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いよいよ中国最後の朝がやってきた。昨日買っておいたパンを水で流し込みパッキングをすませる。2階の服務員が留守だったので受付でそのまま退出して良いか?と聞いて宿を後にした。宿の親父は「さよらなー」とか言っていたが「さよならだよ」と言うと「そうだそうだ さよなら」と笑っていた。
わかりにくく狭い道を抜けて、トレッキングブーツで瓦礫を踏み越えて国境の事務所前につくとさっそく通行証屋に囲まれる。日本のパスポートを見せると、「あっちあっち」と指をさして入り口を教えてくれた。ここの事務所はこじんまりとしている。ベトナム人以外の外国人はあまり通らないのか、外国人用のカウンターは閉まっていた。
パスポートを見せるとカウンターを開けてくれたのだが、あまり外国人が通らないせいか、係員もあまり慣れていないようだった。今までのルートが知りたいらしいのだが、査証のページを見てもいまいち理解出来ないらしい。中国入国から一つずつ順を追って説明すると分かってくれたようで、その後ノートパソコンを引き出しから出してきて立ち上げ、なにやらナンバーを打ち込んでチェックしていた。結局たった一人の出国手続きに30分ぐらいかかっただろうか。まあこれもなかなか出来ない体験なのでまだ楽しむ余裕があった。
いよいよ国境の橋を渡る。橋の両端は中立地帯なので何軒かの免税店があった。それぞれの側にゲートがあり、ゲートには両国のシンボル(国旗では無く丸いやつ)が掲げられていた。内緒で写真を撮ってからベトナム側のゲートをくぐった。
入国側でスタンプの押されたページを見せるとなにやらいろいろチェックというより、単にいろいろな国のスタンプが押されたパスポートが珍しいのか、何人かでしばらく眺めていた。やがて許可が下りたので通り過ぎようとすると今度は検疫に呼び止められた。ここまでは賄賂の類は一切要求されなかったので安心していたらいきなりだった。
「健康証明書を持っているか?」「なんだそりゃ?」と答えると、WHOのイエローカードのようなのを出してきて、陸路で中国から入国する者はこれが必用だ。無ければ$5でコレラの予防薬を買って証明書を取得しないといけないとう。この手の話はタイからカンボジアへ入国する旅行者の間で問題になっていたのを知っている。
ここで問題なのは、まずWHO自体がコレラの予防接種は実質ほとんど効き目がないので推奨しないと言っている事と、もう一つはコレラの予防は予防注射によって行われるもので、薬で予防することは出来ないと言うこと。つまり医学的に考えると全く無意味な物で有ることは明らかなのだ。ただこれを賄賂と考えるかどうかは意見の分かれるところで、少なくともベトナムの保健省が有効だと思っているのなら係員のやっている事は正当だといえる。
しばらくごねたり、効き目が無いことや、他の中国−ベトナム国境ではどの旅行者もそんな者は要求されなかった事、自分がアレルギーを持っていて医者に薬を止められている(実は嘘)等延々説明したが、3人の内の英語を全く話せない男の係官がひたすら頑固でどうにもならない。通訳をしている係官なら何とかいいくるめられそうな雰囲気だったのだが。
30分程粘ったが結局時間の無駄っぽいのでしかたなく$5払って健康証明書をもらった。一応黄色い表紙にWHOの文字が入っていて、コレラの予防接種の欄に半年間有効のスタンプが押された。他のページには黄熱病、ペストなどの欄もあって、一応正当な書類っぽく少なくとも係官は意味のあることだと信じてやっているようだ。その後別室に連れて行かれたのでなんだ? と思ったら冷蔵庫を開けていきなり薬を飲ませようとするので、「お金を払ったんだからもういいだろう?アレルギーがあって医者に止められているのでそれだけは勘弁してくれ」と頼んで薬を飲まずに通してもらった。向こうにすれば薬代が浮いた訳で特に無理矢理飲ませる理由も無いのだろう。
