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最明寺塚


 
西碑殿の蛇石へ行く途中の高速道路沿いの道に「最明寺塚」という社が建っている。



石碑には「最明寺塚記」という漢文調の難解な説明文がある。


拓本を採ってみたが、文意は難解すぎて読めない。

(時間がなくて雑な拓本で失礼。白黒反転しました。)

   最 明 寺 塚 記 (?はネットでは表示できない漢字を示す)
 余邑西為比殿邨 邨即二池相接 小曰上池 大曰比殿池 上
池之北涯有一小塚 曰最明寺 在弥谷弘道之傍也 土人相伝
謂斧斤一加立為崇 畏之甚於蛇蝎 邊以竹梅森欝薜蘿被焉 荊
棘茂焉無寸地可托足矣 一日 村翁来謂余曰 頃聞即発淫祠之
令茲并及是祠 恃無 乃為崇于寒村乎 余聞之哂曰 古人最明
寺者北條時頼也 焉有時頼之霊而毒民生哉 居 我語汝史乗間
之 曰 時頼勵精図治専尽力民事康元元年有疾薙髪 老示最明
寺而自憲遠邑 遊陬澤 猶未洽乎 乃装為行脚僧 歴遊天下
恵問其所疾苦者 比帰鎌倉 大下令郡県 悉除所在寃枉 蓋當
 時国人懐其恵 相謂曰 某丘吾公之所掌 来憩也 某里 某
郷 吾公之所掌来察也 因立祠祀之 是所以此称也  昔者召
公聴訟棠樹之下 国人歌 諾之就立祠 夫子特西 是趙簡子
至河 而邊土人刻之石曰 孔子廻車處蘇轍特之高安 至一小渓
 郷人呼其渡曰来蘇 皆是類也 嗚呼人也亡世也遠 祠壇歳荒
遂変為狐狸?蟒之巣窟 安足畏 且勇哉翁善当 曰 得先生之
説宿疑氷釋 陳謝而去 則隠几而坐 又自為説曰 自非聖人人
誰無瑕瑾 茲時頼无心術固無足云者 然至牧民一節 則洵不謂
佛哉 詩云 采?采菲勿以下體 苟為人上者 體是意 以其善
為法 以其不善為監戒 則於治国乎何有 然則如是祠 宜存而
可無 余恐与他淫祠同発也 作最明寺塚記

まったく難解で読めないが、最初の方は;
 余の邑(むら)の西、比殿邨(ひどのむら)と為す。邨(むら)即ち二つの池に相接す。小曰く上池、大は曰く比殿池。 上池の北の涯(水際)に一つの小塚有り。曰く最明寺。弥谷弘道の傍らに在る也。土人相伝ふ。斧斤を一つ加え立ち祟り(碑文は「崇める」となっているが間違いか?)を為すと謂ふ。 之を畏れて蛇蝎甚だし。辺り竹梅を以て森欝とし、蘿薜(つたかずら、薜蘿は逆)被うか。荊棘(いばら)茂るか、足を托すべき寸地なきや。一日、村の翁来たりて余に謂いて曰く、頃聞く、即ち淫祠の令を発し、茲に併せて是の祠に及ぶ。 恃む無し。乃ち寒村に祟り(碑文は「崇める」となっている)を為すか。余之を聞き嗤ひて曰く、古人最明寺は北條時頼也。いずくんぞ時頼の霊、民生を毒すること有らんや。居(?) 我、この間の 史乗(歴史記録)を汝に語り、曰く、時頼精を励み治を図り専ら民事に尽力し、康元元年疾(と)く剃髪有り。老、自ら遠邑則りて示す。僻地の澤に遊ぶ。猶、未だ潤わず。すなわち装いを行脚僧と為し、天下に歴遊す。 其の所の疾苦者を恵み問う。鎌倉に帰った頃、大きく郡県に令を下す。悉く冤罪在る所を除く。蓋し当る、時に国人其の恵みを懐かしむ。相謂ひて曰く、某丘吾が公の所掌、来たり憩う也。某里 某郷 吾が公の所掌来たり察する也。 因って祠を立て之を祀る。是、此を称する所以也。昔は公を召し、棠樹之下に聴訟(訴えを聞いて取り裁く)す。国人歌う。之をうけあい就いて祠を立つ。・・・

というように読み下せばいいのだろうか。まったく読みとれないが、前半は、上池の北岸にある最明寺塚という祠が荒れ果てて足も踏み入れられない有様になっている。淫祠の令(乱れた祠は廃止せよという命令)も出ており、(こんなものがあっては)祟りをなすのではないか、と言ってきたので、最明寺は時頼のことだ(時頼は若い内に最明寺で剃髪して鎌倉幕府から隠居したので、最明寺殿と呼ばれた)、 民事に尽力した時頼の霊が祟りを為すわけがない、どこにでも時頼が来て民生の苦しみを聞いて解決してくれたので、民がこれを慕い、あちこちに祠を立ててこれを祀った、この祠もそういう理由で最明寺と称したものである。・・・



この碑の背面には「昭和六十一年二月吉日 東北へ五十M移設する 四国横断道対策協議会・・・」と刻まれているから、元は南西へ50mの位置にあったことになる。
関係者によると、この碑文は出典となる本があってそこから引用したそうである。筆書きの文章だったが、その本が何だったか不明とのこと。

下の写真では分かりにくいだろうが、現在の塚のすぐ下が高速道路で、柵の金網越しに、高速道路の向こうの梢の間に上池が見える。この池の岸辺に塚があったのであろう。



「口訳全讃史付三教一帰論訓釈」(原著者:中山城山、訳者:桑田 明、H3.2.24 城山会発行)によると;

 最明寺 <安原下の音川(おんがわ)に在る>
康元元年冬十一月、執権北条時頼が職を武蔵守長時に譲って落髪し、自ずから最明寺と称し、あまねく諸国を巡り、此の地に到って寺を建てて最明寺といった。古画の涅槃像は、世に稀なものとされている。



北条時頼が塩江町安原下に来たと書かれている。
最明寺殿(北条時頼)の廻国伝説によれば、各地の民情視察のため日本全国60余州を3年掛けて廻ったといわれているが、水戸黄門の諸国漫遊と同じく、実際にはほとんど廻っていないであろう。ましてや讃岐まで来るとは考えられない。しかしその善政を慕って祠を立て、ここを最明寺塚と呼んだ、ということであろうか。


「よしわらの里 第三号」(昭和59年3月 吉原小学校ふるさと研究部編集)より


これが上池の北岸にあった祠であろう。




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