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朝起きたら体が言うことを聞かない。どうやら相当疲れがたまっているようだ。ただ頭の方は幸いにもまだまだ元気なので、今日はもう一日ここでのんびり休んで明日ダカールへ向かうことに決めた。考えてみたら昨日着いたのが夜だったので、せっかく来たのに何も見ないのはもったいない。とりあえず昨日買ったパンで腹ごしらえをしてからゆっくりと外をぶらつく事にした。
昨日は暗くてよくわからなかったのだが、僕の泊まっている宿は川の中州に有るらしく両岸と橋で結ばれている。両岸と言っても川は海岸とほぼ並行に流れているので中州から海側の岸に渡るとすぐに砂浜がにたどり着く。町はのんびりしていて海側の岸にはたくさんの露店が並んでいて、なぜだか古いドライバーやチェーンなどの工具を売っている店が山ほどあった。
そして海側は貧困エリアなのか、ものすごい数の子供達が手を出して口々に「サンフラン サンフラン!」(100フラン頂戴)とうるさくつきまとってくる。とにかく会う子供全てがそんな調子だったので最初は少しガッカリしたのだが、そう言うのも含めて楽しめないとアフリカの旅なんて出来ないのかもしれない。そう思うと寄ってくる子供達にもおだやかな心で接することができた。
海岸に近づくと大西洋から高さ5mは有るんじゃないかと思う程の波がどんどんやってくる。海岸には伝統的な形のカラフルな船がたくさんあって、水揚げされたばかりの魚を求めて多くの人達が群がっている。そして子供にお金をねだられながらそんな様子をながめていたのだが、時折特大の波がやってくるとみんな一斉に逃げ出す。僕は逃げ遅れてさっきまで砂浜だったところが深さ30cmぐらいの海になってズボンが膝あたりまでびしょぬれになってしまった。やれやれ。
寄ってくるのは子供ばかりじゃなく自称「漁師」のおじさんなんてのもいる。彼は最初英語で話しかけてきて、ひさしぶりの英語だったので、ふむふむと聞いていた。そして「自分には奥さんと子供が4人いる」と何度も何度も同じ事を繰り返して、そのうち「そして今はフィッシングはノーグッドだ」ほほう。「家族にはお金が必用だ」なるほど。そんなやりとりに腹が立つどころか笑ってしまった。「だめだめ」というとおじさんは「レッツゴープリーズ」と僕を追い払った(笑)
その後ものんびりと町を一周した。一応小さなツーリストインフォメーションがあって、レセプションは一応英語を話すようで、ここで近くにある野鳥公園のツアーのアレンジなんかも出来るらしい。中州の島はあまり貧しい人はいないのか、服も「着倒れ」というほどカラフルで、出会う人も「サバ?」と話しかけてくれる。そんな感じでダラダラと一日過ごすと夕方にはだいぶ体の方も回復した。
夜はこのあたりの伝統料理の「ヤッサ」を食べにローカル食堂へ入ったら、何と日本人の大学生にばったりと出会った。まさか西アフリカのこんな小さな町で逢うとは思わなかった。彼は大学をサボって来ているらしく、来週帰って速攻で卒業論文を書かなければいけないらしい。別れ際に「余ったから」とマラリア予防薬をたくさんもらったのだが、これは買おうと思っていたメフロキンではなくピリメタミンという今ではあまり予防には使われていない物なのか、この前入手したWHOのマラリア関係のマニュアルには載っていなかった。
昼間あれだけ暑かったのに夜になると肌寒いほどで、ザックの奥から寝袋カバーを引っぱり出す程だった。
なんだかんだで少し予定よりも遅れたがダカールに向かう日がやって来た。何でも昨日の大学生によるとダカールは結構治安がわるいというか、うるさく旅行者につきまとってくる奴らが多くてうんざりらしい。とはいってもここへ行かないと話にならないので朝からガル・ルティエールへ向かう。