そんなこんなで、やっとの事で国境を抜けてベトナム側に入ったのだがどうしたものやら?情けない話だが次にどう行動して良いのか全く分からない。ここの国境はロンプラさえ「通れない」と言ってる所なので何の情報も無いのだ。仕方ないのでさっきの保険おやじの英語の話せる方を捕まえて、両替所の場所と国境から1日で行ける大きな町を教えてもらった。ここでベトナムの物価の相場が全く分かっていなかったので、親父にバス代やバイクタクシー代の大体の相場を教えてもらった。さもないと、ここベトナムのぼり方は世界トップレベルだというのでめちゃくちゃな額を払わされる事になりかねない。
バイクタクシーは1回1元ぐらいとの事で、バイクタクシーの親父に両替所とバスターミナルへ連れていってもらった。両替も大体妥当なレートで出来、次にバイタクの親父にバイチャイ行きのバスを探してもらう。どうやら「バイチャイ」という町がハロン湾の観光拠点になっているらしく、ホテルもたくさんあるらしい。しばらくして一台の古いミニバスの横で下ろされた。
車掌に「バイチャイ?」と聞くと「乗れ乗れ」という、値段を書いてもらった紙を見せると高い方を指さして40000という。まあそんなもんかなと乗る事にした。バスは車掌がドアを開けて叫びながら客を捜して歩くぐらいのスピードであちこち回る。「ああ、やれやれ」と思っていたら今度はあちこちで停まってどんどん荷物を積み込みだす。15人乗りのバスに15人以上乗っているのに、それにまだ大きな米俵2つ、大きな段ボール箱3つ、自転車6台に乗客の荷物と、途中でもう全く身動きが出来ないほどめちゃくちゃになってしまった。もうこれ以上どうしようも無いというのに、まだまだあちこち停まって乗客を捜す。「あほか!こいつら中国人より頭悪いぞ!←止せ」などと叫びそうになってしまった(笑)おまけにベトナムの運転マナーは中国以上に悪く、クラクションだけじゃ足りないのか、町中では車掌が窓から乗り出して、追い越しの時に怒鳴り声を上げて威嚇したりする。クラクションも追い越しはじめから抜き終わるまで鳴らしっぱなしだ。まったくやれやれだ、、、
やがてバスが走り出すと車掌がお金を集め始めた。ここが肝心でみんながいくら払っているかチェックしなければいけない。距離は約150Km。大体5万ドンぐらい払っている人が多かったがたぶん荷物込みだろう。がしかし何と自分の番になったら持ってる5万ドン札を全部みせてそれと同じだけ払えなどとアホな事を言っている。35万ドン?硬座なら中国横断出来るっちゅうねん!もちろん払う訳は無い。他の乗客に「これで良いよね」と5万ドン札を見せるとみんながうなずく。車掌はアホだけど他のベトナム人は結構まともそうでよかった。それにしても、ぼるにも7万ぐらいなら払ってしまったかも知れないが、35万とは恐れ入った。そんなのパック旅行者でも気づくだろう。お前らアホすぎ!まあ5万でも2万ほどぼっているのだが、そこは定価の無い国なので有る程度は仕方ないだろう。
このルートはさすがに荒い地図には載っていないだけあって道が良くない。とにかく狭いのと舗装そこされているものの荒れていたり穴が空いていたりして一旦停止しないと越えられないようなところがたくさんあった。最初は「いよいよ来たねえ〜」とのんきな事を言ってたのだが結局たった150kmの距離に5時間以上かかり、おまけに自転車にはさまれた変な姿勢で座り続けたためおしりの感覚が麻痺してもう最後にはどうやって座ったらいいのかわからない状態だった。
夕方頃やっとバスターミナルに付いた。が、ホンガイと書いてるので、車掌に「バイチャイは?」と聞くと船を指さしてアレに乗れという。対岸にたくさんのホテルのある町が見えるのでたぶんアレがそうなのだろう。しかしここでまた問題だ。船がいくらなのか全く見当も付かない。中国だと15円ぐらいかな?うーんと考えていると、さっきのバスで一緒だった気のよさそうなおじさんがおいでおいでしている。ボートに乗っておじさんにいくらか聞くと「5」というので5000ドン=40円かあ、、、ちょっと高いなあと思っていると、500=4円だった。ちょうど500ドン札があったのできっちりの値段で対岸に渡る事が出来た。
対岸にはたくさんのバイクタクシー待機していたのだが、おじさんに付いていきながら上手くかわして通り抜けた。おじさんが言うには、海沿いに行ったところにたくさんのホテルがあるのでこっちに行くといいだろうとう事だった。しばらく歩いているとバイクにのった英語をしゃべるホテルの客引きがやってきた。英語が通じるのは心強いので話だけでも聞いてみる事にした。
値段は最初$10からだった。相場といえば相場なのだが、相場でも低い方の部屋で十分なので、「$7ぐらいならねえ」と言っていると$8の部屋が有るというのでとりあえず後ろに乗って見に行ってみる事にした。ホテルはここバイチャイではどこでもそうなのだが、1フロアに2部屋の塔みたいな建物になっている。部屋に入ってみるとこれが驚き!中国からは考えられないほど綺麗な部屋で温水シャワーもあればテレビも冷蔵庫もある。たぶん閑散期で客が少ないのだろう。もちろん交渉の余地は有りそうだったが、とりあえずこれで$8なら十分だろうと思い即決する事にした。
客引きはこの宿の息子で名前は「ゴン」ベトナム語独特の発音で「ン」は飲み込むように伸ばす。彼は他に自分でボートツアーのアレンジなんかをして稼いでるらしく盛んにいろいろと薦めてくる。値段を聞いているとまあそこそこ利益の有りそうな値段なんで思い切って値切ってもいいのだが、このゴンはいろいろと世話を焼いてくれたり何処へでもただでバイクで連れていってくれたりするので、トータルで考えてボートツアーの話しに乗ることにした。ハロン湾4時間ツアーで$10。もちろんハノイからの団体ツアーが競争過多で宿、ボート、食事混みで$20以下になっている事を考えると高い。しかし中国から渡ってきた自分としては他に方法を思いつかないし、ゴンに美味しい仕事ごあげて良い関係を作っておく方がいいだろう。
明日のツアーは7時半にバイクで迎えに来てくれるというので、汗とほこりでどろどろになった体とシャツを洗い速攻で寝ることにした。いよいよ6カ国目ベトナム。思えば遠くへ来たものだ。
今朝は腕時計のアラームで目が覚めた。ここ北ベトナムは思っていたよりぜんぜん涼しくて、夜は少し肌寒いぐらいだった。昨日の疲れもすっかりとれて、さっそく7時半にロビーに下りるとゴンの親父さんがお茶をだしてくれた。ゴンはご飯を食べてるから7時半に迎えに来るよと言っているが、腕時計はもう7時半を回っている。ベトナム人は結構時間にアバウトなのだろうか?と思っていると7時50分ごろゴンが帰ってきた。しかしゴンはのんびりとお茶を飲んだりしている。やがて8時になった。8時と言えばボートの出発時間なので、さすがにやばいだろうと思いゴンに「早く行こう」と言うと、「ボートは8時だからまだまだ余裕だよ」と言う。「だってもう8時まわってるよ」というとゴンは笑いながら壁の時計よ指さした。そうだ、中国とベトナムでは1時間の時差があるのだ。全く知らなかった。
気を取り直してゆっくりお茶をのんで、ゴンのバイクで港へと向かった。ゴンは自分の会社がいろんな船を持っていると言っていたが、当然そんなわけ無いのは分かっている。ツアーの団体にお金を払って潜り込ませてもらうのだろう。どうもゴンは自分を良く見せる為にいろいろと嘘っぽい事を言うのだが、悪気はなく親切でフレンドリーで憎めない奴だ。
港では案の定ハノイからの外国人ツアーの団体に加わる事になった。どうやら今は客が少ないのかハノイのカフェ等からのツアーは最低ラインが$16まで下がっているらしい。これはホテル食事バス込みの値段だ。ゴンは当然自分一人の為に動いているのだから値段が違うのは承知しているのだが、ここまで違うとは思いもしなかった(笑)節約したい人には先にハノイへ行く方がいいだろう。
船は桂林の山々とよく似た島をかすめながらゆっくりと進んでいく。霞がかかっていたものの、桂林に負けず劣らずのいい眺めだ。面白かったのはコップの様に周りが山で中が海になっている島があって、海上生活者の船に乗り換えて洞窟をくぐって中に入れるようになっている。島の中は断崖絶壁で無数の海ツバメの巣穴があってたくさんのツバメが飛び回っていてなかなか楽しかった。
その後結局船は4時間程かけて湾の半分ほどをまわって港へと戻ってきた。ハロン湾全体を回ると8時間ぐらいかかるそうだが当然値段も倍という事になる。他の客はさっさとツアーバスに乗って去っていった。自分もしばらくして約束の時間の少し前にゴンがバイクで迎えに来てくれてそのままホテルに帰る事にした。ゴンはなかなか親切でいい奴なのだが、どこかへ行くというとすぐにただだから自分のバイクに乗って行けとしつこい。午後からは自分で歩きたいという事を伝えて歩いて町のあちこちを回ることにした。
