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太閤の夢のあと

豊臣秀吉は天下統一後、幕府を開くことを希望し、朝廷に征夷大将軍の官位を
与えてもらえるように手を尽くしたが、その願いは叶えられることはなかった。

(征夷大将軍の官位を得ると幕府を開くことができる。 
しかし、この官位は源氏または平氏の姓を持つ武士にのみ与えられる。
朝廷は、素性のはっきりしれない秀吉にこの官位を与えることを断固として認めなかった。)

そのため秀吉は自ら公家化し、関白の官位を得、さらに最高位となる太閤にまで
上り詰める。

当時の秀吉の権力は強力だった。 現在の京都の町並みの基礎を作ったのは、
秀吉の都市計画によるものである。

では、その権力を象徴するものは京都の町に残されているのか?

実は、残されていない。  秀吉の死後、徳川家康によって、ことごとく破壊されてしまった
のである。

後で紹介するが、「国家安康の鐘」や「耳塚(鼻塚)」の負の遺産だけが往時の姿のままで
残されている。

歴史のドラマなどを観ていると、よく秀吉と家康の確執が描かれているが、次に紹介する
ところを観てまわると、それがあながち「ただの物語ではなかったのでは・・・」という
思いにかられてしまう。

豊国神社(とよくにじんじゃ)

「ホウコクさん」という通称で知られています。
徳川の世になって、「”とよくに”と言うと豊臣の世のようだから」という理由で”とよくに”と
発音することを禁じられたようで、それ以来、人々は”ほうこく”と発音するようにし、
現在でも、「ホウコクさん」の方が通じていると思います。

豊臣秀吉は慶長3(1598)年8月18日に63歳で伏見城で亡くなり、後陽成天皇より
正一位の神階と、豊国大明神の神号を賜り、遺骸は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られました。

翌慶長4年、豊国神社も阿弥陀ヶ峰の中腹に建立されましたが、豊臣家滅亡後、
これまた徳川家康によって廃棄され、現在の社殿は明治13(1880)年に再建されたものです。

豊国神社
唐門

方広寺(ほうこうじ)

皆さんは「京の大仏さん」ってご存知ですか?
知らないと言っても、それは無理のないことでしょう。 だって現在はもうないんだから。

かつて京都には奈良の大仏をも凌ぐ大きさの大仏がありました。
どのぐらい大きいかというと、奈良の大仏は高さ16メートル、京の大仏は高さ19メートル、
大仏殿においては、高さ約50メートルだったといいます。

ただし、秀吉は鋳造では時間がかかりすぎると木造にし、金箔漆で仕上げたそうで、
そして、奈良の大仏殿より大きな大仏殿を建て、大仏殿前の狛犬まで金色に光輝く
まぶしさであったといわれています。

昔から恐ろしいものことを「地震・雷・火事・親父」と言いますが、なぜこのように
言われるようになったかということを、この「京の大仏さん」は証明しています。

ということで、「京の大仏さん」の数奇な運命を紹介します。

①天正16(1588)年 着工〜文禄4(1595)年 落慶

翌1596年、慶長大地震で大仏崩壊、大仏殿にも被害
その2年後、病にあった秀吉、死去

②慶長7(1602)年 秀吉の実子、豊臣秀頼が大仏鋳造

完成直前、鋳造中に出火し、大仏・大仏殿とも焼失

③慶長16(1611)年 徳川家康の勧めで鋳造大仏完成、最大規模の大仏殿も再建
(豊臣家の財力削減を図る家康の策略ともいわれている)

落慶直前、梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」で家康の怒りにふれ、落慶法要中止
1667年 寛文大地震で大仏・大仏殿とも倒壊

④寛文7(1667)年 木像金箔漆大仏・大仏殿再興

寛政10(1670)年 雷火で炎上

⑤天保14(1843)年 尾張信者たちが木彫半身大仏再興(高さ11メートル)

昭和48(1973)年3月27日 火災焼失

その後、現在まで再建はされていません。

「地震・雷・火事・親父」の親父とは、徳川家康のことだったのですね。

「京の大仏さん」はもう存在していませんが、かつては確かに存在していたんだなぁと
思わせる名残が付近にはあります。


大仏前交番

大仏前交番

京都大仏前郵便局
京都大仏前郵便局

京都大仏前郵便局

唐門

豊臣秀吉は没後、東山阿弥陀ヶ峰に葬られ、壮麗な豊国社に祀られたが
徳川家康の手で取壊された。 現在の社殿は1880年(明治13)に再建のもの。
唐門(国宝)は伏見城の遺構で桃山期の逸品。
境内の宝物館には秀吉遺品を納めた唐櫃(重文)も。 宝物館拝観有料。
9月18日は「例祭」で、旧暦8月18日が祭神・豊臣秀吉の命日に当たる。
翌9月19日、茶道・藪内流家元による献茶式がある。  建立:1880(明治13)年

京都市東山区大和大路正面茶屋町
「国家安康」の鐘
「国家安康」の鐘
大仏殿石垣

方広寺という寺は実は現存していません。 
豊臣秀吉が建立した寺ですが、豊臣家滅亡後、徳川家康によって破壊されました。

この寺の境内に、先の”京の大仏さん”の大仏殿があったのです。

現在、この地に残されているものは、大仏殿の石垣(高さ2メートルを超える巨石群!!)と、
豊臣家滅亡の引き金となったことで有名な”国家安康の鐘”です。

この鐘は、秀吉の息子の秀頼によって鋳造されたのですが、「国家安康」「君臣豊楽」等の
銘文を刻んでいました。
秀吉の死後、豊臣家滅亡の機会をうかがっていた徳川家康に側近が次のように入れ智恵
しました。
”「国家安康」とは家康の”家”と”康”を切り離している。 これは、家康の頭と胴を切り離す
ごときことで、豊臣家は徳川家の滅亡を願っている”と。

家康は、この入れ智恵によって豊臣家に対して言いがかりをつけ、大坂冬の陣開戦の
大義名分にしたといわれています。

不思議なことにこの鐘は、豊臣家滅亡後も破壊されることはありませんでした。
豊臣家の負の遺産として、家康はあえて残したのでしょうか。

現在、この鐘の内側には白いシミのようなものが浮き出ていて、それは淀君の幽霊であると
いわれています。

大仏殿石垣

「国家安康」の鐘

「国家安康」、「君臣豊楽」の部分に印がつけられている

蓮華王院 南大門
蓮華王院 土壁(太閤塀)

この付近には、1001体の観音像で有名な蓮華王院(通称 三十三間堂)がありますが、
方広寺建立にあたり、蓮華王院は方広寺に組み込まれました。

蓮華王院の南大門と土壁(太閤塀)は、方広寺建立時のもので、その事実を
今に伝えています。

蓮華王院 南大門

蓮華王院 土壁(太閤塀)

伏見城の遺構といわれる”唐門”

唐門(国宝)は、伏見城の遺構と伝えられ、二条城から南禅寺の金地院を経て、
豊国神社へ移築されました。
唐門
唐門

唐門の彫刻と”豊国大明神”の額

唐門の彫刻

菊の紋の上に桐が・・・
秀吉は天皇をも超えたということか・・・

耳塚(鼻塚) (みみづか(はなづか))

耳塚(鼻塚)は、豊国神社の西へ約100メートルほどのところにあります。
一般に耳塚といわれていますが、本当は鼻塚らしいです。

天下統一を果たした豊臣秀吉は、さらに大陸にも支配の手をのばそうと朝鮮半島に侵攻しました。
いわゆる「文禄・慶長の役」です(1592〜1598)。
1592年には15万、1597年には14万もの大軍を侵攻させました。

秀吉軍は、大量の文化財を破壊し、書籍を略奪し、多くの朝鮮人を拉致しました。
その中には陶工も含まれ、西日本の主要な陶芸産地のほとんどは彼等によって開かれたそうです。

慶長の役の時、武将達は古来一般の戦功のしるしである首級を日本に送っていましたが、
かさばりすぎるため、鼻に変えました。

兵たちが手柄を競って敵兵・一般民衆・赤ん坊を問わず手当たりしだいに討ち取った
相手の鼻を削ぎ落とした結果、虐殺された朝鮮人は数10万人を超えたといいます。 
朝鮮では戦後、鼻のない人達がたくさんいたといわれ、生きながら鼻を削いだケースも
あったようです。

これらの鼻は塩漬けにされ、日本に持ち帰られ、秀吉の命によって、この地に埋められ、
供養の儀がもたれたそうですが、秀吉は後世まで自分の武威を記憶させようとこれをつくった
と考えられます。

時代が変わり、江戸時代になってからも、幕府による朝鮮への威圧のため、将軍代替りの際、
江戸に赴く朝鮮通信使をわざわざ耳塚に立ち寄らさせたといいます。

日本の歴史の暗い部分を物語るこの耳塚は、往時のまま今日も京の町に建っています。

耳塚(鼻塚)
耳塚(鼻塚)

豊国廟(ほうこくびょう)

京都市東山区今熊野北日吉町

豊国神社の正式な発音は「とよくにじんじゃ」なのに、なぜか豊国廟は「ほうこくびょう」・・・

豊臣秀吉の墓所が阿弥陀ヶ峰の頂上にあります。

もともと、この山の中腹に墓と豊国神社があったのですが、元和元(1615)年、
豊臣家滅亡と共に、徳川家康によって破壊され、その場所は現在では太閤坦(たいこうだいら)
といわれる広場が残るだけです。

墓には、お参りに来る人もなく、むなしく風雨にさらされていたといいます。

明治30(1897)年、秀吉の300年忌に際し、この山の頂上に巨大な(高さ10メートル)の墓が
建てられました。

太閤坦(たいこうだいら)
太閤坦(たいこうだいら)

もともと豊国神社は、ここに建立されていた

拝殿

これより先は神聖な場所であるというような但し書きが書いてある

拝殿(豊国廟の登り口)

墓へ向かう石段

墓へ向かう石段

登り口から墓へは565段もの石段を登らなければならない。
しかも、かなりの急斜面で石段の先が見えない・・・

登っている途中で、もし体勢を崩そうものなら、もう、まっさかさま

阿弥陀ヶ峰山頂にある秀吉の墓

京都市東山区

豊国神社にある桃山時代作の重要文化財工芸品。
豊国神社廃絶後、妙法院に伝来し、豊国神社再興後返納された。
慶長5年、釜大工”天下一”辻与二郎實久作。

その後の探索でわかったこと

・京都大仏前郵便局は、”本町通り”に面していますが、この通りは旧伏見街道のことで、
京の町から秀吉の居城がある伏見へ道を通すために、秀吉の手によって整備された道です。

・方広寺建立には、工期約2000日の間にのべ1000万人の労力を要したといわれています。
なお、「国家安康」の鐘は、高さ4.2メートル、重さ82.7トンです。

・明治になって再興された豊国神社ですが、これは明治天皇の沙汰によるものです。
また、再興される際、豊国神社は大阪城外に造営されることになっていましたが、
数年間にわたる京都市民挙げての熱願により、本社は京都に、別社を大阪に営むことに
なったという経緯があります。

・豊国神社の唐門は国宝に指定されていますが、この唐門は、創建当時は彫刻に金箔が
施してあったと伝わっています。

・耳塚の五輪塔の高さは、約5メートルです。
本当は鼻を埋めた鼻塚ですが、塚を築いた当初は「御身塚(おんみづか)」と呼んでおり、
これが訛って「耳塚」と呼ばれるようになったとの説もあります。

・豊国廟の拝殿横あたりに太閤坦といわれる空き地がありますが、豊国神社は創建当時、
「豊国社(とよくにのやしろ)」という名でここに建立されていました。
その境域は、約30万坪(約100万平方メートル)にのぼったといわれています。
現在の豊国廟の廟域は、約7万坪です。

・東大路通りから豊国廟へ向かう坂道には、京都女子学園(大学・高校・中学・附属小学校・
幼稚園)があり、いつもそれらに通う女性たちが多く歩いており、この坂も、通称「女坂」と
いわれるくらいですが、豊国廟からはとたんに人が途絶えてしまう感じがあります。
女性が多く集まる「女坂」の頂上に豊国廟はありますが、女性がひとりで豊国廟へ行くのは
おすすめできません。

豊国神社には、秀吉にゆかり深い宝物が公開されている宝物館があります。

珍しい宝物の一部をここで紹介します。

鉄燈篭

秀吉の馬印 ”千成瓢箪”

秀吉の馬印として有名な金の千成瓢箪、
戦に勝利する度に、瓢箪をひとつずつ増やしていったといわれていますが、
それは、どうも江戸後期の作り話のようで、本当は一番上のひとつだけだったようです。

秀吉の奥歯

この入れ物の中に、秀吉の奥歯が1本入っています。

獏御枕 (伝豊公御所用)

獏(ばく)は夢を食べるといわれている架空の動物です。
秀吉は、悪い夢を獏に食べてもらおうと、この枕を使っていたと伝わっています。

馬塚(うまづか)

豊国神社の境内には、馬塚といわれる高さ約2.5メートルの五輪塔があります。

これは、阿弥陀ヶ峰にあった豊国社が徳川家康によって取り壊され、その参道をふさがれた後、
秀吉を慕う人々が代拝所として阿弥陀ヶ峰からこの地に移霊したものといわれています。

ということは、これが本当の秀吉の墓ということになるかもしれません。

これがなぜ馬塚といわれるのかというと、ときの徳川氏の権勢を恐れて、この近辺の地名である
「馬町(うままち)」(馬の市があったため)にちなんで「馬塚」と呼ばれるようになったという説が
有力です。

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