このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

ペルー編

(プーノ〜トゥンベス)


5月27日 光る湖(ラパス〜コパカバーナ〜プーノ)

当初一週間で抜けようと思っていたボリビアだが、蓋を開けてみると3週間近い滞在になってしまった。これはブラジルのような積極的な理由ではなく、単に高山病にやられて体が思うように動かなかったと言うのが一番の理由だ。不本意なのだが、これはこれで普通に旅していたら見れないような街の細かい所まで感じ取る事が出来たのでいいのかもしれない。

そして朝8時40分頃予約しておいたバスが宿に迎えにきた。このルートは値段も安く宿までピックアップに来てくれるというのでほとんどの旅行者がこのツーリストバスを使っている。ローカルで行くとティワナコの時のようにダラダラ客引きしていつ到着するか分からないし、こういう場所はこういう手段を使うのが一番だと思ったからだ。

さすがツーリストバスは、例のすり鉢の上の客引きスポットも素通りでビュンビュン快調に飛ばす。客引きスポットには50台以上のワゴンが叫びながら客を取り合っていた。コパカバーナまでの道は完全に舗装されていてなかなか快適だった。途中から山道になって、上からキラキラ光るチチカカ湖が見下ろせる。山を下りると港があってフェリーで対岸に渡る。

このフェリーがまた恐ろしげなもので、木で作ったバス一台がぎりぎり乗るようなイカダに小さな船外機が着いたようなものだった。波が来たら転覆しそうだ。そんな危なげなフェリーなので人が乗ったまま渡ることは出来ず、乗客は全員1.5ボリ払って小さなボートで湖を渡った。

しばらくしてから自分たちのバスもやってきて、さっそく乗り込もうと思ったら内側のタイヤがパンクしたのか、タイヤ交換を始めたので、辺りでお菓子を買ったりして時間をつぶした。30分ほどして無事修理が終わってバスは再び山道を登り始めた。

フェリー乗り場からコパカバーナまではすぐで、いきなり道路が未舗装の穴だらけになったかと思うとすぐにバス会社のオフィスに到着した。以前はコパカバーナの住民が勝手に「環境美化税」なる物を外国人ツーリストから取っていたようなのだが、今は悪事がばれたのかなんなのか、結局無くなったようだった。

オフィスでオープンになっていたプーノまでのチケットをコンファームしてから昼食を食べる為にレストランに行った。さすがにここはもうツーリスト向けレストランしか無いようでどこも高そうだったのだが、一軒昼定食が8ボリで食べれるところが会ったので入って見た。ここはメインが肉と魚が選べたのでもちろん魚を選ぶ。久しぶりの魚は美味しくて、ボーイも感じが良かったので思わずチップを払ってしまった。

コパカバーナからはTour Peruと言う別会社のバスに乗り換えで、こっちの方はボリビア側と違ってちゃんとした大型バスだった。バスの質を見ても両国の国力の差というものがわかる。ガタガタの穴だらけの道をしばらく走るとボリビア側のイミグレーション。そしてそのまま歩いてゲートをくぐるとペルー側のイミグレがあった。

バスの運転手が「後で両替所に連れていく」と言っていたのだが、他の旅行者からの情報で、国境の屋台で両替するのが一番いいと知っていた。ペルー側のイミグレに行くと、いきなり子供が群がってきて「ペンをどうぞ!」と差し出す。何人かの白人が「ありがとう」とそのペンを使っていたが、当然のごとくお金を要求されていた。

他にも「コレクションにするから日本のお金をちょうだい」というもたくさんいた。ま、この辺は国境だから腐った連中がたむろしているのだが、子供達は表情も明るく、まだいい腐り方をしていたのでホッとした。自分のペンで入国カードを書き終えて建物の中に入ると、盛大に机とボールペンが据え付けられていて思わず笑ってしまった。

白人で一部滞在日数をめぐってもめていたりしたのだが、僕の順番は至ってスムーズで、何も言わないのに90日のスタンプが押されて戻ってきた。この辺はビザ相互免除国の強みだろう。入国税もビザ代も一切払う必用がなかった。

手続きが終わるとバスはすぐに出発して、予想を遙かに超えて整ったペルー側国境の街に到着した。ここでバスは会社と提携した両替屋の前に横付けされて5分ほど休憩した。やはりペルーの国力はボリビアに比べると相当なもんで、ここからプーノまでの道は快適そのものだった。

プーノに着くとバスはバス会社のガレージの中に入れられて鉄板のドアが閉められた。そして小さな内ドアの向こうにはバンが横付けされて「提携ホテルへの無料送迎です」だと。ホントに商売熱心なこと。

僕は盗難に会うのがイヤだったので、他人のホームページに出てきた宿をいくつかチェックしていたのだが、最初に行こうとしたHotel Realという所はどうやら歩き方の地図がまるっきりウソでどこにあるかわからず、第二候補のLos Pinosという宿に行くことにした。ここは青山さんも泊まったところで、本には載ってないものの僕の歩き方は青山さんにもらったものなので、ちゃんとペンで書き込みがしてあった。

宿に着くと意外とよさげで、ホテルに二つ星のプレートがついてる。「ほんとにここか?」と思いつつ入って見ると、値段も聞いていた通り10ソルだったのでさっそく泊まることにした。シャワーが少しぬるめなのだが部屋は清潔そのものでコンセントもいっぱいあって、これだとお湯を沸かすのも楽でいい。

宿に荷物をおろすとさっそく両替。日曜で銀行が閉まっていたのだが、ドル札ならその辺の商店で両替できる。レートを聞くと$1=3.55ソルと普通のレートだったので50ドルほど両替した。ここペルーは偽札王国だと聞いていたので念入りにチェックする。偽札の見分け方のポイントはとにかく手触り。偽札はカラーコピーを使っているのでインクに厚みが無い。念入りに調べて一枚古くてインクの手触りがないのがあったのだが、おばさん曰く「これは古いから薄れているだけ」という事で、お札を持っていた白い紙に爪でこすりつけてみたらインクが落ちたので本物だろうとOKする事にした。

プーノは思っていたよりもずっと旅行者向けに開発されていて、通りには綺麗すぎるレストランが何軒もあった。ただ値段もボリビアに比べると結構するので地元民エリアを歩いてみると何やらバーベキューコンロから煙が上がっている。近寄ってみるとおじさんが「一口食ってみろ」と端っこを切ってくれた。食べてみるとこれがもうたまらないほど美味しい。ただのチキンなのだが、味付けというかタレが日本の焼き肉のタレそのまんまの味だった。ボリビアはずっと塩味だけだったのでもう大喜びで店に入ることにした。しかもレモンがたっぷりきいたサラダとポテトが付いてたったの4ソルでおなか一杯。すばらしい!

なんだかんだで物価が上がってしまったのだが、お金を出せばそれに見合ったサービスが受けられると言う点ではペルーという国はまずまずのレベルなのではないかと思った。

チチカカ湖横断フェリー
竹竿でよっこらしょ


5月28日 チチカカ湖の謎(プーノ)

「昔大陸は一つだった、チチカカ湖の謎」昔タイムボカンシリーズの主題歌とゼンダライオンの声をやっていた山本まさゆきという人の歌なのだが、この歌を聞いたときはとても神秘的なイメージを受けた。だから今日は朝から歩いて港まで行ってみることにした。

今プーノはあちこちで道路工事をやっていて、道がボコボコになっていて歩くのも大変だ。港にたどり着くとボートの客引きがやってくる。そして面白いのはここプーノではベトナムで走っていたシクロと同じ乗り物が普通に走っていて、買い物帰りのおばちゃん達も使っていた。

湖の畔にはチチカカ湖に関するデータが書いた看板があって、その向こうには蒸気船が止まっていた。チチカカ湖の標高は3920m。どうしてこんな所に湖が出来たのだろう?「昔大陸は一つだった」事と何か関係があるのだろうか?そんな神秘の湖も今は汚染が進んで、特にプーノ周辺は水深が2〜4mぐらいしかないので汚れているらしく、あちこちにアオコが浮いていた。

これでチチカカ湖終了というにはあまりにもアレなので、予定を変更して1泊2日のウロス〜アマンタニ〜タキーレ島ツアーを宿で申し込んだ。最初宿のオヤジは40ソルだと言っていたのだが、今日はおばさんが店番をしていて、値切らなくても35ソルになった。うーん、オヤジなかなかやり手だな。