面白かったのは、歩いているとゴンがカフェで同じ宿の韓国人の女の子を口説いていた事で、女の子の肩越しに指をさして笑ってやったり、手を振ってやったりすると、目だけこっちを見て笑っていた。ゴンには奥さんも子供もいるのだが日本人の彼女もいるらしい。いつか日本人の奥さんと結婚して日本に行きたいような事も言っていた。人間としてはなかなか最低なのだが(笑)とにかくこいつは愛嬌があって何となく許せてしまう。役得という奴だろう。
午後からはビーチでのんびりした。物の値段もすこしづつ分かるようになってきたのだが、最初1万ドンで買ったコーラが6000ドンで買える事を発見して喜んでいたら、何と村で一軒の定価販売のスーパーに行くと4500ドンだった。いったい何処まで値切れば適正価格になるのだろう。まったくやれやれだ(笑)
ビーチでは気温は割と低いので過ごしやすいのだが、日差しがとにかく強烈で、既に足にくっきりとサンダルの型がついてしまった。ビーチでごろごろしていると、時差の設定が上手くないのか4時過ぎぐらいから陽が暮れ始め5時すぎには真っ暗になっていしまったのでインターネットカフェに行ってみる事にした。さすがベトナムというかなかなか回線状態が最悪なのだが、来るときには順調にどっとデータが来るのだが、一度とまってしまうと5分ぐらいまったく応答が無い。とりあえずHotmail経由で自分のPOPを引いていくつかのメールを受信する事が出来た。送信の方はかろうじて両親宛に1通送った所でうんともすんとも言わなくなったのであとはあきらめる事にした。さっそくフロッピーを宿に持って帰って読んでみると友人や家族からたくさんのメールが届いていて嬉しかった。中にはホームページを見てメールしてくれた人もいる。旅先ではとにかくそう日本からのそう言ったメールが一番の心の安らぎになるので特にうれしい。
いよいよ今夜でベトナム2日目が暮れた訳だ。最初国境を越えた時はどうしていいものやら見当も付かなかったが、基本的には国が変わっても旅の仕方は同じで良さそうだ。ただ早く簡単なベトナム語と数字を覚えないとつらいのだが。
ともかく明日はハノイへ向かう。
今朝はいきなり切れてしまった。ここ2日間自分とゴンの間には絶妙な線引きが出来ていたと思い込んでいた。ゴンは自分の会社の船やバスを持っていると嘘を付いているのはまる分かりなのだが、いろいろ良くしてくれるし、僕はそういうゴンに対して相場より高めの値段でツアーに参加したりバスのチケットを取ってもらったりしてお互い良い関係が築けてると思っていた。
だが最終日になって「自分の為に何かお土産を置いていってくれ」とか言い出した。別にお土産をあげるのはかまわないのだが、昨日あげたボールペンに対して「そんなんじゃ不十分だ」と言った事がかなりカチンと来ていた。うまく線をを引いているつもりが奴はどんどんと図に乗りだした。そしていよいよ極めつけは奴がブッキングした(嘘)というツーリストバスだった。
約束の時間より少し遅れていつものようにバイクでバス乗り場だという店屋の前に連れていってくれたのだがバスは来る気配がなくて、しばらくするとゴンは「見てくる」と言い残してどこかへバイクで走っていった。そしてやってきたのは満員のローカルバスだった。儲けさせてあげるために高めの料金を払っているのに奴は事も有ろうかその上このローカルバスに詰め込もうというのだ。ここでついに切れて、彼につかみかかってしまった。「これはローカルバスじゃないか!お前は快適なツーリストバスを取るといったので$7も払ったのになんでその上に騙すんだ!」と。奴は必死で言い訳をするが結局、このバスは地元民が乗っているが快適にハノイまで直行して3時間半で着くこと。そして必ずバスターミナルではなくバックパッカー用ホテルのあるエリアに責任をもって連れていってくれること。これを最後にもう一度だけ信用してバスに乗ることにした。 お金を払ってしまった時点でもう他に選択肢は無いのだ。
