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ユーゴスラビア爆撃編
(ノビサド〜ヘルツェゴノビ)
 


7月28日 再会づくし(ノビサド〜ベオグラード)

ここノビサドには単に中継地点として寄っただけなのだが、少し早起きして街をぶらついてみる事にした。街に出てから思い出したのだが、そう言えばここはユーゴ空爆時にNATOに街の動脈の橋を全部破壊されてしまったのだ。そして少し前までは鉄道もここノビサドどまりだったらしい。

早速川岸へ行ってみると無惨に破壊された橋のがあった。近くには仮の浮き橋がかかっていて徐行運転の車で混雑していた。川の向こうに何やら旧市街の様な物が見えたので何となしにそちらへ向かう。

入り口に教会があって、その脇を城壁にそって登っていくと上はレストランとホテルになっていた。そう言えば昨日のおばさんが、ノビサドにはトルコ時代の古い町が残っていると言ってたのだがきっとこれの事だろう。城壁自体もなかなか味が合って良かったのだが、それよりもやっぱり興味をそそるのは、空爆されて落とされた橋だった。

街の中心の橋はほぼ撤去も終わり、鉄道橋の方は完全に新しいのが完成しているのだが遠くに見えるものは未だに橋桁はともかく落とされた橋もそのまま残っている。それにしても橋を壊すときは一カ所じゃなく一つずつ全部撃っていくらしい。まったくひどい事するよな。

旧市街の中の掃除のおじさんが笑顔で近づいてきた。「日本人だよ」というと「ヤパン ドブロ!」(日本はGoodだ)と繰り返したあと、クリントンの悪口をまくし立てた。何だか結構感情入っているようだった。一通りしゃべり終わった後、今度はコレクションの新聞のヌードの切り抜きをいろいろと見せてくれた。ちょっと変わっていたけど楽しい爺さんだった。

その後も街をぶらぶらして、ホテルのチェックアウト前までにもう一度シャワーを浴びて荷造り。そして遅れないように駅へと向かう。ここユーゴの列車は困ったことがあって、駅に張り出してある出発時間一覧に何の断りも無く「運休」のものがあるらしいのだ。結局12時20分と思っていたのだがその列車は「運休」らしく30分ほど余分に待つことになった。

そして列車に乗り込むといきなり、チャリ塚氏にばったりと会った。なんでもユーゴに散髪と郵便を出しに行くらしい。なんと車中二泊で何処にも泊まらないのだそうだ。そして驚くことに同じ列車に京女カップルが乗っていた。「あー、追いつかれましたねー」と相変わらず落ち着いた口調だった。

今回のベオグラード行きには一つ大きな目的があった。それはEU居住者しか買えないインターレールパスを買うこと。京女カップルも同じ目的だったらしい。さっそく駅の窓口で値段を聞くと9100ディナール($190ぐらい)との事だった。何か安すぎるなあと思ったのだが、とりあえずレートのいい両替屋で$200替えて、チャリ塚氏に教えてもらったプライベートルームにチェックインしてから駅に戻った。

しかしいざ買おうとすると僕のパスポートを見て「あなた26才以上だから12700ディナールだわ」とか言われてしまった。値段を聞いたとき顔だけで勝手に判断したようだ。まったくうれしいのやら迷惑なのやら。ともかくもう一度坂を登って両替して無事パスを購入することが出来た。何だかユーゴを出るチケットも抱き合わせで買わされてしまったが、本来買えないはずのパスが破格で買えたのでまあよしとしよう。

ただパスの使用開始を8月21日に設定したので、これまでにヘルシンキまでたどり着かないと行けない事になってしまった。まあこういう縛りも旅にメリハリを付けるには良いのかもしれない。これでウクライナ、ロシアは却下する事になりそうだ。

駅で再び京女カップルに会ったのだが、どうやら同じ宿らしい。彼女らが買い終わるのを待って一緒に近所のスタンドでユーゴ風ハンバーガーの様な物を食べてから、駅近くピンポイント爆撃の後を見に行くことにした。

爆撃現場は本当に街のど真ん中で、良くこの3つだけを破壊したよなと思う。まったくお見事としか言いようが無い。この爆撃で米軍が使ったのは「劣化ウラン弾」という奴らしくて、建物の内部に飛び込んで強烈な熱で内部を破壊するらしい。米軍曰く「軍事目標だけを破壊する、人に優しい爆弾(笑)」らしいのだが、放射性物質を含んでいるだけでもう全然ダメじゃないのか?

ともかく着弾した天井と内部がぐちゃぐちゃになっているだけで、建物の骨格は完全に残っていた。これだと逆壊す手間もかかりそうだ。辺りのビルも飛び散った破片でキズだらけになっていたので爆発力自体は結構なものなのだろう。

宿に帰ると昨日ほとんど寝てないと言う京女カップルは共に爆睡してしまった。そしてそこに先客の日本人が帰ってきた。一瞬目が合ったときにお互い信じられないと言う表情だった。何とフエで1週間程一緒だったアオザイ隊の「隊長」だった。「あーーっ!!」と叫んだあと興奮して大声で盛り上がってしまって、二人を起こしてしまった。

お互い近況報告と情報交換なんかをして、カップルが完全に起きてから4人で食事に出かけた。ベオグラードも結構夜遅くまでいろいろ開いていて、ピザにビールで、帰りに菓子パンを買って帰ってきた。

それにしてもまさかこんな所で会えるとは。だから旅は面白いのだ。
 

 
街で見かけた落書き
1939ナチス
1999NATO
 


7月29日 わざとやろ?(ベオグラード〜ストモーレ

昨日夜更かししたのでさすがに今日は朝寝坊だ。チェックアウトが12時なのでゆっくりパッキングをしてから朝昼兼用で隊長とマックへ。

ユーゴには特にスペシャルメニューは無くてガッカリだったのだが、それでも今ヨーロッパではマックフレッシュと呼ばれるレタスやトマトなど野菜がいっぱい挟まった企画メニューをやっていて、これは結構気に入っている。

そして隊長はスーパーを探しに行くらしいのでインフォの前で別れて僕は地図と「空爆マップ」を手に入れて空爆見物へと向かった。この空爆マップはなかなか良くできていて、地図にポイントを示している他、建物の空爆前と空爆後の写真が載っていてなかなかすばらしい。

最も壊れ度のひどい国防省は昨日見に行ったので、いきなりだがベオグラード最大の見所中国大使館へと向かうことにした。バスを待っていると英語をしゃべるおじさんが話しかけてきて、やっぱりクリントンの悪口だった。全くその通りといえばその通りなのだが、ユーゴの人はNATOに空爆されたというよりも、アメリカ=クリントンにやられたと考えているようだ。

空爆マップに従ってバスを降りて歩くと、周りに何もない広場にぽつん中国の国旗が見えてきた。「こ、これか!!」確かに側面に着弾したようでひどくやられている。空爆マップによると「中国大使館および公邸」となっていたのだが、これでは住んでいた人はひとたまりも無かっただろう。

それにしても実際見てみるとこれが「誤爆」とするにはどうしても無理があるような気がしてならない。まず大使館の周りは道路と広大な空き地で裏のちょっと離れた所に2階建てぐらいの建物が有る以外には全く障害物はないのだ。あの駅前の角を3軒だけど完璧に爆撃する精度がある事を考えると弾がそれたとは考えられない。そして「軍事施設と間違えた」も言うが、中国大使館はロンプラの地図にさえ載っているのだ。

噂によると当時中国はユーゴ側に着いて、しかもヨーロッパにおける諜報活動の拠点が置かれていたとかいう説もあるので、あるいは故意に撃ったのかも知れないと言う人も結構いるようだが、どちらにしろ真相は闇の中だろう。

ばっちり中国大使館を写真に収めて街の方へ歩いていくと、今度は空爆された大きなビルが建っていた。これはどうやら元ビジネスセンターだったらしく、空爆マップによると1回目は上の方(20階ぐらい)がやられ、2回目は3階ぐらいに着弾したようだ。