ツアーが決まるとクスコへのバスのチケットも買っておくことにした。とにかく時間がないのでこれからは一日たりとも無駄には出来ない。クスコ行きは夜行中心で昼バスは少ないと聞いていたのでいろいろオフィスを回ってみるのだが、道路が完成してから増えたのか、今はどこの会社でも昼便を出しているようだった。

値段はCruz del Surという会社の屋根の上に荷物をくくりつけるタイプが15ソルぐらいから、そして最高級はOrumenhoという2階建てで男女別トイレまで付いた超豪華バスで、これはさすがの50ソル。もちろんヘッドフォンで音楽も聞ける。僕は中間のImexsoというクスコ路線専門のちょっといいバスのチケットを買うことにした。値段は25ソル。時刻表上は他のバスよりも早く2時にクスコに着くというのもよかった。

夜は2日連続チキンもアレなので、ツーリスト街のレストランでツーリストメニューなる8ソルのセットを食べることにした。これは結構どこの店にもあって、スープ、メイン、お茶がセットになっている。料理の方はそこそこだったのだが、途中からペーニャの楽団がやって来て演奏を始めた。

これがなかなかのレベルでこのぐらいならチップを払ってもいいかなと思っていたら、終わった後にCDを持ってテーブルを回っていた。さすがにCDは要らないのでチップを渡すと申し訳なさそうに「ありがとう」と受け取っていた。僕もアレぐらい吹けるようにサンポーニャを練習しないと。


5月29日 ひょっこりひょうたん島(プーノ〜アマンタニ島)

昨日の夜「8時20分に迎えが来るから」と言われていた。こういう場合はだいたい40分ぐらいに来るのが常なのだが、今日は時間前に来て驚いてしまった。慌てて荷物を預けてワゴンに乗り込む。ワゴンは何軒かの宿を回ってから昨日行った桟橋に到着した。

ワゴンには運転手の他に3人ほど乗っていたので、彼らがガイドなのだろうと思っていたら、桟橋で全く別の船乗り風の男に引き継がれた。ガイドは40才ぐらいで、スペイン語訛りで文法めちゃくちゃの英語を話す。でも何故か良く理解できるし、なによりもニコニコしていて人柄も良さそうだ。

船はしばらくアオコをかき分けながら一路ウロス島を目指す。ウロスとは草を積み重ねて作った人工の島で、水にプカプカ浮いているらしい。なんだかひょっこりひょうたん島を思い出してしまった。プーノがある巨大な湾は全部が浅瀬になっていて、水深2m〜20mぐらい。そして浅いところにはアシがびっしり生えていて、船は唯一アシの生えていない狭い水路を通っていく。水路の奥には灯台があって、そこを通過するとまもなく4つ程の浮島が見えてきた。

船が島に着くとさっそく2列に並んだお土産の屋台から声がかかる。「オニーサン、カッテクダサイ」うーん、こんな所まで日本語か?さすが観光客向けウロスだけの事はある。島を歩くとふかふかした感触が伝わってくる。所々結構深く沈んで、少し水がしみ出してくる。ガイドによると、これらの島は大体2mぐらいの分厚さのアシで出来ていて、120キロぐらいまでの体重なら充分ささえられるらしい。

島を一通り見たあとは、アシで出来た船に乗ってもう一つの島へ渡る。この船が一人2ソル。この距離にしては法外な値段なのだが、「一生に一度の経験」とほとんどのツーリストが乗るもんだから、船のおじさんはもう笑いが止まらないほどボロ儲けだ。なんだかほとんど売れてないおみやげ物やのおばさん達がかわいそうになってくる。

途中学校のある大きめの島を通り過ぎて、サンタマリア島という別の浮島に到着した。こっちもおみやげ物屋がびっしりと言った感じで、まあ観光客は観光客向けの所にしか行けないのだから仕方はない。これらの島は本当に漂流してしまわないように、島の中心に丸太を突き刺してアンカーにしているのだが、それでも雨期は増水して、時々少し流されてしまうらしい。いっその事エンジンを付けたらひょっこりひょうたん島みたいで楽しいのに。

ウロスを後にすると今度は延々船旅だ。薄い大気を突き抜けてくる紫外線が肌に突き刺さる。ブラジルで現地人並に焼けた自分には関係ないだろうと思っていたのだが、やはり紫外線の種類が違うのか、ほっぺたがヒリヒリするほど焼けてしまった。しばらくして湖の南北から突き出た巨大な半島を過ぎると急に波が高くなり、水もずっと綺麗になった。そして1時間ほどしてアマンタニ島の港に到着した。

船が近づくと民族衣装のおばちゃん達がわらわらと港に集まってくる。そしてガイドがツアーメンバーをそれぞれの家に割り当てる。とても全員に行き渡るほどの客がいないので、きっとこれは順番制になっているのだろう。僕もその中のおばちゃんに連れられて、山の中腹にある小さな家へと案内された。

宿に着くとさっそく昼食の準備なのだが、ツーリストが来る来ないはその日にならないと分からないので、宿に着いてから食事の準備を始めるので食事が出来た頃にはもう3時を大きく回っていた。食事はスープにつづいて、ご飯とポテトフライと目玉焼きが一つの皿に載ったものだった。質素ながら味付けの方は旅行会社の指導もあるのか、なかなかの物だった。

食事を平らげてしばらくくつろいでいると、家の女の子が集合場所の広場まで案内してくれた。家のある場所は段々畑のど真ん中で「この島にはお店なんて無いんだろう」と思っていたら、実は島の中心は広場のあたりで、この辺には店やレストラン、バーもあった。広場の中心には最近作られたと思われる真っ白なモニュメントが建っていた。

全員揃うとガイドが山の一番頂上にある寺院まで案内してくれた。これが結構な登りで標高も高いので息が切れる。メンバーのほとんどは高度順応していたのだが、一人カナダ人の女の子が高度障害で途中何度もダウンしていた。つい先日まで自分も高山病でやられていたので苦しさはよくわかる。本当に気の毒だった。

そして息が切れているのに加えて辟易してしまったのは、聞くに耐えない音楽。村の子供達が楽器を演奏しながらツアーのあとを着いてくるのだが、この演奏がとんでもなく下手くそ。サンポーニャ歴4日の僕の方がよっぽど上手いぐらいだ。そして事もあろうに帽子を差し出してチップを要求してくる。「金が欲しかったらもっとちゃんと練習しろ」と言うと「カラメーロ(飴)でいいから」だと。まったく。

そんなことにもめげずどんどん登ると途中にいくつもこの辺りの典型的な石で出来たアーチの門があった。そして門の前にはおばちゃん達がチョコレートやコーラを売っていた。そしてツーリストが通り過ぎると、風呂敷をまとめて近道で急な斜面をどんどん登って先回りする。頂上付近にはたくさんのお土産売りが居たのだが、あまりにも売れていなかったので気の毒だった。こんなんで商売が成り立つのだろうか?

頂上に着くと一段掘り下げたような祭壇があった。ここは一年に一回、祭りの日にしか使われないらしく、入り口が石でふさがれていて立ち入り禁止になっていた。寺院の回りを一周するとなかなかの景色だった。ボリビア側には雪をかぶった山々が、そしてペルー側にはタキーレ島ともう一つの島が見えた。

日が沈むと辺りはどんどん暗くなってきた。完全に暗くなる前に急いで山を下りていく。広場まで降りるとその辺のおっちゃんから「8時からペーニャがあるから来るんだぞ」と声がかかる。まあこれも現金収入の一環なのだろう。宿のおじさんも昼間同じような事を言っていたのだが、食事の後疲れてベッドに横になっていると無理矢理さそうでもなく「つかれたならゆっくり休みなさい」とそのまま寝かせてくれた。

アマンタニ島はここ数年で旅行者に解放されたらしく、当初はひどい有様だったようだが、最近はツーリストフィーバーも一段落して、例の子供楽団以外は特に嫌な思いはしなかった。宿のおじさんもおばさんも親切で、子供はあまり人慣れしてないのか僕と目が合うと恥ずかしそうにしていた。

見上げると月がちょうど半分に欠けていた。トランコーゾからちょうどひと月半が過ぎた事になる。急いで次の満月までには何とかナスカ辺りまでたどり着かなくては。

チチカカ湖に浮かぶウロス島


5月30日 パノラマ(アマンタニ島〜タキーレ島〜プーノ)

