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吉原町のおもしろ資料


道範阿闍梨 著「南海流浪記」


香川県埋蔵文化財センター 研究紀要 8 」(2012.3.26発行)によれば、
『南海流浪記』は、高野山正智院の阿闍梨・道範(?〜1252年、建長4)が記した紀行である。
  1242年(仁治3)に高野山とその末寺である伝法院(後の根来寺、本文冒頭で「末院」「彼の凶党」と見える)との争いが、伝法院の焼亡をもたらし、六波羅探題の裁定を受けるところから始まる。六波羅の裁定は、高野山側の非を認め、関係者30数名の配流を決定するものであり、道範は讃岐への配流とされた。1243年(仁治4)1月30日、淡路守護所の牧野四郎左衛門に護送されて都を出た道範は、2月13日に讃岐守護所に到着し、以後、宇多津・善通寺と居所を変え、1149年(建長元)に赦免されて高野山へ戻るまでの様々な体験や見聞を記した。

南海流浪記 読下し文 (「香川叢書 第二」及び天和2年深江屋太郎兵衛版を基に編集)

(道範阿闇梨)

仁治三年壬寅七月十三日、本寺の訴訟年月を経て達せず、末院の凶悪本末を忘れて興盛の 間、本寺の衆徒発向せんと企て、彼の凶党を治罰せんと欲するの処、天火自然に出でて順 風■爾に起きて、一院須臾に灰燼と成り了んぬ。同月の末 公家 当寺の検校を召され、即 ち八月の始め上洛を企つ。即ち其の悪行の張本を召さるるの間、彼の骨張十人の交名を注 進し了る。此の十人長者に付きて悉く召し上げられ了ぬ。同年拾月の末、傳法院注進の交 名に任せて、本寺の宿老等廿六人の召符之を下さる。十一月十八日六波羅に参るの処に、 即ち各々武士に預けられ了ぬ。同じく下旬 日々に両方の対問有り、傳法院巧みに亀毛の 条々を出し、詐偽の非論を構え申す。然れども空花の濫訴なる故に、一々無実の旨顕し了 ぬ。対決は如くならば、罪科に及ぶべからざるの由、謳歌せしむの処、仁治四年正月の頃、 三十余人悉く配流に処すべしの由、風聞せしむ。爰に宿老等都て子細に迷い、忽ちに東西 を亡くす、一両の悪行を以って只只宿老に押し懸けられていれば一言の問答に及ぶべから ず、両方の理非に就いて若し糺明せらるれば、一刑の罪科に処すべからず。是只所詮彼の 一院磨滅の時運に当りて、此の宿老等宿悪の業を感ずる歟。唯々因果の理を察して怨恨の 思いを生ずること勿れ矣。同四年正月廿五日各配流の国の武士に預けられ了ぬ。道範は讃 岐に流れる。守護所 京に在らざるの間、淡路の守護所(牧野)四郎左衛門の尉に付いて、下 国せしむべくの由 其の沙汰有り。即ち正月卅日都を出て久我に宿す、二月一日船に乗る、 神崎の橋の下に宿る。淀の渡りを過ぐるの時、遙かに花洛の方を瞻望して
  都をは霞のよそにかへり見て いつち行くらむ淀の川なみ
同二日、神崎を立ちて筒井に至る。路の間五里。昆陽・福原を過ぐ。同三日筒井を立ち岩 屋の渡を渡りて岩屋(石屋)に宿す。路の間六里余。播磨の須磨同じく垂水を過ぐ。須磨の浦 の景気色、誠に月の名所と見えたり。東南の景色霽れて山を出るの清光望むべし。西北の 海遠して、浪に入るの暁の月を見つべし。
  なかれ行く身にしあらねは須磨の浦 とまりて夜半の月は見てまし
同日夕方、岩屋并に絵島を巡見するに、青巌の形緑松の躰、碧潭の色暁風の聲、其の感興 愁緒を忘れ申す。即ち絵島明神に詣でて法施法楽す。
  見るはかりいかゝ語らむ絵島かた むへしを神はこゝにすみける
四日、石屋を立ちて船に乗り、瀧ノ口に至り居る。海路七里。海路の様(ありさま)、西は淡 路島、湊を行けば奇巌滑石宛かも山水を見るが如し。東は千里の青山目も遙かに遠く、其 の中眺望の末に當りて、幽かに高野の山見ゆる。山門寺中の事なんどおもひやられて哀れ に覚えて、舟中の人々に、明日よりは高野の見ゆる所は有間敷歟と問へば、淡路の山中に 入りなば、高野の見ゆる所は今はよも侯はじと云ふを聞いて、
  はなれくる高野の山の霞をも けふはかりやはなかめくらさん
同日、船をおりて陸地三里行きて、淡路八木の国府に至りて、中一日を経たり。岩屋の宿 迄は淡路配流の人同道す。同宿の間相互に世出世の事等相談して慰む事有り。件の人は瀧 ノ口に留まりぬ。又此の八木の宿よりは只同朋一両輩許り也。■旅の思ひまことに心細く
  さらぬたにね覚めおほかる草枕 まどろむ夢を吹くあらしかな
六日、国府を立ちて三里行きて、福良(ふくら)の泊りに至る。風悪しく三ケ日逗留す。西風 はげしく時々(よりより)雪ふぶきすさましく物哀れ也。
  興津風ふくらがいそに日数経て ならはぬ浪にぬるゝ袖かな
  行くさきも我がふるさとにあらなくに 爰を旅とは何いそぐらん
十日、ふくらを立ち、阿波の戸を渡りて佐伊田に下る。海路三里余。島々入江々々の有様、 目を悦ばして心を養ふ。船を下りて阿波の国坂東郡大寺に宿す。十一日、大寺を立ちて大 坂越えして、讃岐阿波の中の山なる大津賀に至る。路の間九里余。十二日讃岐の国府に至 る。路の間六里。廰の沙汰として祗候有り。次の日(六里)傳馬三疋。
十三日、国府を立ち、讃岐の守護所長雄(ながお)次郎左衛門の許に至る。路の間二里。次の 朝淡路の使者帰るに、淡路に留まる人の許へ、其の国より以来(このかた)多くの山海を渡り 流浪の事、并びに老後流刑の事、返すがえすもおもひよらざる由申して、
  天かしたなにすみ染めの袖ならん 老いの浪にもなかれぬるか哉
十四日、守護所の許より、鵜足津(うたつ)橘の藤左衛門高能(たかよし)と云う御家人の許へ 預けらる。
十五日、在家五六丁許り引き上りて、堂舎一宇僧房少々有る所に移しすへらる。此の所地 形殊勝也。東に望むは孤山夜月を擎(ささ)げて月輪観の思いを勧め、西を顧みれば遠嶋夕 日を含み日想観の心を催す。後ろには松山聳えて海中に至る。前は潮満つ時砌、近く指し 入れ、
  さひしさをいかてたへまし松風の 浪もをとせぬすみかなりせは
扨(さて)常に後ろの山に登りて、海上島々を眺望して、海中鱗類の為 自性能加持の法を作す。有る時は浦に出でて、向かひの山々を問へば、備前小嶋・備中・備後迄見へ渡る。小石に光明眞言等を書きて海中に入る。寶篋印陀羅尼を誦して鱗類の離苦海に廻向す。或る時は山に登りて見渡して、
  うたつがたこの松陰に風立てば 嶋のあなたもひとつしら波
三月廿一日、善通寺に詣で、大師の聖跡を巡礼す。金堂は二階七間也。青龍寺の金堂を模 せられたるとて、二階に各々今少し引き入りて層(もごし)あるが故に、打ち見れば四階大伽 藍也。是は大師御建立、今に現在せり。御作の丈六薬師三尊四天王像います。皆埋め佛な り。後ろの壁に又薬師三尊半出に埋め作られたり。七間の講堂は破壊して後、今新たに五 間常堂を造営す。御作釈迦の像います。同じく新たに造立。大師御建立二重の宝塔は現存 す。本五間、修理せしむるの間、前の広廂一間を加える云々。此の内に於いて御筆の御影 を安置し奉る。此の御影は、大師御入唐の時自ら之を図して御母儀に預け奉る同等身の像 なりと云々。大方の様は普通の御影の如く、但し左の松山の上に於いて、釈迦如来の影現 の形像之れ有りと云々。凡そ此の善通寺は、本は四面各々二町。其の内に種々の堂舎・宝 塔・灌頂院・護摩堂厳重に羅列せり。今は皆破壊して、纔(わずか)に礎石許り之れ有り。御 筆の額二枚之れ有り、皆善通の寺と遊ばされたり。其の外大宝楼閣陀羅尼と遊ばされ額二 枚之れ有り、皆破損云々。抑善通の寺は、大師御先祖の俗名を即ち寺号と為す云々。破壊 の間、大師修造建立の時、本号を改められざる歟。金堂の西に一つの直路有り、一町七丈 許り也。則ち寺中自(よ)り御誕生所に参るの路也。則ち参詣して之を拝すれば、正しく御誕生所には石高く広く畳めり。今は如法経之れを納め奉る。七重の石塔之れ有り。大樹少々之れ有り。拝見の間、戀慕恭敬、涙を催し膽を折る。
  高野山岩のむろ戸にすむ月の この麓より出てけるかさは
此の御誕生所は西の方に五岳山と云ひて五仏の高山の有る其の麓也。同日午の刻、講堂に 於いて法華の講有り。大師の御報恩と云々。其の後童舞有りと云々。其の日晩景に及びて、 還向することあたわず、則ち御影堂に通夜す云々。
翌日宇足津に帰る。寛元元年九月十五日、善通寺に移住す。寺僧等、兼て大師御誕生所の 傍らに庵室を構えて建て給へり。同月廿一日、大師の御行道所に至る。世に世坂と号す。 参詣す。其の路嶮岨嵯峨として、老骨攀躋し難し。只人にたすけられて登り至る。此の行 道の路には、今に草生えず、清浄寂寞たり。南北は諸国皆見へて、眺望眼を疲らす。此の 行道所は五岳の中岳、我拝師山の西岫(くき)也。大師此処に観念経行の間、中岳青巌の緑松 の上に、三尊の釈迦如来、雲に乗って来臨影現したまふ。大師之を拝み玉ふ故に、我拝師 の山と謂ふ也。此の行道所に数刻大仏頂宝篋印等の陀羅尼を誦して、満眼の及ぶ所海生山 獣等の益生にあつ。如来影現の事貴く目出たく覚えて、
  鷲の山つねにすむなる夜半の月 きたりて照す峯にそ有りける
十月の頃、南大門に出でて、南方の名山等眺望す。南大門の前の路、弘さ三丈五尺、長八 町。左右に卒都婆多く之を立つ。其の門の東の脇に古き大松有り。寺僧云く、昔 西行、 此の松の下に七日七夜籠居して
  久に経てわか後の世をとへよ松 あとしのぶへき人もなき身そ
とよめるによりて、此の松をは西行ガ松と申す也と申すを聞きて、
  契りおきて西へ行ける跡にきて われもおはりをまつの下風
寛元二年甲辰正月の頃、當寺の童舞装束調べらる事、…