バスは結局しばらく客を拾うが満員になるともうそれ以上は乗せずに猛スピードでハノイへと向かった。この分だと本当に奴の言うとおり3時間半で到着しそうだ。途中バスに揺られている間騙されたにも関わらず、奴に対してのさっきの態度は行き過ぎだったんじゃないか?となぜか彼に対して申しさけ無さみたいな物を感じたりして、自分がまだ彼らを見下したりせず対等に扱っているという事に少しほっとした。
バスは結局ホテルには行かず訳の分からないターミナルで下ろされた。やはり完全に騙されていたのだろう。バスを下りた瞬間数え切れないバイクタクシーのおやじが寄ってきて手を引っ張る。もうほっといてくれ!手をふりほどいて行き先など分からぬまま早足で歩き出した。しばらく歩いてから少し落ち着いて、さてこれからどうしたものか?などとのんきに考え始めた。とりあえず安宿はホアンキム湖という所にあるらしいのでたまたま目の前にいた食堂のおばさんに聞いたら親切に道を教えてくれた。ただここからはかなり遠いらしいのでどうしようと思っていたら店の前でシクロの親父がおいでおいでしていた。
値段を聞いてみると相場の倍ぐらいだったので交渉して相場まで下げさせてから乗ることにした。行き先を告げると「OKOK!」と満面の笑顔をうかべる。しばらくいろいろ町の名所を指さしたりしながら走ってから信号の手前で「そこが湖だ」と下ろされた。結構近かったなあと思いながらお礼を言うと老人は笑顔でシクロをこいで去っていった。だがしかし老人が指をさした場所は近寄ってみるとただのフェンスに囲まれた資材置き場だった。やられた、またもやだまされた。
もう怒りは頂点に達し、声をかけてくるバイクタクシーを片っ端からにらみつけていたかもしれない。なぜか体は限界のはずなのに不思議な怒りパワーで足は軽く、結局残りの5Kmを重いリュックをかついで歩くことにした。汗がどんどん流れるが、怒りの方も汗と一緒に少しづつ流れていき、湖に着いた頃にはだいぶ落ち着いていた。
いよいよ宿探しなのだが、もうここしばらくというか、日本を出てからほんの数回しか日本人バックパッカーと語り合ったりする事が無かったので是非日本人宿に泊まりたいと思っていろいろ回っているとAnh Shin Hotelという日本人がいっぱい泊まっている宿を見つけてさっそくチェックインする事にした。がしかし部屋は満室なので今夜は従業員の部屋で寝てくれとのことだった。従業員部屋といっても料金もドミよりも安く中二階にあって結構快適だったので気に入ってしまった。
さっそく汗くさい体をシャワーで流してロビーでくつろいでいるとなんだか懐かしい顔にばったり会った。中国の陽朔で会った日本人カップルだ。久しぶりの再会を喜んで食事をしたりビアホイ(ベトナムの有名なビール)を飲んだりしながらお互いの今までの旅の事を夜遅くまで語り合ったりした。
宿に帰ると従業員部屋の住民がもう一人増えていた。日本人の大学生で去年例の「長銀」に就職が決まっていたが会社が潰れてしまいわざと留年してるらしい。この「長銀くん」はちょっとおどおどした感じがあるのだが、気さくで人なつっこくてなかなかの好青年だった。お互いベトナムに来たばかりで彼のガイドブックを見せてもらいながら二人で夜中の3時ぐらいまであーだこーだとこの先の計画をねったりしてすっかり夜更かししてしまった。
今日は騙され続けてかなり落ち込んでいたが、旅先でいい日本人にたくさん出会えて少し元気が戻ったかもしれない。
昨日夜更かししたにも関わらず今朝はもう8時をすぎるとうるさくて寝ていられなかった。ベトナムの通りというのは中国に負けないくらい人通りが多くてうるさい。自分が起きてしばらくすると長銀くんも起きてきたので一緒に朝食を食べに行くことにした。ポー(Pho)というベトナム風うどんの店なのだが昨日偶然日本人カップルと発見して味も絶妙だったので朝からもう一度食べる事にした。彼もなかなか満足してくれたようでよかった。
朝食を食べた後、会う人みんなが薦める「水上人形劇」のチケットを買いに行った。なんでも人気があって安い席はすぐに無くなってしまうとかで少し早めにいった。窓口に着いた時はもうすでに一番高い席しか無いと言われたのだがなぜか二人で長時間相談んしていると安いチケットが出てきた。いったい何だったんだろう?