朝日で目が覚めた。窓から外を見ると聖なる湖の水面がキラキラと輝いている。朝のアマンタニ島はもや一つ無く澄み渡っていた。しばらくまどろんでいるとやがて、ユーカリを燃やすときの独特の匂いが漂ってきて、しばらくしてから宿のおばさんが朝食を運んできてくれた。

昨日疲れてすぐに寝てしまったのであまり交流というのが出来なかった。おじさんもおばさんも少しおみやげ物屋やペーニャを薦めたりしたが、断っても特に気を悪くすることなく最後まで暖かく送り出してくれた。

港に着くとあちこちの家にステイしていたメンバーがぞくぞくと集まってきた。それぞれの家族が港に整列して見送ってくれる。宿のおじさんはどうやらタキーレに行くらしく、そのまま船に乗り込んで舵を取ったりしていた。

朝のチチカカ湖は風があるせいか思いのほか揺れた。波は海に比べるとそれほどでもないのだが、やはりそこは湖用の船なので左右に大きく揺さぶられた。以前の自分なら少し酔っていたかもしれないのだが、南極ツアーを経験した今となっては揺れを楽しむ余裕さえあった。

近くに見えるタキーレ島だが結局一時間ぐらいかかって「第二の港」へ到着した。これはガイドのなかなかの好判断で、一番大きな港からだと街の中心まで延々100mまで階段を登り続けなければいけないのだが、こちらからだと雄大なパノラマを楽しみながら1時間程のトレッキングができる。高台から見下ろすタキーレ島の緑、そして朝の澄んだ空気を通してみるチチカカ湖は絶景だった。

しばらく登り続けると家が増えて、いくつか例の石のアーチをくぐるとやっとの事で中心の広場にたどり着いた。お土産物屋やレストランなんかがたくさんあって、なかなかツーリスティックだが、これはこれでいいのだと思う。お土産物売りから声がかかったりするが、しつこくもなく村の人はみんな物静かだった。

広場のすみには世界の主要都市までの方向を示した柱が立っていて、東京が一番遠いとおもいきや、ニューデリーにわずかの差で負けていた。その向こうにはボリビア側の雪をかぶった山々が遥か彼方に見えた。

島での滞在はあまり時間がなかったので少し味気なかったが、それでもメインの港に降りる途中に民族衣装を着て編み物をしている男の人をたくさん見かけた。この島では服は女の人が縫うのだが、帽子を編むのは男だけの仕事らしい。そして帽子の上が白いのが未婚、赤いのが既婚で虹色の帽子は少しえらい人なのだそうだ。

帰りは延々船に揺られ続けるだけなので途中眠り込んでいたらどうも首とか耳がヒリヒリしてたまらない。どうやら高地の紫外線を甘く見ていたようだった。鏡で顔を見るとまるで現地のインディヘナの人のように結構ボロボロになっている。ブラジルであれだけ焼けていたのに、、、

船は行きに見た観光用のウロス島を通って夕方にプーノの港に着いた。宿に帰る途中にツアーで一緒だった韓国人がなぜか日本の「あさげ」を大量に持っていて、3つほどくれた。なんでも韓国にはああいう粉末タイプのみそ汁が無いらしく、旅の時はいつも愛用しているらしい。お礼にこれから南の情報をいろいろと教えてあげた。

このツアー、「超感動!」というのには遠いが、$10もしないのに船に揺られて民家に泊まって三食食べて観光までしてなかなかお得だった。ちょっと焦り気味の今日この頃だが一泊ツアーにして良かったと思う。

タキーレ島から見下ろすチチカカ湖


5月31日 フィーバー(プーノ〜クスコ)

なんだかんだで本当に時間を食ってしまったが、やっとのことで中間目的地のクスコに行けそうだ。朝から荷造りしてそそくさとバス会社に行くとまだほとんど乗客は集まっていなかった。しばらくして発車時間が近づいたのだがやっぱり乗っているのは15人程だけだった。

「やばいなあ、これじゃ出ないかな?」と思ったのだがそこは少し高い会社だけあって、10分だけ頑張ってからクスコに向けて出発した。バスの車両もそこそこながら面白かったのは添乗員のお姉さんで「音楽何がいい?映画もあるわ」といちいち乗客全員に聞いて回っていた。そしてマイクでの案内が終わると誰かが「Karaoke」と言うとお姉さんも乗り気で、何曲かスペイン語の歌を歌ってくれた。なかなかのサービスだ。

他にもお茶と軽いスナックが出たり、一番眺めのいい4300mの峠の頂上で10分ほど休憩を取ったりとなかなか当たりの会社だった。しばらくして途中で対向の同じ会社のバスと乗務員の入れ替えがあったのだが、それからは途中で乗客を拾い出したりしてちょっと時間を食った。何よりもどこかの町がメイン道路にも関わらず完全通行止めにして工事をするもんだから、バスは延々山の方を登って、迂回だけで30分ぐらいロスしてしまった。

結局バスは1時間遅れで3時ちょうどにクスコのはずれのターミナルに到着した。ターミナルを出ると客引きがすごい。色んなホテルの客引き+タクシーでごった返している。「ホテルハナダ?」とか言うのもいるのだが、最近悪い噂しか聞かないので泊まらない。そしてタクシーもほとんど全部が白タクで、たまに首締め強盗と契約した「強盗タクシー」の被害に会う人もいるので、ちゃんと屋根に大きな看板の着いたタクシーをつかまえてアルマス広場まで連れていって貰った。

何せここは首締め強盗のメッカで、今でも月に数件は起きているらしいので迷いながらうろうろするのは避けたかった。だから紹介されたHotel Felixという宿をいちもくさんに目指して、部屋もあまり確認せずに泊まる事にした。しかしいざチェックインしてみると、部屋もボロいし照明が蛍光灯なので電源が取れない。それにシャワーもぬるいしいいとこ無しだった。まあ安全を買うという事で一泊して明日にでも別の宿を探すことにしよう。

無事荷物を守りきってホッとするとおなかが空いてきた。そう言えば今日は昼飯を食べていなかった。さっそくクスコで有名な日本食レストラン「金太郎」へ行ってみた。入り口には新しい日本人宿「八幡」のポスターが張ってあった。一泊$5、結構止さそうなのでここに移ろうか?

メニューを色々みて迷いに迷ったあげく寿司系のものが食べたくなって、「インカ丼」という怪しげなのを注文してみた。これはマスの刺身とアボガドのどんぶりで、ご飯もちゃんと酢飯を使っていて、ニュージーランドのテカポを通る度に食べていた「サーモン丼」に味が似ていてなかなか美味しかった。

宿に戻る途中、アルマス広場に大きなステージやへんてこりんな竹の櫓があったので「何だろう?」と思ってもう一度夜に出かけてみると、なにやら選挙運動のプロモーションらしく、コンサートがあったと思うと町の丘から巨大な花火がバンバン上がる。ペルーの事だから安全性なんて全く考えてないのか爆発する高度が異常に低くて、火の粉が下まで降ってくる。すごい迫力だ。

他にも応援演説で感情を込めて叫んだりしているのだが、支持者の反応はいまいちだった。面白かったのは、アルバイトと思われる20才ぐらいの青年が支持者のTシャツを着てだるそうに旗を振っている事だった。

いったん夕食を食べて広場に戻ると今度は仕掛け花火。昼間の竹の櫓は花火だったのだ。グルグル回るだけじゃなくて、そのまま空まで飛んでいくものやら、仕掛け花火の割に飛び道具が多くて面白い。もちろん何発かは群衆の中に飛び込んでちょっとした騒ぎになっていた。

帰りにスーパーに寄ると、今さっき見た風景がテレビで放映されていた。なんだか本来の目的を外れて楽しいお祭り騒ぎになっていて、広場を取り囲む武装警官さえも花火を楽しんでいるようだった。なんだか少し辛気くさいペルーボリビアなのだが、今日はなかなかいい日に到着したようだった。

いまいち気が重かったペルーだが、これは結構楽しめるかもしれない。

4300mの峠にて


6月1日 白いキリスト達(クスコ)

昨日はとにかく危険を避けたかったのでわき目もふらずまっすぐ駆け込んだこの宿だが、いざ泊まってみると夜は寒いし、部屋も清潔ではないし、お湯も夕方にイスラエル人がシャワーのタンクのお湯を全部使い切ってしまうとかで好きな時間にシャワーも浴びれない。やっぱり宿を移ることにした。

新しくできた日本人宿「八幡」はフェリックスの横の路地をさらに100mぐらい入っていった人通りの無い路地にあって、表から見ると分からないのだが内部は綺麗にリフォームされていて、洗濯機、キッチン、そして洗濯物を干す芝生の庭まであっていい。部屋もコンセント、スタンドはおろか、羽根ふとんまであって至れり尽くせりだ。

宿で少し落ち着いてから昼食を食べに金太郎へ向かった。金太郎ははっきり言うと値段が高い。日本茶2ソル、そして味噌汁単品が何と4ソルもするのだが、昼の定食だけは安くて、味噌汁、漬け物、メイン、お茶まで着いて10ソル。300円ほどだ。これなら毎日来てもいい。

おなかが一杯になると、今度はサンブラス教会へ向かった。昨日宿を見に行った時の話によると、チリであった「大道芸人」がクスコに長期滞在して創作活動をやっているらしい。そして彼は近々サンブラスのあたりで個展を開くのでその準備に大忙しというのだ。

長い坂道を登って教会前の広場に出ると、見覚えのある長髪の後ろ姿が。「覚えてるかな?」と少し遠慮がちに声をかけてみるとびっくりした様子で「おお〜!のり!!元気か?」と力強い握手をかわしてくれた。前には幅3mはありそうな巨大なキャンバスが置いてあって抽象画が書かれていた。

何でも個展は来週からで、今は最後の作品を書き上げている所らしい。しゃべっている途中にも次から次へと現地で来た友達がやってくる。彼はなんだかすぐに友達を一杯作ってしまうそういう才能があるようだ。

しばらく話し込んでから「山の上の方がいいよ」というのでどんどんと坂道を登っていった。上を見上げると山の頂上に白いキリスト像が建っている。どこから上がるのかよく分からず斜面の狭い道を進んでいくと「Jesus Blanco」という看板があったのでそれを登ればいいのだと思っていたら、なんとそれはバックパッカー宿の看板で、宿を越えて登っていくと林のようになって、ひたすら林をかき分けながら登って行くしかなかった。

途中で上から下りてきたおじさんがいたので聞いてみたら、どうやらこのまま草をかき分けて登ればいいらしい。他にもどっからきた?とかペルーはどれくらいいるのか?とか休憩を兼ねて簡単な会話をかわしてから再び登った。

崖を登りきると上には立派な舗装道路があって、そこからキリストまでは歩いてすぐだった。キリスト像の前には例によってお土産の露店がたくさん出ていた。山の上から見下ろすクスコの街並みは赤煉瓦一色という感じで、ここはやはり歴史を持った街なのだと思った。

汗が引いてから今度はどうやらそれが正規のルートらしい道を通って下りようと思ったら、その道沿いにある巨大な石垣は有名な遺跡なのらしい。せっかくだから階段をのぼって行くと目の前に幅300m程のまさにカミソリの刃一枚通さないほどの精密で巨大な石垣が現れた。

ここはインカ軍の砦だったらしく、反対側は断崖絶壁になっている。一通り歩いて回ってからコンクリートに石を埋め込んだような道を下って宿に戻った頃にはもう陽も暮れかかっていた。

宿にはNHKの映るテレビがあって、本棚にも本がたくさんある。夜は本を読んだり他の旅行者と話たりしてアッという間にすぎてしまった。まずい。日本人宿のペースにはまりそうだ(笑)

サクサイワマン遺跡


6月2日 日本人宿(クスコ)

今日は日本人宿のペースに巻き込まれてしまった一日だった。朝起きるといい感じでテラスに陽がさしていた。紅茶を入れてパンを食べてから本棚を見ると見てはいけない物が、、、手塚治虫作「ブッダ(全7巻)」まずいと思いつつ読み始める。

昼前になるとみんなロビーに集まってきて旅話に花が咲く。そのまま食事に出かける。金太郎に行ったら今日の定食はイマイチだったので、日本人経営のペルー料理屋「プカラ」でセットを食べることにした。

午後からははりきってタクシーまで使って明日のマチュピチュ行きのチケットを買いに行くがなんと土日は午前中だけしかやって無くて結局明日の朝いちで駅に行って買うしか無いようだ。

駅からの帰り道歩いていると広大な芝生に切り出した石がゴロゴロしているところがあった。なんでも地下が博物館になっているらしい。博物館にはそんなに興味が無かったのだがその隣にあるサントドミンゴ教会という所に行ってみた。

ここは昔のインカの神殿をスペインがつぶしてその上に教会を建てたところらしい。入場料がいるのだが、中に入ってみるとインカの石組みやスペイン時代の宗教画がたくさんあってなかなかの見応えだった。

夜は10ソルでイタリア料理のコースを食べてみんなでNHKののど自慢を見た。まあ少しぐらいは休憩しないとね。

クスコのアルマス広場
後ろに家々の明かりが見える。


6月3日 選挙(クスコ)

6時に目覚ましがなった。これからいよいよあこがれのマチュピチュだと思うとわくわくしてしまう。あわただしく朝食を書き込んでパッキング。宿の小僧に荷物を預けてタクシーでクスコ・サンペドロ駅をめざす。

そしてさっそくチケットを買おうと思っているとなんと駅の警備員に「Hoy No Servicio」(今日は列車無いよ)、なんと!今日はこの前盛り上がっていた大統領選挙の決選投票なので、列車は6時発の一本だけになったらしい。駅には何人かの人が慌てていた。何でも彼らは前もってチケットを買っていたらしいのだが、チケットは7:30発になっていて、全くコンピュータでは管理されていなかったようだ。

仕方ないので宿に戻ってテラスのパラソルの下でブッダの続きを読んだりしてダラダラ過ごすしかなかった。昼飯は7ソルのイタリア料理屋、夜はまるでカオサンのようなツーリスト通りでメキシコ料理を食べた。

明日はちゃんとチケットがあるので、今度こそマチュピチュに行ける。でも何だか行くのが怖いような気もする。


6月4日 忘れられた空中都市(クスコ〜マチュピチュ)

ペルーの鉄道会社は最近民営化されたらしい。そして儲け主義に走ってなんとローカル列車から旅行者を追い出してしまった。つまい外国人はドル建てで距離からしたら法外に高いツーリスト専用列車に乗らなくてはいけなくなってしまったのだ。

ツーリスト列車には、アウトバゴン、インカクラスの往復$70のものと、バックパッカーと呼ばれる$30の物がある。当然貧乏パッカーは$30の列車にしかのらないのだが、それでも地元列車の5倍以上値段を取るのでそこそこいい列車だと思っていたのだがそれは大きな間違いだった。

列車は去年までローカル列車で使っていたようなボロボロの車両で椅子は4人掛けの向かい合わせで、向かいの人と膝同士がぶつかってしまうぐらい狭い。しかも僕の車両なその中でも一番ボロい車両で、台車もガタガタなのか走り出すと体中に力を入れていないと窓枠に叩きつけられてしまうほど揺れる。本当に肩に青あざが出来るほどひどい揺れだった。

今だかつてこんなひどい列車には乗ったことが無い。途中不覚にもうつらうつらしていたときに、頭を思いっきり窓に叩きつけられて、おでこにコブが出来てしまった。外国人料金まで払わされてこの酷さにやり場の無い怒りがこみ上げてきた。

そしてまだある。バックパッカー列車や線路はボロボロのくせに新しく出来た外国人専用のマチュピチュ駅の駅舎はおよそ列車に似合わない程の豪華さだった。全部が金網で覆われていて、中には会社経営の高いカフェなんかがあって、もちろん普通のペルー人は金網の柵から中に入る事すらできない。ペルー人用の列車は別の300mほど離れたボロボロの駅に着くようになっているからだ。

駅を出るとたくさんのマチュピチュ遺跡行きバスがとまっていた。バス代は何と往復で$9。$9もあればアレキパやプーノあたりまで余裕で行けてしまう。しかもこれもドル建てで計算されていてソルで払うととんでもなく端数が出るのでまたまた怒りがこみ上げてきた。

バスで延々と九十九折りの道を登って遺跡の入り口に着いたのだが遺跡の入場料も最近倍の$20に値上げされて、当然学生証を出して半額で買う。ここまでやられるともう何の罪悪感も感じない。

まず最初に上から遺跡を見るべく坂道をどんどん登っていく。途中ガイド付きの白人の老夫婦が居たので付かず離れずで説明が聞こえてラッキーと思っていたらなんとガイドが「お前先に行け」という。気を遣って先に行かせてくれるのかともって追い抜きざまに挨拶したが、ガイドは無視した。彼はたんにタダで自分の説明を聞かれたくなかっただけらしい。減るもんじゃないのに。

朝からいやな事だらけで盛り下がるのだが、見晴らし台から見下ろした遺跡は本当に素晴らしかった。空に浮かぶ遺跡。遺跡の縁には可能な限りの段々畑が作られていてリャマが草をはんでいる、なんだか何百年も前にここで住民が農作業をしている光景が目に浮かぶようだった。

リャマと忘れられた空中都市

結局この風景がマチュピチュの一番の見所で、1時間以上もぼーっとこの景色を眺めたあと一応遺跡を回ってみることにした。屋根のない石の建物の間を通り抜けてあちこち回ってみる。一通り遺跡を回った後中央の広場に寝転んで昼寝をした。朝が早かったので気持ちよく眠れた。

夕方になってそのうち雨が降り出した。天気雨だったので雨のしずくが遺跡の上でキラキラしてなかなかいい風景だった。そして谷底を見下ろすとはるか下の方に巨大な虹が見えた。昔の人々もこの遺跡から虹を見ていたのだろうか?

