このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

吉原町のおもしろ資料


「弘法大師誕生地の研究」
乾 千太郎著、S11.2.1、大本山善通寺御遠忌事務局 発行(H3.5.25、総本山 善通寺、再版発行)より


これも、大西義文記「西行雑考」の中に紹介されている関連資料の1つである。いろいろ調べて頂いた先人に感謝する。

この本は、総本山善通寺発行の割には、西行庵についてかなり公平且つ客観的な視点で次のように書かれているので、信頼感を持って読める。

「大師のおわしましける、というは善通寺であり、御あたりの山、というは前にいった善通寺山号の因って起った五岳である。その五岳において西行法師の庵を結ばれた跡は、水茎の岡、山里の庵の外にはないのである。
善通寺にある幽棲の遺跡は平地であって、山里でないのみならず、伽藍に遮ぎられて海は見えないのである。」
「水茎の岡、山里の庵から、いながらにして月明の瀬戸内海を眺めたのであることは明らかである。」
「西行法師の善通寺留錫は、伽藍南大門西方玉泉院、即ち今の西行庵だと信ぜられているようであるが、それは誤りであって、」
と、実に明快に解析しておられる。

しかしながら、「西行法師の善通寺に庵して住したことは、世に隠れのないことであるが、」とか「西行庵そのものも勿論南大門の東にあったことがわかる訳である。」とかの記述は、総本山善通寺発行だから止むを得ないことかもしれないが、総本山善通寺側に立っており中立性を欠いているようで残念である。
「西行庵が南大門の東側にあった」という根拠は、道範阿闍梨が書いた「南海流浪記」しかないと思われるが、道範は西行が善通寺へ来てから75年も後に善通寺へ来ている。(あるいは、西行が吉原に5年も居たとしても、西行が去ってから70年も経っている。) 70年も経てば善通寺にも西行が居た当時のことを知る人はほとんどいなかったであろう。 道範はその頃に「其の門の東の脇に古き大松有り。寺僧云く、昔 西行、此の松の下に七日七夜籠居して、・・・(『久の松』の歌を詠んだ)」と書いており、善通寺の寺僧から聞き知ったのである。寺僧は「此の松の下に七日七夜籠居して」といっており、7日7夜程度では草庵を結んだりしないであろうと思われるが、いかがであろうか。おそらく既に境内にあった塔頭(小寺院)の方丈にでも籠った、と見るのが妥当であろう。(玉泉院がその当時境内の中にあった可能性でもあるのであれば、七日七夜参籠したのは玉泉院であったかもしれないが、久の松が南大門の南西200mぐらいにある現在の玉泉院にあった筈はないのである。)
さてここで、道範に教えたこの寺僧は何歳ぐらいの人だったか知らないが、西行が居た当時のことを直接見聞きしてはいないであろう。南大門に古大松があり、そのころ有名になっていた西行の歌「久の松」をこの古大松のことであろうか、と勝手に結びつけたに過ぎないのではなかろうか。なぜかといえば、西行自身の手記を本人及び後の人が編集したといわれる「山家集」には、「大師のおわしましける御あたりの山に、庵結びて住み・・・庵の前に、松の立てりけるを見て」久の松の歌を詠んだと書かれているからである。西行庵は「御あたりの山」即ち水茎の岡にあったから、当然久の松も水茎の岡にあって、善通寺の南大門の東にあった古老の大松ではないことがわかるのである。












<参考>
「善通寺伽藍并寺領絵図」部分拡大図と解読文 (徳治二年丁未(1307年)11月,善通寺一円保差図)
(「創建1200年空海誕生の地 善通寺」H18.3.31,香川県歴史博物館編集,総本山善通寺発行 より)





「弘法大師誕生地の研究」には、昔 五岳山の麓を囲んで、善通寺屏風浦から三井之江まで鏑矢の形のように海であった、とする説を展開している。また弘田町の阿瀬は浅瀬の「さ」が省略されたものだとしている。昔の地名は、平成26年8月の広島市の(旧地名:八木蛇落地悪谷が正しいのかどうか知らないが)土砂災害を見ても分かるように、その意味をないがしろにすべきでない。
しかし現在の三井之江の標高から考えれば、三井之江まで海であったとするにはかなり抵抗があるが、三井之江の下、すなわち 二反地川 流域まで海であったとするなら、屏風浦から吉原まで鏑矢の形にもなり、三井之江(付近)まで海であった、 ということもいえる。
もし、これだけ広く海(浅瀬)が広がっていたなら、西行法師の詠んだ;
   曇りなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶え間なりける
の歌が事実を詠んだものと理解できる。
















吉原町

トップページへ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください