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 所蔵土器の整理作業 −入門編−  
  
 
Ⅰ はじめに
 本校郷土研究部は昭和30年代から40年代を中心に清水市内や、愛知県渥美半島の遺跡調査・遺物の表面採取を行ってきました。

その際に集められた遺物の整理に今回、私たちは実に久しぶりに手をつけました。

昭和30年代から40年代といえば、今から30年から40年ほど前にあたり、私たちの親の世代のことになります。

本クラブの先輩方による活動を受け継ぐことには少しプレッシャーを感じますが、同じテーマを通じて大勢の先輩方とつながりがもてた気もして、とても充実した気分です。

今回の研究にあたり、顧問である小林孝誌先生・渡邉康弘さんをはじめとする清水市埋蔵文化財調査事務所の方々にご指導をいただきました。
 
 
Ⅱ 遺物整理作業の過程とその意味

ⅰ 遺物整理作業の過程
 まず、遺物の発掘から整理に至るまでの過程を説明します。皆さんは“遺跡報告書”というものをご覧になったことはあるでしょうか。

一般に遺跡調査といえば発掘現場でのことばかりが脚光を浴びますが、実はその後、長い時間をかけて、遺跡ごとに何が見つかったのか、そこから何が分かるのか、を綿密に記録したこうした書物が刊行されるまで、それが調査なのです。これを作るまでには、いったいどれだけの過程を踏まなければならないのでしょうか。

 まず、現場の“発掘”から全てが始まります。遺構・遺物を壊さないように慎重に作業が進められます。

まず、掘り出された遺構を写真・図で記録し、次に、そこから出てきたものを取り上げて、地点や地層を

記録しながら、遺物を洗浄していきます。

次に“注記”の作業です。

注記は、言ってみればそれぞれの遺物に名前を付けていくようなもので、今回私たちが触れました三保白浜遺跡の場合、S-MS-P1234というように記載されます。

まず初めの”S”はこの地方を示す駿河の”S”となり、つぎの”MS”は三保白浜遺跡の”MS”となります。

そして最後の”P”は”Poetary”土器の頭文字を取ったものです。

次に登録・観察です。

登録は、観察を平行しながらこの様な記録用紙に記入していきました。

記録用紙には一つの遺物に対し、遺物番号・時代・器などの種類・どこの部分なのか・文様など特徴は何かを記入していきます。

また、今後、拓本・実測・または写真撮影が必要なものについては、記入をしていきました。

そしてその後、実測・図化・写真撮影・拓本を取っていきます。

まだ終わりではありません。

その後、様々な資料と比較検討しながら分析・研究を行っていき、そして最後に、やっとこの報告書が完成するのです。

それだけ、この一冊には多くの時間と手間がかかっています。

そして最後に、遺物の保管をしていきます。

いつでも研究者の方々が資料として使えるように、また貴重な“文化財”としてしっかり整理して保管する必要があります。

博物館に展示されているのはほんの一部なのです。
 
ⅱ 遺物整理作業の意味
 では、なぜわざわざ、遺物を取り上げてこの様な報告書を作らなくてはならないのでしょうか。

その理由は、遺跡が発見される過程にあります。

例えば、縄文遺跡として有名な三内丸山遺跡も野球場建設の時に見つかったように、遺跡の発見はその多くが、道路工事や建築工事の時であり、その後、三内丸山遺跡のような特殊な場合を除き、そのほとんどが壊されなければならない運命をたどります。

そうすると、最終的に残るものはこの調査報告書と採り上げた遺物だけとなります。

この一冊は、その場所にどんな遺跡があり、どんなものが発掘されたかを証明し、後世に伝えていくとても大切なものなのです。
 また、将来、他の研究者が使えるようにしておかなければならないということもあります。

私たちにとってはただの土器のかけらも、その人にとっては、謎を解く重要な鍵となるかもしれないからです。
 
 現在のところ私たちは、時間の関係で最後まで過程を経ることはできず、記録用紙に土器の観察・登録するところまでを行いました。
 
Ⅲ 土器の製作過程図
 土器はどのようにして作られていたのでしょうか。

その製作過程を図にしてみました。

私たちは、整理作業を行っていく中で土器のいろいろな部分に触れることにより、なるほど土器とは

こういう風に作られているのかと改めて実感することができました。
 
Ⅳ 土器の整理作業
 今回私たちが整理した土器は、清水市三保にある白浜遺跡のものです。
 
ⅰ 白浜遺跡の位置と発掘過程
『静岡・清水平野の古墳時代』によれば白浜遺跡は、砂丘上に形成された古墳時代末期の集落遺跡で、昭和30年の日本鋼管の拡張工事により発見されたそうです。

今回扱った土器は本校先輩方が昭和30年代から40年代に発掘したものです。

因みに、現在この場所は工場や宅地などになってしまっています。
 
ⅱ 土師器
 弥生土器の流れをくむ土器で、回転台を使って形を作り、地面に穴を掘って空気にさらした状態で低温の酸化焔で焼いているため、赤褐色や黄褐色などをしているのが土師器です。

弥生土器との境ははっきりとはしていませんが、弥生土器に比べて全国的に共通した要素を持っています。

これは、大和政権の確立による、流通の活発化や物資の量産が影響していると言われています。
 
① 甕
 煮炊き用に使われていた甕は、口縁部、口の部分や胴部がたくさんあり、この頃のこのあたりの特徴として、甕は口縁部に重ねて厚みをつけるものがほとんどでした。

この甕の口縁の厚さは厚いもので3.5センチのものもありました。

私たちは甕と言えば水をためるのが第一の目的であろう思っていましたが、竃で煮炊きに使っていて、現在の鍋と同じ用途で使われていたと知って驚きです。

また口縁を厚くしたのは持ち上げるための把手としてだろうかと思いましたが、かまどで煮炊きするときに、縁に引っかけるためのものかもしれません。

その他に、厚くしていない口縁の甕も見つかりましたが、直径が40から50センチと大きなものでした。
 
② 壺
 保存用に使われていた壺は、胴部の特徴として、外側と内側とでハケ目の粗さが異なるものがいくつも見られました。

外見や中に入れるものなどを考慮して、どちらをより重視するかと言うことを問題としているのだと思います。
                            
③ 坏・高坏
 食べ物などを盛りつけたと思われる坏や高坏は、全体的にほとんどが濃い赤褐色であり時には壺は底部にヘラ記号と呼ばれる線がついているものがありました。

また、坏や高坏には蓋がついているものはほとんどありませんでした。

④ 坩
 小型の甕の坩は、今回整理した中には内側の付着物から油を入れていたと思われるものもありました。
 
⑤ 甑
 蒸し器として使われた甑は、耳つまり把手の部分が数点見つかりました。

甑の胴部や底部など他の部分も混じっている可能性は十分にあるので、もしかしたら、壺や甕と表記している中に、甑のものがあるかもしれません。
 
⑥ 人形・獣型土製品
 祭り等の儀式の時に用いられた祭祀具である人型・獣型の土製品は、それらしいと思われる破片が3点ありますが、全体がどういう形であったかについては不明です。
 
⑦ 土錘
 漁業の時に網のおもりとして使用された土錘は、多く出土しています。

白浜遺跡の存在していたところは砂浜であり、農耕に適さず、漁業を生業としていたようです。

球形のものと円筒形のものがあり、円筒形のものは比較的大型のものが多いです。
 
⑧ 土師器全体を通して
 壺・坏・高坏の特徴としては、スス付着し表面が黒くなっていたものもありました。

こういったことからも、その使われ方を想像することができます。

 土師器は全体としては大型のものが多く、文様などの装飾のついたものはわずかしかなく、飾ろうとする傾向はほとんど見られませんでした。また、この頃の土師器には、須惠器を模倣した方のものを作る傾向もあったようです。
 
 
ⅲ 須恵器
 朝鮮半島の陶質土器の系譜を引くもので、古墳時代中期に伝えられたのが須恵器です。

須惠器は古墳時代から平安時代にかけて使用されました。

ろくろを使って形を作り、窯を使って約1200度の高温で、酸素を制限した還元焔で焼かれているため、土師器とは違って、専門の工人でなければ作ることができなかったようです。