こっちの方も外壁はほぼ完全に残っているのに内部は完全にぐちゃくちゃに破壊されている。まったくケンシロウも真っ青だ。

ビルを見ていると何だか周りで交通封鎖をして警官がバリケードの前に集まっていたので「お!政治集会?」と思っていると、単に市街地の公園の一部を使って公道レースをやっているようだった。爆音をとどろかせタイヤから白煙を出して次々に車が目の前を通り過ぎていく。もうベオグラードでさえ市民生活は大体元に戻っているようで少し安心した。

夕方隊長がブカレストへ出発するというので駅をうろうろしているとまもなくやって来た。ほんの短い再会だったが、隊長はまだまだ日本に戻って働いたりして旅を続けるらしい。僕は今回でもう長期旅行からは足をを洗うつもりなのだが「のりもさ、これで終わりとか言わないで、まだまだ行けるよ」と言われると不思議とそんなもんかなと思えた。

もう旅先で会うことは無さそうだが、いつの日かの再会を誓って握手をした。そして僕も4時間後の列車で今度はユーゴ連邦のモンテネグロ共和国へと向かった。

列車は日本ほど出はないのだが、ユーゴにしては超満員状態で、ひょっとするとホリデーラッシュに巻き込まれたのかとイヤな予感がする。コンパートメントも6人で満員で、しかも同室のおじさんが大声で夜中とぎれることなくしゃべる続ける。知らない者同士らしいのだが、とにかく大声でしゃべり続けていい加減イヤになるのだが、旅慣れると図太くなるらしく、いつのまにやら眠っていたようだ。

日が昇って明るくなるとようやくおじさんはしゃべり疲れて眠りについた。しばらくすると突然目の前に海が広がった。アドリア海だ。そして僕はストモーレで列車を降りた。
 

 
爆撃された中国大使館
分かりにくいが手前側から着弾している
奥も外壁は綺麗が中はめちゃくちゃ。
 


7月30日 逃避行(ストモーレ〜コタル〜ヘルツェグノビ〜ドブロブニク)

やはり予感は的中した。チャリ塚氏に「ストモーレには民宿の看板がたくさん上がっている」と聞いてきたので適当に宿を探そうと思っていたのだが、実際行ってみると結構な数の民宿があるのだが、どこもユーゴ人観光客でごった返してた。しかももともとそんなに観光施設のないところに膨大な観光客が押し寄せているので、とてもじゃないが宿を見つけられそうにもない。 特にストモーレはベオグラードから列車一本で行けると言うことで混雑しているようだった。

しばらく考えたのだが、とにかくバスで西へ向かうことにした。ブドバル、コタル方面に行けば少しは空いているだろうし、最悪ドブロブニクまで行けば、旅行者の街なので簡単に宿も見つかるだろう。そして僕はぎゅうぎゅう詰めのコタル行きのバスに飛び乗った。

バスは海沿いの丘を走っていく。眼下には紺色のアドリア海が見える。そう言えばフィアット社製の車の塗色に「アドリアティックブルー」というのがあるのだが、今ならなぜそんな名前を付けたのかがよく分かる。

バスに乗って驚いたのだが、ここモンテネグロはユーゴ連邦に有りながらもう完全にドイツマルクが幅を利かせているのだ。さすがにユーゴ内なのでディナールも使えるのだが、基本がマルクで表示されていて、換算レートもはなはだ悪いのだ。

あれほどすし詰めだった乗客は小さな街を通り過ぎるごとにどんどん減っていって、コタルに着く頃には10人程になっていた。コタルは断崖に囲まれた入り江の街で、なかなかどうして素晴らしい眺めだった。ただニュージーランドに住んでいた時にも似たような景色を結構見ていたので、とっとと次のバスで先に進む事にした。

ここまで来て時計はまだ11時を少し回ったところだ。この分だと結構余裕でドブロブニクまでたどり着けるかもしれない。そう思って今度は一気に国境のイガロまで行くことにした。そしてこのコタルから先がもう絶景だった。

