阿州三好實休發向讃州記 (阿州三好実休 讃州へ発向するの記)
去ヌル天文廿年ニ三好長慶ハ細川晴元ヲ退ケ、天下ノ柄ヲ執リ同廿一年八月十九日ニ、三好豐前守 義賢ハ阿波屋形細川讃岐守持隆ヲ弑シテ阿波國ヲ奪ト云ヘトモ、國中ノ細川家舊功ノ輩ヲ親附セン ヵ爲ニ、他國出陣ノ沙汰モナカリシカ、讃州十河左衛督一存謀ヲ廻シ。安富筑前守盛方、寒川丹後 守政國ヲ三好方ニ誘引シ、香西越後守元成ニ書ヲ通シテ曰、細川家退轉シテ三好家其跡ヲ勤ム、阿 讃ハ上古ヨリ親好ノ國也。今三好家ニ和親ヲナシ玉ハ丶、自他ノ悅ビ此ノ時ニアリト懇ニ演説シ。 辯士ヲ以テ是ヲ諭ス。香西氏モ細川退轉ノ後、旗頭トスヘキ豪家ヲ考ルニ、三好家ノ外ニ據トスヘ キ人ナケレハ、其旨ニ從テ三好家ニ和同ス。香川五郎刑部大夫景則ハ伊豫ノ河野ト親シケレハ是ニ 牒シ含セテ安藝ノ毛利元就ニ屬セント欲ス。是ニ由テ十河一存ノ旨ニ與カラス。元就ハ天文廿年ニ 大内家ニ亡テ三年中間アッテ、弘治元年ニ陶全薑ヲ討シ。夫ヨリ三年ニシテ安藝、備後、周防、長 門、石見五ヶ國ヲ治テ、今北國尼子ト軍爭ス。其勢猛ニ振ヘハ香川氏中國ニ據ントス。三好豐前守 入道實休是ヲ聞テ、永祿元年八月阿、淡ノ兵八千餘人ヲ卒シテ、阿波國吉野川ニ到リ六條ノ渡リヲ 超テ勢揃シ、大阪越ヲシテ讃州引田浦ニ到リ。當國ノ兵衆ヲ聚ム寒川氏、安富氏來服シテ山田郡ニ 到リ十河ノ城ニ入リ。植田氏族ヲ一黨シテ香川郡一ノ宮ニ到ル。香西越後守來謁シテ計ヲ定ム、綾 ノ郡額ノ坂ヲ越テ仲郡ニ到リ、九月十八日金倉寺ヲ本陣トス。馳來ル諸將ニハ綾郡ノ住人羽床伊豆 守、福家七郎、新居大隅守、瀧宮彌十郎、瀧宮豐後守、香川民部少輔、小早川三郎左衛門鵜足郡ノ 住人長尾大隅守、新目彈正、本目左衛門佐、山脇左馬允、仲行事、大河、葛西等三好家ノ軍ニ來衆 ス。總テ一万八千人、木徳、柞原、金倉ニ充滿ス。一陣々々佗兵ヲ交ス營ヲナス。阿、淡ノ兵衆粮 米ハ海路ヨリ鵜足津ニ運送ス。故ニ守禦ノ兵アリ。實休此度ハ長陣ノ備ヲナシテ謀ヲ緞クス。九月 廿五日實休軍ヲ進メテ多度ノ郡ニ入ル、善通寺ヲ本陣トス。阿、讃ノ兵衆仲多度ノ間ニ陣ヲナス。 香川氏ハ其祖鎌倉權五郎景政ヨリ出テ下總國ノ姓氏也。世々五郎ヲ以テ稱シ景ヲ以テ名トス。細川 賴之ヨリ西讃岐ノ地ヲ賜テ、多度ノ郡天霧山ヲ要城トシ。多度津ニ居住セリ。此地ヲ越サレハ三郡 ニ入コトヲ得ス。是郡堅固ト云ヘキ也。相從兵將ハ大比羅伊賀守國淸、齋藤下總守師鄕、香川右馬 助、香川伊勢守、香川山城守、三野菊右衛門榮久、財田和泉守、右田右兵衛尉、葛西太郎左衛門、 秋山十郞左衛門其外小城持猶多シ。