このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
江戸時代「出釈迦寺」
<江戸時代の記録>
−「金毘羅参詣名所図會」弘化4年(1847) 暁 鐘成著(翻刻版 S55,歴史図書社)より −
我拝師山出釈迦寺
曼荼羅寺の奥院といふ。三丁計り奥にあり。七十三番の霊場の前札所なり。近世宗善といへる入道ありて、ここに寺を建立すと云ふ。
本尊 釈迦牟尼仏 弘法大師の作、秘仏なり
大師堂 本堂に並ぶ。 茶堂 門内の左にあり。 鐘楼 門内の右にあり、僧坊にならぶ。
原(もと)の札所と言へるは十八丁上の絶頂にあり。然るに此所に堂舎なく其の道嶮岨にして諸人登る事を得ず。故に後世、此所に寺を建てこヽに札を納しむとぞ。
捨身が嶽
山上の嶮しき所をいふ。大師いとけなき時、求法利生の御試みに三宝に誓ひをたて、捨身し玉ふを天人下りて取上げるといふ。ゆへにかく号(なづ)くるとぞ。
世坂(よさか)
峰に登る嶮路をいふ。詣人杖をなげ岩を取りて登臨すといふ。
出釈迦山
我拝師山のことなり。大師は此の山に修行し玉ひし時、雲中に釈迦如来出現ましましけるを大師拝し玉ふゆへに号すとぞ。
大塔旧趾
山中にあり。今は其の趾のみなり。西行のころは其の趾に礎石ありしとなり。
護摩壇古趾
大師が護摩供修行し玉ひし跡とぞ。五穀の灰ありといふ。
中山(ちゅうざん)
我拝師山にならぶ五岳の其の一なり。
上欄には、「新続古今 けふも又 かさなる山を越えくれて 雲の底なる入相のかね 後宇多院」
「大師、御経を書写しこの峯に埋ませたまふと云ふ」 と書かれている。
この絵を見ると、我拝師山から西の方を遠望すると海があるように描かれている。これはどこであろうか。単に絵画としての虚構であろうか。
縄文時代には海面がかなり上昇していたそうで(縄文海進)、現在の詫間湾は海が内陸方向に大きく食い込んでいたそうである。
この絵が描かれた江戸時代には出釈迦寺から西に海が見えることはなかったと思うが、この絵は過去に海だったという言い伝えを再現して描いているのだろうか。それとも単に、この絵とは反対方向(北側)に見える瀬戸内海をくっつけて描いてみただけなのか。
出釈迦寺
本堂
大師堂
捨身嶽
西行歌碑
西行の腰掛石
善通寺
曼荼羅寺
禅定寺
西行庵
人面石
鷺井神社
東西神社
我拝師山
天霧山
七人同志
片山権左衛門
乳薬師
月照上人
牛穴
蛇石
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