最初は2日かかるかと思っていたのだが、マチュピチュ遺跡は思ったよりも小さくて半日で充分という感じだったので閉店前に下に下りることにした。帰りは歩く人が多いのだが僕はここのマチュピチュ名物「グッバイボーイ」を見たいが為に往復チケットを買っていたのだった。

バスが走り出してからしばらくして、突然道路脇に真っ赤なインカの衣装をまとった子供が現れて「グーーッバーーイ」と叫ぶ。そしてバスが九十九折りを走っている間に歩行者用の階段で先回りして、またまた「グーーッバーーイ」バスの中は大いに盛り上がる。手を左右じゃなくて前後に振る変な振り付けもイカしている。

噂には聞いていて、想像では少年が草とか木をかき分けて崖を滑るように駆け下りるという激しい物だったのだが、実際見てみると歩行者用階段をトコトコ降りるだけだし、バスはゆっくりなので全然余裕で間にあっていて、階段の途中でバスが来るまで待っているようだった。これなら僕でも充分できそうだ。

バスが下に着くと少年は乗り込んできて「グッバーーイ、アディオーース」と叫んでからチップを集めて回った。僕はこれを楽しみにしていたので喜んで少しばかりの小銭を袋の中に入れた。これで階段を駆け上がる「ウェルカムボーイ」でもいれば面白いのだが、さすがにこれは結構トレーニングが必用そうだ。

マチュピチュ名物「グッバイボーイ」

麓の村、アグアスカリエンテスに着くいて宿に荷物を下ろすとさっそくタオルと短パンを持って温泉に出かけた。アグアスカリエンテスというのはスペイン語でお湯という意味なのだが、その名の通り町外れに温泉があって、日本人バックパッカーの間では結構有名なのだ。

温泉には大小のプールがあって、大プールの中ではたくさんの白人がビールを飲んでいた。お湯は日本人にはぬるくて、僕はお湯が沸き出している暖かい所を探してしばし温泉気分にひたった。お湯がぬるい物だから1時間でも余裕で入っていられる。本当は熱い温泉に入りたいところなのだが、それでも充分疲れがとれた。

温泉からの帰りも川沿いの坂道の両脇に並ぶお土産屋を見ていると、まるで日本の温泉旅館街に来たような気がした。


6月5日 温泉街はぼりぼり天国(マチュピチュ〜クスコ)

昨日は早起き、疲れ、温泉の三拍子で死んだように眠った。そして目が覚めると10時過ぎ。宿の人にチェックアウトは何時か訪ねると、10時だという。お願いして11時まで部屋を使わせて貰うことにした。

今日の列車は夕方の4時半、時刻表によると12時ぐらいにオリャンタイタンボ行きの列車があったので、それに乗ってそこからバスで帰ろうかと思って駅員に相談すると、変更は全然問題無いのだが今はその列車は走ってないそうで、次の2時のオリャンタイタンボ行きは上級クラスで12ドル追加がいるらしいので、結局変更はしなかった。そしてマチュピチュは昨日で充分堪能したので今日は全くすることがない。川沿いを歩いたり、おみやげ物屋を冷やかしたり、広場に座って本を読んだりとひたすら時間をつぶす事に一生懸命だった。

アグアスカリエンテスには一応鉄筋で出来た小さなメルカドがある。野菜、肉、そして食堂が何軒かあるような建物で、さぞかしのんびりしているのだろうと思っていたら、これがものすごくぼってくる。氷のような味の無いアイスを「1ソル」とか言ってくるし、メルカドの食堂のおばはんさえ、アルメルソ(定食)4ソルとぼってくる。4ソルもするならそんなに現地人が食べるはずないだろう!

昨日の夜も小さな女の子が屋台の店番をしていた。チキン一切れと少しのポテトフライをプラスチックの皿に入れたものなのだが何と言い値は3ソル。約$1だ。「高すぎる」というとどいつもこいつも一気に値を下げる。そりゃマチュピチュを見に来たツアーの旅行者が法外な額を落としていくのだろうが、こういう嫌なぼり方は久しぶりだったので少し腹がたってしまった。

川沿いを散歩しているとグッバイボーイの乗ったバスがやって来たので、「ぐーーっばーーい」と手を振ってみると向こうも笑顔で手を振り返してくれた。そして降りてきて驚いた事に、グッバイボーイじゃなくてグッバイガールだったのだ。女の子は上にはおっていたインカの衣装を脱いで丁寧にたたんでから家に帰っていった。今日の営業は終了なのだろう。

やっとの事で4時になったので、チケットを見せて金網の門を開けて貰って1人のペルー人客もいない駅へと向かった。入り口でチェックされたのに、駅舎に入るときにえらそうに「チケット」と言われて少し腹が立ったが帰りの列車の車両は同レベルではあるものの、行きと比べるとそんなに老朽化が進んでいなくて、めちゃくちゃ揺れる物の怪我をするほどでもないのがせめてもの救いだった。これなら$30でも何とか我慢できる。

帰りの列車は満月の谷をひたはしった。遠くの雪山や川の流れ、全てが満月に照らされて神秘的な白に輝いていた。谷を抜けて最後の坂を登りきると眼下にクスコの夜景が広がった。満月なので星はほとんど見えないが、かわりに地上にはまばゆいばかりの光の粒が広がっていた。

地元民が使う方のアグアスカリエンテス駅


6月6日 もう一休み(クスコ)

結局クスコでは観光らしい観光はあまりしなかった。観光地スポットよりも街並み自体が観光資源だとおもったし、「八幡」の居心地が想像以上によかったのもある。昨日見れなかったNHKの連続ドラマ「ちゅらさん」を見てから金太郎に昼食を食べに行くと、今日は照り焼きハンバーグだった。

昼食後はバスのチケットを買いに行くことにした。次の目的地はアレキパかナスカ。あまり考えずにとりあえずテルミナールまで歩いていった。ここからナスカは大回りのアレキパ経由で24時間。アバンカイを通る山越えルートで30時間ぐらいと聞いていたので、アレキパを通っていこうと思ったら、今は舗装道路が出来てアバンカイ経由のほうは16時間と圧倒的に早い事が分かった。最近はリマ行きもこのルートを通るのが多いらしい。

行き先が決まると次はどのバスに乗るかだが、これがちょっと難しい。へんなのに乗るとあちこちで客引きをして進まないばかりか、トイレ休憩もなく、ヘタしたら荷物を丸ごと盗まれてしまう。ペルーでは荷物ごっそりというのが結構多いらしく、イスラエル人は絶対現地人を信用せず、勝手に屋根に登ったりトランクに入ったりして、長いチェーンでイスラエル人の荷物だけをまとめてくくりつけている。

自分の場合はそこまでしないのだが、オフィスの雰囲気や係員の対応なんかで会社の質を見極めながらマシそうな一軒の会社でチケットを買った。オフィスには豪華バスの写真が貼ってあって、「セミカマで快適」とか言っているがそんなのはウソであることは先ほど駐車場に停まっているバスを観察していたので分かっていた。

「通常は60ソルだが君は学生だろうから55でいいよ」というのだが、座席表を見るとすみの方に50とか60とか小さな数字が書いてある。ははあ、これが売値か。せっかくの親切だが50で乗っている人が居るのにそれ以上払うのもあほらしいので、僕にしては珍しく値切ってみるとあっさりと50になった。ちょっと頭悪いよ。

チケットが手にはいると、昨日行けなかった「大道芸人」の個展を見にサンブラスまで行った。本人は居なかったがアトリエの主人が案内してくれた。絵は抽象画ばっかりだったのだが、2つほどひかれる物があった。一つはサボテンを食ってきまっている時い書いた物らしい。

何と言うことは無かったクスコ滞在だが、いい宿といい街並みの中でゆっくり出来て良かったと思う。

クスコの裏通り


6月7日 ぐにゃぐにゃ(クスコ〜ナスカ)

12時前にちゅらさんの再放送を見てから八幡さんにお礼を言って宿をでた。タクシーは相変わらず3ソルと言ってくるが、クスコの適正価格は2ソルらしくどの運転手も一発で値を下げてくれる。最初は警戒していたペルーボリビアだが、昨日のアグアスカリエンテス以外でぼられた事はほとんど無かった。

バスは案の定ボロボロではないが、古めのバスで前の人が2段階リクライニングすると膝が椅子にあたってしまうほど詰め詰めだった。僕は後ろの人に気を遣って1段階だけ倒していたのだが、後ろの対して大きくないオヤジが足癖悪くて、シートを膝でぐりぐりやるものだから背中がボコボコして気持ち悪い。南米のバスはシートに板が入ってないから後ろから蹴られるとダイレクトに感触が伝わってしまうのだ。

一方道路の方は綺麗に舗装されているものの、簡単に1000m登ったり降りたりを繰り返す程のぐねぐね道で、車に弱い人なら絶対酔ってしまうだろう。遠心力に振り回されながらずっとアンデスの山並みや段々畑を眺めていた。

夜中寒くて目が覚めるとバスは月に照らされた谷を走っていた。一度アバンカイの2800mぐらいまで降りたのだがこの寒さはきっとまた4000m級の山を越えたのだろう。その後うつらうつらしていると少しずつ空が白くなってきた。周りの景色をみるとだいぶ麓まで降りてきたことがわかる。

バスは緩い坂道をまっすぐ下っていくのだが、不思議なことに道の左側は荒涼とした草一本無い瓦礫の山で右側は草木が生い茂っていた。そんな風景を見ているとまもなく街の明かりが見えてきて程なくナスカの街に到着した。早朝のナスカは濃い霧にすっぽりと覆われていた。


6月8日 古代の落書き(ナスカ)

バスを降りると客引きが寄ってきた。「タクシー?」「オニーサンヒコーキ」うーんさすが観光地。ナスカ情報は前もってクスコで聞いていたので宿も目星をつけていた。近くで掃除しているおばさんにアルマス広場の方向を聞いてからそっちに向かって歩き出した。

所がなんだか地図と全然違う。どうやらバスはナスカの街の外の違う場所に停まったらしい。迷っていると一台の車が止まって「タクシー1ソル」という。普通なら超怪しいのだが、男は赤ちゃんを連れていたので用事で街に戻るついでに1ソルでも稼ごうという事なのだろう。

走りながらも色んなホテルを指差して、ココは安いよ。と言うが特に薦める訳ではなく約束通りアルマス広場で下ろしてくれた。そして目的のEl Pajonarという宿を見つけた時、片言の英語を話すお姉さんに捕まった。「私はそこで働いているの、Pajonarという宿よ」と言うので着いていったら、結局はただのツアーの客引きで、すぐに部屋にやってきて遊覧飛行の話を持ち出してきた。

以前は遊覧飛行の相場は35〜50ぐらいだったらしいのだが、僕は今は25ドルで乗れるという情報を聞いていた。最初彼女は35から切り出してきた。地球の歩き方にロウシーズンで35ドルと書いてあるので日本人にはその値段から始めるのだろう。ここで僕は一歩も譲らずにひたすら25ドルを連発していると最後にはそれでいいことになった。本当は教えて貰った代理店で申し込もうと思っていたのだがまあ同じ事だろう。今日は霧が立ちこめているので10時に迎えに来るらしい。

しばらくしてから宿のおばさんが起きてきた。おばさんはいきなり「あなたツアーにいくら払ったの?」と黒板に値段を書き出した。おばさんによると今は遊覧飛行25ドル。ミラドールのツアーは5ドル。それ以上払っちゃダメよと教えてくれた。この宿は地上絵の勧誘をするでもなく、行きたいと言うと一番安い旅行代理店を紹介してくれる本当にいい宿だった。

約束の10時前に電話がかかってきて「霧が濃いからフライトは11時になった」と言うのだが、きっと他の5人組の客が見つかったのでそっちを先に飛ばしたのだろう。空は青空だった。やがて11時に迎えが来て途中で2人組のカップルを拾ってから空港へ向かった。

空港は大きな滑走路があって、その脇に50m間隔ぐらいで各々小型機を1〜4機ぐらい持った小さな会社のオフィスが並んでいる。僕たちもその一つに案内されたが、全然飛ぶ気配がない。なるほど。客引きの彼らは会社という物でさえなく、単に5人集めて会社に引き渡すだけなのだろう。

結局後から連れてきた客が5人組だったので先に飛ばれてしまった。2時間程経ってからようやく2人組が現れて飛べる事になった。僕は「他の人は$50払っているのだから絶対に値段は言わないように」と口止めされた。市内には$25と看板を出している店まであるのに何バカな事を言ってるのやら。しかも「空港税5ソルを払ってくれ」ときた。最初に「TAX込み」と言っていたので反論すると「全員払っているんだぞ」と非難するように言ってくるのだがそんな言われはない。ウソをついた向こうが悪いわけでもちろん払わない。どうせ他の客から豪快にぼってるのだろうから儲けは充分過ぎるほどあるだろう。

客引きとは裏腹に機長は気さくな人で、僕は機長の隣に座ってあわただしくいろんなレバーを操作するのを眺めていた。やがて飛び立つと最初に「鯨」が見えてきた。急旋回するとまるで体中の血が足に集まるような変な感覚にとらわれた。以前だったら酔っていただろうが南極で鍛えられたの後なので、途中ほんの少し気分が悪くなる程度で済んだ。

鯨の次は「宇宙飛行士」だというのだが、これはどうみてもガチャピンにしか見えない。地上絵はかなり薄くなっているので見えにくいのだが、それでもサル、コンドルといった超有名な絵が実際に見れて興奮してしまった。それにしてもこの二つ。サルがぐにゃぐにゃの曲線を使ったマンガのような絵なのに比べてコンドルの方は、まるで近代測量技術を駆使したかのように精巧に書かれている。そんな対比も面白かった。

ガチャピン

フライトを終えると、飛ぶ前にびびっていたフランス人の女の人もおおはしゃぎだった。僕はもう一度地上から絵を見てみたくなって夕方出発するミラドールのツアーを申し込んだ。言い値は7ドルだったが宿のおばちゃんのおかげで5ドルまで値切れた。

ナスカの街からミラドールまでは25キロほど。延々砂漠の中を120キロぐらいで飛ばす。街の外れに料金所があるのだが、運転手は難癖付けられて賄賂を2ソルほど払わされていた。

まず最初にミラドール」の近くの丘に登ると丘のまわりにたくさんの直線が見えた。これは絵の一部とかではなくてナスカのあちこちにこういうただの直線がたくさん引かれているらしい。線といっても幅は30センチほどで深さ1センチほど石ころを取り除いただけといった感じで意外だった。

ミラドールの方は小学校の遠足とぶちあたって、大混雑だったのだが、途中子供と一緒に登らせて貰うと「手」と「木」の地上絵が見えた。ミラドールは思ったよりも高くて、登るときはたいそう怖かったが登ってみるとあとはひたすら広大な風景なので全然高さは感じない。

一体誰が何のために書いたのだろう?気になるところだが、ぼんやりと地上絵を眺めていると、これはこれでこのままずっと謎だった方がいいような気がした。

ミラドール


6月9日 首都へ(ナスカ〜イカ〜リマ)

最近疲れがたまっているのだが今日も6時に起きなければいけなかった。昨日バスの時間を調べに行ったのだが、ペルーではバスターミナルと言うものがほとんど無くて、各々のバス会社が自分のオフィス前から出発するので情報を集めるのがとても面倒だ。結局2社ほど見つけたのだが、出発は7時15分と10時45分。タダでさえ治安がわるいと言われているペルーのしかも治安のわるい首都であるリマには何としても夕方までにつきたかったので選択肢は無かった。