香川モ兼テ期シタルコトナレハ我ヵ領分ノ諸士、凡民トモニ年 齡ヲ撰ヒ、老衰ノ者ニハ城ヲ守ラシメ、壯年ノ者ヲ撰テ六千餘人手分ケ手組ヲ能シテ兵將ニ屬ス。 香川世々ノ地ナレハ世人ノ積リヨリ多兵ニシテ、存亡ヲ共ニセシカハ阿波ノ大兵ト云ヘトモ勝ヘキ 師トハ見ス。殊ニ近年粮ヲ畜へ領中安佚ス。故ニ大敵ヲ恐ス兩敵相臨ミ其中間路ノ程一里ニシテ端 々ノ少戰アリ。然ル處ニ三好實休、十河一存ヨリ香西越後守ヲ呼テ軍謀ヲ談シテ曰、當國諸將老功 ノ衆ハ少ク寒川、安富ヲ初メ皆壯年ニシテ戰ヲ踏コト少シ、貴方ナラテハ國家ノ計謀ノ賴ムヘキ方 ナシ。今此一擧是非ノ謀ヲ以テ思慮ヲ遣ス。敎へ示シ玉ハ丶國家ノ悅ヒコレニ過へカラストナリ。 香西氏曰我不肖ノ輩、何ソ國家ノ事ヲ計ルニ足ン。唯命ヲ受テ一ノ木戸ヲ破ヲ以テ務トスルノミ也 トテ深ク愼テ言ヲ出サス。兩將又曰國家ノ大事ハ互ノ身ノ上ニアリ。貴方何ソ默止シ玉フ、早々ト 申サルヽ香西氏ヵ曰愚者ノ一慮モ若シ取所アラハ取リ玉フヘシ。我此兵革ヲ思フニ彼來服セサル罪 ヲ適ルノミナリ。彼服スルニ於テハ最モ赦宥有ヘキ也。唯扱ヲ以テ和親ヲナシ玉フヘキコト然ルヘ ク候。事延引セハ豫州ノ河野安藝ノ毛利ナトヲ賴ンテ援兵ヲ乞ニ至ラハ國家ノ大事ニ及ヘキ也。我 香川ト同州ナレハ隔心ナシ。命ヲ奉テ彼ヲ諭シ得失ヲ論シテ來服セシムヘキ也。實休ノ曰、我何ソ 民ノ苦ヲ好ンヤ。貴方ノ辨才ヲ以テ敵ヲ服スルコトヲ欲スルノミ、香西氏領掌シテ我ヵ陣ニ歸リ、 佐藤掃部之助ヲ以テ三野菊右衛門ヵ居所へ使ハシ、香川景則ニ事ノ安否ヲ説テ諭シ、三好氏ニ服從 スヘキ旨ヲ述フ、香川モ其意ニ同ス。其後香西氏自ラ香川ヵ宅所ニ行テ直説シ、前年細川氏ノ例ニ 因テ三好家ニ隨順シ、長慶ノ命ヲ受テ幾内ノ軍役ヲ務ムヘシト、國中一條ノ連書ヲ奉テ、香川氏其 外讃州兵將ト三好家和平ス。其十月廿日ニ實休兵ヲ引テ還ル。其日ノ昏ホトニ善通寺燒亡ス。陣兵 去テ人ナキ處ニ火ノコリテ大火ニ及タルナルヘシ。閭巷ノ説ニ云ク、廿日ノ昏ニ長八尺ハカリノ大 僧ノ手ニ明松ヲ持テ伽藍ニ火ヲ付タルト云ハ虚説タルヘキナリ。陣兵退タルニイマタ住僧モ歸ラス シテ火起タルナルヘシ也。又惡逆ノ輩火ヲ放タル事モ有ヘキナリ。此善通寺ト云ハ弘法大師誕生ノ 地ナリ。故ニ誕生院トモ云也。大師ノ父佐伯善通ノ爲ニ立ラレタル靈場ナレハ善通寺ト云也。方二 町ニシテ大伽藍也。殊ニ大師造立ノ道場ナルニ燒滅セシコソ残念ナレ、佛閤高樓ノ員數其寺ノ記ニ 遺セリ。
四國亂後記
讃州諸家與廢傳(ママ ・・・興廃傳か?)
