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延暦13年(794)、桓武天皇が平安京の造営にあたり大内裏の南の沢沼を
開いて設けられた苑池であり、朝廷の禁苑であることから”御池”といわれる。
常に清泉が湧き出すことから神泉苑と名づけられた。
平安時代の歴代天皇が遊宴、観花、遊猟を楽しみ、当時は南北は
二条から三条までの400m、東西は200mの広大な庭だったが、
鎌倉時代以後は荒廃し、二条城築城時には大半が削られ、
今はかつての広さの6%にしかすぎない。
それでも、現在まで残る平安京の唯一の遺構であり、御池通りの由来となった。
京都市中京区御池通堀川西入ル
神泉苑(しんせんえん)
法成就池(ほうじょうじゅいけ)に架かる法成橋(ほうじょうばし)
願い事を念じながら、法成橋を渡るとその願い事が成就するといわれる。
天長元年、都は大旱魃に見舞われた。 このままでは飢饉は免れない。
朝廷は、西寺の僧、守敏に雨乞いをおこなわせるが、雨は降らない。
次に白羽の矢をたてたのは、東寺を任されていた空海だった。
空海が龍王を神泉苑に勧請すると、雲がたちこめ、大粒の雨が降り始めたという。
善女龍王社
空海が呼び寄せたと伝わる水の神”善女龍王”を祀る。
瓦には”泉”の文字が・・・
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