このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「西行物語」


駒澤大学文学部 坂口博規教授の『 「西行物語」の成立時期をめぐって 』より、冒頭部分を抜粋すると、


と書かれている。
なぜ西行の没した場所・年月日を捻じ曲げる必要があったのだろうか?

「 西 行 物 語 」
(「西行全集」久保田 淳編、S57.5.31、財団法人日本古典文学会 貴重本刊行会 発行)より
「西行物語」も次のように、写本により数系統の異本が存在する。


凡例:(48オ),(48ウ)等の表記は、古文書の折り紙(和紙)のページ数と表(オ)に書かれているか、裏(ウ)に書かれているかを示す。

吉原・水茎の岡の歌碑に刻まれている「やまざとにうき世いとはんともゝがな くやしくすぎしむかしかたらん」も、
詠んだ場所は吉原ではないが、載っている。




25歳で出家し、80歳を超えて、そうりん寺・東山の辺に庵を結び、建久9年2月15日に没した、としている。
(正伝では数え年の23歳で出家、河内の国 弘川寺において73歳で没)
没年を捻じ曲げ、年齢を延ばさなければならない理由は何か?


別の写本でも、京都東山の双林寺の辺に庵を結び、建久9年2月15日に没した、としている。
曼荼羅寺の歌碑に刻まれている「かさはあり その身はいかになりぬらん あはれはかなきあめがしたかな」
も、詠んだ場所はともかくとして載っている。




「撰集抄」にも善導寺と誤記された写本があったが、「西行物語」にも善導寺と書かれている。わざとに捻じ曲げているのか?



西行は、元永元年(1118)生誕、保延6年(1140)数え年23歳で妻子を振り捨て出家、文治6年(1190)河内国弘川寺で没(享年73歳)

一方、釈迦は生年諸説あって不明だが、29歳で妻子や王子の地位を振り捨てて出家、沙羅双樹の下で旧暦2月15日に満80歳で入滅した。

「西行物語」では、西行没を双林寺の下で旧暦2月15日に満80歳(=1198年=建久9年)で亡くなった、と念仏聖や俗聖達が強引に釈迦に合わせようとしたのであろう。それならば、ついでに出家の年も23歳を25歳とわずかばかり改変せずに、なぜ29歳としなかったのであろうか?


吉原町

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