昼食は宿のヌシっぽい人達とベトナム風付け麺(ブン・チャ)を食べにいった。野菜や生きた魚を売るマーケットのど真ん中にあるのだが、これがもう絶妙でたれにつくねと肉と香菜をたっぷり入れて麺を着けて食べるのだが今までに無い味でしかも美味しかった。さすが長い間いるだけの事はある(笑)
昼食後はもう一人メンバーを増やして軍事博物館へ行くことにした。ここはいわゆる何処の国にでもある戦争に関する博物館なのだが、ここで感じたのはベトナム戦争というのは本当にベトナム人民総参加の戦争だったと言うことだ。
いろいろな写真展示では農作業の服を着た老夫婦が笑顔で空に向けて銃を撃っている写真や、戦場で炊き出しをするおばあさん、竹槍をもって戦地に向かう人々等が写っていた。さすがのアメリカ軍も国民全員を敵に回してはどうしようもなかったのだろう。
一通りの見学を終わって宿に帰るともう水上人形劇の時間だったので少し休んでから出かけることにした。この水上人形劇というのは詳しい技術は秘密らしいのだが、水の上が舞台になっていて、カーテンの後ろから竹の棒で人形を操っていろいろな動きをさせているらしい。
確かに動きはコミカルで楽しくて見てて飽きない。みんなが言うほどものすごいとは思わなかったが時間のある人は行ってみると良いとおもう。
宿に帰ってから迷った末明日のサパ〜バクハ行きのツアーを申し込んだ。当初は個人で行こうと思っていたのだが、ツアーの料金があまりにも安いこと(宿代込みで4日間$32)。個人で行くとぼられたり騙されたりする事。ガイド付きの方が少数民族の村を訪問しやすいという事を考えて申し込むことにした。出発は何と朝の5時半らしい。しかも初日はバスで11時間の移動らしい。まったくやれやれだが魅力的なエリアだけにわくわくする。
昨日セットした通り5時に腕時計のアラームがなった。さっそく荷造りをすませ昨日買って置いたフランスパンを水で流し込む。しばらくすると遅れてバスがやってきたのだが乗り込んでも辺りをぐるぐる回るだけで出発する気配がない。どうやらガイドが寝坊をしたらしい。
結局バスは7時ごろにサパへと向けて出発した。少し走るともう田園風景で道も次第に悪くなっていった。途中バスは朝食と昼食と休憩を取ったのだが昼食を取った町がなかなか良くて、子供達もなんだか照れながら寄ってきたりして市場をふらふらしてるとあちこちから笑顔が帰ってくる。屋台でアイスクリームを買ったりして町をしばらく散策した。
昼食後もバスは走り続け7時前ごろにやっとサパの町にたどり着いた。辺りは既に真っ暗だったのだが、バスを下りると少数民族の女の子達に取り囲まれた。なんでもサパにいる少数民族は大人も子供もみんなが物売りらしい。その中の一人の「チャイ」という黒モン族の女の子が腕に歓迎のリボンを結んでくれた。なぜか簡単な英語と日本語を話して「明日私の為になんか買ってね」と背中をばしばし叩いて笑顔で去っていった。
夕食は白人達はガイドに連れられてレストランへ行ったのだが、自分とあと二人の日本人は屋台に行くことにした。この二人は姉妹らしく妹の方が最近アジアにはまっているらしくて姉も一緒にベトナムへ来たらしい。この姉妹バックパッカーはなかなか探求心旺盛なのか、なにか美味しそうな物を見つけるととりあえず一つ買ってみて二人で味見をしていた。結局3人でマーケットにある屋台の食堂に入ったのだが、適当に注文したベトナム風春巻きがなかなか辺りだった。
宿に帰ると主人が情報ノートを持ってきてくれた。やはりここサパにも多くの日本人が訪れるらしくその中の一人がそのノートを書き始めたらしい。ノートはなかなか情報満載で姉妹バックパッカーは食べ物のチェックに熱心だった。
明日はいよいよ少数民族の村へ行くらしい。
今日はバスで近くの村まで行くらしい。ここサパは大部分の住民が黒モン族で、黒っぽい衣装に帯をぐるぐる丸めたような帽子をすぽっとかぶっている。
バスはしばらく山を下ってそれから道を外れてしばらく走った後、破壊された教会の手前で停まった。ここサパは74年の中越紛争の時に中国軍が侵攻してきて多くの村や教会を破壊したらしい。とくに教会は宗教を否定する中国政府のターゲットになったらしい。
教会跡からしばらく下るとやがて集落の中心のような所に出た。少しの店と学校があってここにもたくさんの黒モン族がいた。ここは少数民族を見るというよりも村自体が綺麗で、しばらく段々畑の間を縫ってトレッキングをしながら一軒の民家を訪問した。