海まで迫った山の斜面にえんじ色の屋根の小さな家が立ち並んでいる。そして湾の中の浅瀬にぽつんと2軒ほどの教会が経っている。二つともちゃんと船着き場が付いていて、まるで海の上にぽっかり浮かんでいるようだった。たぶんこんな所に別荘を持ったりするのが世界中の多くの人達の夢なのだろうと思う。

飽きることの無い絶景を見ているとバスは少し大きな街へとたどり着いた。どうやらヘルツェゴノビのようだ。そしてまもなくバスはイガロの小さなバス停に着いた。情報によるとここから路線バスを途中で降りて5キロほど歩くとクロアチア側のバス停のはずなのだが、インフォで聞いてみるとバスはヘルツェゴノビから出るらしい。仕方ないのでまたまたバスで戻る。ちょっとの距離なのに1.5DMとかなりぼられてしまったようだ。

ヘルツェゴノビのインフォで聞くと国境行きのバスが2時15分にあるという。しばらく待っていると近くにいたおばさんもドブロブニクへ行くらしい。少し安心だ。

やって来たバスはなるほど古い路線バスといった感じだった。国境まで乗ろうと思い「ドブロブニクへ抜けたいんだけど」というと「このバスで通しで行ける」という。当然国境で乗り換えはあるのだろうが、長距離の歩きを覚悟していたのでまったく渡りに船だった。

バスは海岸を外れてどんどん山の方へ登っていく、そしてさかの頂上付近の国境で停まった。ここから入国審査をして歩きで緩衝地帯を越える。こういう国境越えはイラン以来だ。やっぱり新しい国に入る時はこうでないと!

入国時とちがい出国はまったくスムーズだった。そしてクロアチア側の入国は更にスムーズでちらっとパスポートを見るとすぐにスタンプを押してくれた。おまけに流暢な英語を話すし態度もすごくよかった。クロアチアの西側度はかなり高いらしい。

国境を越えて丘を下っていくと今度はクロアチア側のバスが停まっていた。バスもユーゴ側と比べると格段に豪華だった。そしてバスは相変わらず海沿いを走っていく。さすがにこの頃になると海にも飽きてきたのと疲労がピークに達していたので何度か居眠りをして、握りしめていたドイツマルクのコインを床に落として目がさめるといった事が何度かあった。

そして何度か目に目が覚めると一気に眠気が吹き飛んだ。「おおっ これは!!」いよいよドブロブニクの街が見えてきた。それは話に聞いていたものや写真で見たものよりも圧倒的に凄かった。「アドリア海の真珠」の名は伊達じゃない。ただバスターミナルはその旧市街を通り過ぎてかなりいった所にあった。

バスを降りるとプライベートルームの客引きのおばさんに声をかけられた。値段は相場の120KN(1400円ぐらい)ここにはユースも有るのでどうしようかと思ったが、とりあえず疲れていたので一泊の約束で泊まる事にした。気に入れば延長すればいいのだ。

とにかくもう体中ねとねとなので、早速シャワーで汗を流す。そうすると不思議なもので元気が出てきて早速外へと飛び出す。さっき見た景色が頭に焼き付いていて、一刻も早く旧市街を見てみたかったのだ。ついでにユースホステルにも寄って、明日の予約を入れてきた。

ユースから海沿いの長い坂を下っていくとやがて旧市街にたどり着いた。早速城門をくぐって中に入ってみた。内部もなかなか古い建物が残っていていいのだが、少しツーリスト向けの店が多すぎる様な気がした。しかし圧巻は街の外れの港から見る旧市街で、夕日に照らされた教会や城壁が赤く染まっていて、その上を無数の海燕が舞っている。

しばらくぼんやりとその風景をながめてから宿へ戻ることにした。宿は山の斜面にあって、遠くに舞った名夕焼けが見えた。こんなに綺麗な夕焼けはラオス以来だった。

そして宿に戻ると、ベオグラードで買った電熱コイルでお茶を入れて一気にこの日記を書き上げている。ふう、やっぱりためるとキツイや。
 

 
アドリア海にぽっかり浮かぶ集落
 

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