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吉原町のおもしろ資料


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「吉原郷土研究会報」より

「吉原郷土研究会報 第三号」(平成7年9月、吉原郷土研究会発行)
— 東碑殿の天満寺観音堂 —


「吉原郷土研究会報 第四号」(平成9年9月、吉原郷土研究会発行)
— 忘れられて行く吉原の地名 —


「吉原郷土研究会報 第六号」(平成13年9月、吉原郷土研究会発行)
— 生木大明神 —


ここに引用されている「徳治年間に作られた地図」とはこれのことであろうか。

「善通寺伽藍并寺領絵図」
(「創建1200年空海誕生の地善通寺」H18.3.31,香川県歴史博物館編集,総本山善通寺発行 より)


「善通寺一円保差図」解読図(「善通寺市史第一巻」S52.7.31,善通寺市企画課編集,善通寺市発行 より)

昔の地図は上が南である。曼荼羅寺の西南の山中に「ゆきのいけの大明神」というのが書かれている。
曼荼羅寺の近くに「小森」というのがあるが、これは「こもりさん(水分神社)」のことだろうか?

同じく曼荼羅寺の近くに「そうついぶくしのりょう所」というのがある。漢字で書けば「惣追捕使の領所」であろうか。
ネット検索すると、「世界大百科事典 第2版の解説」として;

そうついぶし【惣追捕使】
鎌倉時代に設置された軍事検察官のひとつ。当時は〈そうついぶくし〉と呼ばれることが多かった。平安時代に惣追捕使がすでに存在していたか否かはまだ確証がない。史料上に確実に登場するのは源平内乱の時期であり,源頼朝は平家追討中にその手立てとして西国諸国に惣追捕使を独自の判断で設置していたが,追討完了後の1185年(文治1)11月いわゆる文治勅許のときに,地頭職とともに,義経追捕を直接目的として全国的に設置する権限を朝廷に求め,承認された。

【追捕使】より
…徐々に各国に設けられていくが,同様の軍事官職である押領使(おうりようし)の任命地域との違いや職務権限の差などは明らかでない。鎌倉幕府は1185年(文治1)に惣追捕使(守護)を全国に任命するが,これはその名のとおり追捕使のもつ軍事的権限を吸収して武家政権の地方行政組織としたものである。なお,荘園にも追捕使が荘官として設置された場合があって,荘園内部での治安維持などにあたったと思われる。…


この絵図の端裏書きの徳治2年(1307)はまさに鎌倉時代(1185年頃−1333年)であって、「そうついぶくし」がいた時代であったであろう。

「ゆきのいけの大明神」の近くには集落が描かれていて、「せうにとのりょう所」とある。これも漢字で表せば「少弐殿領所」であろうか。
大宰少弐で代表される九州の武将で御家人の少弐氏一族の所領があったのであろう。

そのほか、善通寺周辺の条里制の中にはいろいろの名前が書き込まれている。わかりやすいものだけ拾えば、
あんやういん(安養院)、まなへのたいしん(真鍋の大進)、あわちとの(淡路殿)、くらのまち(蔵の町)、田ところ(田所)、さんまい(三昧)、そうしやう(僧正)、そうつ(僧都)、くないあしやり(くない阿闍梨)、三いのをし(三位の御師)、いんしう(院主)、せうに(少弐)

前掲の「創建1200年空海誕生の地善通寺」によれば、「三いのをし」は「三いのりし」(律師)と読んでいる。

「さんまい」は、墓地の横にお堂があってその中で葬式や読経三昧していたことからこれを三昧堂と呼び、転じてお墓のことを「さんまい」と言うようになって、現在も墓地のことをさんまいと呼ぶ地方がある。鎌倉時代の「さんまい」は既に墓地の意味もあったのかどうか不明。

「大進」は、ネット検索すると、従六位に相当する官職で、大辞林 第三版の解説として、
だいじん【大進】
律令制で、中宮職・皇太后宮職・春宮坊・京職・修理職・大膳職などの判官(じょう)で、少進の上の位。たいしん。だいしん。


こうしてみてくると、この絵図に書き込まれている地名は読みのとおりにかかれているのではなかろうか。とすれば「ゆきのいけの大明じん」とは「雪の池の大明神」かあるいは「往きの池の大明神」と呼んでいたのではなかろうかと思うが、いかがであろうか?


参考までに現代の地図を南を上になるよう回転して、さらに条里制を縦の線にあわせると、次のようになる。
赤い四角枠は善通寺の東院・西院をあわせた領域である。黄色い四角は上掲の徳治2年の絵図とほぼ同じと思われる領域である。

徳治2年の絵図の善通寺東院の下4ブロック目に石塔のような絵があるが、これは仙遊寺であろうか。
「ゆきのいけの大明神」は中山の尾根あたりに描かれているが、ひょっとしてこれは後の出釈迦寺ではないのだろうか?
もっとも、「明神」は神社なのでお寺ではないが、この絵図が描かれた頃には出釈迦寺の前身である 施坂寺 があったかもしれない。
もっと厳密に言えば、曼荼羅寺から「ゆきのいけの大明神」へ行くには、麓まで張り出した山裾を1つ越えていかなければならないように描かれている。とすれば、三井之江の集落から西へ登る必要がある。そこには何があるだろうか。今では三井之江の天神社があるが、ここまで行くと少し西に寄り過ぎだろうか。

徳治2年の絵図には弘田川の水源である有岡の大池も描かれているのではないかと思うのだが、黄色い枠からはかなり外になり、領域外は異尺で描いているかもしれない。


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