民家はかなり質素で屋根裏にはトウモロコシ等の乾燥保存食が干されていた。というのもここサパは海抜が高くて気温が低すぎるため1年に一度しか米を植えることが出来無いため他の地域に比べて貧しいらしい。そんなわけで町でお土産を売る収入とかに頼るようになったのだろう。
のんびりとした山に囲まれた田園風景を楽しんだあとバスで宿に戻りあとは自由時間となった。バックパッカー姉妹と町をうろついているとあちこちから「Buy for me!」と声がかかる。ここの物売りの女の子は大体10才〜15才ぐらいが多いのだがなかなか商魂たくましい(笑)
よくこう言うのを「観光客ズレしててがっかりだ」という人がいるが、なぜかここではあまり嫌な感じをうけなかった。買わないと「なんでー?」「買って買ってー」 「サル、クルクルパー」などと頭をぽかぽか叩かれたりするのだが、なんだか子供がいたずらしてるような乗りで、別れるときには必ず笑顔で手を振ってくれる。
観光客が増えてサパの町もすっかり変わってしまったらしいが、彼女らの笑顔だけは何年経ってもあのままのの様な気がする。
この日は朝7時出発だった。少し遅れてきた人がいてバスを待っていると、チャイ達に発見されてしまった。相変わらず「これ買って!」「だって使わないもん」「なんでー? サル、クルクルパー」などいつもの会話を交わす(笑)
買ってあげたいのは山々だったのだが、結局欲しいような物が無かったので仕方ない。チャイも少しガッカリしたのか「Bull shit!」などと悪態を付いていたが、バスが出発すると「又来てね」とバスが見えなくなるまで笑顔で手を振ってくれた。なんだか少し調子が狂ってしまう。
バスは途中国境の町ラオカイで給油をしてからバクハへと向かった。バクハはサパよりもまだ1000mほど海抜が低いのでわりと熱帯風の植物とかが多くて気候もおだやかだ。バクハのエリアに入ると今まで見たとの無い、赤やピンクや緑に彩られた民族衣装を来た女の子を多く見かけた。彼女らは「花モン族」というらしくその名の通りカラフルだった。
バクハの町につくとしばらく自由時間で各自マーケットを回ったりした。ここの花モン族はサパの黒モン族に比べるとかなり裕福なのか、いわゆる物を売って歩いている人には一人も出会わなかった。ここのマーケットの人は純粋に自分の作った物を売って、そのお金で油や食材を買って帰るだけで、基本的には旅行者を対象にしていないようだった。「買って買って攻撃」を予想してたのだが少し拍子抜けだった(笑)
昼過ぎごろからバクハ周辺の3つの少数民族の集落を歩いて回った。この辺の住民はそんなに外国人になれていないのか、白人をみて泣き出す子供とかもいた。花モン族の集落はみんな人なつっこくて、一緒に写真に入ったりしてくれた。特にサパのようにお金を要求するでもなくニコニコしながら去っていく。
この二つのモン族の決定的な違いは生活のゆとりなのだそうだ。ここの花モン族はサパよりもだいぶ低地にすんでいる為、米も年間2回収穫できるし、椰子の木が育つのでそれからかなりのお金を稼げるらしい。家屋もサパのむらにくらべると同じ様式なのだが柱とか壁とかかなり丈夫につくられている。そのように生活に余裕が有るため観光客に物を売って回る必用が無いのだそうだ。ちなみにサパでの子供の就学率は40%程度なのに対してここバクハでは95%を越えているらしい。ガイドの説明を聞きながら、ふとチャイたちの事が頭に浮かんだ。
トレッキングの最後は町外れの宮殿へと向かった。この宮殿は以前花モン族の王がすんでいたらしい。何も彼らがそれを望んだ訳ではなく、この地を支配していたフランス政府がモン族の長をこのエリアの王に祭り上げて統治させていたらしい。結局その王はフランス軍の敗戦に伴いフランスへ逃れてそこで一生を終えたらしい。宮殿は古びてはいるがまだまだ美しく優雅な建築だった。内部はなぜだかバトミントン場になっていて、地元の若者が汗を流していた。
明日は1日かけてハノイへ帰るわけだが、もし再びここへ来ることがあったら、もう少し長く滞在してみたい。そうすればサパの物売り達の事ももっといろいろ分かってあげられるのでは無いかとおもう。チャイとの約束を守れる日は来るのだろうか?
今朝は例によって11時間の移動のため出発時間は6時半とかなり早い。昨日買っておいたフランスパンを水で流し込んでバスに乗り込む。バスは行きと同じ道を帰っていくのだが今日は天気もよくなかなかいい眺めだった。ただ道は相変わらずガタガタで曲がりくねっている為自分の体を支えるのがかなりつらい。
途中何度か食事休憩をしたり立ち寄った町をぶらぶらしたりしながらバスは12時間かけてハノイへと到着した。当初はそのまま夜行バスでフエまで行ってしまおうかと思ったのだが、おしりがいたくてもうそれどころじゃなかったのでハノイでもう一泊する事にした。ただ今夜も満員らしく、バックパッカー姉妹は従業員の部屋に泊まる事になり自分最初ビーチベッドみたいなのを用意すると言っていたのだが、それなら他に行くと言うともう一台普通のと同じベッドをドミトリーに入れてくれた。
チェックインのあと1階でくつろいでいるとなにやら従業員が預かり物が有るとかで1冊の本を渡してくれた。なんと例の「長銀くん」からで彼はハロン湾に行ったあと下痢がひどくてしばらくこの宿で寝込んでいたらしい。今日復活してサイゴンへと発ったらしいのだが、その時にこの本を渡すよう言付けてくれていたらしい。
彼は来週日本に帰るらしいのだが、その本「旅行人ノートメコンの国編」の裏表紙には「これからの旅頑張って下さい」等応援のメッセージが書かれていた。本が手に入ったことはもちろん嬉しいのだがなんだか彼の心遣いがすごく嬉しかった。
4日ぶりのハノイはさすがにいろいろ店も知っているので楽しい。結局一人でぶらぶらと食堂やあげパンの屋台でビアホイを飲んだりしながらくつろいだ。
ベトナム中部の水害ももうほとんど元通りに復旧しているというので明日のバスでフエへ向かう事にした。これからはかなり暑くなりそうだ。
今日はいよいよハノイを出発する日なのだがフエ行きのツーリストバスは6時半に出発するのでそれまで時間をつぶさなければいけない。レセプションで聞いてみるとホテルで予約するなら6時まで部屋を使って良いという事だったのでお願いすることにした。$1高いのだがミネラルウォーターを一本貰えるので結構お得だ。
朝食をさがして市場をうろついていると「ブン・チャ」の屋台を発見した。このブン・チャというのはベトナム式付け麺で、麺、香菜、焼き肉、つくねを甘酸っぱいだしにつけて食べるのだがこれが最高に美味しくてもう一度食べたいと思っていた。バックパッカー姉妹もこれを探し回っていたので教えてあげるとさっそく食べに行っていたようだ。彼女らは今日サイゴンへ飛ぶので土壇場で食べられて喜んでいた。というのもこのブンチャはベトナム北部の料理で、ハノイぐらいでしかお目にかかれないらしい。
そんなこんなでぶらぶらして、メールの返事や日記を書いたりしながら午前中だらだら過ごしていたのだが、午後からフロッピーに入れてインターネットカフェに行くと何と全てのカフェでフロッピーディスクの使用を断られてしまった。まあウイルス対策と考えれば当然と言えば当然なのだが今まで断られた事が無かっただけに驚いた。きっと過去にウイルス騒ぎでもあったのだろう。ともかくこれではどうしようもないのでフエで探してみる事にして町をぶらついた。
やがて夕方になってバスがやってきた。ここベトナムではなぜかツーリストバスと言うのが発達している。まず理由の一つは、外国人だと分かるとぼってくる事。国境からのバスは最初ベトナム人料金の10倍を言ってきた。もちろん相手にはしなかったのだがベトナム人でさえかなりぼられている。
次にベトナムのバスは中国以上にありったけの荷物を車内に積み込んで普通の姿勢で座るのが困難なこと、あと自分の荷物を靴で踏んだり座ったりする奴が多い事だ。もっともカンボジア、ラオスなどではもっとひどいらしいのだが。
そして極めつけはツーリストバスが格安な事。最近競争が激しいせいか、あちこちでストップオーバーできるハノイ〜サイゴンのバスチケットが$32で買えてしまう。この間約1500Km、下手をするとローカルバスでぼられながら行くよりも安いくらいだ。
そんなわけでここベトナムではほとんどの旅行者がツーリストバスを利用する。もっともバスはそんな豪華ではなく、定員以上乗せないのと荷物の盗難の危険が少なくなるぐらいなのだが。
バスはしばらくあちこちのゲストハウスを回って定員の8割ぐらいになったところでフエへと向かった。シートはリクライニング出来ずに道路も例の洪水の影響で最悪(といってもラオスよりましらしい)なので寝るどころじゃないはずなのだが、ここまでの2ヶ月の旅で少し図太くなったのか、体中に痛みを伴いながらも8時間はたっぷり寝たと思う。
バスはガタガタ揺れながら完全な闇の中を走っていった。
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