オルメーニョという一応ペルー最大手のバスに乗ったのだがやっぱりサービスまでいいのはロイヤルクラスという2階建てバスだけのようだった。荷物タグもくれなかったので、ちゃんと乗務員が荷物を積み込んでトランクに鍵をかけるところを見届けてからバスに乗り込んだ。

まるで中東に戻ってきたようだった。延々と続く砂漠。たまに現れる家々も泥の煉瓦を積み上げて作ったようでまるでスラムのようだった。ボリビアから入ったときにこの国は豊かなんだと思ったのだが、それはほんの一部で、まだまだどうしようも無いほどの貧富の差があるようだ。

途中イカで何故かバスを乗り換えさせられたのだが、次のバスは冷たくは無いもののエアコンが入ったバスで、一応大手の面目を保っていた。ただ途中にバス会社の査察員が乗ってきた所で一悶着あった。よくこういう国ではバスのルートの途中で査察員が乗ってくる。これは乗客のただ乗りを防ぐ為ではなく、乗務員の不正を防ぐ為だ。エジプトやインドなんかではよくある。

所が乗客の数と車掌の切ったチケットの数が会わないらしく全く発車する気配がない。僕は連日の寝不足でうとうとしていたのだがそのうちしびれを切らしたペルー人達が騒ぎ出した。とりわけ僕の後ろのおばさんは「バモスバモス」(早く出発しろバカ!)とわめくので逆にこのおばさんの方がうっとおしかった。

首都リマは記憶が確かなら1200万人程の大都市らしい。だから最初はサンチャゴやブエノスアイレスの様な街を想像していたのだが、リマが近づくにつれてそれは間違いだという事に気が付いた。道が4車線になって6車線になっても周りの家々はブラジルのファベイラ(貧民街)とかわらない。車の量、排ガス、散らかったゴミ、ホコリっぽい街はまるでカイロの様だった。

バスはこれまた汚くてごちゃごちゃした、いかにも治安のわるそうな通りの一角にある専用ターミナルに到着した。扉は閉ざされて「安全」のはずなのに、なぜか門番と顔見知りのタクシードライバーが中に入ってくる。

リマでは時々首締め強盗とグルの強盗タクシーも混ざってるので公共交通機関の方がいいかとも思ったのだが、なにせ現在位置があまり分からないので仕方ない。わざと警官の立っている隣まで行って、向こうから走ってきた人相の良さそうな登録タクシーをつかまえてセントロの広場まで行ってもらった。

リマでは全ての貴重品を宿に置きたかったのでそうすると信用できる宿に泊まらなければいけない。そう言うときのベストは日本人宿で、僕は南米の大都市では出来るだけ日本人宿かロンリープラネットに載っているような宿に泊まるようにしている。そして今日は八幡の情報ノートにあった「沖縄」という宿を目指した。

着いてみるとここは宿というよりもホテルで、2〜3人部屋のドミトリーとなっていたのだが、今は客も少ないので相部屋になることもない。各部屋にはホットシャワーが付いているし、部屋もベッド6個は入りそうな大部屋だった。ロビーではNHKも見れるのでこれでちゅらさんの続きも見れそうだ。

荷物を下ろすとお腹が空いたのでさっそく表通りに出てみた。宿がどセントロにあるので1分でペルー名物アルマス広場だ。ここリマのやつはとても綺麗に整備されていて美しい。通りが汚いリマだがこういう場所はかなり力をいれているらしい。

広場を通り過ぎて歩いているとやたら人通りの多い通りを見つけたので入っていくと、そこはまるで日本の商店街のような賑わいで、レストランやソニー製の家電なんかがあふれていた。この辺はさすが1200万人の首都という感じだ。

リマにはさらに洗練されたミラフローレスという地区もあるらしいので、明日はそちらの方に行ってみようと思う。

リマ・セントロのカセドラル


6月10日 断崖の新市街(リマ)

昨日疲れていたて早く眠ってしまったからか思いのほか早く目が覚めた。部屋が大通りに面していて車の音がうるさかったのもある。とにかく二度寝出来そうにもなかったのでそのままロビーにでてテレビを見ることにした。昨日同じ宿の日本人達にワールドカッププレ大会の決勝戦「日本対フランス」があると聞いていたのだ。

2階に降りるとまだ7時前なのにみんな勢揃いしていた。結局試合は0−1のまま終了して日本は負けてしまった。まあ相手がフランスだけに仕方がないのだが、別に全然相手にならないほどでもなかったので、レバノンで見て以来着実にレベルを上げているのだろう。

今日は久しぶりに都会らしい都会が見たくなって、ミラフローレス地区というリマの新市街に行くことにした。宿の日本人に聞くととにかく「ミラフローレス」と書いたコレクティーボに乗ればいいというので、近くのアバンカイ通りと言う大きな通りに出てみたがそれらしいのは全く見かけず、代わりといってはアレだが、パレードがやってきた。

一体何のパレードかしらないのだが、それぞれのダンスチームがブラスバンドの前で踊ったりしていて、8団体ぐらいが続いて行進してくる。最初の方はなぜだかみんなつまらなさそうに踊っていて、中盤以降は表情も明るくノリノリで踊り狂っていて楽しかった。そしてパレードが去ったので、もう一つの大通りまで延々20分ぐらい歩いてミラフローレス行きのバスに乗った。

セントロとミラフローレスは思ったよりもずっと遠くて、結局バスで30分以上かかった。地図でバスのルートを追いかけていたのだが、途中で完全に見失ってしまって、どうしようかと思っていると遠くに海が見えてきたのでその辺りで降りることにした。

とにかく海に出れば地図で現在位置が分かるだろうと歩いていくと、いきなり男女が寝転んで抱き合っている巨大な像のある公園に出た。その名もParque del Amor(恋人の公園)そしてもっと驚いたのはその公園の下が100mぐらいの断崖になっている事だった。

公園だけでなく、リマの街自体が巨大な台地の上にあって、海側は全部が断崖になっていた。海を見下ろすと大きくて幅何キロもある波が沖から十も二十もやってくる。もちろんサーフィンを楽しんでいる若者達もたくさんいた。

現在位置を把握してからミラフローレスの中心部に向かって歩いていくと、またまた公園があった。ネコチェア公園というので猫の形をしたベンチでもあるのかとおもったら、よく考えたら猫って日本語。(笑)もう一つの公園を通り過ぎると崖をくりぬいて作ったような大きなショッピングセンター兼レストラン街が見えてきた。

ショッピングセンターはラルコ・マールと言う名前で、中にはおしゃれな雑貨屋とかゲームセンターとかちょっと入れないような高そうなレストランからファーストフードまで。建物自体がオープンテラスになっているので各階からは海が見下ろせてまるで神戸のハーバーランドの様だった。

ミラフローレスの中心部にも行ってみたのだが、大部分の商店は日曜日なので閉まっていて、一部の飲食店やスーパーぐらいしか開いてなかったので公園で大道芸を見たりして時間をつぶしていたのだが、一つ小さな円形劇場っぽいのだ公園にあったのだが、記憶が確かならここはドロンズの二人が南北アメリカ横断ヒッチハイクをしたときにコントをしてお金を稼いでいた場所だ。ヒッチハイク関係といい大沢たかおの深夜特急といい、自分が行った場所ばかりなので帰ったらビデオでも借りて見てみようかと思う。

突然カーニバル


6月11日 蕎麦食いねえ(リマ)

治安最悪と恐れられているリマだが、昨日今日と歩いてみた感じでは、最低限の事に気を付けていれば安全に過ごせそうだし、にぎわっているエリアは警官もたくさん居て意外と安全だと言えそうだ。

今日は特に予定は無かったのだが、いつものようにアルマス広場にさしかかったときふとカセドラルが目に入ったので中に入ってみることにした。ここはツーリストには有料で、中に博物館があって、地下のカタコンブをちらっと見ることができる。そして目玉は入り口付近に置かれた、南米征服の父(?)ピサロのミイラだと言われる棺だ。ピサロのミイラは棺に入っているのでいまいちピンとこなかったが、美術館はそこそこ見応えがあった。

カセドラルの次はサンマルティン広場に向かった。こっちはピサロと対照的にボリーバルと並んで南米解放の父と呼ばれている。広場には大道芸人とかがいて結構にぎわっていて、僕はその広場に面した銀行で$50ほど両替をした。

そんな感じで大したことはしてないのだが、時間ばっかりが過ぎていってすっかり昼を回ってしまったので、昼食を食べるために「日秘会館」というなんだか秘密めいた名前のついたただのペルー日本人会館へ向かった。もちろんお目当てはその中の日本食堂だった。

