このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

平安京造営当時の右京は、平安京のモデルとした中国の長安にちなんで「長安城」と
呼ばれ、対して左京は、これも中国の洛陽にちなんで「洛陽城」と呼ばれていたそうです。

しかし、やがて人間の心理や都市構造、そして政庁の関係で、人々は太陽の昇る方向、
つまり東へ東へと住み移るようになり、左京が発展していき、右京がさびれてしまった時期が
ありました。 一説には、右京は湿地が多く、住居地には適していなかったともいわれています。

そのため、左京の代名詞であった「洛陽」が、京都の代名詞として有名になり、京都のことを
「洛都(らくと)」や「京洛(きょうらく)」などといった呼び方をするようになったそうです。

それで、将軍が京都へのぼることを「上洛」といい、また、「入洛」といった使われ方もあります。

現在でも、京都の大きな区域割りとして「洛北」「洛南」「洛西」「洛東」の呼び方があり、
さらに、京都の町中を「洛中」、それ以外の地域を「洛外」といった言葉遣いもあります。

京都に来ることを 「上洛」「入洛」というのはなぜ?

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