このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 
シリア・レバノン突入編
(アレッポ〜ベイルート〜ダマスカス)
 
 


10月14日 魅惑のスーク(アンタクヤ〜アレッポ)

夜が明けても相変わらず寝たり起きたりを繰り返していた。乗ったバスには特に「アンタクヤ行き」とは書いてなかったのでおおかたまた何処かで乗り換えさせられるのだろうと思っていたのだが、何とバスは本当に言われたとおりアンタクヤのオトガルまで直通だった。

バスを降りてさてどうしたものか?と思っていると、今乗っているバスは何とそのままダマスカスまで行くらしい。そしてバスの乗務員に「何処へ行くんだ?」と聞かれたので「アレッポ」と答えると、瞬く間に別のオフィスに連れて行かれてお金を払い、パスポート番号、名前を乗員名簿にかき込んで、あっという間に車上の人となった。

僕はここで一つ忘れ物をしてしまった。ハンガリー以来ずっとスーパーでもらった少ししっかりした袋に食材を入れて持ち歩いていたのだが、ついにここで前のバスに置き去りにしてしまった。まあ大した物じゃないんでいいんだけど、パスタとか日本茶とかが入っていたのが痛かった。

アンタクヤの街はもはや全くトルコの香りがしない。行ったこと無いなりにもうここはシリアだと感じだ。そしてあっという間に回りは荒れ地になって、国境の金網沿いにしばらく走ってからトルコ側の国境に到着した。乗務員がパスポートを集めて持っていったのだが、結局受け取りは一人ずつ行かなくてはいけないという何だかよくわからないシステムだった。

シリア側の国境は至る所に「シリアへようこそ」「もし何か困ったことが有れば、オフィスまで届けて下さい」という看板が上がっている。事務処理がとてつもなく遅いのだが、係員が横柄などと言うこともなくスムーズに進んだ。イラン-トルコの国境と違って、越える人の人数の少なさが幸いしているのだろうか、大した混雑は無かった。

国境を越えると風景は更にがれ場と化して、あちこちに古い遺跡が手つかずに放置されていた。そんながれ場の中のボロボロのスタンドで軽油を補給するんだけど、これが又小型の電動ポンプみたいなので入れるから、バス一台満タンにするのに20分以上かかってしまった。スタンドのオヤジはなかなか陽気で、給油中もバスの中の外国人が気になるのか、しきりに手を振ったりしてくる。シリア人は陽気で人が良いというけど、これからさきかなり期待出来そうだ。

アレッポの街は意外とホコリっぽくてごみごみしたところだった。それは僕が描いている中東のイメージそのもので、思わずうれしくなってしまった。バスはトルコバスターミナルと呼ばれている単なるバス会社の駐車場に着いた。何だか客引きみたいなのがいたけど、やはりターミナルに居るのは油断禁物と言うことで、バスに乗り合わせた日本人青年と一緒に宿探しをする事にした。

最初に行ったのは情報ノートで読んだ「シリアホテル」ここアレッポには「ザハールアルラビホテル」という超有名なバックパッカー宿があるのだが、最近の情報ノートでは「最悪」「水でなかった」「金にうるさい」等さんざんだったので、ほめていたシリアホテルの方を見に行ったのだ。

シリアホテルは宿自体はそこそこだったのだが、値段が少し釣り合っていない様な気がした。そして交渉しても全く相手にする様子が無かったので、最近何かと評判が悪い宿へと行ってみる事にしたのだがここが意外と良かった。水も電気もちゃんと来てるし、屋上の部屋は清潔で窓もあって明るかった。ロビーもあるし従業員のクルド人のおじさんは凄く親切だった。

何の問題も無く泊まることにしたのだが、くせ者はオーナーの「オーサマ」(本名)という若くて眼鏡をかけたオタク系のやつらしい。彼は英語はもちろん日本語もあやつって、フランス人にはフランス語で、ドイツ人にはドイツ語で話していた。僕は何の被害もなかったので、良い奴なのか悪い奴なのかは判らなかった。

荷物を降ろして出かけようとすると、バスで一緒だったドイツ人の女の子が「一緒に行っていい?」と言ってきたのでもう一人の日本人青年と3人で出かけることにした。行き先は当然スーク(市場)。中に入るといきなり羊の頭が山積みにされている。そしてうようよ動く魚達。ドイツ人の女の子はその匂いが耐えられないらしく「病気になりそう」と走って駆け抜けていった。

スークの出口にはアレッポ城がそびえていて感動していると、ドイツ人の女の子は「あなた達行きたいの?私はあんな観光客向けの所ごめんだわ」みたいな感じの事を言った。この女の子少し偏った所があるみたいで、何かある旅に「Touristic」を連発していた。

自分が愛用していたブーツが壊れたからどこた「旅行者」の来ない小さな村に埋めてやるのだそうだ。まあ若いから突っ張るのはいいんだけど、もっといろんな事を受け入れられるようになったらもっと旅が楽しくなるのにと思う。

結局アレッポ城の下の所に座っていたのだが、そのうち軍服姿の子供達が寄ってきた。どうやら軍の幼年学校の生徒らしい。ニコニコと話しかけてくるのでドイツ娘も「いい出会い」にご機嫌そうだった。僕はしばらくしゃべってから「僕はちょっと歩き回るけどどうする?」と聞くと「貴方一人で回りたいの?」と言われ「良かったら一緒においでよ」と答えると「いいわ、貴方一人で回りたいんでしょ?」と何故かムッとしてどこかへ言ってしまった。全くなんだって言うんだろう?

ここシリアではいろんな人が声をかけてくる。そして「日本から来た」と言うとみんながみんな同じ事を言う「Wellcome to Syria!」ここでは声をかけてくる人のほとんど全員が親切な人で、これはインドやイスタンブールの観光地の全く逆で、少しとまどってしまった(笑)

街を歩いていると二人組に声をかけられたのだが、一緒に歩いているうちに片方の男が「仕事があるから」と去っていったあと、もう一人の男は「オレの店でお茶でも飲んでいかないか?」と誘ってきた。普通なら絶対に行かないのだが、ヨーロッパ以来いろんな旅での出来事を少し柔らかく考えられるようになってきた。外国へ行って、さっきのドイツ娘の用に自分に都合のいい事ばかり期待するのは先進国から遊びに来たお金持ちの傲慢のような気がするのだ。

そんなわけでここシリアでは、いつもよりほんの少しだけ深く入って見ようと思い彼に着いていく事にした。彼の店はスークの外側にあって、何と建物はもう数百年以上前の物らしい。店でお茶を飲んでいると色々ネックレスを出してきて「これはベトウィンのデザイン、これはハンドメイドで」と色々説明してくれる。僕は特に買う気は無かったので、丁寧に断ると「良い品なんだけどなあ、安くするよ」ともちかけてくるが、買う気が無いとわかると雑談が始まって店の品物の説明をしてくれ、店を出るときも笑顔で見送ってくれた。

何だか調子がいい。その後も街を色々散歩していたのだが、あちこちから声がかかる。そしてかなりの人が英語を話せるのに驚いてしまった。警官や軍人はもちろん、スークの屋台のおじさんや街で井戸端会議をしている人達までがトルコやスペインよりもずっと話せる。もちろん日本よりも。

時折立ち止まっては話をしたりしながら駅の方に向かった。と言うのも、ここアレッポからラタキアへの列車はかなり景色が良いらしいのだ。しかし駅にたどりつくと見事に何の表示もない。時刻表はおろか一切表示が無いのだ。端っこにInformationと書かれたカウンターも誰もいなくて、どうしていいものやら。

こういう場合、他の国(特にヨーロッパ、中国)では他の場所で聞いても「知らない、インフォで聞け」と言われるのだが、運転監視室の様な所を見つけてながめていると、おじさんが笑顔でうなづいているので聞いてみると、その中の内の一人が英語で時間を教えてくれた。しかしそれは6時30分発と少し早すぎるのでやっぱりバスで行くことになりそうだ。

それにしてもシリア、わざわざ格安航空券の宝庫を捨ててトルコまで戻ってきただけの甲斐はあった。大都市でこれだとますますこれから先が楽しみで仕方ない。明日も良い事あるかな?
 

 
スークではこんな物まで売っている。
ちょっと怖い
 


10月15日 山城(アレッポ〜ラタキア)

前にスペインに居たときに「なんて時差設定が悪いんだ(夜が来るのが遅すぎる)」思ったのだがここレバノンも少し悪くて夜が早すぎて困ってしまう。何とこの季節にも関わらず5時になったらもう暗くなってしまう。その逆で朝は若干日の出が早く、8時頃にはもう自然と目が覚めたので、そのまま荷物をまとめて次の目的地ラタキアへ向かうことにした。

ここ中東で僕は予定外の行事にぶち当たった。それはサッカーのアジアカップ。サッカーのアジアナンバーワンを決める大会だ。それがこの先のレバノンで行われている。しかし、レバノンは過去にイスラエルに侵略されたり絶えず戦火を交えてきた。そして最近イスラエルの挑発にパレスチナがのったものだから、イスラエルは一気に軍隊を投入してパレスチナを攻撃し始めた。

いろんな情報によると、下手をすれば第5次中東戦争に発展する可能性もあるらしいので、出来るだけ最初の方にある試合を見て速やかにレバノンを脱出しいたい。となればターゲットは17日にある日本−ウズベキスタン戦で、少し急ぎ足になるが仕方は無いだろう。

宿代を払って愛想の良いクルド人の従業員に別れを告げてバスターミナルを目指す。ここアレッポにはたくさんのターミナルがあって訳が分からないのだが、宿で聞くとラグジュアリーバスターミナルからのものが、一番早くて快適らしい。(当然一番高い)。ターミナルに着いて「ラタキア〜」とか言っていると親切なおじさんリレーであっといまにチケットが買えてバスに乗り込むことが出来た。そしてバスは窓口で言われた時間ぴったりに出発した。さすがラグジュアリー(笑)

バスの車掌は終始親切で、出発するとお皿に飴を入れて配って回る。そしてしばらく隣の老人がお金を渡してからしばらくしてバスは路上で止まってしまった。「やっぱりこの人数じゃ客引きするよなー」と思っていたら車掌が戻ってきた。彼は何と老人のために良い止め薬を買いに走っていたのだ。恐るべし親切さ。

バスからの風景は相変わらず荒涼としているのだが、ここシリアは意外と灌漑とかが行われているのか、所々緑が見える。大部分が岩なのだが農地改良されたところは結構な作物が実っていた。そして僕は乗り物の揺れに誘われて眠りへと落ちていく(笑)大きな峠を一つ越えたなあと思っていると次に目が覚めたらラタキアの街だった。所要時間約3時間。

快調なバスの旅だったのだが、バスを降りてここが何処なのか全く判らない。どうやらイスタンブールの宿で見た本とはターミナルの位置が大きく変わっているようだった。回りの人に尋ねるのだがどうも要領を得ない。そのうち親切なおじさんがタクシーに安宿のあるエリアまで連れていってくれるように話を着けてくれた。値段は20S£、これは少し相場よりも安めだった。

どっか息のかかった宿に連れて行かれないか?と警戒していたのだがそんなことは全くなく、僕はタクシーを降りてすぐに情報ノートお薦めのラタキアホテルへたどり着くことが出来た。部屋はダブルの部屋200£を一人だから150で良いという。部屋も清潔で洗面所もあって、共同シャワーはお湯がたっぷり出る。申し分ない。すぐにチェックインして荷物を降ろした。

この宿は看板にカタカナで「ラタキアホテル」と書いてあって、典型的な日本人宿なのかと思ったら、今日泊まる外国人は僕一人なのだそうだ。主人によるとパレスチナでの紛争が始まってからめっきり旅行者が減ってしまったとか。暇そうな主人を見ているとちょっと気の毒になった。

しばらく休んでからここから1時間程の所にあるというマルカブ城に行ってみる事にした。ラタキアといえばサラディーン城の方が圧倒的に有名らしいのだが、マルカブ城は山の頂上にあって地中海が見下ろせると言うのに惹かれた。今日着いたバスターミナルへ行って地元の人に「バニアス、セルビス?」と聞くと「あっちあっち」と教えてくれる。何人目かにチケット売場に案内されて無事バスに乗り込むことが出来た。

ここシリアの道路はかなり路面状態がいい。やはりトルコ西部やイランには及ばないがインドやパキスタンの様にバスが飛び跳ねるなんて事は全くない。バスは時速100キロ以上てビュンビュン飛ばしてバニアスの街に到着した。ここでセルビスに乗り換えて山の頂上を目指す。

細い山道を曲がりながらどんどん高度を上げていくと眼下に地中海が見えた。そして城がある山の麓の街で降りてえっちらおっちら登っていったら、何と城は4時で閉店だった。なんてこったい。でもこの城は麓の村や外からの眺めがいいらしいのであながち無駄足でも無かった。城の入り口の階段に腰をかけてぼーっとしていると海から吹き上げる風が気持ちいい。日が傾いてくると真っ黒城壁も少しオレンジがかって見える。

城の前には暇そうな茶店があって、一軒のおじさんが「こっちへきて座りなさい」とお茶を入れてくれた。おじさんは以前ギリシャの商船に乗っていたらしく、ギリシャ語がペラペラで、英語もそこそこ。日本にも何度か立ち寄ったことがあるらしい。日没直前にヨーロッパの団体客がやって来たんだけど結局お客は一人も入らず、店じまいとなった。

僕も暇だったから店を片づけるのを手伝ってから、おじさんのバイクでバニアスの街まで送ってもらった。冷たい風を切って山をすべりおりていくと、遠くにバニアスの灯りがたくさん見えた。
 

 
夕日に染まるマルカブ城
 


10月16日 ウェルカム(ラタキア)

シリアでは本当につくづく歓迎されている。街を歩いていると英語を話せる人も話せない人もどんどん話しかけてくる。「中国人かい?」と聞かれて「ヤバーニー(日本人)」と答えるとほぼ全員が右手を差し出して「ウェルカム シリア」と握手を求めてくる。そんなことが新鮮でシリアに入ってから街を歩いているだけで結構楽しい。

そして午前中にバスターミナルへ明日のベイルート行きのチケットを買いに行った。明日の日本対ウズベキスタンの試合を見に行くためだ。情報は全くなかったのだがここシリアではそんな物は要らない。地元の人に聞けばみんなちゃんと教えてくれるし、知らなくても近くの人に聞いてくれたりする。

特に驚いたのが、タクシードライバーに声をかけられて「バスの方が安いからバスで行くよ」と言うと「そうかい、じゃバスの乗り場はそこだから」とちゃんと教えてくれる。インドだったらほぼ間違いなく「そんなバスは無い」と言われるのがオチなのだが、やっぱりシリアは素晴らしい。バスはちょっと出発が早すぎるのだが、それ以外はセルビスになってしまうらしいので、結局6時発のチケットを買った。

用事が済んでから海へ行ってみようと街の方へ歩いていると、途中で軍服を着た小学生ぐらいの子供に出会った。彼は学校で英語を習っているらしく、片言の英語を話した。今から家に帰るらしく途中まで一緒に歩いて帰ったのだが、別れ際になぜだかお菓子をもらってしまった(笑)

どうやらここシリアでは陸軍の学校と言うのがかなりあって、幼年学校から高校まで生徒は全員軍服を来ている。軍学校の生徒は女の子もスカーフをしている人はあまり居なくてみんな髪の毛を出している。特にラタキアは肩までしかない半袖の女の子もたくさんいて、イランと比べるとすごくオープンに見える。どちらかというとスカーフをかぶっている人の方が少数派なので驚いた。

午後からはサラディーン城へ行こうかとも思ったのだが、ここはタクシーかバイクを雇わないと行けないのと、お城は昨日充分満喫したので、今日は近所のアルファベット発祥の地とか言われているウガリット遺跡へ行ってみる事にした。

町中からセルビスでたったの5ポンド。海沿いを走り抜けてたどり着いた所は、本当に対したことの無い所だったのだが、それでも古い遺跡の壁の向こうに海が見えて1時間程木陰に座ってのんびりとした。シリアの遺跡は全て地元民30ポンド、外国人300ポンド、そして学生15ポンドの固定料金らしい。しかし300出してここに入る人なんて居るのだろうか?ここがパルミラと同じ入場料とは全くどうかしているぞ(笑)

宿に帰ってからは日記を書いたりゴロゴロしているとあっという間に夕暮れになった。夕食は久しぶりに洋食が食べたくなって、美味しいと評判のイタリアンレストランへ行った。味の方は場所と値段を考えるとそこそこ満足出来る物だった。さすがに毎日シュバルマ(野菜や肉をピザみたいな生地でつつんだアラブの食べ物)ばっかりでは飽きるからね。
 

 
街の仲間たち。
この日も水パイプをごちそうになった。
 


10月17日 オーニッポン(ラタキア〜サイダ〜ベイルート)

5時に目覚ましが鳴った。昨日の内に宿のおじいさんに「5時に出発する」と言っておいたのだが、荷造りを終えるとおじいさんは既に電気をつけてカギを開けて待っていてくれた。そして真っ暗な中30分程かかってバスターミナルへと歩く。

バスはカルナックという国営のバスなのだが、車両の方は古くてくたびれていた。バスターミナルで例の中東のくるくる巻くサンドウィッチで腹ごしらえするとまもなくバスはレバノンの国境目指して出発した。

僕はここに来るまで、シリアが海に面していると言われてもあまりピンとこなかったのだが、今日は常に海沿いを走り続ける。そして2時間弱で国境に到着した。シリア人は身分証明書の提示だけなので自分のためにバスの出発を遅らせるのは申し訳ないと思い、大急ぎで走って手続きに行ったのだが、結局自分が一番早く戻ってきてしまった。

そしてレバノン側もビザを取ってなかったので大丈夫かな?と思ったのだが、別室に連れて行かれてすぐにビザを出してもらえた。「サッカーを見に行くんだよ」と言うと「ジャパン、グッドチーム、ナイス」「ウェルカムレバノン」と歓迎されてしまった。ちなみに今日もらったのは無料の48時間トランジットビザなのだが、何故か無料なのにスタンプは15日間のスタンプだった。とはいえ、印紙が張ってないので48時間以上滞在すれば必ず出国時にビザ代を払わなければならないのだろう。

バスはレバノンに入ってからはなかなか進まない。とにかくレバノンは道路もそんなに良くないのに、とにかく交通量が多くて、しかもおびただしい路上駐車で大渋滞になっている。トリポリの街を抜けるだけでも一苦労なのだが、そのうち広いハイウェイになって、昼前には大都会ベイルートに到着した。

ここベイルートは異常に宿が高いので有名なのだが、こんな時日本人ネットワークというのは素晴らしい物で、アラビア語の看板しかない安ホテル($3)が口コミで広がり、今ではすっかり日本人宿になっているらしい。情報ノートの地図が悪くてたどり着くのにくろうした。そしてたどり着いたそこは、今だ戦争の傷跡が残っているようなボロボロの建物で少し引いてしまったが、覚悟を決めて入って見ると内部は意外と綺麗でこの値段なら全く申し分無い。

今日ここに来たのは当然サッカー日本代表の試合を見るためで、荷物を降ろしている最中に宿の日本人が今からみんなで観戦に行くというので急いで用意して着いていくことにした。ローカルバスでコーラと呼ばれるターミナルへ、そこから試合会場のサイダ行きに乗り換える。

僕はサイダの街を見てみたかったので、そのまま競技場を通り抜けて街まで行った。サイダの街はスークが入り組んでてしかもほとんど観光客向けの店とかは無くて地元の暮らしがそのまま見れていい感じだった。海に着きだした城壁みたいなのが残っていたのだが、こっちは遠くからながめるだけにして置いた。なにせレバノンには学生割引と言うのが無く、全ての入場料が物価と同じでかなり高いのだ。

街を後にして試合会場へ行ってみると、もうすでに日本の「サポーター集団」がたくさん来ていた。集団と行ってもウルトラニッポン」等のサポーターグループではなく、名波選手や川口選手等の追っかけの女の子達が8割で、平日だったせいか先日のサウジ戦に比べると人数はかなり少ないらしい。

今日の相手はウズベキスタン。かつての強豪のはずなのだが試合が始まってみると日本の強さは圧倒的で、最初の方は5分おきに点が入るような感じで前半終了時でもう既に5−1で試合は完全に決まっていた。特に驚いたのは名波、稲本の中盤からどんどん良いパスが出ること、そしてそれを西沢、高原が確実に決めていく。森島もスルーパスにあわせて飛び出して絶好調だった。

今日見た日本チームは相手の弱さを差し引いたとしてもそうとう各選手がレベルアップしているように思える。僕がアジアでふらふらしていた間にも日本のサッカー界は着々と進歩していたようだ。結局後半に3点をくわえて8−1という記録的スコアで日本が圧勝した。

試合開始前や終わってから選手のコールをするのだが、川口選手なんかは、こっちに向かって手を振って答えてくれたりした。試合後も選手全員が40人程のサポーターの為にわざわざバックスタンドまで来てくれて、選手との距離がとても近く感じられた。
 

 
試合終了後イレブンが挨拶に来てくれた。
 


10月18日 違和感(ベイルート)

昨日は結局ベイルートは何処も見てないので朝から散歩に出ることにした。どうやらハムラという地区がこの街の中心らしいのでそこへ向かうのだが、昨日の様なバスはなくて、セルビスで行くしか無いらしい。

ここベイルートはシリアと比べるとだいぶタクシーとかがふっかけてきて、その手の乗り物をあまり利用する気になれない。中でも腹が立つのが、道を歩いているとクラクションをガンガン鳴らして気を引こうとすることだ。まるでポカラみたい。そんなわけで4キロ程の距離を歩いていくことにした。

風は涼しいのだが日差しはきつくてさすがに汗が流れる。ベイルートの街は丘の上にあって、上から見下ろす海は青かった。それにしてもこの街はものすごいスピードで復興が進んでいて、時計塔のある辺りはここがヨーロッパだと言われても全然違和感が無いほどだった。しかし逆にそれは僕に取っては違和感以外の何者でもなかった。

そのまま繁華街を通り抜けて空腹の絶頂で僕は不幸にも(?)一軒の日本食レストランを見つけてしまった。名前はTOKYOレストラン。ここしばらく生魚を食べていなかったので$20ぐらいを覚悟して入って見る事にした。メニューを見るとやっぱり全部でそのぐらいかかりそうだった。とりあえず刺身とご飯を頼んだのだがしばらくしてオーナーと思われる日本人のおばあさんが出てきて「1つじゃ多いですから、半分になさい」とハーフで頼む事にした。

おばあさんはもう長い間レバノンに住んでいるそうで、最近すごく暇だったのだが、ここ数日はアジアカップのせいで結構繁盛しているらしい。とはいうものの、こんな昼間っから来ているのは僕一人だけで、他には何件か出前の注文が入っているだけのようだった。

おばあさんは内戦の時もずっとこの地に留まっていたらしい。なんでも家を空けると、他の人に取られてしまうのだそうだ。当然市街戦をやっていたわけで、この店の前でも銃撃戦があって、爆発した車からの煙で壁は完全に真っ黒になってしまって、銃弾の後も含めて戦争が終わってから全部リフォームしたらしい。

出てきた刺身は確かにハーフでも1人前くらいはあって、僕はご飯をもういっぱいおかわりして、大満足でレストランを後にした。

そのまま歩いて一応名所らしい「鳩岩」という所に行ってみた。海岸に巨大な岩の島が有るのだが、でも何処から見てもこれの何処が鳩なのか全く理解できなかった。どうもベイルートは散歩していても全く楽しくない。何だか常に違和感が僕の後ろをつきまとう。

宿に帰るとテレビでイスラエルの首相だかが「48時間以内に抵抗を止めないと、パレスチナ人地区を全面攻撃する」とかアホな事を言っていた。アメリカは国連でも一国だけイスラエルよりの立場を取っていて、不利な決議には拒否権発動も辞さないといった感じだった。やれやれ。レバノンもいまいちだしこのまま戦争になる前にとっととヨルダンへ抜けた方がいいのかもしれない。
 

 
完全に復興したベイルートの中心部
 


10月19日 巨大な谷(ベイルート〜バールベック〜ハマ)
 
少し迷った末レバノンを後にすることにした。宿にはたくさんの日本人バックパッカーが「決勝戦まで残る!」と意気込んでいたのだが、僕は前日のあまりの日本の強さに、この分だと楽勝で優勝してしまいそうだったし、あれだけゴールシーンを見ればもうサッカーは充分な気がして、午前中にバールベックに向かうことにした。

イスタンブールで会った同じ宿の大学生も今日シリアへ向かうと言うので、一緒にターミナルへ行ってセルビスを探した。彼はもう既に大学は始まっているのだが夏休みを延長して、平たく言うとサボっているので大急ぎでカイロまで行って飛んで帰らなければいけないらしい。「夏休みくん」とコーラに向かうとセルビスはすぐに見つかって、値段もたったの3000LLと一発で相場通りだった。

セルビスが山に登り始めてから知ったのだが、レバノンは巨大な山脈が中央部を縦断していて、東西は完全に山に遮られている。そして今日はその山を延々登って反対側へ越えるルートだったので一番高いところではひょっとしたら2000mを越えていたかも知れない。振り返ると遥か下にベイルートの高層ビル群と真っ青な地中海が見えた。

2時間と少しでバールベックに到着したのだが、着いてみると遺跡はかなり小さい物だった。その割には入場料が1万2千LL($8)もするのだがとりあえずレバノン最大の見所と言うことで入って見る事にした。中に入ると遺跡は小さなエリアに密集して建っていて、ここの遺跡はなかなかの大物だった。確か2世紀か3世紀ぐらいの遺跡のはずなのだがかなり綺麗に残っている。

未だに残っている巨大な柱から当時の建物の大きさが想像できる。そして神体を祭っていたという神殿は壁全てが石で出来ている。これは木で作られたというペルセポリスが今では柱しか残っていないのに対して未だにちゃんと建物の形を保っていて、何となくこちらの方が当時の様子が思い浮かぶようだった。

一時間すこしかけて小さな遺跡を見学した後、荷物を受け取りに行くと「荷物代払ったのか?」と聞かれた「は?」と聞き返すと「荷物預かり代$1払え」と言う。預かると言っても建物の外に置いていただけなので、僕は全く払う気はなかったのだが、少ししつこかったので「そんなの知るか!絶対払わねーぞ!」と怒ってみせると「冗談だよ冗談、ほらほら笑って」とおどけて見せた。何が冗談なんだか、あわよくば$1せしめようとしてたのだろう。やはりレバノンは油断ならない。

ちょっと最後に来て後味悪かったが、再びシリア国境へ向かうセルビスを探す。しかしこれがなかなか難航して、回りの人に聞いてもタクシーの所に連れて行かれて、それだと一人$5だという。通るワゴンに片っ端から聞いてもホムス方面には行かないという。

あちこち聞き込みをして、やっとの事でシリアボーダー行きのワゴンを見つけた。2000LLでこれだと$1ちょっとと言うことになる。ワゴンは幅10キロ以上は有ると思われる巨大な谷の底を猛スピードで走り続ける。中に一人シリア人の兵士が乗っていて、彼はレバノンに駐留しているのだが休暇でホムスにある実家に帰る途中らしい。

あと2ヶ月で兵役が終わるので、その後は親族を頼ってアメリカに移住したいらしい。もうすぐ兵役上がりのこんな時にきな臭い状況になってしまったが、無事に兵役を終えられるよう祈るばかりだ。ワゴンはレバノン側の国境に到着して出国手続き。ここでワゴンが終わりだと思ったのだが反対側の国境まで乗せていってくれるようなので急いで手続きをする。

僕は48時間無料ビザで入国して、既に時間は過ぎているのだが、実質入国時間が記入されていなかったので2泊3日ならOKなのか、ビザ代を払う必用も無くすぐに出国手続きが終わった。そしてワゴンに乗り込むと猛スピードで走り出すのだがいくら走ってもシリア側の国境が見えない。結局10キロ程走ってようやくシリア側の国境にたどり着いた。

相変わらずシリア国境の看板は旅行者歓迎ムードで、英語で「ようこそシリアへ」みたいな文句が書いてあるのだが、ここは特に凄かった。「Wellcome to Asad's Syria」(アサド大統領の国シリアへようこそ)この辺はまるで中東の北朝鮮といった感じだ。

ここで再び僕ら外国人はビザを買わなくてはいけない。現在シリアへはレバノンからの入国に限り再入国許可証無しに入国出来る様になったのだが、やはり以前と同じ様に国境でビザ代を払わされるのだ。そして今ではこのビザ代の印紙を買うのに、公定レートでのバンクレシートが必用らしく、その公定レートというのは実勢レートの実に1/5で$24もかかってしまうらしい。

しかしこれにも抜け道があって、ここバールベック〜ホムスのボーダーのみ両替所が無いからなのか、シリアポンド払いでかまわないのだ。これだとたったの$5ちょっとという事になる。僕らもあらかじめ用意してあったシリアポンドだけで支払う事が出来て、無事15日間のビザをもらうことができた。

当初、セルビスでであったシリア人兵士の青年の家にうかがう予定だったのだが、結局印紙を買ったりしている間にはぐれてしまって、そのままハマを目指すことにした。ネパール並のボロボロのバスから日本製のセルビスに乗り換えてハマに着いた頃にはもう日もどっぷりと暮れていた。

イスタンブールで紹介してもらったというリヤドホテルはまるで中級ホテル並の設備で、しかもたったの150ポンドでホットシャワーはもちろんキッチンまで使えて至れり尽くせりで、忙しい一日だったが夜はゆっくりくつろぐことが出来た。
 

 
バールベックの神殿の柱
かなりでかい
 


10月20日 砂漠に浮かぶ城(ハマ)

シリア中部の見所と言えば何と言っても「カラート・アル・ホスン」フランス語で言うところのクラックデシュバリエ城だ。しかしここハマにはもう一つガイドブック等には全く紹介されていないが砂漠のど真ん中に浮かぶ城があるらしい。城の名前はアルシャマーミス、ハマからはセルビスで40分程だ。

百聞は一見にしかずという事で、昨日チェックインしてきた「世界一周チャリダー」と朝からこの城を目指すことにした。彼はかれこれもう5年ほど自転車で世界を回っているらしい。最初は資金が尽きたら何処かで働く予定だったらしいのだが、途中からロンドンの日本語新聞のコラムを書くことになって、それが結構な収入になるらしく、これからアジアを横断して日本まで自転車で帰るらしい。

城へ行くセルビスはすぐに見つかって、あっという間にまわりは見渡す限りの砂漠になった。そして情報ノートにあったボロボロの「アイワ」の看板を見つけてそこで降りて歩く。遠くにまるで砂漠の空に浮かんでいるように城の残骸が見える。城はまるで小さな富士山の様な砂山の火口の様に陥没した中に建っている。観光地ではないため全く手が入っていないのか、それはもう「かつて城だった」と言われないと何のかよくわからない石の固まりと言った感じだった。

瓦礫の中を30分程かけてたどり着くと思いのほか大きい。滑りながら砂山をよじ登って城までたどり着くと、そこからの眺めは素晴らしかった。別に絶景と言うわけでは無いのだが、見事なまでに砂漠が続いている。そしてそんな中に一つだけ砂山があるものだから、下から吹き上げてくる風がものすごかった。

この城は見に来る外国人も居ないので当然案内板なんて物はなく、いつ頃何のために作られたのか全く判らない。ただこんな砂漠の真ん中の吹きっさらしで、いまだにほんの少しでも形をとどめているのは大した物だ。逆に言えば全く手が入っていない城というのはこういう感じなのかも知れない。

城の中には地の底まで続いて居るんじゃないかと思うほど深い穴が開いていた。これも井戸なのか何なのかは判らない。ただおそるおそる身を乗り出してみても底まで見ることは出来なかった。30mは軽くありそうだ。しばらくこの廃城で物思いにふけってから瓦礫をすべりおりるように下って街まで帰る事にした。

街道でヒッチをしているとすぐにトラックが止まってくれたのだが、行き先が少し違うようでお礼を言って見送るとすぐにハマ行きのセルビスがやって来た。セルビスに乗ってもたったの10ポンド(20円)だ。帰りは少し疲れてうつらうつらしているとあッという間にハマの街へたどり着いた。
 

 
人知れずたたずむ廃城
 

10月21日 天空の城(ハマ〜アル・ホスン〜ハマ)

今日はいよいよこの辺りのハイライト、カラート・アル・ホスンだ。ここへも何故かセルビスで行けてしまう。本当にシリアは観光にお金のかからない国だ。今日は一人でセルビスに揺られる。

最初は交通の要衝ホムスへ。ここへ行く途中車内でシリア人の大学生と出会った。彼はコンピュータ関係の勉強をしているらしく、僕が以前にコンピュータの設計をやっていたと言うと、色々日本のコンピュータ業界について聞きたがった。彼は卒業してから日本かドイツへ行って更にそこで勉強して働きたいらしい。セルビスがホムスに着くと彼がアルホスン行きのセルビス乗り場を聞き回って連れていってくれた。

ここからアルホスンはやはり交通量が少ないのか、ワゴンに乗り込む物の一向に客が集まらず30分程待つことになった。運転手はしきりに貸し切りのタクシーを薦めるがやはり値段が違いすぎる。長期戦を覚悟していると、一人のスウェーデン人旅行者が乗り込んできた。名前はマッツ。僕と同じ歳で、10年間パンの宅配ドライバーをしていたのだが、一大決心で退職して初めてのバックパック旅行らしい。

出発前には母親がかなり心配していたそうで、そう言う彼も旅慣れていないのか、僕に色々と情報を聞きたがった。今で旅に出て2週間、これからインドとか東南アジア方面に行きたいと言うので色々情報を教えて上げたら喜んでいた。そしてマッツといろいろ喋っている内にそこそこ客が集まってきて、最後にスロベニア人の学生二人が乗り込むとワゴンは城を目指して出発した。

城は山の上にあるアルホスンの村のさらに頂上にあって、ワゴンはエンジンを唸らせながらぐんぐん空へ向かって登っていく。そしてやがて目の前に天空の城、カラート・アル・ホスンが見えてきた。早速チケットを買って中に入ってみると、そこはもう宮崎駿の映画「天空の城ラピュタ」の世界そのままだった。

城の内部の作りや、所々に緑があるところ、そして等の一番上に登ってみるとまるで城が空に浮かんでいるかの様に見える。この城はアラブに攻め込んだ十字軍が建てた物らしく、城の様式はまったく南フランスのそれと同じで、中には教会の後があった。久しぶりの大物に満足しながらも帰りの足が心配なので少し早めに出発する事にした。

城から出ると1台のワゴンが待っていて、乗り込んでしばらくするとまだガラガラのまま出発して麓で数人の客を拾ってからホムスへ向かった。やっぱりこの時間はもう商売にならないのか、回送車という感じだった。

街に戻ってからかなり眠くなったので昼寝を決め込むことにした。そして再び起きると6時。今日やって来た日本人といろいろ喋っているうちに、マッツと約束していた夕食の時間になった。夕食と行っても、サンドウィッチ屋でシュバルマを食べるだけ、たった25ポンドのディナーだ。

マッツとしゃべっていると一人のシリア人のふけ顔の青年がやってきた。彼はシリアの大学で哲学を専攻、卒業してからはお菓子の輸出や輸入を扱うお店をやっているらしい。彼は何としてもフランスへ行って働きたいらしいのだが、それにも関わらず大使館にビザを却下されたらしい。「オレはもしフランスへ行けたら二度とシリアには帰ってこないよ」と言う。マッツが「どうしてだ?シリアは良い国じゃないか、素晴らしいよ」と言うと「君たちには良い国だが、オレには最悪の国だ」と強い調子で言った。僕はそれを聞いて少し悲しい気分になってしまった。

シュバルマを平らげてから、彼は僕とマッツを彼の店に招待してくれた。何でもここのお菓子は一ヶ月に2トンもフランスをはじめヨーロッパへ輸出されているそうで、逆にヨーロッパからやって来たお菓子もここシリアでは人気なのらしい。彼の店には目もくらむばかりお菓子が所狭しと並べられていた。
 

 
天空の城から見下ろす風景
 


10月22日 砂漠のオアシス(ハマ〜パルミラ)

ここシリアは非常に居心地がいい。居心地だけに関してはこの旅ナンバーワンかも知れない。しかし僕はここで少し旅のスピードを上げる事にした。今から楽しみで仕方のない南極ツアーに参加するためには最悪でもアルゼンチンに2月までに入っていないと行けない。当初それは楽勝のはずだったのだが、ここへ来て最初何の予定もなかったアフリカがかなり気になりだしている。

旅行のしやすい東アフリカを南へ下るにしても、魅惑西アフリカをまわるにしても、どちらも2ヶ月ぐらいは欲しいし、カイロでもゆっくりとしたい。そんなわけで今日中にパルミラを観光して明日にはダマスカスに向かうべく、少し早起き。(とは言っても8時なのだが)

荷物をまとめて出発しようとしたら、例の「自主休講」の大学生が虫よけスプレーを餞別にくれた。彼は何としてもエルサレムに行きたいらしく、アンマンからチャレンジすると言っていたが、この虫よけが形見にならないよう祈るばかりだ。

いつものように通い慣れたホムスまでの道のりをセルビスに揺られる。そして今日はいつもと違ってバス乗り場の方で降りてパルミラ行きのワゴンを探す。さすがのシリアでもバスターミナルはしつこい物売りやら、ドライバー同士の客の取り合いなど、発展途上国でのいつもの風景が展開されていた。

適当に捕まったドライバーの車にはまだ誰も乗っていなくて僕が一番だったので、ターミナルの様子を観察しながら暇をつぶしていたら、40分程して客がいっぱいになって出発した。今日の道は幹線道路では無いのでシリアの中でもかなり悪い方にはいる。とは言う物の80キロぐらいで走って体が上下左右に揺すぶられるぐらいの物で全然快適だ。

3時間程砂漠を走るといきなりオアシスが見えた。パルミラの街だ。オアシスに沿って走っていくと瓦礫の中にたくさんの柱が建っている。「おお!これがパルミラ遺跡か!」バールベックよりもかなり大規模な遺跡のようだ。ドライバーは少し人相が悪いのだが、僕が行きたいホテルを聞いて、その前までわざわざ乗せていてくれた。顔は怖くてもやはりシリア人は親切なのだ。

一方宿のオヤジは情報ノートの通りふっかけてくる。さすがに最近は情報ノートの威力か400とかは言ってこないが、シングルが300だとか言うので「200だと紹介してもらったんだけど?」と言うとあっさりその値段になった。本当はもっと下がるんだろうけど、一泊だけなのでそれ以上値切るのは何だか悪い気がして、その値段で泊まることにした。ただ「夕食は100ポンドだ」とふっかけてきたので「なら要らないよ」と言うとこれもすぐに通常価格の50まで下がった。全く油断できない。

パルミラの遺跡は意外と保存状態が悪い。言い換えるとアンコールワットの様に大規模な修復や立て替えがされていないのでそれはそれで昔のままが見れて良いのだが、この前に見たバールベックがあまりにも綺麗に残っていたので少しインパクトに欠ける。

最初にベル神殿という、この遺跡群最大の見所を訪れた。逆にここだけが唯一入場料がいるところで、他の遺跡はほとんど無料になっている。この神殿も例のシリア統一料金で、もし300ポンド払って入ったなら少しがっかりかもしれない。神殿を後にして遺跡の中心地に向かって歩いていると、ラクダ使いの少年が寄ってくる。

「ラクダニ乗リマセンカ?」「ラクダハ楽ダー、楽ダネー」いったい誰が教えたのだろう?思わず爆笑してしまった。とはいうもののラクダには乗る気は無いのだ。更に歩いていくと、大昔の道に沿ってたくさんの柱が建っている。柱を見ているとどうやら街の中心から十字にメインの通路が伸びていたらしい。通路の両脇には古代劇場や神殿などがあって、遺跡から発掘された柱なんかも無造作にその辺にころがっている。

ここは遺跡一つ一つを細かく見るよりも、遺跡群の真ん中に座ってぼんやりながめると言うのが本当の楽しみ方なのかもしれない。ぼーっと座っているとジュース売りのおじいさんがやってきた。いつもなら買わないのだが、一本20ポンドとこんな所の割に値段がかなり良心的名ので思わず一本買うことにした。アイスボックスの中には巨大な氷が入っていて、ジュースはキンキンに冷えていた。

おじさんの横に座って飲んでいると、僕の為にベトウィンのいろんな歌を聞かせてくれた。おじさんの自慢は10人の子供を育てたこと。言葉は通じないのだが「オレは腕っ節も強いが、アッチの方も強いからなー」とがはがは笑っていた。その後もおじさんと言語を越えたトークを楽しんでから今度は山の上にあるアラブ城へと行ってみる事にした。

こっちの方は登るのがしんどい割には遺跡から離れすぎている為に、遺跡を見下ろすと言うのにはいまいちだった。ただ城自体と遠くに見える湖や果てしない砂漠の風景はなかなかの物だった。夕暮れ前に山を下りるとぎりぎり夕日に染まる遺跡群を間近で見ることができた。

遺跡を後にして街へ戻る間もあちこちから声がかかる。「ラクダハ楽ダー」と。
 

 
こんな柱が延々建っている
 


10月23日 雨(パルミラ〜ダマスカス)

パルミラは敷地自体は割と大きいのだが、いかんせん見所が少ないので昨日一日で充分という感じだ。当初の予定を変更して一気に首都のダマスカスを目指すことにした。国営バスは結構混雑すると聞いていたのだが、昨今の中東情勢のせいか旅行者もそんなに多く無く空席を残したままバスはダマスカスへ向けて出発した。

景色は単調で延々砂漠、そしてそのうち空が曇りだして風が冷たくなって、バスがダマスカスに着く頃にはぱらぱらと雨が降り出してしまった。そして降ろされたバスターミナルはハイウェイ沿いの街の外側で全くどうして良いのやら判らない。タクシーの運転手とかが声をかけてくるのだが、パルミラでしつこい客引きやバクシーシ攻撃にあっていたので、思わず軽く無視してしまった。

しかし訳がわからないので、近くのセルビスの運転手に聞いてみると、この「セルビスは市の中心部へ行くから乗ると良い。たったの5ポンドだからね」と親切に教えてくれた。そして降ろされた所から迷いに迷った物の結局その場所のすぐ近くに情報ノートで読んだ安宿があった。本降りになるまえに何とかぎりぎり間に合ったようだ。

宿で情報ノートを読んだりしてくつろいでいると、テレビでサッカーの試合をやっていた。どうやら日本と決勝で当たると思われていたイランは韓国に負けて姿を消したようだ。と言うことは順当にいくと決勝は日本対韓国という事になる。やはり韓国も地力があるのか少しずつ調子を上げてきているようだ。

テレビを見ていると一人の日本人大学生がチェックインしてきた。丁度おなかが空いていたので食事に誘ったのだが、彼もベイルートにサッカーを見に行っていて、今も取ってきたところらしい。何でも彼は高校時代、韮崎高校で中田選手と一緒にプレーしていたらしい。高校時代の中田選手の話とか聞けて面白かった。

それにしても寒い。中東がこんなに寒いとは夢にも思わなかった。この分だとさっさと南下してしまうかも。



10月24日 無駄無駄無駄(ダマスカス)

今日は朝から予定が盛りだくさん。まず一つはここにモーリタニア大使館が有るらしいので、ビザの条件を確認しに行くこと。モーリタニアは航空券を要求される所が結構らしいから取れるところで取ってしいたい。そして次は黄熱病の予防注射。これはここシリアで打つと無料なのだそうだ。そして最後は日本大使館での情報収集。

所が初っぱなからお出かけは最悪な物になってしまった。歩いていると雨が降り出したのだがこの雨が結構な雨で、シリアの道路は側溝が全くないので道はあっという間に水たまりになってしまう。当然ここでは「歩行者保護」なんて考えはこれっぽっちもないので、車は猛スピードで突っ込んできて1m以上の水しぶきを上げて走っていく。しかもアスファルトの粉が溶けた真っ黒の泥水だ。

最初は歩道の植え込みの向こうを歩いていたので平気だったのだが、そのうち軍隊か何かの施設があって、機関銃を持った警官に「道路側に出ろ」と言われてしまった。しかし道路側は1m以上のしぶきが襲ってくる。仕方がないので車が来ない間をぬって一気に駆け抜けるのだが行く手を植木の伸びた枝が邪魔しているし、そんな水たまりが無数にあるのでもうズボンはずぶぬれになってしまった。

この時点で既にやる気がかなり失せていたのだが、書いた地図が悪かったのでモーリタニア大使館にたどり着くことが出来なかった。気を取り直して日本大使館で少し休憩してから、今度は楽勝のはずの予防注射へ行ったのだが、何でも場所が変わったとかで、教えてもらった場所へ20分程かけていくのだが、またそこでも違う場所を教えられて、4〜5件たらい回しにされて3時間も全くの無駄にしてしまった。

そして結局もとの保健省に戻ってきてしまって、そこで医学生風の人に「予防接種はすこし前に場所が変わって、住所を書いて上げるからタクシーで行きなさい」と言われた。しかしもう1時を回っていて時間的に間に合わないのと、タクシーに乗るぐらいならエジプトでお金を払って打った方が安いので一気にやる気がなくなって、そのまま宿に戻ることにした。

今日の一日は一体何だったんだろう?クソ馬鹿馬鹿しい事で丸一日も無駄にしてしまって、おまけに頭からずぶぬれで体が冷え切って、本当に惨めな気持ちだった宿に帰ってフリースに着替えて紅茶を飲むと少しだけ元気が出てきた。

夕方からはテレビで日本対イラクの試合を見た。結果は4対1で圧勝。今日は本当のベストメンバーだったので、さすがに動きは良かった。もう一人泊まっていた日本人の女の子とテレビを見ていると、アジア人っぽい青年が話しかけてきた。一風変わった日本語だったのだが気にせずに会話していると、何と彼は韓国人なのだそうだ。大阪の大学に留学していてそれで日本語をしゃべれるのらしい。

サッカーが終わってからも部屋でいろんな話をしたのだが、彼もこれからカイロを目指すというのでまたあちこちで出会うことだろう。それにしても雨は一向にやむ気配が無い。



10月25日 美味い宿(ダマスカス)

今日も朝から雨、雨、雨。それにしてもなんて寒いんだろう。フリースの上にジャケットを来てやっとしのげるぐらいの寒さだ。おまけに雨だし何もする気が無くなってしまう。とりあえず昨日日本大使館で借りた本を返しに行くために昼過ぎに出かける。

本を返しに行く間もずっと雨が降っていたのだが、帰ってきてからさすがに何処か観光したくなって、ダマスカス最大の見所でもある、ウマイヤドモスクへ行くことにした。ここは何でも世界最古のモスクとか言う話なのだが、外国人も入れてるのだが最近有料になってしまったらしい。

旅行者用の入り口と言うのが有ってそちらへ回ってみたのだが、チケット売場を見すごしたのかそのまま入り口に着いてしまった。そして僕は特に何を言われるでもなくモスクの中に入る事ができた。潜入成功(笑)。モスクの中は他のモスクと違って結構熱狂的で、イランからの巡礼団が代表のかけ声に会わせてお経の様な物を読んでいた。隅っこに腰掛けているおばあさんも目に涙を浮かべていたりと、今まで見たことの無い光景だった。

モスクを後にしてから適当にスークを歩き回ってみた。ただアレッポのスークと比べると観光客が見て面白いような物は何もなく、余り楽しい物では無かった。表通りに出ると宝石貴金属屋が軒を連ねていて、その豪華絢爛なショーウィンドウを見て、何だかクリスマスの飾り付けを想い出してしまった。そう言えばあと丁度2ヶ月でクリスマス。3度目の海外でのクリスマス。しかも3度とも半袖で汗をかきながら向かえることになろうとは。

ともかく今日も「この天気じゃどうしようもないね」と言う一日だった。



 

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