應仁年中ニ細川官領勝元大軍ヲ起シ、山名彈正入道宗全ト相爭ヒ京都ニ於テ十一年對陣ス。細川家 ノ侍大將ニハ藥師寺與一、安養寺佐左衛門、村主隼人佐、雀部修理進、秋庭備中守等數十人先鋒ノ 將帥トス。香川肥前守元明、香西備後守元資、奈良太郎左衛門元安、安富民部少輔元綱、旗本ノ四 臣トス。諸國ノ大名從之十一万餘兵ト聞ヘケル、右ノ四臣ハ讃岐國ヲ以テ本領トシ、畿内ニ采地ヲ 加賜フ。讃州西方多度、三野、豐田三郡ハ香川肥前守元明旗頭ト定メ、天霧山ノ城ニ在リ、那珂郡 ハ藤橘伴ノ諸家ノ采地也。鵜足郡ハ奈良太郞左衛門元安ヲ旗頭トシテ聖通寺山ノ城ニ在、綾北南香 河東西ハ香西備後守元資ヲ旗頭トシテ、勝賀山ノ城ニ在、山田郡ハ三谷、神内、十河ヲ旗頭トシテ 郡中ノ諸司是ニ從フ、三木郡ハ安富民部少輔元綱ヲ旗本トシテ鴨郡ノ城ニ在、大内、寒川二郡ハ寒 川左馬允世々ノ食邑ニシテ晝寢ノ城ニ在(晝寢城ハ長尾鄕ニ在ト記ス我未見之)虎丸城ハ譽田ノ鄕ニ在(我往テ見之)各其旗本ヲ引卒 シテ京師ノ陣ニ從フ、文明十一年五月宗全卒シ、六月勝元卒シ、兩陣下國シ其領邑ヲ守リ暫ク休息 ス讃州ノ舊姓ト云ハ香西、植田、寒川也。香川、安富、奈良ハ關東ノ姓氏ニテ細川官領ノ恩ニ依テ 讃州ニ來住ス。香西氏ハ細川定禪ニ與シテ足利家ニ忠勤アリ。是ニ因テ四臣ノ内ニ擧用ルト也。 其後官領細川政元害ニ遭ヒ賜テ天下又騒動シ、養子澄之、澄元、高國各官領職ヲ爭ヒ交戰テ其中間 年久シ其後澄元ノ子晴元ノ世ニ成テ、三好長慶其弊ニ乘テ起リ、其權ヲ奪ントス。晴元屡戰テ力屈 シ國權ヲ三好ニ任シ、攝州芥川ノ城ニ蟄居ス。細川家ノ諸將其所ヲ逐ルヽモ有、又三好家ニ屈シテ 其家ヲ失ザルモ有、長慶逝去シテ繼子義繼早世シ、松水(ママ)彈正又三好家ノ跡ヲ繼デ天下ヲ官領ス。公 方義輝公是ヲ憎ンデ越前ノ朝倉、江州ノ佐々木、同國ノ淺井等ニ密書ヲ賜テ松永ヲ退ントス。其事 露顯シテ世上ニ匿ナシ、然共御所ニハ何ノ用心モナシ、松永是ヲキイテ逆寄ニシテ義輝公ヲ弑ス。 織田信長事ノ序トシテ義昭公ヲ取立、義兵ト稱シテ京都ニ攻入、畿内諸州ヲ押領シ、其威勢ヲ天下 ニ震フ、諸國其風ヲ望テ來服ス。信長驕慢ニシテ其用心ナシ、是ニ依テ我家臣惟任日向守光秀ガ爲 ニ害セラル丶、是ヨリ諸國又擾亂シテ手足ヲ措クニ所ナシ、羽柴秀吉義兵ト稱シテ日向守ヲ討テ天 下ニ橫行ス。世人其徃ク所ヲ知ラザル也。
天霧城
天霧城
新聞記事
伝説1
伝説2
天霧山の古写真
鎌倉神社
善通寺
曼荼羅寺
出釈迦寺
禅定寺
鷺井神社
東西神社
我拝師山
天霧山
七人同志
片山権左衛門
月照上人
乳薬師
トップページへ