このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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どうだい!あの茶店で、少し休んでいかないかい! |
静岡県立清水東高等学校郷土研究部 学校祭in2000 |
”旅” 東海道中ひ・ざ・く・り・げ |
Ⅰ | はじめに |
Ⅱ | 旅〜江戸時代の庶民にとって”旅”とは?〜 |
Ⅲ | Do You Know 東海道?〜東海道基礎知識!〜 |
Ⅳ | おわりに… |
Ⅰ はじめに
古来より東海道は、重要な交通路として人々に頼りにされてきました。ある時は武士が、またあるときは貴族が、そして各地へと運ばれる特産品の数々が……。
なかでも今回は、『江戸時代の庶民の旅』にスポットを当ててみたいとおもいます。『将軍様のお膝元』から、雅やかな京都までの旅を、私たちが案内させていただきます。さあ、旅の出発です。
Ⅱ 旅〜江戸時代の庶民にとって”旅”とは?〜
①庶民の「旅にでる理由」は……
なぜ人々は旅に出たのだろうか…。といわれれば、その理由は『信仰のため』ということである。伊勢、熱田、身延、久能、比叡、etc……例えば、江戸の人々にとってみれば、物見遊山や病気治療のための湯治を別にすれば、江戸を離れての旅といえばお伊勢参りと決まってた。一口にお伊勢参りといっても、伊勢神宮に太々神楽を奉納する、贅沢な団体旅行もあれば、ろくに金銀も持たず、道中、一文、二文ともらいながらの旅もあった。いわゆる『抜け参り』である。
しかし、「参拝」はあくまでタテマエ、本当のところは「娯楽・観光」という人が多かったらしい。(奉公先の店を無断で抜けても、「旅にでて伊勢神宮に参拝してきました!」とかいえば許されたらしい、という話。)
今と違い、身分制度ががっちりとしていた時代、しかも、移動といえば自分の『足』のみが頼り(もちろん籠なんかもあるけども…)。例えば今なら車で15分くらいの由比→清水も、昔は『親不知』の異名を持つ険しい『さった峠』を越えなければならない。まさしく、隣の街は、全く未知の世界であり、浮世絵でしか見たことのない風景を見て、地域の特産品に舌鼓を打つ……。まさしく旅の醍醐味であり、今以上に旅のおもしろさがあったといえるのではないだろうか。
のどかな時代といえばのどかな時代なのかもしれない…。
②旅に出るためには…
庶民が旅に出るためには大切な手続きがあった。まず、菩提寺にいって『往来切手』、今でいう身分証明書をもらう。菩提寺は現在の市町村役場、区役所のような役割を果たしていた。そこには、「この者がもし病気でもして、どこかの国で死ぬようなことがありましたら、その場所で弔いをしてください。宗は××で、キリシタンではありませぬ。」なんて事まで書かれていた。
その次に、大家・名主から箱根・新居など関所で通行時に必要な身分証明書をもらう。
なんだかんだと、手続きがいるのも江戸時代の旅である。
③旅姿でばっちりと!
当時の旅姿とはどんな感じだったのだろう?といっても、ロングセラー時代劇『水戸黄門』によってだいたいのことはご存じのことでしょう。そう、まさしくあの、角さん助さんの格好です。今回の展示のために、私たちも旅装束で決めてみようと思いましたが…。ちょっと無理があったかな…。
さあ、遙かな旅への出発です!!
Ⅲ Do You Know 東海道?〜東海道基礎知識!〜
今回の展示の舞台となる東海道。あなたはどこまで知っていますか?資料をもとにまとめてみました!
①東海道中用語集+α
◎東海道の歴史
「古事記」「日本書紀」において、微妙な相違点は見られるものの、両者とも東海道と見られる表現がある(日本武命の蝦夷討伐)。
中世になると、軍事的、政治的意味が重くなってくる。「伊勢物語」「更級日記」「十六夜日記」「海道記」「東関紀行」など。宿駅に長者伝説、白拍子伝説が多い。
慶長6年(1601)、徳川家康が江戸を中心に五街道———特に東海道の整備に力を注いだ。
◎五十三次
「駅」とはもともと「馬や(旅行者用の馬を常備しておく拠点)」のこと。やがて宿泊機能を持ち、「宿」と呼ばれるようになる。江戸時代の公用の旅は原則として宿駅から宿駅までを1つの単位とし、馬なら乗り継ぎ、荷物なら継ぎ渡しが義務づけられた。江戸—京都間にある五十三の宿駅を「継いで」行くため、「五十三継ぎ」——「五十三次」。
◎東海道の真ん中
江戸日本橋から京都三条大橋までは、距離にして約500㎞。その距離上の真ん中は浜松市中野町。また、宿の真ん中、つまり江戸からも京都からも27番目にあたるのが袋井宿。
◎一里塚
4㎞ごとに設けられた距離の目安。榎などを植え、目印とした。
◎常夜灯
街灯。暗い夜道を照らし、宿・村の存在を示した。
◎松並木
街道の横には松が多く植えられており、旅人が休憩したり、又積雪を防ぐ役目も負っていた。県内各地に残る東海道の松並木は、残念ながら江戸時代のものではない。
◎石畳
坂道を歩きやすくするため舗装された。
◎なぜ橋がないのか
東海道を横切る大きな川には橋が架けられていないことが多かったため、旅人は「自分越し」で川を渡り、それを川越し人足が手伝った。橋のない理由:①反乱軍の江戸への行軍を防ぐため。②県内の大河に木造橋を架けるのは技術的に難しかったため。③幕府の祖法遵守のため。裏事情 川が増水すると「川留め」となり、渡ることを禁じられる。旅人は宿に連泊を余儀なくされ、当然川岸の宿は潤うが、通行者の不便は激化する一方。幕府の道中奉行から渡し船・船橋の設置案が出されたが、川留めを下す川会所役人曰く、「東照神君は船も橋も使わず渡りましたけどぉ?」何でも、家光公の川越にあたり船橋を用意して逆に御不興を買い、失脚してしまった人もいるとか。「まあ、どうしてもっていうなら私は止めませんけどねぇ……。」———そんなわけで、明治まで自分越し制度は続くのだった。
◎入鉄砲と出女
江戸へ向かう鉄砲と江戸から出てきた女性(大名の妻は江戸から出ることを許されない)は、関所を通る際、特に厳しく調べられた。
◎間の宿
正規の宿と宿の間に設けられた休憩用の宿。軽食は出しても良いが、宿泊は禁止。
どうですか?全部知っていた人も、全然わからなかった人も、これでまずは江戸時代の旅人の仲間入りです!
② 清水周辺の宿場町データー
ここでは現在の清水市周辺の宿場町のデーターを集めてみました。当時の様子をちょっとひもといてみましょう。
まずは宿場町に関する用語をチェック!
◎本陣
参勤交代の大名や、幕府、朝廷、有力寺社などの公用の貴人が宿泊するために、各宿に設けられていた格式高い大旅館。
◎旅籠
大名の泊まる本陣に対し、一般の旅行者が利用した。
◎問屋場
馬の賄いをする所。一宿につき100人100頭と定められていた。伝馬の利用費は 幕府公用旅行者……無料 大名武士……御定賃銭 一般旅行者……大名武士の二倍
◎助郷
宿付けがあるにもかかわらず、それでも人馬が不足したとき、ただちに人馬を宿に提供する村が決められ、これを助郷といった。宿から出役を命じられると、村中相談の上、役に出る者を決め人馬を差し出した。時期がいつも農繁期(3〜5月)と重なったため、馬の飼料代などの費用と共に、農民には年貢に加えての重い負担となった。(例:江尻は33ヵ村、興津は48ヵ村の助郷役がついていた。)
◎宿付(加宿村)
宿場の経営は費用が多くかかるため、数町村に仕事が割り当てられていた。(例:江尻宿の伝馬役の一部を江尻・入江・上野原・元追分・江尻出作・辻が負担)これを宿付けという。
それでは、まずは江尻の宿からいってみましょう!!
江尻宿
宿場データ:宿高947石余 宿内町並13町(宿の東端から西端まで約2㎞) 人口6498人 家数1340軒 本陣2 脇陣2 旅籠50軒
特徴:農業の他商人・職人が多く、日用生活品など、手工業生産地として栄える。鍛冶、鋳物、小間物、荒物、提灯、傘、茶碗、人形、大工、左官、屋根葺、植木、医師、薬、湯、居酒、そば、豆腐、コンニャク、酢、粉、油など また、巴川の河口を利用した清水湊と共に陸海の交通の中心地であったが、江尻宿は徐々に河口から離れ、船運の中心的地位を失う。
宿泊施設:妙蓮寺(本郷)、妙泉寺(江尻東)江浄寺(江尻東)法雲寺(江尻)法岸寺(入江南)慈雲寺(入江)などが宿混雑の際の臨時宿泊所となった。
山梨にある海:清水湊の主な取扱商品は、各地から集まる年貢米であった。甲州の米は富士川を川船で運ばれ、清水湊で千石船に積み込まれて江戸へ向かう。その積み込み場「甲州廻船置場」跡が港町一丁目の巴川左岸にあり、石碑が建つ。置き場の一部2060平方メートルは現在も山梨県の飛び地で、ここに住む十数軒は毎年借地料を山梨県に納めている。
興津宿
