村はもちろん生き物の気配さえまったくない。あの老人は一体何処へ帰っていったのだろう?
バスは結局2時間遅れの9時すぎに国境の町タフタンに到着した。結局親父の話も嘘で国境が開くのは9時半からだったので丁度良い時間帯だった。外国人は優先的に処理して貰えて自分とチェコ人、ドイツ人は全くのノーチェックで出国審査を終えた。さらばパキスタン!
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |