このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

小説・漫画・映画等の影響もあってか、このところの陰陽師(おんみょうじ)は
ちょっとした流行である。

陰陽師を取り上げるなんてミーハーかなと思いつつも、やっぱり不思議スポットというから
には外すわけにはいかない。

まぁ、ここでは簡単に陰陽師について触れることにします。

陰陽道(おんみょうどう)は、古代の中国哲学である陰陽(いんよう)・五行(ごぎょう)説に
基づいて、平安時代に日本で成立した。

宮廷の陰陽寮に属した陰陽師は、星の動きや暦の良し悪しで政治の行方を予言したり、
貴族の日常生活の場でも吉凶を占ったりした。

最も有名な陰陽師は、平安時代に活躍した安倍晴明(あべのせいめい)(921〜1005)だ。
京都には安部晴明を祀ったその名も”晴明神社”という神社がある。

平安中期の天文学者安倍晴明を祭る。
晴明は6代の天皇に仕え、当時の天文暦学から独特の‘陰陽道’を確立。
朝廷の祭政に貢献した。 
1007年(寛弘4)一条天皇がその功績をしのび創祀したという。
秋分の日の例祭には湯立神楽、鼓笛隊、鉾車、飾馬の行列などがでる。

京都市上京区堀川通一条上ル
陰陽師(おんみょうじ)

晴明神社(せいめいじんじゃ)

晴明神社
晴明神社

安倍晴明の邸宅跡に晴明神社は建立された。

本殿

今や、晴明神社は修学旅行生や若い女性グループ、また、明らかに京都に観光に
来ました風の人達でいつも賑わっている。

京都の町を走っている車にも、晴明神社のステッカーを貼ったものをよく見かける。

数年前までは、もっと落ち着いた雰囲気で、そう「晴明神社ってどこですか?」ていう
ぐらい知られていなかったと思うのだが・・・
メディアの力恐るべし!

2003年は、御鎮座1000年を迎え、10月には記念行事が予定されており、
神社側も整備に余念がないのか非常にすっきりとした印象になった。

本殿

晴明桔梗

晴明桔梗

晴明神社の神紋は晴明桔梗(せいめいききょう)と称する星形で陰陽道の
祈祷呪符とされる。

安倍晴明のト占(ぼくせん)は優秀で、その一族や弟子たちは洛中洛外に繁栄し、
晴明は長い歴史を通じて日本陰陽道の開祖と仰がれ、超能力者にも仕立てられて
しまった。

僕は、彼が超能力を使うなどとは思わないが、彼のト占が優秀だったのは事実だろう。
超能力者に仕立てられたのは、その能力のなせる業だからだろう。

彼の能力について、興味深い話が伝わっているので紹介したい。

”優れた能力をもつ陰陽師として、安倍晴明と蘆屋道満がいた。
ある日、この2人のどちらの能力が優れているか確かめようと公家たちが催しを企画した。

その催しに集まった一同の前に、蓋の閉じられた長持がひとつ運ばれた。
運ばれた長持の中には夏みかんが16個入っている。
陰陽師の2人以外は皆その中身を知っている。

主催者が「長持の中を言い当ててみよ。」と言う。
すぐさま蘆屋道満が「夏みかん16個にございます。」と答える。
誰もが晴明敗れたりと思った。
ところが安倍晴明は落ち着き払って「ねずみ16匹にございます。」と言った。
主催者が長持の蓋を開けてみると、中には16匹のねずみが入っていた。
晴明の術によって夏みかんはねずみに変えられていたのである。”

う〜ん、晴明恐るべし!

戻橋(もどりばし)

戻橋

晴明神社から100メートルくらい南にいったところに戻橋という橋が堀川に架かっている。
戻橋という橋の名の由来は次のように伝わる。

918年(延喜18)、天台の修験行者、浄蔵が大峯山に修行で通っていたころ、
漢学者である父、三善清行が死に、この橋でその葬式に出会った。
浄蔵は父の棺に向かい持念すると、父はたちまち蘇生し、ともに家に戻ったので
戻橋と呼んだ。

なお、戻橋の位置は、平安京の頃から現在まで変わっていないことが確認されている。

晴明は識(式)神という人形をつくりト占呪術に使役していたが、その容姿が醜悪で
妻が恐れたので、用のないときはこの橋の下に隠しておいたとされている。

戦時中には、無事に帰れるよう兵士がこの橋を渡って出征したりしていた。
また、現在でも嫁入りのときは、この橋をわざわざ避けてでも渡らないという習慣が
京都には残っている。

戻橋は、平成7年に一条通りの拡張に伴い架け替えられてしまった。
写真に見える一条通りも以前はもっと狭く、橋の趣ももっと風情があった。
言ってみれば、戻橋の伝説にふさわしいおどろおどろしさがあったのに・・・

と思っていたら、平成15(2003)年、以前の戻橋が復元された!
しかも晴明神社の境内に!
さすがだ! 恐れ入った!

以前の戻橋

大正11年〜平成7年の間、架けられていた戻橋

以前、僕が東京へ行った時のこと、JR有楽町駅前にある立ち食いうどん(やきそばなどの
メニューもあったが)のような店のうどんがたまたま目に入りビックリした。

だしが黒いのである。 話で聞いて知ってはいたが、実際に見ると、想像を上回るものだった。

西日本では、だしに薄口醤油で味付けするが、東日本では濃口醤油を使うのでこうなって
しまうということだが、関西のうどんを日常とする僕にとって、東京で見たうどんは一種の
カルチャー・ショックだった。

某有名食品メーカー○○の「どん兵衛」も西日本バージョンと東日本バージョンがある。
東京土産のひとつとして、東日本バージョンを買って帰り、西日本バージョンとどちらがうまいか
試しに食べ比べてみた。
(結論 : どちらもうまかった・・・)

さて、京都や大阪の老舗のうどん屋さんでは、「信太(しのだ)をください」と言えば、”きつね
うどん”が出てくる。

なぜ、信太がきつねうどんなのか? 実は、ここに安倍晴明にまつわる話が存在するのである。

晴明の父安倍保名が信太明神へ参拝のおり、1匹の雌狐を逃がしてやると、その帰り道に
麗しき女性が現れる。

保名は、やがてこの女性と結婚することになり、一粒種の晴明が誕生する。

ところが、この晴明の母は実は、保名が逃がした雌狐だったことがわかり、雌狐は悲しみつつも
「恋しくば尋ねて来て見よ 和泉(いずみ)なる信太の森のうらみ葛の葉」
という歌を残して、晴名の前から姿を隠す。

この歌にある信太の森は狐が棲んでいるところであることから、いつしか”信太=きつね”という
意味になり、きつねうどんのことを信太と呼ぶようになったということです。

晴明の母が狐だったとする話「信太妻」は、浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」に登場するもので、
信太の森がある和泉の地は、現在の大阪南部あたりをさします。

晴明は、父保名と一緒に信太の森を訪ね、母は晴明に後に天下一の陰陽師になるように秘符を
授け、水晶玉を手渡したが、母は再び家に帰ることはなかったといわれる。

皆さんも京都を訪れた際はうどん屋さんに入り、「信太をください」といって通を気取ってみては?

安倍晴明は狐の子だった?

しのだうどん

実在する「しのだうどん」

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