                          (以下、略) (■はウェブでは表示できない難読文字)

道範は上述のようにとあることから罪に問われ、讃岐に流され、寛元元(1243)年九月に宇多津から善通寺に移住して、善通寺周辺も精力的に歩いている。その中で、下記の如く、善通寺の寺僧から;
  「南大門の東脇に大きな松があり、むかし西行が七日七夜籠り居りて
    『久に経てわが後の世をとへよ松 あとしのぶべき人もなき身ぞ』
  と詠んだので、この松を西行ガ松と申すなり」
と聞いて、道範も歌を詠んでいる。西行来讃(1168年)から75年以上後のことである。75年も経てば善通寺の寺僧が何を言おうが、西行が来た当時のことを知る人はもういなかったであろう。

それはよいのだが、この寺僧が言ったという「久の松は南大門の東脇にある」とか「西行が七日七夜参籠して」とかは、南大門の南西にある玉泉院の松とは合わない。また7日7夜 では庵も結んではいまい。西行庵や久の松が南大門の南西にあったというのは何かの誤解による根拠なき伝説であろう。

『南海流浪記』の 史料紹介 (香川県埋蔵文化財センター 研究紀要 8, 2012.3.26発行)によれば、
「大師のおはしましける御辺りの山」(『山家集』)に結んだという西行の 庵がどこにあったかは不明である。しかし、西行の讃岐巡礼から約八〇年 後、善通寺において、南大門の東脇にはまさに古い大松が存在し、西行が 「七日七夜籠居した」庵ゆかりの「西行が松」であるとの伝説が語られて いたというのは、興味深い。このような西行伝説は、西行の名声ゆえに、 鎌倉時代以来全国に流布したのである。

また、 「西行四国行脚の旅程について」 (香川大学佐藤恒雄教授, AN00038157_31_275.pdf , 2012.3.27公開)によれば、
西行が訪れて約80年後には,すでに西行庵と松が南大門のすぐ近く(現在の玉 泉院の場所という)に比定されていたことがわかる。寺僧の語ではあり,寺門 の脇とする点においても,おそらくは善通寺当局の宣伝誇示を目ざすような力 が介在しての名所捏造であったかに思われるが,とまれ,ここにすでに伝説化 されてゆく西行像の,その伝説化のメカニズムの一端を垣間見ることができて 興味深い。

とあり、誕生院善通寺の僧が西行の名声にあやかりたくて、辻褄の合わない伝説を流布したとみてよかろう。



「西行雑考−善通寺滞在の周辺−」(大西義文:記)より抜粋
(「文化財協会報 昭和61年度 特別号」S62年3月, 香川県文化財保護協会 編集発行)





<参考>
「善通寺伽藍并寺領絵図」部分拡大図と解読文 (徳治二年丁未(1307年)11月,善通寺一円保差図)
(「創建1200年空海誕生の地 善通寺」H18.3.31,香川県歴史博物館編集,総本山善通寺発行 より)




「善通寺一円保差図」解読図(「善通寺市史第一巻」S52.7.31, 善通寺市発行)より




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