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北野天満宮(きたのてんまんぐう)
北野大茶湯之址碑
延喜元(901)年、菅原道真は、57歳の時、政治的陰謀によって、
大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されてしまう。
大宰府に移った道真は、わずか2年後の延喜3(903)年2月25日、その地において亡くなった。
59歳であった。
道真没後、平安京では、奇々怪々な出来事が次々と起こり、これらは次第に怨霊となった道真の
しわざだと噂されるようになり、天皇をはじめ、道真を左遷に追いやった公家たちを恐れさせた。
天慶5(942)年7月30日のこと、平安京の右京、七条二坊に住んでいた
多治比文子(たじひのあやこ)という女性の前に幽霊となった道真が現れ、
「私は生前よく北野の右近の馬場で遊び、心身を癒したものだ。 思い出も多い。
一刻も早く馬場に私を祀る社殿を造れよ。」と語った。
文子は最初はお金もなく、自宅の傍らに瑞垣を造り祀ったが、後に天慶10(947)年、瑞垣は、
北野の右近の馬場に移された。 これが北野天満宮の発祥となった。
天徳3(959)年、時の右大臣藤原師輔は社殿を寄進し、永延元(987)年、一条天皇の勅命に
より、道真を追悼する勅祭をおこなった。
その際、天皇は、「北野に坐します天満宮天神」と述べられ、それ以来、”北野天満宮”と
呼ばれるようになった。
この地に菅原道真が祀られているわけ
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