食堂は結構他の所と値段設定が違って、通常すごく高いうどんが結構安値だった。僕は10ソルのカツ丼を頼んだのだが、漬け物と有料のはずの日本茶もなぜかサービスで付いて味の方もまあまあよかった。

そして昼食後はそのまま会館内にある移民資料館に向かった。ここにはペルーの歴史、日本の歴史を交えて移民の歴史に関する展示がしてあった。もちろん日本語表示もあるので素早く理解できて、移民が持ってきた古い日本のレコードや色んな品々もなかなか見応えがあった。

移民の歴史がわかったついでに、ペルーの歴史もというわけで、そのまま近くにあるという国立博物館へ向かったのだが、こっちの方はあいにく月曜休館で見ることができずにそのまますごすごと帰ってきた。アルマス広場で座っていると、二人組の女の子に声をかけられた。なんでも日本語を勉強したいとかいうので、警戒しつつもいろいろ教えて上げると喜んでくれた。

そして一旦宿に帰ってから、情報ノートで発見して以来楽しみにしていた沖縄そばを食べに、なぜだか中華街にあるチキン屋に向かった。ここは本当にただのチキン屋なので気を付けて看板を見てないと見過ごしてしまう。中にはいると日本語をしゃべれない日系人と思われるおばさんがとびきり大盛りのそばを持ってきてくれた。

そばといっても沖縄そばというのはほとんどうどんで、具も卵、焼き豚、チキン、かまぼこと本当にいっぱいで、やっとのことで全部平らげるとお腹がいっぱいになってしまった。こんな南米のはずれでホテル沖縄に泊まって沖縄そばを食べているなんて何だか不思議な気分だった。

日秘会館の移民資料館


6月12日 荒野(リマ〜トルヒーヨ)

今日は長い移動だった。リマからトルヒーヨまでは夜行もあるのだが、その先のトルヒーヨからエクアドル国境までは夜行しかない距離なので、それだと朝着いて遺跡を見て移動という車中に連泊になってしまうので、しかたなしに朝早くリマを発つ便を選んだ。

バス会社はペルー最王手のオルメーニョなのだが、この会社はやっぱりダメだった。オルメーニョは傘下に4社ほどの子会社を持っているようなのだが、安いクラスは全部下請けの一応バスの色だけは親会社と同じにペイントされた古い車両で、乗務員も当然下請けなので、あちこちで客引きしたり、接客態度も悪いしいいとこなしだ。

まず出発時刻を過ぎてからターミナルにやってくるし、街に入るともうコレクティーボ並に停まって全然進まない。そして査察が入らない区間は切符も切らずに客を乗せまくっていた。僕は半ば呆れながら窓の外を眺めるしかなかったのだが、今日はその景色がすごかった。

果てしなく続く砂漠。すぐ近くに海が見えるのに辺りは全てが砂と瓦礫の世界だった。瓦礫だったかと思えば今度は何十キロも細かい微粒子の砂漠が続く。道路も砂漠のうねりの上に無理矢理乗せたような感じなので、常にアップダウンを繰り返して地平線まで続いている。

夕日が沈んでそんな荒涼とした景色さえ見えなくなってしばらくしてから、予定から大幅に遅れてトルヒーヨのターミナルに到着した。もう二度とオルメーニョには乗りたくないので何軒か辺りの会社で聞いて回ったのだが、夜の10時頃のものしかみつからなかった。明日は北部に強いという別の会社を当たってみるつもりだ。

宿はロンプラに「牢獄の様だがまあOK」と表されているHotel Limaという所にとった。安いと言っても$3近くする割にはトイレもシャワーも汚いしお粗末だ。ただ部屋がボロいなりに清潔にしてあったのと、荷物をちゃんと倉庫に入れて管理してくれるというので泊まる事にした。なにせ明日は遺跡巡りをしなければいけないから何としても荷物は預けたかったのだ。

今日は精神的にも肉体的にも疲れて、電球に国民ソケットをかまして電源を取る元気も残ってなかったので、パソコンはおろかお茶も入れずに眠り込んでしまった。ちょっと疲れがたまっているのかもしれない。

砂漠の中を延々続くパンアメリカンハイウェイ


6月13日 チャンチャン(トルヒーヨ〜トゥンベス)

朝目覚めると部屋はやっぱり監獄の様だった。昨日の夜の様子だとおそらく他にだれも泊まってないのだろう。宿帳を見たら自分の前は6月7日とか書いてあった。英語のガイドブックにも載っているのに、やっぱり今はツーリストの居ないシーズンなのだろうか?

とりあえず宿に荷物を預けて遺跡観光に行くことにした。宿ではちゃんと鍵のかかる部屋に荷物を入れてくれたので安心だ。

まず最初は南米ならどこにでもあるアルマス広場に行ったが、カセドラルはあまり大したことはなく、そのままエルドラドのバスオフィスへ向かった。バスは豪華なトゥンベス行きと、普通(ぼろい)の国境の街アグアベルデまで行くものの両方があった。おじさんは「普通の方もゆったりした綺麗なバスだ」というのだが、なら大げさに「セミカマ」とか書くはずなのできっと旧式のボロバスだろう。発車時間が早いのと国境まで行くというのでそのバスのチケットを買った。

そしていよいよお待ちかねのチャンチャン遺跡なのだが、乗り場が分からずうろうろしていると、ワゴンの客引きに声をかけられて乗り込んだ。客は少なかったのだが、なぜか客待ちもせずに猛スピードで遺跡へ向かう道の交差点まで連れていってくれた。

交差点から遺跡までは少し距離があって、歩くと20分ほどかかってしまう。とはいうものの、チャンチャン遺跡というのは都市遺跡で、遺跡全体だととてつもない広さらしい。だからメインの遺跡に行く途中の道の両脇には数え切れないほどの雨で溶けた遺跡の残骸が残っていた。

遺跡に着くとさっそくチケットを買って中に入った。この遺跡は矢印に沿って進めば全ての遺跡が見れるようにちゃんと順路が組んであって回りやすい。そして矢印通りに角を曲がるといきなり目の前にメインの広場が広がった。「おお、かわいい!!」そう、この遺跡のレリーフは全てがまんがのようなかわいい絵で構成されていて、この広場は周りの壁全部とリスのような鳥のような絵で囲まれていて思わず和んでしまう。

他のブロックには魚やペリカンのレリーフもあって、壁は菱形のくぼみがたくさんあって今まで見てきたどの遺跡とも違った感じがして新鮮だった。わざわざ途中で降りて寄ってみた甲斐があった。他にも遺跡の奥の方に展望台が作ってあって、そこから見下ろす街並みは、死の町「アルゲ・バム」にも少し似ている感じがした。

遺跡のあとは、博物館を見てから今度は海沿いのワンチャコ海岸へ向かった。なんでもここではチチカカ湖で使われているようなトトラ船を使った漁が見れるらしい。そしてバスは海沿いをしばらく走ってからワンチャコの街に着いたのだが、生憎海は大荒れで、かろうじて見れたのは浜辺に突き刺してあるいくつかのトトラ船だけだった。

仕方ないから他の遺跡も回ろうかと思ったのだが、街に戻るときに降りる場所が分からずそのまま乗っていたら超大回りをして街の反対側に着いたので、歩いてセントロに戻ったりしている間にいい時間になってしまって、そのまま荷物を受け取ってバス会社に向かった。途中日本マニアの青年に会って、いろいろ日本語を教えていたのも時間を食ってしまった原因だが、たまにはそういうのも楽しくていいのかもしれない。

バスは密輸品と思われる品々を大量に積み込んで出発した。10時発の豪華バスとは月とすっぽんの車両だったが、シートは意外と広かった。ただ街ごとに客引きをしまくって、ひどいところは延々30分以上止まった上にやっと出発したとおもったら、街を一周してまた客拾いポイントに戻ってきてしまった。まったく。

チクラヨを過ぎてからはもう大した街もないのでバスは快調に飛ばした。僕もいつの間にか深い眠りに入っていたようで、田舎の寂れたボロ車庫で目が覚めたと思ったらトゥンベスの街だった。車掌はイミグレに着いたらおろしてあげるというので、またもう一度寝ようとしたが寝付けず、そのまま国境までの寂れた風景を眺めていた。

チャンチャン遺跡のかわいいレリーフ


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください