このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

吉原町のおもしろ資料


「西行」(白洲正子 著, H8.6.1, 新潮社 発行)より


この著者は西行の各地の史跡を訪ねて、西行の気持ちを汲み取りながら歌の解釈をしているが、「久に経てわが後の世をとへよ松・・・」や「岩に堰く閼伽井の水のわりなきに・・・」の歌は、玉泉院の環境にはそぐわず、それよりも曼荼羅寺近くの庵室(水茎の岡)で詠んだと考えるのがふさわしい、と述べている。

まったく同感である。これらの歌が玉泉院の西行庵で詠まれたとするのは、無理矢理事実をねじ曲げている感じがする。



















白洲氏は、日比・渋川も塩飽・真鍋島も、四国へ来る途上ではなく、山里での供養三昧の生活に物憂くなって海へ「浮かれ出た」ものであろうと見ている。
後の人により山家集は編集されて順番が時間経過通りではなくなっているようではあるが、1つ前の児島の歌もあわせて「罪」を詠んだ歌が3首続いている。これはひとまとめにすべきものではなかろうか。 四国へ来る前に「海産物を獲る=罪」を強く意識して詠みながら、山里で数年間過ごした後、塩飽でまた「罪」を意識する歌を詠むだろうか。この3首は同時期に詠まれたものとしか思えない。おそらく大師のゆかりの地で毎日崇徳院の追悼をしているうちに、殺生=罪を強く意識するようになり、そこから気分転換に児島・日比・塩飽(真鍋)を遊覧したのではあるまいか。もちろん、児島→日比→真鍋島経由で四国へ渡るのは不自然なコースなので、四国へ来るときに同時期にこの3首を詠んだとは考えにくい。白洲氏のいうように、鎮魂の合間に息抜きをしてせとうちを巡ったものと考えたい。







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