このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

仏都の名物 〜 長野えびす講煙火の歩み

 長野の煙火の起源は古いのですが、長野のえびす講に煙火を打ち上げて景気を添えることになったのは、明治32年のことです。
明治32年というと長野商工会議所が誕生した前の年に当たり、またえびす講煙火の特等席と言われた今の城山公園が大正天皇のご成婚記念事業として設置されたのも明治33年のことですから、その前年からそれらの事にはかかわりあいなく、既に仏都名物のえびす講煙火は打ち出されていたわけです。
 
 それではどういう動機で、この煙火会を創ったかですが、もともと長野には随分古く・・・・江戸時代から煙火というものが盛んであったと伝えられています。その一つの催しとして権堂村(今の権堂町)の遊女屋が、遊客を誘う一法として年々秋葉神社の祭典日を期し、楼主の出金で煙火会を催し、これが当たって近郷近在から見物人が押しかけて大変な賑わいを呈したそうです。
 打ち上げの陣所は、権堂から移転した東鶴賀の遊郭田圃の高土堤。ここに10カ所の陣所を設けて昼夜間断なく打ち上げたところ、計画図に当たっ人出数万「商店、旅館の繁盛は言うばかりでなく料理屋、飲食店は客で充満し、ついにはどこへ行っても芋の煮ころがし一つ買うことの出来ぬほどの盛況を呈せり。」と記録されています。
秋葉神社の故事にもよりますが、目と鼻の高土堤の煙火をサカナにして登楼客、1764人、この遊興費当時の金にして2074円36銭(明治40年)という豪勢な記録が残っていますから、楼主もやり甲斐があったというものでしょう。
 さてこの第1回目には、玉の大きさも四寸、五寸がおもで、七寸は大玉に属し、尺玉となると最も珍とされ、「別に流星と称する豪快不思議な呼びものもあった。」程度でしたが、翌33年には、東京の稲妻商会に注文して、新式の広告煙火を打ち上げることになり、「希望者から五寸玉一発1円50銭の割で玉代を徴収した。」そうですし、後年の二尺玉の先駆ともいうべき尺八寸玉を昼夜三発、ほかに尺二寸玉4発を打ち上げたのもこの年からと記録に見えています。
 その後いろいろな事情で大正4年以降有名な鷲沢平六翁等による長野商工懇話会が主催し、戦前国家事情で煙火を中止する前年の昭和15年までつづいたものです。
この間の大きな出来事として記録されるのは、商工懇話会が主催を引き継いだ翌大正5年に、日本で最初の二尺玉を打ち上げ、世人をアッと仰天させたこと、それから昭和3年煙火30周年記念に二尺玉七発をはじめ尺の早打ち十発乃至二十発3組を沖天にとどろかせ、大玉早打ちの先例をひらいたことなどでしょう。
 年かわり星移って今年は明治32年から数えて97年目になりますが、この中途昭和16年から22年まで大会中断のやむなき事情があって、今年の煙火が第91回に当たるわけです。戦後復活の年から主催は商工会議所と商店連合会の手に移りました。しかし先人のこの煙火会に打ち込まれた精神は、そのままひきつがれいます。
 また鷲沢平六翁の見識は、煙火師を厳選し技術未熟のものの参加は許さなかったことから、全国煙火師にとって長野のえびす講煙火大会への参加は「出世煙火」とまで称えられ、これが因となって今日煙火ばやりの時世においても長野えびす講煙火はその質の秀抜な点で全国の王座を占めておるのであります。
 なお昭和33年から夜の打ち上げ場所が旭山中腹(通称ドン山)に移されましたが、年々人家が建たるに従い危険を伴う恐れがあるため、昭和41年には打ち上げ場所を丹波島橋下流地域に移し、翌42年から47年まで雲上殿横の台地を中心にバードラインにかけて打ち上げておりました。
しかし、年々人家が建ち並び保安上の問題から平成3年より下流地域に移し、二尺玉の打ち上げを見合わせておりました。
平成7年の第90回を期して再び二尺玉を打ち上げることになりました。
・・・長野えびす講煙火大会プログラムから
 99年(平成11年)は、住宅状況により保安距離が保てないため、2尺玉の変わりに尺玉10発一斉打ちが2組打ち上げられた。

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