宿場データ:宿場638石余 宿内町並10町余(宿の東端から西端まで約1.8㎞) 人口1668人 家数316軒 本陣2 脇陣2 旅籠34
特徴:産業は特になし。興津川沿いの在方村が多く、米の津出しなどのための小港があった。清水湊にも近く、その方面は賑わう。また、間の宿としての清見寺門前町では「万能膏」と呼ばれた清見寺膏薬の店が10軒以上建ち並んでいた。店先に10〜12才の「美しく化粧し、着飾りたる男の児」をおいていたことでも有名(近世中期には行われなくなった。)
親不知子不知の道:海岸の切り立った崖下にわずかな細い道があり、直下には荒波が打ち寄せていた。風が強く波の高いときにはここを避け、山道を遠回りする必要があったが通常でも馬を引いて通るのは困難であった。
さった峠:明暦元年(1655)、朝鮮通信使が来日し江戸に参府したときに開かれた。由比と興津の境にあるさった峠の頂からは伊豆の山々、富士山、駿河湾が一望でき、東海道随一の景勝地と呼ばれた。東海道五十三次の「由比」に、ここからの眺望が描かれている。
蒲原宿
幕領 人口2480人 家数509軒 旅籠42軒 本陣1軒 脇本陣3軒
「水害による被害」
・富士川と駿河湾による水害と戦ってきた町。・特に角倉了以(すみのくらりょうい)により開削が行われて以降水害が続き、元禄12年(1699)8月、台風よる大津波のために、宿の人40人と旅人20人が押し流されるという被害も受け、宿も海辺からやや内陸へと場所を変えている。・さらに、富士川に雁堤(かりがねづつみ)が作られると富士川の本流は西へと流れが傾き、増水するとその流れは蒲原に直撃、東海道も道を削られるなどしたため、天保14年(1843)に新しい坂道が開かれた。
広重の東海道五十三次「蒲原夜之雪」
・東海道五十三次の中でも特に傑作と呼ばれる雪の蒲原だが、蒲原は気候が温暖でめったに雪が降らないので、なぜ雪景色にしたのか諸説存在している。
・街道は宿内で緩やかに曲がり、国道がこれと平行して南を通るため、ここも閑静な住宅地となっている。宿のほぼ中央に本陣跡があり、今では建物は洋館となっているが、石垣や板塀、門などの屋敷構えから昔の面影をしのぶことができる。宿の西端部には伝統的な町屋が連なり、街道はここで南におれ、道幅は狭くなり、少し行くと西に折れる。古くはここから街道はまっすぐ東に伸びて富士川方向に向かっていたが、元禄12年(1699)の大津波で宿場が壊滅したため、山側の現在の道に付け替えられたものという。
由比宿
幕領 人口713人 家数160軒 旅籠32軒 本陣1軒 脇本陣1軒
「東海道宿村大概帳」による
「由比宿とさった峠」
・海と山に挟まれた狭い場所にあった。両立の蒲原・興津に比べて規模が小さく、元禄年間(1688〜1704)以降は11ヵ村の加宿をえて本宿・加宿五分役を分担して幕末に至っている。これによって、由比宿は定助郷(じょうすけごう)を持たない宿となり、大通行の折には蒲原宿と興津宿がその必要人馬を負担したものと思われる。
・宿の西端に由比川があり、ここを過ぎると、北田、町屋原、今宿、寺尾、東倉沢、西倉沢の集落があり、東海道の難所のひとつ「さった峠」にさしかかる。
「さった峠」
・さった峠を越えるための三つのルート 下道——波打ち際の道で、中世以来の古道。 中道——明暦元年(1655)の朝鮮使節来朝に際して山道を切り開いてできた。 上道——天和年間(1681〜1684)に開かれた。
・さった峠は東海道の景勝の地のひとつで、東に富士の雄姿と伊豆の山並、眼下に太平洋が広がり、西には三保の松原が一望の下に見渡すことができる。
「親不知子不知の難所」
さった峠はとても道と言えるものではなく、波打ち際を通るときには、親でさえ子供を顧みることができず、子供も親を頼ることができなかったというほど険しい場所だったことからこう伝えられている。
桜えび
現在、蒲原・由比の名産となっている「桜えび」は江戸時代にはまだなく、桜えび漁が始まったのは明治27年(1894)忘れた浮き樽を回収に戻った漁師が偶然桜えびを採ったのがはじめである。
今回は4つの宿場をを取り上げてみました。これらの旧宿場町に行ってみると、その時代に関する建物や資料館、イベントが行われています。今度の休日、昔の旅人になった気分で、旧宿場町を散策してみてはどうですか?
Ⅳ おわりに…
今回は、私たち郷土研究部の展示発表に来てくださって本当に有り難うございました。今年、郷土研究部は一年生に橋本君を迎え4人となりました。この2ヶ月間、それぞれ茶店製作(大石)、籠・ブース製作(袴田)、模造紙製作(岡村・橋本)にわかれ学校祭に向けて準備してきました。人数的なことがあり、いろいろな面で大変でしたが、何とか展示にこぎつけることができました。
今回の研究にあたり、多くの方々に多大なる御協力をいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。
郷土研究部 | 2年 | 袴田博紀 大石江美 岡村美里 |
1年 | 橋本好弘 |
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(当日のphoto)
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