色んな所から「ダカール?」と声がかかるのだが、ここで適当なのにお金を払うと何時間も車内で待つことになってしまうので、人でほぼ埋まった7人乗りのタクシーブルースを見つけて乗り込んだ。程なく満員になって時速100キロでダカールを目指す。
相変わらずサバンナをどんどんと走っていく。所々死んだ動物の死骸にはげ鷲がたかっていて、ここがアフリカである事を改めて感じる。草原の上にはぽつりぽつりとたくさんのバオバブの木が立っていた。
途中何度か町を通る度にちょっとした渋滞があったのだが、最後の奴はなかなか大渋滞で「おや?」と思っているとダカールの入り口にさしかかったようだった。ダカールはとにかくものすごい数の人、人、人。車、車、車でなんだかインドを彷彿させるカオスを形成しているようだった。僕は町の外れでプジョーを降ろされて地図で現在地を確認するとどうやらバスターミナルの近くのようだった。
ロンプラによると、「ダカール市内には効率的で綺麗な公営のバスが走っている」事になっているがそんな物は全くなかった。どうやらもう今では走っていないらしく、例のギューギュー詰めワゴンが走っているのだが行き先を聞いても要領を得ないので3キロ程を歩くことにした。
それにしても人も車もものすごい混雑で歩くのも大変だった。そしてダカールには店を持たない歩行者の物売りが山ほどいて、いちいち声をかけてきたり、引き留めようとするのですごく面倒だ。英語をしゃべる奴らはインドで日本語をしゃべる奴らと同じ様なノリで「チーププライス、見るだけ」等々しまいには日本語で「アリガトー チョットミル」なんてのまでいてうんざりしてしまう。
そしてやっとの事で宿にたどり着いたのだがやはり値上がりしていて、結局ここダカールの宿代はどう頑張っても一日$7以下にはならないようだった。やれやれ。そして宿でゆっくりしていると僕はショックな物を目撃してしまった。壁に蚊が止まっているのだが、おしりの方がぐぐっと高くなっている。これはまさにマラリア蚊そのものだった。
「べしっ」とつぶすと血が噴き出した。ひょっとしたら自分の血なんだろうか?出来たらぎりぎりまでマラリア予防薬は飲みたくなかったのだがこれはもうそんなことを言っている場合じゃないので、サファリホテルで旅行者に一錠だけもらっていたメフロキンを飲むことにした。あとはこの薬が血液に行き渡ってマラリアに勝ってくれる事を祈るばかりだ。
僕は次にマリへ行く予定だったので、ターゲットを水曜日発の国際列車に絞っていた。だから日程にはかなり余裕があったのだが何事も先手を売って置いた方がいいに決まっているので、その足で情報を集めるために日本大使館へと向かうことにした。
「日本大使館の親切度は訪れる旅人の数に反比例する」とよく言われるが、ここは全くその通りで僕の姿を見かけるとわざわざ日本人の係員の人がいろいろと話しかけてくれた。あいにく医務官の人は出張で留守らしくマラリアの相談は出来なかったが、図書館には旅行者の情報ノートがあって、そっちでいろいろと情報を仕入れることができた。
さすがに人が少ないので情報の数も少なく、サハラ越えばかりが充実していてこれから先の情報は少なかった。そして僕はここで一つショックな情報をゲットしてしまった。何でも今はマリ行きの列車は土曜日の1本のみだというのだ。もし本当にそうなら予定が大幅に狂ってしまう。こんな所で9日間も過ごすのだけは何としても勘弁して欲しいところだ。とりあえずこの件は明日にでも駅に聞きに行ってみるしかない。
ノートを読んでいると日本人らしい女の子がパスポートの増補にやって来た。彼女はさすがにこんな所を旅しているだけあって、わりとフランス語を話す。マダガスカルで以前に習っていたらしい。こんな事なら僕もNHKのテレビフランス語講座ぐらいはやっておくんだったなあ。帰りは彼女がタクシーで町に帰るついでにタダで乗せて貰えてラッキーだった。
用事が済むとおなかが空いてきたので出かけることにした。ダカールは西アフリカ一の大都市というイメージがあったのだが、実際はそうでもない。ショッピングコンプレックスが有るわけでもなく、世界中どこ二でもあるマクドナルドやKFCのかげさえ見えない。やっとの事で外国人向けと思われる定価販売のスーパーを見つけて入って見た。製品はほとんどがフランスからの品物のようで結構な値段がするが、品揃えはまあまあだった。
スーパーの近くに薬局があったのでためにし「メフロキン」は無いか聞いてみたら、あっさりと出てきた。さすがマラリア王国西アフリカ。モロッコやスペインじゃ何処を探してもなかったのに。ちなみに値段は1ヶ月分(4錠)で4000CFA(600円ほど)と少し高いが今のところこれが最強のマラリア予防薬と言われているので買う事にした。
すっかり日も暮れたので、安くて美味しいという噂の「Le?」という食堂に行ってみることにした。セネガルでも一応ラマダーンをやっている人はたくさんいるのだが、西アフリカのモスリムは何だかアラブの物とはかなり異質に見える。人種が違うというのもあるが、女の人もそんなに髪の毛を隠していないし、なんだかんだ食べている人も多い。何よりもこの街にはフランス人が多いので昼間でも食べ物に困る事は全くないのだ。
結局またまた魚のヤッサを食べる事にした。理由はこれが一番安かったから。やっぱりダカールはに西アフリカ一物価が高いというので倹約しないとね。
今日は土曜日なんだけど、午前中は開いている店が多いらしいので慌てて出動した。まず最初に行ったのがアメックスの旅行代理店。僕はこの西アフリカのあと南米に飛ぼうと思っているのだが、普通はそんなことをする人はいない。だから航空券の情報が全くないのだ。ただ西アフリカの玄関といわれるダカールなら何となく南米行きも有りそうだとおもったのだ。
代理店のお姉さんは割と英語が話せたので助かったのだが、あいにく航空券の方はかちゃかちゃ端末を叩いた後出てきたのは結局正規運賃で20万以上する物だった。お姉さんも「あら、これは高すぎるわね」と呆れていた。要はこの区間には格安航空券と言う物が存在しないのだろう。アビジャンかアクラに望みを託すというのもあるが、これはもう基本的に南アフリカかヨーロッパへ飛んでそこで探すしかないのだろう。
少し町をぶらついているとマルシェ「ケルメル」のあたりまで来てしまった。ここはツーリスト向けっぽいと聞いていたので物売りの攻勢を予想していたのだがそれほどでもなく、しかも肝心のケルメルマーケットの方は完全な食料品のマルシェだった。買う物は無いのだが見ているだけでなかなか楽しめた。
そして次は懸案の列車だ。ダカール駅に行ってみると相変わらず何年も改正してないと思われる時刻表が張ってある。それによるとたぶん、列車は水曜と土曜で、水曜の分のチケットを月曜に発売するというような事がフランス語で書かれていた。「なんだあるやん」と思って念のために駅長室を訪ねたのだが、なんと水曜の列車は本当に無いらしい。
オールフランス語だったので意志疎通は困難を極めたが、ともかく今は土曜日しかなくて、どうしても水曜に行きたいならマリの国境の町カイまで行って、そこからマリ国鉄の列車があるのでそれに乗るといいという。駅長さんは「カイへ行くバスだ」といって地図に印を付けてくれたので、情報を集めるべく30分ほどかけてその場所へ向かったのだがどうやらガセネタだったようだ。
セネガルは基本的にギューギュー詰めバスか、7人乗りのプジョーしか交通機関がないらしいのだが、何とマリ方面のタンバクンダ行きの快適で安いバス会社があるらしいのでそっちのオフィスにさらに20分ほど歩いて行ってみる事にした。例によって会話はすべてフランス語なのだが、なにやらダカール〜タンバクンダ、タンバクンダ〜セネガル側の国境まで割とまともなバスが走っていて、値段もギューギューバスよりも安いらしい。ただ出発が朝の4時半と言うのだけがネックだった。とにかくこれは健闘する価値がありそうだ。
情報を聞き出すともうくたくただったのでタクシーで戻ることにした。せっかくだから博物館でも見ようかと「IFAN博物館」まで行ってもらうことにしたのだが、何故かタクシーはいつの間にか海沿いに出て地図と全く違う方向に走り出した。「おいおい」といって運転手に止めさせて地図を見せる。
そうやらその方向にIFANという地名が有るのかどうかは知らないが勝手にそっちだと思いこんでいたみたいで、「町に戻るなら追加料金だ」と言ってきて口論してもらちが開かないのでお金を払わずにタクシーを降りることにした。少し良心が痛んだが乗るときに確かに「IFAN Musee」といって向こうも納得していたのだからそれは当然だと思うことにした。
運転手もそれじゃ納得行かないのかしつこく着いてくる。歩きながら窓越しに口論して結局もとの1000CFAで博物館まで言ってくれることになったので再びそのタクシーに乗る事にした。博物館は各部族の仮面や腰みのみたいな衣装が展示されていて興味深かったが、展示内容は博物館が苦手な僕は「え?これだけ?」と思うほど少なかった。
そう言えばダカールに来てから観光と言うものをしていない。ダカール自体あまり観光しても楽しそうな街ではないのだが、その沖に浮かぶかつての奴隷の積出港であるゴレ島はなかなか良いらしい。本当は空いている平日に訪れたかったのだが月曜日は博物館が閉まっているというので慌てて今日出かけることにした。
船着き場はかなりの人で賑わっていた。住民1000CFA、アフリカ人2000CFA、その他3000CFAといまいち釈然としなかったがま仕方ないだろう。20分の船旅の割には結構な金額だ。船に乗り込んで座っていると二人のアジア人らしき人が乗ってきた。
こういう場合は中国人と相場が決まっているのだが、何となく服装が日本人っぽいので最初は現地の駐在員の方かなと思ったのだが、何と船乗りの人で今ダカールに寄航しているらしい。彼は水産庁のマグロ調査船の乗組員で機関員らしい。なんでも乗組員以外としゃべるのが久しぶりらしく、僕との出会いを凄く喜んでくれた。
船は20分ほどでゴレ島に到着した。「綺麗な島だなあ」と言うのが第一印象だった。ダカールの港は茶色に濁っていたのに本の少し離れるだけで水は透き通って澄んでいた。桟橋にたくさんの人が居たのでまたまたガイドの押し売り攻勢か?ともっていたのだがそれほどでも無かった。
タダ一人しつこいのがいて船員さん達が出稼ぎのガイドを連れていたにも関わらず「ここはオレの住んでいる島だからオレがガイドする」としつこく着いてくるのが居た。それ以外はお金を要求してくる子供もまったく居なくてお土産屋のおばさんも「サバ?」とおだやかだった。
この島の見所は、城、砦、奴隷の家といった所で、なにやら船員さん達が船に招待してくれるというので、帰りの時間を打ち合わせして別々に回ったのだが結局あちこちで出会うことになった。そして島は見所よりも見所意外の街並みや風景と言ったところが素晴らしくて、植民地風のパステルカラーの建物に熱帯植物が茂っていて、昔の悪夢を全く感じさせなかった。
そして案内された彼の個室は日本製品であふれていた。日本の本や噂のプレステ2なんかもあって、噂の椎名りんご(?)のDVDを見ながらアサヒスーパードライをごちそうになった。「ぷはーっ これだよ!これ!!」エジプトでもヨーロッパでもハイネケンやバドワイザーが飲めるんだけど、やっぱりビールはこの味でしょう!!
他にも圏外ながらNTTのインターネットが出来るという携帯電話があったりして時間の流れを思い知らされた。彼とはなかなか話が止まらず結局2時間ぐらい話し込んでしまって、お土産に冷凍甘栗とビールをもう1缶。そしてペットボトルに海水から生成されたというハイテクで製造さえた飲料水まで汲ませて頂いて最後に船を案内してもらった。
僕は以前船の通信士になりたくてそう言う船舶関係の装備品にはかなり興味があったので、ブリッジに上がると思わず驚喜してしまった。JRCや古野といった業務向けの機材がぎっしりつまっているのを見ているとヨダレが出そうだった(笑)そして何よりも驚いたのが船自身のシステムがWindows NTになっていた事だった。
航海関係の各種制御機器までがTVモニターとマウスでコントロールするようになっていた。舵はまるでセスナ機のような小さなハンドルが1つ着いているだけだった。予想外の出会いにくわえて普段見ることが出来ない船の内部まで見せてもらって本当に楽しい一日だった。
船を下りると岸壁にお土産売りがたむろしていた。もうかれこれ3泊も船の前で寝泊まりしていて、なんと飲みに行った帰りの気が大きくなっている船員達を待ちかまえているのだそうだ。そして思惑通り$20程度のアフリカの太鼓を$200で買ってしまった乗組員がいるらしい。ご愁傷様(笑)
昨日はなかなか楽しい一日だったが、やはり旅行者にとってダカールの生活というのは物価が高い割にあまり心地の良い物ではない。水曜の列車が無いのはもう仕方がないので、あきらめてバマコまで飛行機でひとっ飛びというのに密かな期待を持っていた。
そして朝からさっそくヌーベルフロンティアといういかにもフランスチックな格安航空券屋へ行ったのだが、こっちの方はAir Africの$160ぐらいのチケットしか扱っていなかった。土曜日に聞いた情報だと火曜日にエールマリのフライトがあって、これなら空港税込みで$110。列車の倍ぐらいなのでそれほど高くもない。
そしてこのチケットを手に入れようとさっそく別のアメックスの代理店にもなっている旅行会社に行ったのだが、何とエールマリのフライトは月曜と金曜にしかないのらしい。他の代理店でたしか火曜日にあると聞いていたのに、どうやらガセネタだったらしい。と言うわけで金曜まで待っていられないのでマリへは強制陸路という事が決定した。
その足でこの前のセネガル唯一の「バス会社」Alzar Transportのオフィスへ予約をしに行った。オフィスといってもガソリンスタンドの一角に鉄板で出来た2畳ほどの小屋があるだけで、オフィスへ行くとこの前の係員が僕の事を覚えてくれていたらしく、さっそく予約名簿に名前をかき込んでくれた。どうやらお金は出発当日に払うらしい。これ以外の方法だとギューギューミニバスか、同じくギューギュー乗用車のタクシーブルースしか無いので、3時に起きてでもこれで行くのが一番楽だろう。
ダカールからキディラまでは全くの順調だった。心配していたバス乗り場までの足も、宿の前で一晩中たむろしている「連れ込み客用」のタクシーがいたので全く困ることなく、3時半にはもうバス乗り場に到着したのだが、バス乗り場にはもう既にそこそこの人がいた。
このバス会社の面白いところは乗り込む時に係員が一人ずつ予約名簿の名前を呼んで順番に車内に入るというシステムをとっている事で、僕は昨日ちゃんと予約していて名簿の3番目だったので楽勝で良い席を確保することができた。遅く行った人は通路に椅子を置いただけの補助席なのだが、チケットの値段が補助席の人には割引になっているという点も面白い。
バスはうだうだ客集めをすることもなく、朝の4時半に真っ暗なダカールの町からまるで夜逃げでもするように結構なスピードで走り去った。バスはかなりの年代物なのだが、一応メルセデスのバスで、乗り心地もエンジン性能も他のとは比べ物にならず、僕は昨日あまり寝てなかったのでアッという間に眠りに落ちてしまった。
