このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

太平洋戦争末期、日本はアメリカにより2発の原子力爆弾が投下された。

1945年8月6日に広島に、同年8月9日に長崎にである。

これは歴史上の事実だ。

しかし、原爆の投下目標が京都だったとしたら・・・

戦争中、京都はアメリカ軍による空襲があるにはあったが、東京や大阪などの
大都市と比べると被害は小さい。

これは、「京都は文化財が多く残り、それらを空襲で失ってしまってはいけない」という
理由でアメリカ軍が配慮したためだという噂がある。
現在でもこの噂を信じている人は少なくない。

しかし、これはアメリカ側の戦後の対米感情を考えての策略ともいわれている。

事実、京都にも空襲はおこなわれたし、もうひとつの重要な理由も関係している。

それは原爆の投下は、原爆の威力を知るための実験を兼ねており、そのための最も
効果的な地形は盆地であること。 また、軍事産業の発達した人口の多い都市である
ことなどである。

そして投下候補地の絞込みがおこなわれ、広島・京都・小倉に決定され、
最初のものは予定通り広島に投下された。

長崎に投下された次のものは、京都を投下目標としていたが当日の京都上空は厚い雲で
投下予定地が確認できず、次に向かった小倉上空も雲で視界が遮られ、ついでのように
長崎に投下されたという噂まである。

数年前に、原爆投下に関するアメリカの機密資料が公開された。
この資料の中に、上記の噂を裏付けるかのようなものが発見された。

それは、 梅小路機関区 (現在は、梅小路蒸気機関車館)の上空からの地図である。

ここは、蒸気機関車の車庫が扇形をしており、また、扇の要の部分には転車台が
あるため、上空からの目印にはもってこいの形状をしている。
いない事実である。

その後調べてわかったこと

アメリカの科学者を総動員して原爆を開発した「マンハッタン計画」において、原爆は
3発作られ、1945年7月16日のアラモゴド砂漠の実験で1発使用された後、
残りの2発が日本へ投下された。

まだ原爆が完成していない1945年の春、日本に対して原爆を投下することを想定して
アメリカ軍に標的委員会が設けられた。

原爆投下標的地の第一条件は、「その爆弾によって日本人の戦争続行の意思を失わせるような
場所であること」だった。

つまり、そこに司令部があるか、部隊が集中しているか、軍需産業の中心地かという、いずれかの
条件を満たす軍事都市か日本人の誇りを傷つけられるような中心都市を意味している。

さらに、原爆の効果を正確に評価するために、以前に大きな空襲を受けていないこと、原爆の
威力をはっきりと見るために、原爆の被害がその市街地内に留まるような規模であることが
望ましいとしていた。

この第一段階では、17の都市が標的として上がったが、その後の5月11日の標的委員会で、
「直径5キロメートル以上の大都市」、「爆風によって効果的な被害を与えられること」、
「8月までに空襲されずに残されていること」という3条件から”京都・広島・横浜・小倉・新潟”の
5つの都市が選出された。

京都が第一の候補地で、日本文化の中心地であることから、そこに原爆を落とせば日本人に
大きなショックを与えられると考えられたためだ。

最終的に投下目標が決まったのは、7月23日で、”広島・小倉・新潟”の順になっていた。

この時点で、京都は標的から外されている。

一説には、5月30日にスチムソン陸軍長官が、日本の文化の中心としての古都京都の長い歴史を
考え、京都への爆撃に反対したともいわれている。

純粋に文化財を護ろうとしたのか、戦後の対米感情を考えてのものなのかはわからないが、
多くの文化財が京都を大きな被害から免れさせてくれたことは事実である。

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください