このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

本能寺は現在、寺町御池にありますが、本能寺の変当時は
西洞院四条あたりにありました。

当時の本能寺は、周りに堀や土塁が築かれた城郭造りで、京都でも
随一の大寺院であったことから、信長が京都に滞在するときは本能寺に
常宿していたといいます。

本能寺の変後、直ちに同じ場所に寺を再興することが決まりましたが、
棟上当日、豊臣秀吉の都市整備により、現在の場所への移転が
命令され、関係者一同、号泣したといわれています。

さて、本能寺の跡地には最近まで”本能小学校”という小学校が
ありましたが、児童数の減少で廃校となり取り壊され、現在は
埋蔵文化財発掘調査がおこなわれています。

もしかすると何か新たな発見があるかもしれませんね。

現在、当時の面影を残すものは、石碑のみです。

本能寺址の石碑

本能寺は、法華宗本門流の本山で
応永22(1415)年妙本寺(現在の妙顕寺)の日隆が創建した。
創建時は油小路高辻にあって本応寺と号した。
永享5(1433)年四条坊門大宮に移り、本能寺と改めた。
天正10(1582)年6月2日の本能寺の変の時には、
北は六角、南は錦小路、東は西洞院、西は油小路に囲まれた寺域を持っていた。
のち豊臣秀吉(1536〜98)の命により寺町御池に移転した。
この石標は本能寺の変当時の所在地を示すものである。
なお、この附近を元本能寺南町というのは、本能寺に因むものである。

本能寺址(ほんのうじあと)

本能寺址

埋蔵文化財発掘調査の結果

京都市埋蔵文化財研究所は、2003年6月2日、本能小学校跡地で、戦国時代末期の
四条坊門(現在の蛸薬師通)に設けられていた自衛用の堀と土塀「惣構(そうがまえ)」跡を
確認した、と発表しました。

同期の洛中洛外図には、惣構のすぐ北側に本能寺が描かれており、京都市埋蔵文化財
研究所は「これまで2説あった本能寺の南端は四条坊門が妥当で、寺域は一町(約120メートル)
四方あったとしています。

本能寺の南端については、これまでは、江戸中期の文献「山城名勝志」による四条坊門説と
同期の絵師、森幸安の「中昔京師図」で示された錦小路説の2説がありました。

今回の調査での惣構跡確認により、洛中洛外図の描写などを踏まえ、「本能寺の寺域は、
北は六角、南は四条坊門(現・蛸薬師)、西は油小路、東は西洞院に囲まれた一町規模」
との見方が強まったといえます。

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください