このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
朝起きるバスは海抜0m地域の泥だらけの道を走っていた。おそらくこの辺りは洪水の時は水の下に沈んでいたのだろう。道路の傷みかたもかなり激しい。ぼーっと見ていると一人の日本人らしき人が家一軒もないような道路上をザックを背負って歩いていた。何をしていたのだろう? (後日登場)
バスは2時間遅れで12時ごろにフエのどこかのゲストハウスの前に着いた。たぶんバスと契約しているのだろう。さっそく部屋を見ないか?と声がかかるがハノイのゲストハウスで安くてきれいだという宿を教えてもらったのでそっちへ向かう事にした。
歩いている間もシクロの親父ががんがん声をかけてくる。バックパックを背負っている時のバイクタクシーやシクロの勧誘は半端じゃなくかなりうっとおしい。とくにハノイで騙されて変なところで下ろされたというのを根に持っていたので完全無視を決め込む事にした。(普段はちゃんと相手をするのだが)
さすがにフエは中部なのでかなり日差しもきつくて暑く汗がだらだらと流れる。しばらく歩くとそれらしい看板が見えて、ベトナム人の男の人が「こっちですよ」と教えてくれた。ここはいわゆる「日本人宿」で日本人バックパッカーがたくさん泊まっている所だ。中国でほとんど日本人と語る事が出来なかったのでここベトナムに来てからけっこう好んで日本人宿に泊まっている。
よく日本人宿に批判的な人もいるが、この手の宿は独特な雰囲気を持っており、いいルームメートに巡り会えばなんだか中学や高校の修学旅行のようにいろいろと盛り上がってかなり楽しい。北京では毎日北欧系のバックパッカー達と飲んでたのだがまた少し違った楽しみが日本人宿にはある。
スタッフも日本語を話すベトナム人のマネージャーと日本人の奥さんとでサービスや心配りが良くされていて気持ちのいい宿だ。とりあえず観光は後回しにして洗濯と長距離移動の疲れをとることにした。
ビンジュオンゲストハウス $2.5(ドミトリー)
今日は特に予定もなかったので午前中ドンパ市場をぶらぶらする事にした。ここの市場はこの辺では最大の市場らしく、日用品からバイクの部品、食材、衣料品まで何でもそろう。ここで前からの懸案だった半ズボンを探す事にした。
市場の2階が巨大な衣料品売場になっていて無数の小さな店が軒を構えている。その中の一軒で半ズボンを山ほど置いてある店があったので交渉してみることにした。ここはまあ貧乏旅行なのではければいいのだがサイズが巨大なのが多い。白人旅行者向けなのだろうか?
やっと見つけた「Calvin Klein」ニセモノを買うことにしたのだが言い値は3万ドン(250円)。少し粘って2万5千ドンで購入した。これでもたぶん高めなんだろうけど、色も形も気に入ったのでなかなか良い買い物だった。(後で気が付いたのだが前のファスナーが無く穴さえ空けてなかった(笑))
買い物が終わると少しおなかがすいたので市場の中の屋台で何か食べる事にした。屋台街を歩いていると麺屋の固まったエリアがあっておばちゃんがおいでおいでしている屋台に入る事にした。ここフエの名物はブンと言われる半透明の麺で、これに唐辛子のスープと鳥殻、血のゼリーが入った物を頼んだ。スープはなかなかいい味で美味しかった。ここのおばちゃんは無愛想で親切だ。食べ終わるとさっとペーパータオルを出してくれたりと気が利くのだがなかなか無愛想で料理人っぽくってイカしている(笑)同じ店で、空の器に野菜と麺と焼き肉を入れて上からタレをかけるのがあってこっちもかなり美味しそうだったので、これは次の機会に試してみようとおもう。
市場を後にして大きな川にかかる橋を渡ってゲストハウスに帰ってきたのだが、途中であまりにも暑かったので公園で買ったばかりの半ズボンに履き替えてしまった。ベトナムも中部まで来ると日差しがかなりきつくなってきて首が痛い。次は帽子を買う必用がありそうだ。
宿に帰るとなぜだかビデオ上映会をやっていた。この日は「天空の城ラピュタ」。宮崎駿作品の中でも最高傑作だと思う。自分は何度も見たことがあるので部屋に帰っていろいろと今後のルートをチェックしたりして夜まで過ごした。
ここのドミにはなぜかハノイからの知り合いがどんどんと集まってきて、この日の夜は遅くまでアホな話しで盛り上がってしまった。テーマは旅やベトナム戦争の話から怪談やアオザイ女子高生の撮影ポイントまで、全員アホになって2時頃まで盛り上がってしまった。中でも「隊長」と呼ばれている彼は、特にアオザイに思い入れが強いらしく、サイゴンでもフィルム1本をまるまるアオザイ女子高生に費やしたとか。
宿にも「全ての人に捧げるアオザイマップ」とかいうアオザイ高校生の学校所在地や出没ポイントなどが詳細に記述された地図が置いてあった。まったくフエまで来てなにやってんだか(笑)
なんだか中学や高校の修学旅行のようなノリで久しぶりにゲラゲラと笑ったような気がする。
今朝は早起きだった。昨日の夜申し込んだDMZツアーの集合時間は何と6時。5時半に起きて手荷物をまとめてフランスパン1個だけの簡単な朝食。このDMZというのは非武装地帯の事で、ベトナム戦争時の国境付近の戦跡をツアーで回ろうと言うものだ。
例に寄ってあちこちのホテルで客をひろってから30分後ぐらいにドンハへ向けて出発!と思ったらバスは町外れで停まった。見るからにわがままそうな白人の女二人とそれに着いてきたという感じの頼りなさそうな男二人が外にいたのだがなにやらもう一台停まっているバスのドライバーともめているようだ。
彼女らはドンハまでのバス代として$2払ったのだがこれはローカルバスを使う場合で、ツーリストバスの場合は$3なのらしいのだが、受付が間違って「ツーリストバス」と言ってしまったらしく、ツーリストバスに乗るのが自分たちの当然の権利だ!と主張して言い争っていた。スタッフは誠実に何度も謝っているのに「謝るのは当たり前だ!このバスに金はらったんだから乗せろ」と女の方がぎゃーぎゃーわめいている。しまいには勝手にバスに入ってきてしゃがみ込んでてこでも動かないと言う感じだ。やつらのせいで自分たちのバスは足止めを食っているのに全然気にする様子など無い。結局スタッフの方が折れて彼女は同じバスに乗れる事になり残りの3人も意気揚々とバスに乗り込んできた。
自分はこの奴らのわがままで現地人を明らかに見下したような態度にかなりむかついていた。たぶん金髪だったんでイギリス人かアメリカ人だろう。黒髪なら明らかにイスラエル人なのだが。
ここアジアでは同様の光景をよく目にする。果たして彼らは自分たちの国で同様の手違いがあった時同様の対応をするだろうか?なんだか旅行会社のスタッフが気の毒でならない。やがてこのむかつく4人組はドンハで下りていった。
午前中は旧アメリカ軍の砦があった、ロックパイルと言われる山とアメリカ軍の飛行場があったケサン基地後をたずねた。ガイドのおじさんは戦争以前からまさにこの国境にすんでいた住人で、話も実体験に基づいていてかなり興味深い。なんでもこのロックパイル周辺は以前はジャングルに覆われていて、たくさんの野生動物がいたらしいのだが、米国が「枯葉作戦」としてダイオキシンを空からばらまいたため今では小さな木と草が生えているだけで、野生動物は今ではもうまったくいないらしい。
同様にベトナム全土にダイオキシンをばらまいた為、ベトナム中の森の60%以上が完全に枯れてしまったそうだ。逆に言えば今ベトナム南部のほとんど森林を占めるひょろ長い細い木は全てベトナム戦争後に植えられたという事になる。1ヶ月前のフエ周辺の今世紀最大の大洪水にしても、森が無くなってしまった為にここまでの大被害になったらしい。
ケサン基地跡にはがたがたになった滑走路と小さな博物館があった。基地跡自体は大した事はなかったのだがガイドのおじさんの話はなかなか詳しくて興味深かった。
昼前に一度食事を取るためにドンハへ帰り、午後は本当の国境跡とビンモックトンネルへと向かった。国境跡は川を挟んで広大な田んぼが広がってきた。国境の川には今は使われていない古い橋が架かっていたのだが、これでさえベトナム戦争の後に作られた物らしく、前の橋はことごとくアメリカ軍の空爆で破壊されたらしい。
午後のハイライトのビンモックトンネルは、地下に網の目のように張り巡らされたトンネルなのだが、これは有名なサイゴンのクチトンネルとは違って住民の生活用のトンネルで、中には井戸や居住区、産院まであった。最初のトンネルは地下10mぐらいに掘られていたそうだが、アメリカ軍はここをトンネル破壊用の地下10mまで破壊する特別な爆弾で徹底的に空爆したためその後どんどん深くなり、一番後期のトンネルは地下23mの深さで掘られていた。
トンネルは以外とひんやりとしていて快適だったのだが、4年間もこんな所で爆撃におびえながら過ごした住民はさぞかしつらかっただろうと思う。そしてたくさんの命が失われたが、それでも4年間の戦争中に14人の子供がこの地下の産院で生まれたのだそうだ。
こうして夕暮れ少し前にDMZツアーは終了して7時前にフエの町へともどった。夜はブンボーフエというフエの名物麺を食べた。そしていつものようにドミトリーの住人達と遅くまでバカな話で盛り上がった。ここは心地がよくしばし長いしてしまいそうな予感だ。
今日は歴代の王墓を巡るボートツアーに参加しようと思っていたのだが、昨日かなり日焼けしてしまって疲れていたので午前中ごろごろする事にした。
昼前にようやく起き出してドンパ市場へ向かった。一昨日チェックしていた焼き肉の乗った麺を食べるためだ。屋台へ行くと無愛想なおばちゃんは覚えていてくれていたらしく、少しだけにこっとしてその後無表情で麺や肉をお椀に盛ってくれた。値段は5000ドンと少し他のものに比べると高めなのだが味の方は最高だ!甘タレで焼いた肉と香菜のかおりが絶品だった。やはり量が少ないのが難点なのだが・・・
次は例によって当てもなく市場をぶらぶらうろついたのだが、さすがにいろいろな物があって飽きない。一通りひやかしてから、昨日の日焼けで絶対に帽子が必用だと思い帽子を売っているコーナーへと向かった。
帽子の選択はなかなか限られていて、ここベトナムでは大体の店では普通のキャップか三角のいわゆるベトナム傘しかない。傘売りのおばちゃんは熱心なのだがベトナムでは町中では女の人しかかぶらないものみたいなのでちょっと抵抗がある。そして普通の帽子だと首がじりじり焼けるのでつらい。どうしたものかとぐるぐる回っていると一軒の店で何かの葉っぱで編んだ帽子を見つけた。形は麦藁帽のようにつばが長くてなんとか首まで守ってくれそうだ。値段を聞いてみると5000ドン(40円)だというので値切らずにそのまま買うことにした。
かぶってみるとなかなかいい感じで、少し気温が低いのもあったのだが帰り道はすごく快適だった。せっかく帽子も手に入ったので王宮の方にも行ってみた。王宮は値段の割に対したことは無いという事なので中には入らずに城壁の上から観察する事にした。このフエの旧市街の城壁はなかなか味があって、それ自体が十分観光に値すると思う。 城壁の内側にはベトナム戦争時の戦車や大砲が無造作に展示されていた。
宿に帰ってみると宿に泊まっている「美容師ねーちゃん」がアオザイTシャツを作ってきたらしく隊長達が盛り上がっていた。「横のスリットがもう少し」ともう少しだとか(笑)その後いつものようにゲストハウスのオーナーのソンさん達と一緒に夕食へ。ソンさんは毎晩地元の人しか知らないような美味しい店へ連れていってくれるのでここの所毎日美味しい物が食べられて最高だ。
食事を食べながら宿のみんなと話をしているとその中の一人「涼子」(美容師ねーちゃんに切ってもらった髪型が広末涼子に似ている)と自分が半径1キロ以内に住んでいた事が発覚。これまで神戸市の人とかは結構な人数あったのだが、こんな所まできて同じ町内の人に会うとは夢にも思わなかった。何とも不思議な感じで、超ローカルな話題で盛り上がってしまった。
アジアでは多くの旅人が沈没(その町が気に入って何週間も離れられなくなる)するらしいのだが、きっとこんな感じで次第に宿から離れられなって行くのだろう。でも12月末までにはタイに抜けたいのでそろそろ動かないと行けない。
昨日はまたまた夜更かし(3時)だったのが明るくなると眠いなりに目も覚めていつものように屋台でフランスパンのサンドイッチを買って朝食にした。
昨日の夜から雨が降り続いていて全くすることが無いので久しぶりにメールの受信に挑戦してみた。というのもここのゲストハウスのオーナーの奥さんが日本人で、日本語環境のパソコンがあってしかもシステムを自由に使って良いというので願ったり叶ったりだ。
自分のPOPを引くことも、ベトナムのプロバイダのSMTPサーバを使って送信することも簡単に出来た。ただNetscapeのバージョンが違うためファイルをコピーしただけではまとめ送信が上手くできなかったので結構な時間がかかってしまったのだが。
届いたメールによると相変わらず日本では母親が娘の友達を殺したりと何とも言いようのない事件が起こっているらしい。あと芸能ニュースも数件(笑)
雨は夜まで降り続いてたので、昼過ぎから「もののけ姫」のビデオを見ることにした。前から見たいと思っていたのだが、まさかこんな所で見ることになるとは、、、緻密な絵と重いテーマの割にはストーリーがあっさりしすぎな気もするが、それでもなかなかの大作だった。
今日も降ったり止んだりのぱっとしない天気なのだが、月曜は朝礼があってアオザイ着用率が上がるらしく、隊長以下アオザイ捜索隊は朝からカメラを持って出動したようだった(笑)
ホーチミンの学んでいたクオック・ホック高校は一般の見学可と言うことなので、昼から隊長達と出かけることにした。川沿いを歩くこと15分それらしき学校が見えてきたのだが、なんと次の見学は5時以降からと言うことで結局教室は見学出来なかった。やっぱりアオザイ目的の日本人が後を絶たないのか?(笑)
校内は校門からまっすぐいった所に、男用アオザイを着たホーチミンの巨大な像があってなかなか貫禄のあるところだった。
昼からはマーケットの麺屋の味が忘れられなくて食べに行くことにした。ここは小さな屋台なんだけど、香菜、麺、焼き肉の入った器にココナッツの甘ダレと酸っぱい系のタレと唐辛子をかけた物ですっかりお気に入りだ。おばちゃんは無愛想だが、ここ数日毎日通っているので最近は姿をみるとにやっと少し笑うようになった。常連になったみたいでなんだかうれしい。
麺を食べ終わってマーケットを後にするとばったりと美容師ねーちゃんに出会った。美容師ねーちゃんはここのところ市場で服を仕立ててもらうのが趣味になっているらしく、立て続けに3着ほど作っている。デザインもアオザイ風Tシャツとか自分のオリジナルでなかなかイカしている。
今日は最後にアオザイ風上下を作ってちょうど取りに行くと言うことなので一緒に行くことにした。仕立て場はマーケットの2階の怪しい一角にあって、たくさんの職人が足踏みミシンで布を縫っている。さっそく主人は美容師ねーちゃんを見ると黒の怪しげな服を出してくれた。その場で直しとかも出来てしまうらしく、20分程して完成。出来上がりの方はアオザイ隊が喜びそうないい感じに仕上がっている(笑)
宿に帰った時のみんなの反応が思っていた通りだったので思わず笑ってしまった。
今日でフエもちょうど1週間。さすがにもう動かないと、と思いバスのチケットを買うことにした。このチケットはフエ〜サイゴンのオープンツアーと呼ばれるもので、その区間の決められた街で途中下車出来るようになっている。たまたまこのチケットが行きたい町をカバーしていて値段もサイゴンまでで$23と安くて自分にぴったりだ。
今日は宿のみんなと「子供の家」へ行く予定だった。この子供の家というのは日本人に寄って運営されている施設で、親に見捨てられたストリートチルドレンを預かって育てている施設だ。情報ノートでフエにもあるという事で連絡してみたのだが、どうも反応が消極的で面倒そうだったし雨も激しかったので結局見合わせることにした。
以前原田大二郎が息子とベトナムを回るというテレビ番組でサイゴンのものが紹介されていたので、機会があればそっちの方をたずねてみたいと思っている。
結局この日も雨で、日がなごろごろするしか無かったのだが、明日出発する人がかなり多くてみんなでアドレスを交換したりした。自分とアオザイ隊3名は南へ、隊長はラオスへ、あと「所さん」(所ジョージと井原ににている)は何とマカオからここまで歩いて来たらしくて、これからまた歩いてラオスへ向かうらしい。(フエに向かうバスで見た歩いている日本人はまさしくこの所さんだったのだ。 )
結構長居をしていたので荷物をまとめるのが少し大変だった。
今朝も雨、もう3日連続だ。ラオスへ向かう予定だった隊長と所さんは出発をあきらめたようだった。8時少し過ぎにバスの車掌が宿まで迎えに来た。今回買ったチケットはシンカフェという旅行会社のものなのだが、前に使ったキムカフェの物よりもずいぶん立派なバスだった。ただ西洋人向けなので冷房が効きすぎていて少し寒かったのだが。
バスは途中ランコーのビーチに寄ったりしながらいよいよ難関の峠にさしかかった。ここは例の台風でがけが崩れて最後まで復旧出来なかったところで、今でもあちこち崩れていて修復している所だった。特に一番ひどいところは山ごと道路が崩れて無くなっていて、空中を仮の鉄橋に乗って渡るような感じで下を見るとかなり恐ろしかった。
それにしてもあの道路をわずか1週間あまりで復旧させたベトナム人の勤勉さには驚かされるばかりだ。
その後も途中2〜3の観光地に立ち寄りながら3時頃にバスはホイアンの一軒のホテルの前に到着した。宿は自分で探そうと思っていたのだがたまたまドミトリーが$3という事でそのまま泊まる事にした。
町を散策するとあちこちの服屋から声がかかる。ここホイアンは服を作るので有名らしく、町中に数え切れないほどの仕立てやが軒を連ねている。客引きをかわしつつ川まで行くと今度はボートの客引きだ。ただ手こぎボートが30分で$1と言うことなので乗ってみる事にした。
ボートは2人の女の子とおばさん1人の3人で、川の上をあちこち回ってくれて、日本橋とよばれる所に到着した。このホイアンは朱印船貿易時代の基地になっていて日本人街があったらしく、その時の日本人が作った物らしい。
ボートを下りてからも相変わらず町を冷やかして、お菓子屋でシュークリームと凍ったプリンを買って歩きながら食べた。ここベトナムは元フランス植民地だけあって、この手のお菓子はかなりレベルが高いのだ。
夜になっても雨は相変わらず降ったり止んだりなのでおとなしく宿に帰る事にした。
朝起きたら大雨だった。この分では観光どころでは無いなと思い、ニャチャンへ行く今夜のバスの予約をした。ベトナムでは北部と南部は雨期が逆になっているので南へ下ればまだましかと思ったからだ。