目が覚めるとカオラックの町だった。ダカールと比較するとセネガルの地方都市はあまりにも小さい。交通の手段として平気で馬車が走っていたりするのだが、これから行くマリと比べるとこれでもかなり都会なのだろう。
モーリタニアを出てから移動すれば移動するほど「アフリカらしく」なっていく。このあたりになると、もうバオバブの木なんて当たり前のようにある。延々サバンナが続いて、サファリにいるような動物を見かけないのが不思議な程だった。
結局タンバクンダまで8時間、そこで別のバスに乗り換えてさらにセネガル側の国境の町キディラまで3時間半。計11時間を越えるバスの旅を終えて川沿いの国境にたどり着いたのはもう夕暮れ時だった。
セネガル側の町中の警察で出国手続き。そしてマリ側の町ディボリの同じく町中の警察で入国手続き。このあたりは国境で出入国手続きが出来ないのがなんか変な感じでしかも時間がかかる。そして時間がかかっている間になんと夕方のカイ行きのブッシュタクシーが満員になって出発してしまったのだ。
キップ売りは「次の便で行け」というが、キディラは電気も来てないような小さな村なので、これからカイへ向かう人なんて望めない。そして何時間か待っている間に日もどっぷり暮れて「次は明日の朝だ」とか言われた。宿も無く電気もない。ただあるのは雲一つ無くオリオン座を探すのさえ困難な程の満天の星空だった。僕はもう開き直ってブッシュタクシー乗り場の竹のベンチにごろりと横になった。これがアフリカなんだ。
しばらくするとモスクワに留学しているというマリ人の女の子と同じくマリ人の紳士がやってきた。彼らは何とかタクシーをシェアして今晩中にカイまで行きたいらしい。僕もその話に乗ったのだが、結局人数が少なくて値段の折り合いが付かずにこの話は流れた。替わりになぜか突然夜10時頃に1台のブッシュタクシー(バッシェ)がカイへ出発する事になったのだが、これが悲劇の始まりだった。
バッシェは、これ以上どうやっても詰め込めないという程人が乗っているのに、最後に体重100キロぐらい有りそうな大男が乗ってきて、5センチぐらいの隙間に無理矢理ケツをねじ込む。動かせない程度ですんでいた僕の膝は、今度はもう血が止まって鬱血してしまうほどになった。
それでもまだ悪路を走っているうちは飛び跳ねたりするので定期的に血が通ってまだマシなのだが、事も有ろうにとうとうサバンナのど真ん中で故障して止まってしまった。そして運転手とパトロンは何と対向車に乗り込んでそのままどこかに消えてしまった。
途方にくれる一同だが、そのうち開き直っておしゃべりが始まる。「ワシはー、こんなひどいー旅はーはじめてじゃー!」「もしー あと2回ーこんな事がーあったらー もう一生旅なんかーせんぞーっ!」何でも無い会話なのだが、一同は爆笑する。
「ひとりで、よかったわい。もしーかみさんとー一緒だったらー、絶対にげられるわー!」もう止まらない。一同おなかの皮がよじれる程笑う。そして笑い声だけが満天の星空に吸い込まれていく。すべてがハイになっていた。星空もおじさんもおばさんもすべてが。
やがて1時間ぐらいして別の乗用車に乗って運転手とパトロン他数名が戻ってきて修理を始める。結局1時間以上かかって夜中の2時ぐらいに車は再びスタートした。客席はあくどい商売をするパトロンへの悪口で大爆笑だ。まるで修学旅行の夜行列車のように。
「みんなで行こう、季節外れのシュールな修学旅行へ。一晩中大声で笑い飛ばそう、最初から僕たちに選択肢なんて無いんだから。笑うこと以外に」
元気だった車内も明け方が近づくにつれてとんでもない寒さに襲われた。当然バッシェには窓ガラスなんてなく身を切るようなカゼが吹き付ける。凍える寸前の所でマリ人のおばさんが頭から肩にかけて巻いている大きな布を僕に貸してくれて何とか震えながらもしのぐことができた。
途中3回故障してカイの町に着いたのは夜も明けきらない朝6時15分の事だった。
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