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パナマ運河編

(パナマシティ〜パソ・カノア)


7月4日 激動一日(カルタヘナ〜パナマシティ)

パナマの情報というのは意外と少ない。それなりの人がこのパナマからコロンビアにやって来るのだろうが、やはり大半の人はチケットの安いコスタリカから、往復航空券の要らないエクアドルなりペルーなりにとんでしまうようだ。だからパナマに関する情報をほとんど無かったのだが、それとは反対に新しい世界に少しわくわくしていた。

所がどっこい、朝起きたらいきなり干してあったズボンが盗まれていた。このズボンはブルキナファソで買った、ジッパーで裾が外れて半ズボンになると言う優れものだったのだ。しかし結構よれよれなので安心して干していたのだが、きっと宿泊客か出入りしている従業員の友達とかが盗んでいったのだろう。朝からいきなりへこむ。

重い荷物を背負ってバス停まで行くと、ちょうど空港近くの家に帰るという英語を話すおじさんに出会って、一緒にバスを降りて空港までの行き方を教えてくれた。おじさんはカリから来たらしいので「実はパストからカリの間でバス強盗にやられたんですよ」と言うと「それは申し訳ない」と何故かおじさんが謝っていた。この前はちょっと地元のガキともめて腹の立つこともあったけど、全般的に見るとコロンビアはブラジルに負けないぐらい親切で陽気な国だった。

おじさんに言われた方向に歩くと100m程で空港だった。そして関空よりも高い空港税を払って、そしてパナマのツーリストカードを$5買わされ、かなり厳重な荷物検査を受けるとあとはもう右から左へであっという間に機上の人となった。

離陸して少ししてから何だか高度が下がっているようなので「おいおい、まさか墜落するんじゃ?」と思っていたらそのうちフラップが出てきた。どこに着陸するんだろう?と思っていたら隣町のバランキージャだった。バスで2時間の距離を20分程で来たわけだ。

次に離陸するとすぐに機内食が出た。2時間のフライトなのでまあまあ期待していたら、ぱさぱさの挽肉の挟んだハンバーガーもどきにミニサイズのポテトチップス一袋だった。しかも飲み物もワインを頼んだら「もう無くなった」とかで終わり。コーラを頼んでも一缶くれずにコップ一杯だけで、ティーカップがセットしてあったにもかかわらず、食後のお茶もなかった。これで$200とは。

途中パナマ地峡の深いジャングルと下に見える入道雲を見ているとあっという間にパナマシティのビル群が見えてきた。パナマ運河らしき物も見える。無事着陸してから緊張気味にイミグレーションに行くと、フレンドリーなイミグレのおばちゃんはチケットも見ずにあっけないほど簡単にスタンプを押してくれた。

空港を出るとカルタヘナと同じ湿った思い空気がまとわりつく。警官にバス乗り場を聞くと「タクシーで行け、いくらまで出せる?」とか聞いてきたのだが、タクシーは通常$20バスは$0.3なので何とか乗り場を聞き出して向かうとすぐにボロボロのボンネットバスがやって来たのであわてて飛び乗った。

スクールバスのお下がりだと思われるこのバスはとにかくぴょんぴょん飛び跳ねて、胃と腰がおかしくなりそうだった。そして街の手前で大渋滞に捕まって、結局20キロを1時間ちょっとかかってセントロまでたどり着いた。時間が遅くなって少し薄暗くなってきたので少し早足で焦り気味に安宿エリアのカスコ・ビエホを目指した。

ここパナマシティの治安は結構悪くて、特に安宿近辺はスラムに挟まれていて危険らしい。だから大通りから比較的近いエレーラ公園の入り口にあるその名もホテルエレーラと言う宿に逃げ込むように入った。そしてお腹が空いていたのでシャワーを浴びて貴重品をおくと、小金と必用な物だけをエクアドルで買った民芸品の肩掛けカバンに入れて注意深く出かけた。

街の目抜き通りAV.Centralは途中から歩行者天国になっていて、両脇には結構な商店がある繁華街だったので、辺りと後ろに注意しながら途中のバーガーキングのWhopperが何とスペシャルで$1だと言うのでかき込んで一通り繁華街を見てから宿に戻ることにした。

一軒安全そうな通りなのだが、7時を過ぎると商店がどんどん閉まりだす。しかしまだ人通りはそこそこあったので気を付けてたら大丈夫だろうと歩いていた。警官が3人ほどたむろしていた所を過ぎてしばらくして一瞬人通りが途切れ「ちょっと気を付けないと」と思ったその時、スペイン語「せーのっ」と言うような声がして、視界の斜め後ろに人影が見え「しまった」と思うとと同時にそのまま二人に掴まれて地面に引き倒されてしまった。

この前の強盗の時もそうだったが、今回もなぜだか自分でも気持ち悪いほど冷静で「まずこいつらはひったくりだからカバンを守らないと」と思ってたすき掛けにしていたカバンを更に両手で抱えた。そしてカバンを引っ張りながらあちこち蹴られているので、頭を守らないと。あと次は出来るだけ騒いで人を集めないとと思い、ありったけの声を振り絞ってわめき散らした。

しかしこいつらは結構しつこく賢明に荷物を奪い取ろうとする。起きあがって反撃しないとと思うのだが、相手は二人なのであちこち蹴られながら荷物を守るので必死だった。20秒程たって遠くで「コラ、何をやっているんだ」というような声が聞こえて我に帰った犯人はあわてて逃げていった。

「ふうっ、やれやれ」と思って起きあがって、顔が少し痛かったので「擦りむいたかな?」と思いつつも笑顔で起きあがって歩いていくと何だか辺りの反応がやけに大げさだ。触ってみて初めて事の重大さに気付いた。目の回りが普段よりも1cm以上高くなっている。あちゃ、、これは一発目に入ってしまったか、、とそれでも落ち着いて、飲みさしのバーキンのジュースから氷を取り出して顔を冷やした。他には膝と肘を5カ所ぐらい擦りむいて結構な血が出ていた。

しばらくするとまわりの閉めかけ店の人が心配して出てきてくれて、通報を聞いて駆けつけた警官に説明とか通訳とかをしてくれた。何人かは英語が達者で目が青くイスラム圏の顔立ちだったので、レバノンかどこかからの難民なのかもしれない。事実パナマにはイスラム教徒が多かった。

簡単な事情聴取のあと、警官が「ガバメントの病院へ連れていってやる」とパトカーで送ってくれたので、パナマ人はすごいなあと感心していたのだが、それ程でもなかった。まず最初支払いの事でもめてあちこち連れ回されたあげく、結局無料だと言っていたのに$4払うことになった。

それでも安いからいいのだが、しばらく待たされて診察を受けると「どこをやられた?」と聞かれ擦りむいた場所(目は見ればわかる)を言うと何やら延々カルテと処方箋のような物を書くだけで、傷口の消毒はおろかまぶたにもさわりもせずに「これ持って薬買ってね。はいおしまい!」だった。なんなんだこの病院は?あとから続々手錠をされた囚人が診察に来ていたので、所詮その程度の病院なのだろう。

しかし困った、「どうやって帰ったらいいんだ?」と聞くと「タクシーで帰れ」とか言う。さっき全持ち金を払ってしまったのでタクシーなんかには乗れないし、また帰りに襲われたらかなわない。申し訳ないと思いつつも少しごねてみると迎えをよこしてくれることになったのだが、これがまた1時間半経っても全く来ずに結局11時半頃になってやっと巡回パトロール中のワゴンで送って貰えることになった。ただこのパトロールの警官はとても親切で「他に何かあったらここに電話しなさい」とツーリストポリスの番号を書いてくれた。

宿に帰ると門番の親父がびっくりした顔で「どうしたんだ?」と驚いていた。部屋に戻ってやっと横になってやっと一息つくことができた。今回は物も取られなかったし、顔は腫れたけどまあ2週間もあれば元に戻るだろう。今回はここでやられといてこれからの中米慎重に旅行出来ると前向きに考えることにした。

しばらくして門番の親父が親切にも氷をたくさん持ってきてくれたので、タオルで巻いて仰向けになって目を冷やした。冷たくて気持ちいい。いつの間にかそのまま眠り込んでしまったのか、夜中目が覚めると濡れたタオルが脇に転がっていて、天井では扇風機がカラカラと回り続けていた。

上空から見たパナマ地峡の密林
顔写真はとても載せられませんでした(笑)


7月5日 拾う神あり(パナマシティ)

「くそーパナマめ!昨日のことにしろ、往復チケットの事にしろまったく」と朝からパナマにすこし八つ当たり気味だった。朝起きると蹴りが入った所の腫れは引いていたのだが、内出血した血が目のまわりに回って、関係ないところが真っ黒に腫れていた。これはとても両親に見せられた顔じゃないな。そして通行人にもあまり見せたくない。仕方なく覚悟を決めて今日絶対行かなければ行けないコパ航空へと向かう。

住所はカルタヘナで聞いていたのだが、見せて貰った地球の歩き方とかなり違う場所にあったので少し時間がかかってしまった。汗をかきながら「これでリファンド出来なかったら切れるぞ!」と思いながらたどり着くと、こちらの方は航空会社らしいスマートな対応で、すぐ別の事務所のような所に通されて担当のおばさんが10分ほどでチケットのコピーに一筆書いた控えのようなものをくれた。15日程でカードのアカウントに振り込まれるらしい。

いきなり用事が片付いたのでわざわざパナマにとんだ最大の目的「パナマ運河」に向かうことにした。辺りのおばちゃんに聞いて、5月5日広場近くのバスターミナルからちょっとよさげなエアコンバスに乗った。運賃は50¢。パナマはどうやら宿泊費以外は結構物価の安い国らしい。

パナマ運河ウオッチングの最大の見所の「ミラフローレス水門」には途中で降りて歩いていくと聞いていたのだが、小雨だったせいか4人ほどツーリストが乗っていたせいか、わざわざ道をそれてビジターセンターの前で下ろしてくれたので全く雨に濡れなくてよかった。ラッキー。ツキがまわってきたか?

ビジターセンターにはちゃんとした観覧席とビデオのプレゼンテーションルームの二つがあって、係員も元アメリカ領だった(運河を挟んで何キロか)ため綺麗な英語を話す。これで無料なんて、ちょっと見直したぞパナマ!

上から水門とかを見て「ほほー」とうなっていたのだが、肝心の船は全然やってこない。そのうち英語のプレゼンが始まったので部屋に入った。プレゼンはビデオ放映なのだが、パナマ運河全部の巨大な模型があって、ビデオに連動して今放映している所がライトアップされたりしてなかなか解りやすい。放映が終わると次の船は2時30頃になるらしい。(あとで解ったのだが、パナマ運河は昼間は巨大船舶用に時間制の一方通行。夜は中型船舶用に双方通行なので、日中は早朝のカリブ側からの船が着く2時頃まで船は来ないらしい)

しばらくすると遠くに山のようなクリーム色の塊が見えた。で、でかい!どうやら車運搬船らしくこんなでかいのがこんな狭い水門を通るのだろうか?と驚いてしまう。どうやら世界中で建造される船舶は、このパナマ運河の幅に合わせて設計されるらしく、この幅を「パナマックスサイズ」というのだそうだ。水門の入り口にさしかかると、水路の両脇を走る6台の電気機関車ワイヤーで繋がれて、この機関車が船の速度に合わせて走りながら左右から引っ張って船をまっすぐ誘導するのだ。

パナマックスサイズの巨大船舶
船の手前に見えるのはガイド用の電気機関車

上から見ていると本当にぎりぎりで、運河の岸壁と船の間は1mぐらいしか無いように感じた。この後にも何隻かコンテナ船やらタンカーやらがやって来たのだが、それらの巨大船舶の側面が不自然に完全な平面になっているのは、まさにこのサイズに合わせるためだったのだ。

面白かったのは一隻小型のヨットがやってきたのだが、これは機関車じゃなくて4人のおじさんに綱で誘導されていた。ちなみにヨットの通行料は小型の物で$500。30mぐらいの大型だと$1500らしい。ちなみに大型船舶の通行量は莫大で、今までの最高金額を払ったのは今年の4月に通過した船で、総額2500万円とか。アメリカはパナマからつい最近まで半ば無理矢理この土地を租借して莫大な利益を上げていたのだ。

なんだかんだで見ていると夕方になってきたので、びじたーセンターの前でバスを待っていたのだが、いつまで経っても全然来ない。行きにここまで来たので帰りも大丈夫かと思ったのだが、受付で聞くとどうやらバスは本当に下の分岐点までしか走っていないらしい。

どうしようと思っていると、腰に拳銃をさした警備員のおじさんが「もし良かったら5時になったら仕事が終わるから、街まで送っていって上げよう。また強盗にやられても大変だし」と申し出てくれた。そう、僕のこの顔はビジターセンターでも話題になっていたらしく、いろんな係員にどうしたんだ?と聞かれていたのだ。

ある人は「それは申し訳ないねえ」とか、あるおじいさんは何やらメモを書いて「これは打撲とかに良く効く薬だからこれを顔に塗りなさい」とかみんなとても親切にしてくれる。何やら短い時間でパナマ人の株も暴騰といった所だろうか?(笑)

閉館の時間になって外で待っていると、さっきのおじさんが「行こうか」と車まで案内してくれた。「ちょっと隣のペドロミゲル水門に寄るから」というので何か用事でもあるのかと思ったら、車をおりていろいろと水門の解説をしてくれる。何と僕の為にわざわざ案内してくれたのだ。この辺りは少し水路が狭いので水門の手前をダイナマイトで爆破して拡張している所らしい。

次は沈没船のある下流の水路、そしてパナマ運河を越える巨大な橋「アメリカ橋」をくぐってコーズウェイと呼ばれる下流の細長い砂嘴に連れていってくれた。運河側にはアメリカ橋、反対側にはパナマシティの高層ビル群が見える。「こんなにいろいろ回って貰って悪いなあ」と思っていたら、その後に実質アメリカのパナマ運河植民化の拠点運河管理庁のビルに連れていってくれた。

ここはもう閉館時間だったようなのだが、おじさんが特別に許可を取っていろいろ内部を案内してくれた。以前アメリカの旗がはためいていたこの建物にも今は誇らしげにパナマの国旗が掲げられている。その後もおじさんはパナマ民族村みたいなテーマパークの脇を通りながら解説してくれたり、少し景色の良いところを走ったりしてから夕方頃にホテルの真前まで送り届けてくれた。

ドライブの間にもいろいろ本に載ってないような事や、質問に答えてくれたりした。まずこの運河周辺はアメリカ領で、アメリカからやって来た人達がいまだに住んでいるらしく、ついこの前まではアメリカ軍の基地がいたるところにあって、我が物顔で歩き回っていたらしい。そんなわけでここには世界中の銀行や、アメリカの大学の支店がたくさんある。おじさんの娘もここの大学に通っていて、パナマ人には安い学費でそのままアメリカ本土の大学に進級できる制度もあるらしい。

一方おじさんはというと、昔ノリエガ将軍の時代に鉱物関係の仕事をしていたらしく、JICAの奨学金をもらって日本で4ヶ月ほど勉強していたらしい。他にも遠い昔大使の家族をホームステイさせていた事もあるとかで、それで日本人の僕にこんなにも親切にしてくれたのだろうか?

他におじさんは、カナダの永住権を持っていてカナダに住んでいた事もあるらしい。「英語は歳をとってからカナダでゼロから勉強したので、こんなアクセントなんだよ」と笑っていた。なんだかんだ波乱に富んだ人生を送っている人なのだろう。優しそうな顔にも人生経験の深さがにじみ出ていた。

失礼な事にそれまで名前も聞いてなかったので、別れ際に紙を差し出して「良かったら名前を教えて下さい」というと、すらすらと紙に書き込んで「私の名前はボリーバルだよ」と照れくさそうに言った。「え?あのエル・リベルタドールの?!」と驚くと、おじさんは更に照れくさそうに笑った。

ラテンアメリカの英雄の名前をもつこのおじさんは、最後に「今日は私を信じてくれてありがとう。今日のこの出会いも神が引き合わせたものなんだよ」と言った。「また日本に来て下さいね」というと「今度は家族と行きたいよ」と笑顔で手を振って走り去っていった。

なんておだやかな人なのだろう。その真っ白な肌は長年のハードな仕事のせいかシミだらけで、決して良い身なりではないけれど、たくさんの事を経験した人だけがもつ風格のような物を持っていた。捨てる神あれば拾う神あり。本当に日本で再会出来たらいいのに。

 

  これが         ここまで下がる


7月6日 サンホセへの道(パナマシティ〜サンホセ)

中米旅行者の常套移動手段といえばTICAバスという国際バス会社らしい。僕はどっちかというとローカルの方が好みなのだが、結局乗り継いでもそんなに値段が変わらないのでそのTICAバスを使うことにした。

出発は朝の11時、そしてサンホセには何と朝の4時についてしまう。今考えればローカルで行った方が良かったのだが、あまりパナマシティをうろうろするのも避けたかった。

バスはかなり大型なのだが、その分人も50人以上乗せるのでシート間隔が狭い。シートも見かけの豪華さとはうらはらにかなり腰が痛くなった。なによりもむかつくのは後ろの大きな白人の膝が自分のシートに当たってボコボコして気持ち悪くて仕方がないことだった。一方前にいる頭のハゲた白人が真っ昼間からシートを最大に倒すので足の置き場がない。どうやらこのバスは失敗だったようだ。

唯一の良いところは、このバス延々映画を流しているので夜中までに5本「爆破テロもの」「ジョーズ(かどうかしらないけど鮫のやつ)」「(オースチンパワーズのようなパロディもの)」「マミー(エジプトもの)」「刑事もの(ボクサーがリングで狙撃される)」もの映画を見た。

途中バスが全く動かなくなって、何事かと思ったらバスが事故ってパンアメリカンハイウェイを完全に封鎖してしまったらしい。1時間以上足止めをくいつつも僕は「これで遅れたらラッキー」と密かに喜んでいた。

イミグレーションではパナマ側で$1取られた。これは誰もから取っていたが、張り紙も手書きだったし、$1と引き替えにくれるプリントごっこで作ったような証紙も結局パスポートい張らずイミグレが回収していたし、国境の役人が勝手にやっているんじゃないかと思う。事実中米の国境ではこういう風に訳の分からないお金を結構取られるらしい。

コスタリカ側のイミグレは心配していた出国チケットも要求されずにあっさりと終わった。ただおばちゃんがスタンプを押さずにパスポートを返してきたので「え?スタンプいらないの?」というと「あれ押さなかったかしら?」とペラペラめくってポンとおしてくれた。おいおい。

両国ともイミグレだけでなく、陸路では珍しい荷物検査があった。それも全員の荷物を下ろして開けさして、かなり念入りでそして時間もめちゃくちゃかかった。イミグレと全部で2〜3時間ぐらい。全員開ける割にはそんなに細かく見ない。たとえば電化製品をばらして中に仕込めば麻薬でも何でも持ち込み放題なんじゃないのだろうか?国境以外からも楽勝で持ち込めるだろうし、あんまし意味無しだがアルゼンチンのように賄賂目的とかじゃなさそうなのでまだマシといった所だろうか?

国境を越えると後はひたすら寝たおした。途中結構な山道を走っていたようなのだが、気が付いたら目の前に大きなビルがあって、まもなくサンホセに到着した。あれだけ事故で遅れたにも関わらず、定刻の4時のさらに10分前だった。さてどうしていいのやら。辺りはヤミに包まれていた。


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