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江戸時代「曼荼羅寺」
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<江戸時代の記録>
−「金毘羅参詣名所図會」弘化4年(1847) 暁 鐘成著(翻刻版 S55,歴史図書社)より −
我拝師山延命院曼荼羅寺
葭原村にあり、四国遍礼七十二番の札所なり。
本尊 大日如来 長二尺五寸、立像、弘法大師作、本堂東向き。
護摩堂 本堂に並ぶ。大師堂 本堂の南に隣る。
鎮守権現社 大師堂の南にあり。鐘楼 大師堂の向ふ、東傍らにあり。茶堂 鐘楼の北の傍らにあり。
二王門 北向、門内西側に桜の並木あり。笠松 本坊の前にあり、巡り凡そ廿余間、其の形笠のごとし。
西行の笠掛桜
鐘楼の前にあり、桜の下に標の石を立て西行上人の歌を勒す。
四国のかたへくしまうりける同行の都へかへりけるに
帰りゆく人のこヽろを思ふにもはなれがたきは都なりけり
かの同行の人かたみとて、此の桜に笠をかけ置きけるを見て
笠はあり其の身はいかに成ぬらんあはれはかなきあめがした哉 西行
(注:白字は翻刻版の原文のままであるが、原本を活字化するときに読み間違っている。正しくは「具してまかりける」→
参照
西行笠懸桜)
西行法師 笠掛桜と昼寝石
然れば、此所にもしばし寓居せられたるなるべし。水茎が岡といへるはこれより三町計り西にありて西行の庵の旧墟なり。
山家集
ひとりみをきて帰りまつりなんするこそ哀にいつか都へかへるべきなど申しければ
柴の庵のしばし都へかへらじと思わんだにも哀れなるべし
此の歌は碑にはしるしあらざれども因にこヽに記す。
寺記に云ふ、当寺は弘法大師善通寺落成の後に建立し、自ら七仏薬師の尊像を作り金堂に安置し給へり。彫楹玉台日景を引き談議竜象林をなせり。されば元杲、仁海、成尊等の名徳寓居し給ひ秘教称揚の道場、名望高遠の勝区なり。中世しばしば兵賊にあふて宝甍、粉牆、魑魅の棲となれり。国の監察生駒氏の家臣三野の何がしとかや、これを見て感慨にたへず。三間の仏宇を造営し俸田数傾を割いて寄付し、ふたたび香燭を継ぎ遠く絶紐をぞ継ぎける。凡そ此の境や金城北に峙ち、沃野綺のごとくに布き、五岳南に聳え碧巌鉾のごとくにつらなれり。今境内二町四方、林木繁蔚して清幽都て塵事を忘るばかりなり。此の寺元杲、仁海、成尊の三名徳の遺跡といひ伝ふ。彼の小野の寺を曼荼羅寺延命院などいふ。彼此異ならず。小野の寺はもと正行院といふとかや、今此の寺大師御建立の時より今の名あらば、小野の寺も此の寺の名を取るにや。(以上、雲石堂説)
曼荼羅寺
伝云く 大師 善通寺を建てて後 又此の寺を建てたまふに 金胎両部の曼荼羅を地に封じ この堂を立て 薬師七躯を安置したまふ ゆゑに曼荼羅寺を号すと
逍遙院
それを見て 入りもてゆけば 山ふかく 松原遠き峯のふる寺
千載集 世をすくふ 跡はむかしにかはらねど はじめたてけん時をしぞ思ふ 藤原定長朝臣
曼荼羅寺
山門
本堂
不老松
解説
境内八幡宮
善通寺
出釈迦寺
禅定寺
西行庵
人面石
鷺井神社
東西神社
我拝師山
天霧山
七人同志
片山権左衛門
乳薬師
月照上人
牛穴
蛇石
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