伝わった当初は朝鮮半島から渡来人や工人の手でもたらされましたが、5世紀中頃になって、日本でも生産が始まりました。

須恵器は日常生活で使われたものと、古墳の祭祀などに使われた特殊なものとがあったようです。

全国的に見て、形に大差はなく、同じ様なものが生産され、「宮道遺跡」『三保半島でいまと昔』(1999年)によれば、この地域の須恵器の窯はどうやら三保にも存在していたようです。
 
① 坏
 今回の整理で最も多かったのが坏です。「5世紀の駿河の須恵器」『日本土器事典』(1995年)によると坏は5世紀には底が平らではなく安定しない傾向が見られますが、6世紀にはいるとろくろによる高速回転と底部を糸で切って平らにする糸切りにより底部が安定するようになるようです。

さらに、8世紀以降のこの地域では、底に小さな台がくつくようになるようです。

また、次第に底部から胴部にかけての立ち上がりが緩やかなものから急なものになる傾向があります。

今回まとめた中にも、このようなものがありました。

 白浜遺跡では'坏身だけではなく蓋の方も多数出土していました。

坏身の中にも蓋のある、いわゆる有蓋の坏だったことを表す、蓋受けのついた坏の口縁部も見つかりました。

坏蓋はたいていのものが半径9〜10㎝ぐらいで意外と大きいものだと思いました。

また、蓋のてっぺんの部分もいくつか見つかり、どれもつまみがついていました。

その中のほとんどは宝珠型をしたつまみで、仏教による影響を感じさせます。

「7世紀の駿河の須恵器」『日本土器事典』(1995年)によればこの宝珠型のつまみはこの地域では7世紀後半以降につけられるようになってきたようです。
 
② 壺
 壺の特徴としては叩き目があげられます。叩き目は叩くことによってできた跡です。

このようにして叩くことによってより頑丈に作ることができたようです。

時期や地域によって後からなでて叩き目を消してしまうこともあるようです。

この白浜遺跡のものを見ると、内側は青海波と呼ばれる同心円上の叩き目のものが多く、外側では平行線上の叩き目や布目上の叩き目のものが多いようです。

平行線上の叩き目などは、小さい叩き棒だとはけ目のようにも見え、困惑することもありました。

須恵器には甕はほとんどないようで、稀にあっても、かなり大きいものだろうと思われます。
 
③ 須恵器全体を通して
 その他に須恵器の中には、土師器とは異なりつや出しとして、釉(うわ)薬(ぐすり)—釉(ゆう)というものが塗られているものがありました。

釉が塗られているものは、比較的多く、高温で焼かれたために土器の中のガラス質が溶けだしてきた自然釉と呼ばれるものが付着しているものもありました。

これらは肩部から上にあるようでした。

さらに釉の中にはお茶の色とも、こけの色ともちょっと違う感じの、渋めの緑色がかった釉薬が塗られているものもあり、1つの芸術品としての須恵器を引き立てているような印象を受けました。

奈良時代以降になると釉がついている須恵器は灰釉陶器と呼ばれることもあるそうです。
 
 
Ⅴ 現時点で分かったこと
 先日、日本中を衝撃の渦に巻き込んだ、旧石器発掘ねつ造事件。

これは私たちを含め、多くの純粋に古代へと思いをはせる人々の心を傷つける結果となりました。

私たちの行っている遺物整理作業は、周りから見ると、単純かつ地味な作業で、もちろん新聞の一面に載るような歴史的大発見といったものは無いでしょう。しかしだからといっておろそかにしていいものではありません。
 
「土器は考古学の基本だ!」小林先生はこうおっしゃっています。

なぜ、土器が基本になるのでしょうか。

実は、土器が基本となって遺物がどの時代のものなのかが分かるのです。

皆さんは縄文時代が一万二千年続いていることはご存じのことと思います。

しかし、研究が進み今では土器の種類により何と約25年ごとにいつの時代のものかが判断できるということです。

これは、他の時代にも言えることで、これにより、同じ地層から掘り出された遺構や例えば石器が出てくればその石器がいつのものかが分かります。

エジプトや南米といった世界の遺跡で中心的に活動しているのは日本人の研究者です。

それは、資金力もありますが、日本考古学の土器分析のノウハウを応用しているからなのです。

土器は“遺跡のタイムスケール”なのです。

 お世話になった、渡邉さんは「地域の歴史は、さかのぼっていくと最終的にはこの様な古代にまで及びます。一つの地域の歴史は、それぞれの時代に単発的に起こったものではなく、先代、先々代から受け継がれてきたものなのです。地域の歴史は一つにつながっているのです。」とおっしゃっていました。

一見地味に見える、これらの土器を整理し、まとめていくことで、また新たな視点からここ清水の地域の特性が見えてくるかもしれません。
 
「土器の整理には、五年かかるぞ!」これが、今年八月、はじめに小林先生から言われた言葉です。

高校生活は三年しかないのに到底習得しうる時間はありません。

確かに高校の郷土研究部がこの様な土器の整理作業を行うには、あまりにも条件が厳しすぎる部分があるかもしれません。

しかし、私たちはこれからも、できる限り、1つ1つの土器を大切に扱い、そして地域の歴史を次世代にしっかり残していかなければならないと言う自覚を持って、整理作業を行っていきたいと思います。

今後は、実際に拓本や実測、写真撮影を行い、更なる調査・研究を進めていきたいと思います。

また、調査の進行については、本クラブホームページにて随時掲載していきたいと思いますし、また機会があればこのような発表したいと思います。
 
 
Ⅵ あとがき
この研究に参考とした図書をあげさせていただきます。
・『清水市天王山遺跡』 清水市郷土研究会(1960年)
・『古代の郷土』 内藤晃(1962年)
・『風土 第12号』 静岡県立清水東高等学校 郷土研究部(1971年)
・『郷土の文化財展 解説目録』 文化会館記念事業実行委員会(1978年)
・『静岡県文化財地名表Ⅰ』 静岡県文化財保存協会(1988年)
・『静岡県文化財地図Ⅰ』 静岡県文化財保存協会(1988年)
・『静岡・清水平野の古墳時代』 静岡市立登呂博物館(1990年)
・『静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告 第59集 長崎遺跡』  静岡県埋蔵文化財調査研究所(1995)
・『日本土器事典』 大川清ほか(1996年)
・『清水市内遺跡群 発掘調査報告書・平成7年度版』 清水市教育委員会(1997年)
・『三保半島 いまとむかし』 清水市教育委員会(1999年)
 
今回の研究を行うにあたりお世話になった方々をご紹介します。
 
・静岡県立清水東高等学校  顧問・小林孝誌先生 司書・小松先生
・渡邉康弘さんをはじめ、清水市埋蔵文化財調査事務所の方々
・道を丁寧に教えてくださいました、三保警察署や質問に答えて下さった三保の方々
 
など、この場を借りて厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
 
 部室の中を整理していると、白黒の写真が入った封筒がでてきました。

「何だろうか?」と思いその中を除いてみると、それは今から約30年ほど前の本校郷土研究部の集合写真や、当時、遺跡を発掘している様子を映したものでした。

その中には、現2年である袴田の父親の姿もあります。

 遺物の整理作業経験ゼロの私たちにとって、今回の研究は困難を極めていきました。

土器の右も左も分からず、また、遺物自体が今から30年、40年も前のもので、当時の様子をつかむことが全くできませんでした。

そんなとき、出会ったのがこれらの写真です。

これらの写真は、何か大切なことを私たちに語りかけているようでした。

 そうはいっても、分からないことが多いのは事実です。

しかしだからといって手を抜くわけにもいきません。

わずかな手がかりでも、そこを糸口として本当の姿を取り戻していきたいと思います。

失われた歴史を取り戻すことも私たちの大切な1つの活動であることを実感しています。

 遺物整理作業は、最近数年間ほぼ活動中止状態でした。

私たちは、今回の研究が将来の清水東高郷土研究部・遺物整理作業の足がかりになってくれることを祈っています。

地域の大切な歴史を後世に伝えていくために…。
 
         
静岡県立清水東高等学校郷土研究部
 2年 袴田博紀   大石江美   岡村美里
 1年 橋本好弘
 


2000/12/3(土) 静岡県郷土研究連盟研究発表大会

優秀賞を受賞しました


 

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