雨が小降りになったのを見はからって町を散策することにした。ベトナム名物フランスパンサンドの屋台に立ち寄ってサンドイッチをかじりながら川沿いへ。昨日見つけた店で氷プリンを買ってぶらぶらしてたら雨が激しくなってきたので昨日行った日本橋で雨宿りする事にした。
日本橋はなかなか立派な建築で、ちゃんと屋根が着いていて中に小さな神社がある。雨宿りをしながら天秤をかついだおばさんや自転車のおじさんが行き交ったりするのをながめていた。
宿に戻るとフエで会った自転車の韓国人が来ていた。なんでも自転車で裏道を越えようとしたけど大雨で越えられなくてバスに乗ってきたらしい。
8時前にフエから一緒だったアオザイ捜索隊のみんなと別れてフロントでピックアップを待っていたらやってきたのはなんとカブ。こんな大雨の中をバイクの後ろに乗って行けというのか?ホテルからバス乗り場までのピックアップが有るというので泊まったのに少し騙された気分だ。文句を言ってらちが空かないのでしぶしぶ乗ることにした。3分程の距離だったがバス乗り場に着いた時には足と頭がびしょぬれだった。
夜8時ちょうどにバスがやってきて全員乗り込んだのだが出発する前になって車掌が「昨日からの大雨で所々洪水になっていて通れるかどうか行ってみないと分からないがどうする?」と言い出した。だが全員「行く」という事で意見がまとまり拍手と共にバスは出発した。しかしこんなんでいいのか?
バスはじゃばじゃばと水しぶきを立てながら真夜中の国道を南へと向かった。
バスは夜通しざばざばと水しぶきをあげていた。よく見ると田んぼや家屋の一部が水浸しになっているようだった。それでもバスは順調に走っていたのだが朝になって少しすると急に車の大行列が視界に入った。
最初は何なのかよく分からなかったが運転手は反対車線をどんどん走って一軒のレストランの様な所に停まった。20分間の休憩だという事だが前方のがけが崩れて通行不能になっているようだ。事実対向車は全く一台も来ないしこちら側はおびただしいトラックとバスの行列が出来ている。どうやら昨日の大雨で再びがけが崩れてしまったらしい。
やる気が有るのかないのかよく分からないがかなりしてから重機がやってきて土砂を取り除き始めた。バスが停まってから4時間ぐらいしてようやく1台分の道が確保できたらしいのだがここからが頭悪い。
まずドライバーは我先にと両方から殺到するし、警官は交通整理が下手なのでお互いの車がかち合って全く動けない状態が続く。運転手は手前で待った方が結局は早く通れるのに頭が悪いのかつっこんでくる。崖崩れの現場は目の前に見えているのに全然抜けられない。うんざりしながら1時間ほどで何とか崖崩れを抜けてバスは一路ニャチャンへと向かった。
疲れていたので連れて行かれたホテルにそのままチェックインしてしばらく横になる。少し頭が痛い。鎮痛剤を飲んでから町をぶらつくことにした。
まずこの前からはまっているフランスパンサンドの屋台でパンを2本買って次はフローズンヨーグルト。袋を抱えて海までたどり着くと海はまっ茶色だった。無理もないあれだけ雨が降ればしかたないだろう。ともかくとてもじゃないがビーチリゾートは無理なのでベンチに座って海を眺めながらサンドイッチを食べることにした
。
時折大きな波が来てしぶきがベンチまで飛んでくる。ビーチにはたくさんの椰子の木があって南国気分だ。これで空と海が真っ青だと言うことは無いのだが。
結局来る季節を間違ったと言うことで、明朝のサイゴン行きのバスを予約した。フエで(小)沈没した分を一気に取り返すかのような日程になってしまったが年末の事もあるしちょうど良かったのかもしれない。明日は久しぶりの早起きだ。
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