このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
本能寺は現在、寺町御池にありますが、本能寺の変当時は
西洞院四条あたりにありました。
当時の本能寺は、周りに堀や土塁が築かれた城郭造りで、京都でも
随一の大寺院であったことから、信長が京都に滞在するときは本能寺に
常宿していたといいます。
本能寺の変後、直ちに同じ場所に寺を再興することが決まりましたが、
棟上当日、豊臣秀吉の都市整備により、現在の場所への移転が
命令され、関係者一同、号泣したといわれています。
さて、本能寺の跡地には最近まで”本能小学校”という小学校が
ありましたが、児童数の減少で廃校となり取り壊され、現在は
埋蔵文化財発掘調査がおこなわれています。
もしかすると何か新たな発見があるかもしれませんね。
現在、当時の面影を残すものは、石碑のみです。
本能寺址の石碑
本能寺址(ほんのうじあと)
埋蔵文化財発掘調査の結果
京都市埋蔵文化財研究所は、2003年6月2日、本能小学校跡地で、戦国時代末期の
四条坊門(現在の蛸薬師通)に設けられていた自衛用の堀と土塀「惣構(そうがまえ)」跡を
確認した、と発表しました。
同期の洛中洛外図には、惣構のすぐ北側に本能寺が描かれており、京都市埋蔵文化財
研究所は「これまで2説あった本能寺の南端は四条坊門が妥当で、寺域は一町(約120メートル)
四方あったとしています。
本能寺の南端については、これまでは、江戸中期の文献「山城名勝志」による四条坊門説と
同期の絵師、森幸安の「中昔京師図」で示された錦小路説の2説がありました。
今回の調査での惣構跡確認により、洛中洛外図の描写などを踏まえ、「本能寺の寺域は、
北は六角、南は四条坊門(現・蛸薬師)、西は油小路、東は西洞院に囲まれた一町規模」
との見方が強まったといえます。
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